十四 思わぬ遭遇

「天翔、どうした?」


 それまで悠々と空を巡っていた天翔が不意に、ピィイィ、ピィ、と、啼き声を上げた。どうやら警戒音のようだ。


 令雅が瞬時に表情を引き締めた。詩鸞の手の中にあった手綱を取ると、鋭い眼差しで辺りを見回す。


「妖魔、ですか?」


 詩鸞が問うと、わからん、と、短く答える。その眸は油断なく地上を見下ろしていた。


「すこし高度を下げるぞ」


 言うや否や、手綱を引く。令雅のその動きに呼応するように、天翔が降下をはじめた。


 梢の先近くまで下りると、その高度を保ったままで、そのあたりを飛ぶ。令雅は地上を探るようだ。


 ここは森の中とはいえ、京城を守る郭壁からそう遠くない、灌木地帯との境目あたりである。もしも妖魔が出ようものなら、それは重大な危機になりうる事態だった。


 令雅の纏う気配はひどく張り詰めたものになっている。詩鸞もつられて身を固くした。


 がさ、と、下草を踏む音がする。


 令雅が息を呑む。腰の剣に手をかけ、ちら、と、詩鸞のほうを見た。


 わかっている。詩鸞を伴ったこの体勢では、詩鸞が邪魔で、令雅は思うように戦えないだろう。かといって、いつ妖魔が現れるとも知れない森に詩鸞を降ろすわけにもいかない。それで令雅は厳しい表情をしているのだ。


「いったん郭壁まで戻るか」


 このままここで戦闘状態に陥るよりもそのほうがいい、と、結局はそう判断したようだった。再び高度を上げるため、令雅が手綱を引いたときだった。


「……令雅……?」


 人の声だ。こんなところでどうして、と、詩鸞が思うよりも先に、令雅は弾かれたように霊鳥をとめていた。天翔はその場を旋回する。


「……羽姫うき……? 羽姫なのか!?」


 誰かの名を呼ぶように口にする。それとほぼ同時に、森の中から、ひとりの女性が姿を見せた。


「やっぱり、令雅なのね!」


「羽姫……」


 令雅は信じられないというふうに彼女を呼んだ。


 天翔を操って、ゆっくりと灌木地帯の地面へと降下させる。愛騎から降り、次いで詩鸞に手を貸して、天翔の背から降ろしてくれた。


「天翔の傍を離れるな」


 そう言いおくや、令雅はすぐさま、森から現れた相手のほうへと駆け寄っていった。


「羽姫……おまえ、無事だったのか」


「なんとか、ね」


「いままでどうしてたんだ? みな、心配して……」


「ごめんなさい。太風の巣を見つけたんだけど、妖魔に襲われて……あなたの部下は、やられてしまったの。あたしも鳥を亡くしてしまって、それで戻れなかった」


「……それじゃあ……今日まで、森を彷徨さまよって、徒歩で抜けてきたっていうのか」


「そうよ。時間はかかったけどここまで無事に戻ったんだから、褒めてちょうだいな」


 令雅が羽姫と呼んだ女性は、えへん、と、胸を張った。


 妖魔の跋扈する森を単身で抜けてきたためだろう、着ているものも、肌も髪も、すっかり汚れてしまっている。けれども、それすら気にさせないほど、華やかな美貌の女性だった。


 月光下にも、深紅らしいつややかな髪が美しい。年齢は、詩鸞と同じか、すこし上といったところだろうか。


「それにしても、こんなところであなたに会えるなんて……ううん、むしろ郭壁の外で遇うなら、京城衛将軍のあなたをおいてほかにないかしら。――それにしたって、令雅……あなた、その痣はなんなのよ?」


 彼女は怪訝けげんそうにした。


「ああ、これか。おまえが消息を絶ったあと、京城近くにに太風が現れたんだ。そのときに……」


 令雅が自分の腕を見ながらそう説明しかけると、羽姫は、は、と、息を呑んだふうだった。


「まさかあなた、太風を倒したの?」


「いや、討ち損じた。返り血を浴びたらこうだ。どうも呪詛らしいが」


「ああ、そうだったの。――太風の血には、すごい力があるって言うものね」


 羽姫は、ほう、と、吐息しながら言った。


 相手のその言葉に、令雅は、ぴくり、と、凛々しい眉の片方を持ち上げた。


「……どういうことだ?」


「あら、知らない? 皇家には言い伝えがあるじゃないの。――太風の血を得る時、鳳凰を得る……鳳凰は、帝位の暗喩とも考えられるわよね。太風の血にどんな力があるのかはわからないけれど、生け捕りにした者は帝位すら得られるって、伝承……それもあって、太風を放置するわけにはいかないのよ。誰とも知れない者に渡すわけにはいかないから。――ちがう?」


 問われた令雅は、しばし、不自然に沈黙した。


 その間、詩鸞は天翔のかたわらから、ふたりの遣り取りを眺めていた。


 彼女はいったい誰なのだろう、ふたりはどんな関係なのだろう、と、思う。令雅と羽姫とは、対等に、かつ、ごく親しげに会話を交わしているように見えた。その様子に、詩鸞はなぜか気後れするようなきもちになった。


 たのみない気分のままに、無意識に、するりと天翔に身を寄せる。


 ちら、と、令雅がこちらに視線を向けた。詩鸞の様子に目をとめると、女性に手を貸しつつ、ふたりでこちらに戻ってくる。


「詩鸞、ひとりにして悪かった」


「いえ……平気です」


 言いつつ、詩鸞は女性のほうに、うかがうような眼差しを向けた。


「ああ、こいつは……しゅ羽姫うきだ」


 どうしてだか一瞬躊躇ためらってから、令雅は彼女の名を教えてくれた。


「太風を追って、そのまま行方知れずになっていた監察使が、彼女なんだ」


 令雅が先日、いとこなのだと言っていた相手である。女性だったのか、と、詩鸞はぼんやりとそんなことを思った。


 そういえば令雅は、消息不明となっていた監察使の性別や年齢などには、言及していなかった。それなのに詩鸞は勝手に、同年代の青年監察使を想像していたのだ。それが妙齢の女性だったものだから、すこし意外に思っただけである。


 この胸のもやもやとした感じはそのせいにちがいない、と、詩鸞は己に言い聞かせるようにして、着物の襟のあたりをきゅっと掴んだ。


 いとこで、それから、監察使と京城衛だから、職種は違うにしろ、時に協力し合って仕事をこなす仲間だったりしただろうか。


 お似合いだな、と、そんなことを考える。


 また、なんだか胸がざわついた。そんな自分に詩鸞は驚いた。 


「……御無事で、いらしたのですね……よかったです」


 我が心を誤魔化すように、詩鸞は努めて微笑してみせた。


「杜詩鸞です。京城へは監察使の試験を受けに来ていて……理由わけあって、令雅――汪将軍の屋敷に、逗留させていただいています」


「あら、そうなの。令雅が自分の鳥に乗せるなんて、ずいぶん仲の良いお友達なのかと思ったわ。――まあ、それだったら、あたしも知ってておかしくないんだけど」


 その言は、また、ふたりの親しさを詩鸞に強く感じさせた。


 いとこだというだけあって、令雅と羽姫とは、どこか面差しが似ているように感じる。それとも、似ているのは雰囲気だろうか。凛々しく颯爽とした空気を纏う女性が令雅の隣に並ぶ様は、ものすごく、しっくりくるような気がした。


 詩鸞は知らず、うつむいていた。


「とにかく、まずは郭壁内に戻ろう」


 黙り込む詩鸞の横で、令雅が提案する。


「羽姫、おまえ、怪我は?」


「動けないほどのものはないわ」


「ここから門まで歩けるか? それとも天翔に乗るか?」


「天翔?」


 羽姫は一瞬、不思議そうに目を瞬いた。が、令雅の眼差しが乗騎の霊鳥に向いているのを見て、ああ、と、得心したように頷いた。


「あなたの隼のことね。名前をつけたの? ――って、そんなことはどうでもいいか。乗せてくれるの、その子? あなた以外は嫌がるでしょ。ほら見て、いまも、あたしのこと睨んでるわ」


 ちいさく苦笑して、羽姫は肩を竦めた。


「平気よ。歩ける。――行きましょう」


 促して、ゆっくりとながらも、郭壁を目指して灌木地帯を歩きはじめた。


「詩鸞、歩きで平気か? あんたが天翔に乗ってもいいが」


 令雅が訊ねてくる。


「そこまでやわじゃありません。それに、怪我をなさっている方をさしおいて騎乗するなんて、居た堪れない気持ちになりますから。わたしも歩きます」


 そう言い張って、詩鸞も共に歩きはじめた。



 結局、三人と一羽は、夜も更けきった頃に令雅の屋敷に戻った。


 その後しばらく、屋敷の中は、ざわざわとざわめき立っていた。令雅は、羽姫の着替えや食事の用意、傷の手当てなどを、てきぱきと家人に命じていた。


「今日はもう遅い。話は明日にしよう」


 まずは休め、と、羽姫のために寝床を準備させていた。


 そして同じ頃、詩鸞もまた、貸してもらっている部屋に戻った。


 寝台に横になったもののなかなか寝付かれず、寝入ったと思っても眠りは浅くて、結局は曙光が差す頃にわずかにうとうとと微睡まどろんだ程度だった。おかげで、起きたはいいが、頭が重い気がする。


「――おはようございます、詩鸞さま」


 蓉香ようかがいつものように朝の支度を持って部屋を訪ねてくる。


「おはようございます、蓉香さん。いつもありがとうございます」


「いいえ。詩鸞さまには、うちの旦那さまが、たいへんお世話になっているのですもの」


 これくらいは当然とでもいうような朗らかな笑みを見せて、蓉香はいつものように朝食を卓に並べてくれた。


「えっと……今日は、令雅は?」


「旦那さまなら先程お目覚めになって、各所へ羽姫さまのご帰還を報せるための差配をなさってましたよ」


 彼女はおっとりと答えた。


「羽姫さまは……令雅のいとこだとお聞きしました。その……おふたりは、どういう御関係なのでしょう」


「どう、とは?」


「ですから、その」


 許婚とか恋人とか、そうした特別な関係なかだったりはするのだろうか。そう問いを投げようとして、詩鸞は、ふるふる、と、首を横に振った。


「やっぱり、なんでもないです」


「そうですか?」


 蓉香が怪訝そうに、こと、と、小首を傾げたときだった。


「――蓉香、ここにいるか」


 ちょうど令雅が部屋に顔を出した。


「居間に茶の用意をしてくれないか。羽姫から話を聞く……じきに佑祥も来ると思うんだが」


「承知しましたわ。三人分のお茶ですね、すぐに。――ああ、詩鸞さまの分も必要でしょうか?」


 蓉香に問われて、令雅は、ちら、と、詩鸞を見た。


「いや……」


 一瞬の思案の後、彼は首を横に振る。そんなふうにされて、詩鸞は一瞬、胸がずきりと痛んだ気がした。 


「このあと羽姫から話を聞いて、それ次第ではあるが……もしかしたら近日中に太風討伐に出ることになるかもしれん」


 令雅は蓉香にそう告げる。


「それなら……わたしも、話を聞いておいたほうがいいのではないですか? だって、討伐に出れば、あなたの呪詛はひどくなるのですし」


 令雅が出撃すれば、痣がひどくなったとき、詩鸞の癒しが必要になるだろう。それなら自分も状況を把握しておくべきだ、と、詩鸞は言い募った。


 令雅はまた一瞬、逡巡するような色を顔に浮かべた。


「いや、やはり……あんたは、いい」


「でも、あなたが神気を使うためには、わたしの協力が要るでしょう」


「それは、そうなんだが……あんたを、あまり……」


「なんなんです?」


「いや……羽姫に、会わせるべきじゃないような気がして」


 はっきりしない言い方だった。なんだそれは、と、詩鸞は思った。


「なんですか、それ?」


 衝動のまま、再びそう問いかけていた。


「彼女は……」


「もしかして、あなたの許婚いいなずけとか?」


 それならば――治療のために仕方がないとはいえ――頻繁に口づけを交わした相手と正面から会わせるのは気まずいというのも、理解できなくはない。詩鸞がじっと令雅を見ると、相手は橙まじりの金茶の目をまるく瞠っていた。


「いや、彼女は……」


 令雅が言葉を継ぎかけたときだった。


「羽姫さまが戻ったって本当ですか!?」


 不意に、叫ぶような声が聞こえてくる。


「あらまあ、うるさい方がご到着みたいねえ」


 どうやら報せを受けた令雅の副官が屋敷に飛び込んできたようだった。蓉香が扉を開け放つと、屋敷の中庭を早足で抜け、正殿にある令雅の部屋へと真っ直ぐに向かう佑祥の姿が見えている。


「お待ちの副官どのもご到着のようですし、はやく羽姫さまのところへお戻りになってはいかがですか? わたしは二次試験の準備をしますので」


 詩鸞が素っ気なく言うと、令雅は困ったように眉を下げた。が、結局は無言のまま、部屋を後にしていった。

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