十三 夜の空中散歩

「天翔」


 鳥小屋の扉を開いた令雅は、先日詩鸞がつけた名を呼びつつ、自らの乗騎のはやぶさに歩み寄る。優美に伸びる首のあたりの羽毛をゆっくりと撫でてやると、小屋から中庭へと天翔を引き出してきた。


 詩鸞のほうを振り返ると、手綱をこちらに手渡そうとしてくる。


「な、なんですか?」


「二次……神気操作の実技では、霊鳥を操る試験もあるだろう? 練習がてら、夜の空中散歩でもどうかと思って」


 言われて詩藍は、紫黒の目をぱちくりさせた。


「そ、そんな! むりですよ。こんな立派な霊鳥、わたしに操れるわけがない」


 ぶんぶんと首を横に振る。


 詩鸞は、神気を練るのがそもそも苦手だった。鳳凰神の前で純潔を守る誓いを立てて神気を高めて、それでようやく、試験で及第点が取れるかどうかというところだろう。京城衛の将軍、しかも稀代の才能を持つような人間の乗る鳥を、操れるわけがなかった。


 だが、令雅は、ふ、と、口許をゆるめる。


「大丈夫だ。神気の量自体は、さほど重要ではないから」


「そう、なんですか?」


「こいつらにとって、人間の練る神気は、どうも嗜好品のようなものらしい」


「嗜好品……ですか」


「そう。たとえるなら、褒美として、子供に甘い飴をやるようなものだな。俺は、そういうことなんだろうと理解してる。――うまいみたいだぞ、人間の練る神気は」


 令雅が苦笑しながら天翔を撫でると、隼は頷くように目を細めて、クルル、と、喉を鳴らした。


「あんたの神気がこいつの好みにあえば、ちゃんと飛んでくれる。だから、大丈夫だ」


「……天翔が気に入るかどうかは、わからないじゃないですか」


 詩鸞は、む、と、口を曲げたが、令雅はくつくつと可笑しそうに笑った。


「気に入るに決まってる。――なあ、天翔?」


 令雅が問いかけると、巨躯の隼はそのくちばしを、甘えるように詩鸞に擦りつけてきた。


「な? 俺も一緒だし、問題ない」


 改めて手綱を差し出されて、詩鸞はおずおずとそれを手に取った。


 天翔の背に乗る。令雅は、こちらを腕の間に抱え込むような体勢で、詩藍の後ろに騎乗した。


「神気を練ってみろ……そう。できたら、その気を、天翔に流し込むんだ。極上の飴をこいつにやるつもりで、首でも撫でてやればいい。――うん、うまいぞ。もう大丈夫。天翔、飛んでくれるよな?」


 令雅が己の乗騎に語りかけると、ばさ、と、大きな羽音がした。天翔が羽ばたく音だ。そう認識する間もあらばこそ、ふわ、と、身体が浮き上がる感覚があった。


「森へ」


 令雅が命じる。天翔がまたひとつ、大きく翼をはためかせた。


 高度がぐっと上がる。身体の周りを風が流れて行く。霊鳥と一体となり、虚空を切り裂いて翔けるのは、まるで自分が風にでもなったかのような錯覚を抱かせた。


「す、ごい……!」


 思わず感嘆の吐息を漏らしている。佑祥の鷲に乗せてもらって飛んだときとは、また、感覚が違った。天翔が特別に能力のある霊鳥だからだろうか。それとも、練った神気を与えることを通して、自分と天翔とがつながっているからだろうか。


 もしかしたら一緒に飛んでいるのが令雅だからかもしれない、と、そんな思考がふいに頭の隅を掠めて、詩鸞は首を振って、慌ててその考えを追い出した。


 そんなわけがない、と、ひとりこっそり眉をひそめる。それでも、頬も、耳も、なんだか熱くなっている気がした。


 いつのまにか郭壁を越えている。ちょうど森と灌木地帯との間のあたりまで飛ぶと、天翔はそこでぐるりと旋回した。


 目の前には黒い森が見えている。森閑という言葉がぽったりだ。妖魔が数多あまたうごめく人外魔境であるはず森は、けれども、夜の中にただただ静かに、穏やかに存在しているかのように見えた。


 芝蒼しそうの上に降り積む夜も、いま、ここと同じくらいひっそりとしたそれだろうか。詩鸞がそんなことを思ったときだった。


「あんたの故郷も、こんなふうに、東の辺境の森で眠っているんだろうな」


 ふいに令雅がぽつりと言った。


 まるで心を読まれたようで、え、と、思って、詩鸞は振り返る。その途端、相手のおおきなてのひらがこちらに伸びて、頬をするりと撫でられた。


 そのまま、そっと口づけられている。


「っ、な、なにするんですかっ!?」


 突然の接吻に驚いて、詩鸞は声を荒らげた。それと同時に、令雅から移った呪詛が詩鸞の肌に浮かび上がり、虚空に融け出るようにほととぎすの形を成す。


「あ……もしかして、あなたも自分の神気を使ってくれてたんですか?」


 詩藍の神気だけでは天翔を操るには足りなくて、それで実は、令雅がこっそりと補助してくれていたのだろうか。そのせいで呪詛がひどくなり、苦しくなりでもしたのか、と、詩鸞は憂う眼差しを令雅に向けた。


「意外とにぶいな。――ちがう」


 令雅はすぐに笑いながら軽く首を振ってみせたが、その答えが事実なのかどうか、詩鸞にはわからない。


「むり、しないでくださいよ」


「してない」


「信じられません」


「はは、それは、困ったな」


「あなたがひとりで妖魔討伐に出て、ふらふらになってるかもしれないと思うと……落ち着いて試験も受けられない」


 詩鸞がまた先程と同じようなことを口にすると、令雅は困ったように眉根を提げた。


「わるい……本当に」


 ほう、と、溜め息をつく。


「あんたがこんなにも親身になってくれるなんて、思わなかった。軽々に巻き込んでしまって、ほんとうにすまなかったと思ってる。――それにしても、あんたは、お人好しだな」


 しんみりと口にした令雅だったが、最後だけ、ちら、と、冗談っぽく笑った。


「なっ……! あなたこそ!」


 京城の人々のために惜しげもなく身命を賭すくせに、と、詩鸞は押し黙りながら心中にこぼした。


「――静かだな」


 ややあって、令雅がこぼした。


 夜風が心地よい。眼下の森には兇悪な妖魔がうろついているだなんて、信じられないほどだった。


「とても、静かだ。こんな森の中に……あんたの帰るべき故郷も、きっと、さびしく眠ってるんだ。あんたは、帰ってやらないと……監察使の資格を、ちゃんと得て」


 しん、と、言って、令雅は金茶の眸で詩鸞を見詰めた。


 痣があってさえ、気品を感じさせるほどに整った容貌が間近だ。詩鸞が息をのむうちに、令雅はもう一度、詩鸞に顔を近づけた。


 腰を抱かれて、口付けられる。


 身体の奥が熱い。肌が燃えて、鵑が飛び出していく。プゥルゥグィ、プゥルゥグィ、と、高い啼き声が夜の中に響いた。くちびるを離した令雅は、天空を仰いで、飛び去っていく鵑を見送った。


彼岸あのよ此岸このよとを結ぶ鳥、か。ほととぎすは、不如帰プゥルゥグイ、と……不如帰帰るに如かず、なにより帰りたいと、啼くのだという。滅びた我が故郷を思って嘆き続けた男をあわれんで、鳳凰が鵑に変えてやったのだという神話があるが」


 独り言のように口にすると、詩鸞のほうを向き直って、じっとこちらの眸を覗き込むようにした。


「あんたは、ちゃんと、帰らなければ……あんたを帰してやれなければ、俺はきっと、死んでも死にきれないくらいに後悔する」


「……べつに……帰らないなんて、言ってないですよ……ちょっと受験を四年後に延ばそうかなと思っているだけで」


「俺を嘘つきだと責めたくせに、あんたはあんたで嘘をつくのか」


 令雅は溜め息をついた。


「理由なく二次試験を棄権すれば、受験資格を失くすんじゃなかったか? 受けて落ちたのとは違って」


「…………知ってたんだ」


「知らないと思う方がおかしい。これでも俺は、国の将軍職についている人間だ」


 苦笑するように言われて、たしかにそうだ、と、詩鸞はうつむいた。しかも令雅は、皇帝の甥ですらある。最初から、黙っているだけで誤魔化しきれる相手ではなかったのかもしれなかった。


「心が……引き裂かれそうです」


 詩鸞は、ぽつ、と、言った。


「己の悲願を選ぶべきか……あなたを、優先すべきか」


 令雅を癒すときに詩鸞の身体から生じるのがほととぎすであることには、いったい、何か理由があるのだろうか。鳳凰のしもべ、此岸と彼岸とを行き来できる鳥なのだという。呪詛による瘴気を、現世うつしよで生じたあのけがれを、鳥は、天の彼方へと運び去ってくれているのだろうか。


 令雅は、いまわざわざ、鵑の啼き声の聞きなしの話を持ち出した。帰りたい、帰りたい、と、そう啼くのだという鳥の声に、詩鸞の心を重ね見たということなのだろう。


 きっと令雅はその話をするために詩鸞を連れ出したのだ。再び故郷の地に立ちたいという思いと、令雅を捨て置けないという思いとの間で揺れる、詩鸞の逡巡しゅんじゅんを感じ取っていた。


「俺のことは、気にするな」


 そう言った令雅の顔を、詩鸞は見上げる。橙まじりの金茶の眸が、じっと詩鸞を見詰めていた。


「むりですよ、そんなの。でも……ちゃんと、行きますってば」


 そんなに睨まないで、さっきも言ったでしょう、と、詩鸞は目を逸らしつつ、ぼそりと令雅を非難するように文句を言った。


「ほんとうに、ちゃんと行ってきてくれ」


 令雅は苦笑するように笑った。


「約束します。でも……そのかわり、あなたも約束して。何かあったら、連れ出しにきてください。おう将軍の危機は、京城の危機。そんなのっぴきならない事情での途中棄権なら、きっと、考慮されると思いますし」


「わかった。佑祥ゆうしょうに言いつけておく」


 そう応じる令雅は、けれど、詩鸞を慮って、実際に詩鸞を連れ出しに来たりはしないような気がした。部下にもさせないような気がした。


 嘘つき、と、おもう。


 詩鸞は令雅の痣のある頬に手を添わせた。目を閉じて、顔を近づけ、そっと相手に接吻する。


 そっちが約束を守る気がないならこっちだって守ってやる義理はないんだからな、と、心のうちでだけそんなことを思っていた。

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