十二 婚礼衣装

「そろそろ寝ようかな」


 その夜、詩鸞は借りている部屋の書卓の前で、うん、と、伸びをした。


 今日の討伐は強敵というわけでもなかったらしく、佑祥に連れられて詩鸞が到着したときには、すでに戦闘は終わっていた。令雅も無事だったようで――瘴気の影響を仲間たちに与えないよう気にして、すこし離れたところにいはしたものの――自らの愛鳥の傍らに危なげなく立っていた。痣も、今朝顔を合わせたときと、ほとんど変わらない様子だった。


「まったく、佑祥も心配性だな。大丈夫だと言ったのに、結局わざわざあんたを連れにいったのか」


 詩鸞が近づくと、呆れたように嘆息していた。


「足労かけたな。悪い」


「いえ。……治療は?」


「屋敷に戻ってからでいいが、頼めるとありがたい」


「わかりました」


 その後、後始末の差配を終えた令雅と戻り、彼の屋敷でいつものように呪詛の浄化を行ったのが、夕刻だ。夕餉をいただき、湯浴みをさせてもらって、そのあとは、詩鸞は部屋で読書に耽っていた。


 令雅はいまごろ、自室でやすんでいるか、あるいはまた稽古に励んでいたりするのだろうか。書物を置いた詩鸞は、ふと思い立って、立ち上がった。


「べつに、水差しに水をもらいにいくだけだ」


 誰にともなく言い訳をして、卓に載っている瓶を取る。そのまますこしだけ扉を開け、そこから身をすべらせるように、そっと部屋の外に出た。


 中庭は静かで、どうも、人の姿はないようだ。


 なんだ、と、すこし残念に思って息をつく。


 そうしてから、なんだってなんだ、令雅の姿がないからって何だっていうんだ、と、我が思考を打ち消すようにかぶりを振った。


「そ、そう! 水……水をもらいにいくんだった」


 誰も見ていないのに慌てて言い訳して、くりやのほうへと歩き出した。


 途中、北側に位置する正殿の並びの、とう廂房しょうぼうの扉が開いているのが目に入る。


 灯りはついていないから、人はいないのだろう。いつもは閉まっているはずなのに、今日は誰かが部屋へ入って、その後に閉め忘れでもしたのだろうか。


 すこし気になって、詩鸞は開け放たれている扉のほうへと近づいた。


 部屋の中を、ちら、と、覗き込んで、息を呑む。


 真正面に、きらびやかな対の衣装がかけられていた。吉祥きっしょうの色のくれないに、鳳凰のぬいとり。誰がどう見ても、それは婚礼装束である。


「――どうかしたか?」


 ふいに後ろから声がかかって、詩鸞は心の蔵が飛び出るかというくらい驚いた。弾かれたように振り返ると、そこに立っていた令雅が、きょとんとする。


「悪い。驚かせるつもりはなかったんだが」


 肩を竦めてから、こちらへと近づいてきた。


「ああ、この部屋か……家人が風を通すのに開けたのが、そのままになっていたんだろう」


 てらいなく言う相手の顔を、詩鸞はじっと見上げる。


「あなた……ご結婚のご予定でも?」


 家格が高いほど、正妻を迎えるのは早い傾向がある。十八歳で成人してすぐということも珍しくはなかった。


 庶民とはちがう、それなりの家では、姻戚関係だって重視される。結婚が早いのは、家同士が縁を結ぶための政略結婚といった事情のためだろう。


 令雅は詩藍より二つ年下の二十一歳だ。そうした話が持ち上がっていても、特に驚くには値しない。


 が、なんとなく、もやもやする気がする。詩鸞は己の着物の胸元をそっと掴んだ。


「予定、な……まあ、こちらとしては、なくはなかったんだが」


 令雅の答えは、なんとも歯切れの悪いものだった。詩鸞が真意を窺うように相手に眼差しを向け続けると、ちら、と、こちらを見て苦笑した。


「なんというか……諸事情で、なくなってしまった」


 何でもないことのように言うが、事情というのはもちろん、太風の呪詛のことなのだろうと思われた。


 令雅には許婚いいなずけがいたのだろう。婚礼衣装まで用意されているところを見ると、もう、婚儀は間近だったのかもしれない。


 それが、太風討伐で身体を呪詛に侵され、それで、結婚の話はなくなってしまったのだろうか。


 妻になるはずだった相手と令雅とは、顔を合わせたことはあったのだろうか。あったとしたら、その相手のことを、令雅は、どう思っていたのだろう。家同士が決めた、単なる政略結婚なのだろうか。それとも、相手をすこしは気に入っていたのだろうか。


 あるいはもしかしたら、お互いに想いを寄せ合っていた可能性だってある。政略結婚とは限らず、思う相手と結ばれる直前に、太風の件が起きてしまった。それで、相手の家の人間に反対されたのかも、と、詩鸞は想像をたくましくした。


 きゅ、と、くちびるを噛む。


 なんだこのきもち、と、思う。


「詩鸞。試験結果、どうだったんだ?」


 ふと、令雅が訊ねた。


「え? ――ああ……合格でしたよ、もちろん」


 はっとした詩鸞は、強いて笑ってみせる。


 こちらの複雑な想いなど知る由もないだろう令雅も、応じるように、口許をほころばせた。


「そうか、良かった。うっかり聞きそびれていて、あんた、何も言ってこないから……ちょっと心配していた。万一のこともあろうかと」


「は? そんなわけないでしょう? 当然、合格ですとも。なんといっても、わたしはこのためにずっと勉強を続けてきたんですからね」


「はは、そうだな。あんたの努力が報われて、よかった。――二次試験は十日後だったか」


 そちらもがんばってくれ、と、励まされ、けれどもその言葉に、詩鸞はすぐには答えられなかった。


 しん、と、しばらく、黙り込む。


「――試験なんか……受けていて、いいのでしょうか」


 ややあって、うつむきがちに、ぼそ、と、こぼしていた。


 言ってしまってから、はっとする。顔を上げると、令雅が金茶の目を瞠っていた。


 その驚いた顔を見ているのが気まずくて、詩鸞はくるりと令雅に背を向けた。


「だって……次の試験の日だって、この前みたいに、また妖魔が出るかもしれないじゃないですか。そうしたら、あなたは当然、討伐に向かうのでしょう?」


「それは……そうだが。あんたが気にすることじゃない」


「っ、気になりますよ! だってまた、強い妖魔が出たら? もしも、その日に限って、太風が現れたりしたら……? そのときわたしが試験中で、あなたの傍にいなかったら……あなたは……」


 有り得ないことではないはずだ。詩鸞が眉をひそめて令雅を問い詰めるように言うと、相手は、くすん、と、肩をすくめた。


「どうしてもというときは、試験途中でも、あんたを連れに行くさ」


 そう、冗談めかして、言う。


 詩鸞はかっと頭に血がのぼるのを感じた。


「っ、嘘です! あなたがそんなこと、するわけがない。――そう、来るわけが、ないんです。佑祥どのにだって、来させないでしょう? あなたはわたしを……さまたげたり、しない」


 そのことが、詩鸞にはどうしてだか、口惜しいのだ。きゅっとくちびるを噛みしめると、令雅は困ったように眉尻を下げた。


「それは……あんたは、巻き込まれただけなんだ。俺のために、自分の生き方まで犠牲にさせられるいわれはないじゃないか」


「っ、それであなたは死ぬんだとしても!?」


 詩鸞は反射的に声を荒らげていた。


「それで呪詛が解けるとわかっていて、それでも、無理やりわたしを手籠めにしようとしなかったのだって……結局、そういうこと、なんでしょう?」


 急に言明しがたい無力感に襲われて。詩鸞は力なく笑った。


 結局のところ令雅は、国のために自分が犠牲になることなど、何とも思っていないのだ。命を惜しんでなどいない。我が身をなげうって当然だと思っている。だから、神気を練れば自らを傷めるとわかっていてすら、いつもあんな無茶な戦い方をするのだ。


 治療しながら心を痛めているこちらが、いっそ、馬鹿みたいではないか。


「二次試験……辞退、しようかな」


 詩鸞はぽつりとつぶやいた。そうすることが単なる辞退以上の意味を持つことなど百も承知だったが、半ばは投げやりなきもちで、半ばは本気で、そう思っていた。


「何を言ってるんだ」


 令雅の声に、驚きと、わずかな非難が籠る。


「だって、こんな気もそぞろな状態で受けたって、きっと合格なんかできない。だったら、いっそのこと」


「詩鸞。俺のために、あんたが自分の望みを諦める必要なんかないんだ」


「べつに、あなたのためなんかじゃないですよ。うぬぼれないで」


「っ、詩鸞!」


「……なんですか?」


「詩鸞……すまなかった」


「はは、今日は、なんのことで謝ってるんですか?」


「あんたを……身勝手に巻き込んでしまったことだ。これは俺に責任のあることだ。俺が詫びて然るべきことだ。――申し訳ない」


「べつに……べつに、いいんです。もう、なんでも」


 妙に自棄やけっぱちな気分が起こってきて、詩鸞は自嘲気味に笑った。


 令雅が憂わしげにこちらを見ている。その眼差しを振り切って歩き出しながら、だいじょうぶですよ、と、詩鸞は振り返らずに言った。


「わかってます。ちょっと言ってみただけ。試験には行きますよ。ええ、もちろんです。だって、わたしの悲願ですし……わたしが行かないと、あなたも気に病むんでしょうし」


 そう口にした時だった。ふと、令雅の手が詩鸞の腕を掴んだ。


「……時間は、あるか?」


「え?」


「すこし……飛ばないか?」


「飛ぶ?」


 令雅は頷くと、そのまま、詩鸞の手を引く。連れて行かれたのは、彼の隼がいる小屋だった。

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