十一 奇妙な男との邂逅

「あらあら、朝から仲がおよろしいことで」


 朝食を運んできてくれた侍女の蓉香ようかが、袖を口許にあてながらおっとりと笑った。長椅子で令雅に口を吸われていた詩鸞は、じたばたともがいたすえ、相手の腕がゆるんだところで、慌てて思い切り令雅と距離を取った。


「べつにこれは、仲が良いわけじゃ……!」


 治療のために仕方なく、と、ぐい、と、口を拭いながら言う。それでも蓉可は、ふふ、と、ちいさく笑うばかりで、あとは卓の上に手早く朝食の準備を整えていった。


「だいたい、この人が毎度毎度、無茶をやらかしてくるのがいけないんです! おかげで昨夜ゆうべだけでは呪詛をやわらげきれなくて……」


「悪い。どうもあんたが待っててくれると思うと、こちらも安心して妖魔と闘えるものだから」


「まあ、旦那さまったら、新妻が家で待ってるから頑張れる夫みたいなことをおっしゃって」


「なるほどな。言い得て妙かもしれない」


「はあっ?! ぜんぜん言い得てない! 蓉香さんも、言い方……!」


 ひとしきり言い合いをするうちに、卓の上にはすっかり朝食の用意が出来上がっていた。それを見た詩鸞は目を瞬く。


「あれ? これ、ふたりぶん……」


「はい。どうせこちらにいらっしゃるなら、旦那さまもついでにこちらで召しあがっていただいたほうが、こちらの用意も楽ですし」


 蓉香はしれっと言い、令雅は何を気にするふうもなく長椅子から立っていって、卓につく。詩鸞だけがしばらく、むう、と、くちびるを引き結んでいた。が、お腹も減ってきたことだし、と、結局は仕方なしに令雅の向かいに座った。


「今日、貢院こういんで、一次試験の合否が発表されるんだろう?」


 令雅はいかにも育ちの良さを感じさせる所作で朝粥あさがゆを食べつつ、詩鸞に訊ねてきた。腹は立つが何させても様になるな、と、うっかり令雅の様子を目で追ってしまっていた詩鸞は、ふいに橙まじりの金茶の眸を向けられて、はっと我に返った。


 慌てて自分も粥を口に運びながら、まあ、と、素っ気なくうなずく。


「この後、見に行ってきます」


「あら、そうなんですの。よい結果が出ているとよろしいですわね」


 蓉香が茶を注いでくれながら言った。


「その後は、二次試験があるのでしたっけ? もしもそれにも及第なさったら、詩鸞さまは監察使として仕官なさるおつもりなんですか?」


「いえ、資格を取ったからといってすぐに登用されるとは限りませんし……合格したら一度、故郷へ戻ろうかと思っています」


 詩鸞の目的は監察使の資格を得ることだ。その資格があれば、故郷へ――利陶りとうの廬ではなく、生まれの地である芝蒼しそうへ――一返ることができる。だから、合格を得たあかつきには、なるべくはやく、芝蒼へ帰る用意を整えたいと思っていた。


 そのためにも、東の辺境へ戻る。当たり前にそう思っていた――……これまでは。


「あら、お帰りになってしまわれるのね。それでは、旦那さまが大変」


「あ、いえ……わたしの治療が必要だというのなら、もうしばらく京城逗留を延ばしても構わないのですが」


 すくなくとも太風の件が片付くまでは、令雅の傍にいることになるのだろう。そうでないと令雅は戦闘に出向けないだろうし、と、そう思いつつ、詩鸞はちらりと令雅のほうをうかがった。


「呪詛をなんとかする方法は……その、ほかには、ないのですか?」


 令雅は、呪詛を解く方法として、詩鸞と交合するようにという鳳凰の神託があったのだと言った。だが、それ以外には、方策がないのだろうか。


「たとえば、呪詛のもとの太風を倒せば、解けたりとか?」


「どうだろうな」


 令雅は首をかしげつつ曖昧に言って、息をついた。


「解けないなら、あなたは……」


 生涯、神力の行使がままならぬ状態のままで過ごすのだろうか。いまは詩藍が都度治療して呪詛を和らげているが、詩鸞がいなくなったら、どうするつもりなのだろう。


 痣は濃くなる一方だ。そしてそれは、令雅が神力を練る度に、強い瘴気を発するだろう。いまでさえすでにのっぴきならない状態に陥ることがあるのだから、詩鸞の治療なしでは、令雅の身はそう長くもたないのではないのだろうか。


 それでも彼に京城衛を退く気がまるでないのだとすれば――……いつか、そう遠くない未来の、限界を迎えた日に、彼はいったい、どうなるのだろう。


 ぞわ、と、背筋を悪寒が駆け抜けた。


 胃のあたりが冷えて、気持ちが悪い。詩鸞が黙り込んでくちびるを引き結んでいると、心配するな、と、令雅はゆっくりと言った。


「大丈夫だ。俺はあんたの目的をはばむつもりはない。あんたが帰るという時には、無理に止めたりはしないから」


「そ……っ!」


 そんなことを気にしているのではない、と、思わず声を荒らげそうになって、詩鸞ははっと口をつぐんだ。


 別に、詩鸞が去ったあとに令雅がどうなろうが、知ったことではないではないか。だいたいにして詩鸞は、はじめから、わからず巻き込まれただけの立場である。


 監察使の資格を取って、故郷へ戻る。それは詩藍の悲願だ。そのためにこれまで努力を重ねてきたのだから、それを果たさずしてどうする。


 そう思う。


 思うけれども、一方で、いま令雅を置いて京城を離れてしまって、心穏やかに過ごせる自信などまるでなかった。詩鸞はたぶんもう、呪詛におかされたままの令雅を放って故郷に戻るのは忍びない、と、そういう気持ちになってしまっていた。


 いっそのこと、試験に不合格だったなら――……それなら、次の試験が実施されるまでの四年は、すくなくとも、令雅の傍にいてやれる。


 不意にそんな思考が浮かんできて、詩鸞は愕然とした。


 なんだこれは、と、思う。こぶしを握り込む。あまりのことに、深く俯いたきり、顔を上げることができなかった。


「詩鸞。あんたならきっと大丈夫だ」


 こちらが黙り込んだのを、試験結果を憂えての不安のあらわれとでも思ったのかもしれない。令雅は詩鸞をはげますようなことを口にした。


 詩鸞は、は、と、顔を上げた。


 金茶の眸が詩鸞を見ている。初めて見たときは猛禽類のようだと思った眼差しは、たしかに鋭いそれだけれども、いまはもうちっとも怖いくはない。ただ、彼の心根の気高さ、尊さ、意思の強さを思わせるだけだ――……いったい、どうしてそう感じるのだろうか。


 そこまで考えて、詩鸞は、かぁ、と、頬を染めた。


「っ、べつに!」


 慌てて相手から顔を背けている。


「そんなのあたりまえです! 最初から、当然合格すると思っていますよ! あなたに心配してもらうまでもありません!」


 自分の中に生じている感情を誤魔化すように、ついつい、不必要なほど強い口調で、そんなふう言い張っていた。



 蓉香に見送られて、ひとり屋敷を出ると、詩鸞はそのまま貢院こういんへ向かった。


 試験会場ともなる貢院は、門を入ってすぐの前庭に大きな掲示版があって、さまざまな試験の及第者の名がそこに張り出されることになっている。詩鸞が貢院に着いたときには、すでに何人か、詩鸞と同じく受験者だろう人間が集まってきていた。


 ほう、と、ひとつ息をつく。


 朝、令雅には合格など当然だと言ったし、事実、そうやって自信を持てる程度には、ずっと勉学にも励んできた。当日の手応えだってあった。


 それなのに、この浮かない気分は何なのだろう、と、詩鸞は再び嘆息をもらした――……ほんとうは、わかっている。いっそ不合格だったらというとんでもない思考は、ここへ来るまでの道の途中にさえ、振り払っても振り払っても脳裡に戻ってきてしまった。


 及第することができなければ、次の試験までの四年の間、令雅の傍にいる言い訳になる。不合格だったのだから仕方がない。次は四年後だし、勉強がてらそれまでは付き合ってあげますよ、仕方がないですから、と、言える。


「わ、たしは……」


 なんということを考えているんだ、と、故郷で犠牲になった人たちへの後ろめたさもあって自嘲を浮かべかけたときだった。貢院の建物の中から、身形みなりの良い男がひとり姿を見せた。


 その手には丁寧に折りたたまれた書状がある。これから張り出される、及第者の氏名が載った書なのだろう。


 男が掲示板の前までやってくる。書状が広げられ、板に張りつけられる。


 その場に集まっている誰もの視線が、書面へと注がれた。うらはらに、詩鸞はうつむいて、きつく目を瞑った――……あの書面に、いっそ、自分の名などなかったなら。


 わっと声が上がる。


 一方で、言葉少なにきびすを返し、その場から去っていく者もいる。


 喧噪と静けさの入り混じった不思議な空間の中で、詩鸞は恐る恐る顔をあげた。


 書面の文字面を視線で追う。


 ――しん利陶りとう 杜詩鸞


 肩から力が抜ける。詩鸞は、ああ、と、息を吐き出していた。



 帰り道、詩鸞は鳳凰を祀る廟堂に足を運んでいた。


 そういえば先日は、祈りに行こうとした矢先に京城衛についての報が耳に入ってきて、そのまま飛んで帰ってしまった。以来、きちんと拝礼に来られていなかったことを思い出したのだ。


 ただ、単にそれだけが理由ではなく、自分の中の複雑な思いに気付いてしまったいま、すぐに帰って令雅に合格を告げるのが気まずく感じられるというのもあった。


「わたし……いったい、どうしてしまったんだろう」


 何を血迷っているのか、と、溜め息をつく。それから、己の迷いを散らすように、詩鸞はふるふるとかぶりを振った。


 神の前なのだ、心を鎮めなければ、と、己に言い聞かせ、深呼吸をする。


 詩鸞は鳳凰の神像の前にひざまき、線香に火をつけて捧げ、額づくように三度深々と拝礼を行った。顔を上げて、鳳凰を見詰める。


「神託、か……」


 いったいどんな神秘の力が、自分と令雅とを巡りあわせたのだろうか。


 そんなことを考えたときだった。


「そなたが、タイオウの血か」


 ふいに背後から声をかけられた。


「……たい、おう……?」


 聞き慣れない響きを怪訝に思いつつ、詩鸞は振り返る。そこには、立派な体躯の、壮年の男が立っていた。


 結い上げられた髪は燃え立つような赤毛だ。その中に数房、白の髪が混じっているのが印象的だった。光彩だけが黒い鬱金うこん色の眸を、男はじっと詩鸞のほうへと向けていた。


 なんだか既視感があるような気がする。


 なんだろう、と、眉をひそめつつ、詩鸞は警戒して、やや身を引いた。


「すみません。すぐに、退きますので」


 詩鸞が鳳凰像の前をいつまでも陣取っているので、男の祈りを邪魔しているのかもしれない。そう思うことにして、そそくさとその場から立ちあがった。


「――鳳凰は鳥の中の鳥。翼あるものの王。生と死、破壊と再生を司る」


 男は鳳凰像の前までつかつかと歩み寄ると、真っ直ぐに神像を仰いで、唄うように言った。


「太風有り。京城みやこの東はタイホウ、その血は破壊を司る。国の東はタイオウ、その血は再生を司る。太風の血をる時、鳳凰を得る」


 滔々と続ける。


 詩鸞にはさっぱり意味の分からない言葉だ。それなのに、なんとなく、気を引かれるのはどうしてだろう。足早に廟堂から出ようとしていたのに、ふと、立ち止ってしまう。


「ふたつの太風の血はすでに出逢った……タイオウの血よ」


 男はゆっくりと振り向いて、鬱金の眸を詩鸞に向けた。詩鸞を見て、口の端を持ち上げて、わらう。


「鳳凰は、再生する」


 また、よくわからないことを口にする。


「あの……」


 詩鸞が相手に、言葉の意味を問いかけようとした時だった。


「見つけたぞ!」


 聞き覚えのある怒り声が聞こえてくる。そちらを見やれば、廟堂の門のところに佑祥が立っていた。


 足音も高くこちらへ歩いてくると、令雅の副官は、例によって有無を言わさず詩鸞の手を引いた。


「貢院へ迎えに行ってみれば姿がない。聞けば、廟堂のほうへ歩いていくのを見たというじゃないか。お前は無駄にふらふらするんじゃない! ――とにかく、来い」


 いつものように、引き摺るように歩まされた。廟堂を出たところには、佑祥の鳥である大鷲が待ち構えている。


「令雅に何か?」


「さっき出撃された。万一に備えて、お前にも来てもらうからな!」


 佑祥は大鷲に騎乗すると、詩鸞の身体を引き上げる。行くことに否やはなかったが、気になって、詩鸞は、ちら、と、廟堂の中に先程の男の姿を探した。


 だが、そこにはもはや、誰の姿も見えなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る