十 試験の日の異変

「そこまで!」


 緊張感のある声が試験終了を告げる。筆を置いた詩鸞しらんは、ふう、と、息をついた。


 精魂込めて書き上げた答案を試験官に提出する。その後、詩鸞は筆記具の片付けに取り掛かった。


 詩鸞がいまいるここは、貢院こういんと呼ばれる場所だ。典礼祭祀および学制などをつかさどる、礼部といわれる組織に属する建物だった。およそ国が行う試験は、ここ貢院において、礼部の管轄のもと執り行われることになっている。


 監察使の資格試験は四年に一度である。当日発表される三つの課題に論述で答える学課――筆記試験――がまずあり、その後、一次に及第した者には、神気の操作能力を測る実技試験が課されることと定められていた。


 そもそも今回、詩鸞が京城みやこたる瑛洛えいらくへやってきた目的は、監察使の資格を得るためである。その資格を持たねば、国境より向こうへ立ち入ることが出来ないからだ。十五年前の妖魔討伐戦の際に滅びた我が故郷を訪ねるために、詩鸞は満を持して、今回の試験に挑んだのだった。


「はぁー、緊張した。どっと疲れた」


 片付けを終え、貢院を出た詩鸞は、うん、と、伸びをしつつ独り言ちた。


 試験は朝いちばんからはじまり、日暮れまで、ほぼ丸一日を費やすものだった。もちろん、途中、おのおので休憩は取っても良いことになっていたし、飲み物や食べ物だって、礼部から各受験者に提供されはする。が、試験中は当然、すこしも気なんか休まらないし、食べたり飲んだりしたものだって、味などほとんど覚えているものではなかった。頭を働かせるため、必要な水分、栄養などを、無理やり身体に取り込んだという感じでしかない。


「でも、それなりの解答は作れた気がするかな」


 毎日のように妖魔討伐に出掛けていた令雅れいがだったが、昨日は何事もなく、京城衛の宿舎に詰めていただけだったようだった。おかげで詩鸞は――令雅の治療に借り出されることもなく――勉学に集中できていた。


 数日とはいえ、令雅の屋敷の書庫を好きに使わせてもらえたのは、ありがたかった。さすが妖魔に対応する組織だけあって、それに関する書物は豊富だったからだ。そのおかげもあってか、今日の試験を終えたいま、詩鸞はかなりの手応えを感じていた。


 一次試験の結果は、三日後に、この場所に掲示されることになっている。


 二次の実技試験は、それからさらに十日後だ。


 とにかくも、今日の試験で詩鸞は人事を尽くしたのだから、あとは天命を待つのみだった。一次試験の合格を祈りつつ、今度は二次試験に向けて備えをしなければ、と、そう思いつつ、貢院の門を出る。


「無事に試験に臨めたことへの御礼に、廟堂へ祈りにいこうかな。合格祈願もしたいし」


 鳳凰を祀る神廟へ寄ってから帰ろう、と、そう思って、大通りに出た後、そのまま神廟のあるほうへと足を向けかけたときである。


「――咆號ほうごうが出たってさ」


 往来を行く人の不安げに囁く声が聴こえた。詩鸞ははたと歩を止める。


 咆號とは、羊の体に虎の牙や爪を持つとされる妖魔だ。嬰児のような声で鳴くとされ、家畜や人など、見境なく生き物を襲って食うともいう。跳躍力に優れ、その上、鋭い爪で崖などでもやすやすと登ると言われていた。京城を囲む高い郭壁であっても越えられる可能性があるわけだ。


 そんな兇悪な妖魔が出現したとあっては、人々の不安も大きいのだろう。集って語り合うのは男たちだったが、その声は憂わしげなものだった。


 それにしても、と、詩鸞はおもう。


 京城みやこである瑛洛えいらくとは、こんなにも妖魔の襲来が頻繁にあるものなのだろうか。妖魔は辺境と中央とで特に多く湧くのだとはいえ、詩鸞が瑛洛に着いてからまだ数日だというのに、令雅はほとんど毎日といってもいいくらい妖魔討伐に出掛けていた。


 以前からこうなのだろうか。


 それとも、太風の出現以来のことなのか。


 あるいは、弱まっているという鳳凰の結界が影響しているのか。


 そこまで考えたとき、詩鸞ははっとした。


「令雅……!」


 妖魔が出たなら、きっと京城衛が討伐に向かったはずだ。詩鸞が持つ知識の上では、咆號もかなり厄介な相手であるはずだった。令雅自身が神気を練って戦っている可能性が高い。


 そして、またしても、倒れているかもしれない。


 そう思い至ったときだった。不安をにじませて話をしていた男たちのひとりが、強いてのような明るい声を出すのが聞こえた。


「大丈夫だろ。鳳凰の結界だってあるし、なんたっていまの京城衛には汪将軍がいるんだから、妖魔が京城内に這入ることはないさ」


「そりゃあ、そうだ」


 そう言って、人々が頷き合ったまさにそのとき、大通りを土煙を上げて騎馬の兵卒が通っていくのが見えた。


 遠目にそれを見遣った詩鸞は、思わず息を呑んでいる。掲げられているのは鳳凰旗――……皇兄の率いる禁軍の兵卒だった。


「なんで、禁軍が」


 言ったのは誰だったのか。道に出ている人々の顔は、一様に不安そうである。


「おい、どうも、京城衛が敗走したらしいぞ」


 向こうから駆けてきた男が叫ぶように言った。それを聞いて、ざわざわ、と、周囲がざわめき立つ。


「門のほうが騒がしかったから気になって見に行ったんだが、汪将軍が妖魔にやらたらしい」


「まさか」


「たしかなことはわからんが……京城衛の屯所や将軍の屋敷がえらい騒ぎだとか」


「おい、それ……瑛洛は大丈夫なのか?」


「妖魔が郭壁の中に入ってきたりしたら……」


「だからいま禁軍が出て来たのか」


 口々に不安を吐露する人々の会話を背に、詩鸞は弾かれたように駆け出していた。



 どうしてもっと深く考えなかったのだろう。すっかり暮れて暗い道を、詩鸞は逗留させてもらっている令雅の屋敷に向かって全速力で駆けていた。走りながら、自分の迂闊うかつに対して、忸怩じくじたる想いを抱いている。


 京城付近には毎日のように妖魔が出没し、令雅は毎日のように出撃していたではないか。たまたま昨日は何もなかっただけで、どうして、今日もまた無事に暮れるような気がしていたのだろう。


 今日また何らかの妖魔が出て令雅が神気を使う可能性など、すこし考えれば思い至ったのではないのか。それなのに、どうして自分は、いまのいままで暢気のんきに試験など受けていられたのだろう。


 だが、そこまで考えて、はた、と、思考を止める――……もしも最初からその可能性が脳裏にあったとして、だったら、己はどうしていたというのだろうか。


 試験に行かずに令雅の傍にいただろうか――……否、そんなわけはない。なにしろ監察使の資格取得は、詩鸞の唯一の人生の目標、目的だったのだから。


 でも――……では、自分は、どうしたのだろう。


 不意に湧きあがった疑問を、けれども詩鸞は、軽くかぶりを振って追い払った。いまはそんなことはどうでもいい。


「――令雅っ!」


 詩鸞は屋敷に飛び込んだ。門を越え、前庭を抜けた先の花垂門をくぐると、そこは中庭だ。普段の静けさとはうって変って、ひどく騒々しい有様だった。


 京城衛の兵卒らしき者たちの姿が、幾人か見えている。彼らはめいめいに手当てを受けていた。


 怪我をしているのは人ばかりではなく、彼らが操る巨鳥もまた、血を流してくったりと伏せているものが幾匹か見えた。


 おそらくはいま、京城衛の屯所のほうも、同じような有様なのに違いない。被害はどれほどなのだろう。令雅は無事なのだろうか。詩鸞は血の気の引く思いを味わいつつ、中庭のほうへふらりと足を踏み入れた。


「令雅……?」


 この屋敷の主であり、京城衛の長でもある人の姿を探す。奥に彼の乗騎であるはやぶさが見えた。


「天翔!」


 詩鸞はつけたばかりの隼の名を口にする。天翔は、体こそ血で汚れてはいたが、羽を折りたたんで凛と立っていた。どうやら無事のようだった。


 けれども、天翔のいるあたりに視線を巡らせてみても、そこに令雅の姿は見えない。いま霊鳥の手綱を取っているのは令雅の副官の佑祥ゆうしょうだった。


 ちら、と、佑祥の視線が詩鸞を捉えた。


 令雅のことを訊ねようと、詩鸞が相手のほうへ駆け寄ろうとしたときである。それよりも先に、目を怒らせた佑祥が、つかつかと詩鸞に歩み寄ってきた。


「っ」


 腕を掴みあげられる。


「お前、どこへ行っていたっ?!」


 佑祥は声をふるわせて、責める調子で言った。


 どこへ行っていたかだと。監察使の試験だ。佑祥だって知っていたのではないのか。そうは思ったが、とてもではないが、言えるような雰囲気ではなかった。


 相手の剣幕に圧されて、詩鸞は言葉を呑みこむ。


「お前がいなかったせいで、将軍が……それで大勢が、怪我までして……!」


 ぎり、と、詩鸞の腕を掴む相手の手指に力が籠った。詩鸞は痛みに顔をしかめる。だが、己の苦痛そんなものよりも、いまは令雅のことが気懸かりだった。


「佑祥どの……」


 令雅は、と、問おうとしたとき、奥の部屋の扉が開いた。


「佑祥、いまはそんな場合ではないでしょう! 早く詩鸞さまに、旦那さまのところへ来ていただいて」


 きざはしを上った先、部屋の扉のところに蓉香ようかが顔を出したのだ。佑祥ははっとしたように手の力をゆるめ、けれども放すことはせずに、詩鸞をひと睨みすると腕を引いた。


「来い。将軍の治療を」


「令雅は……咆號にやられたと、道で……」


「ばかを言え。将軍がやられるわけがない」


「それじゃあ……無事なんですね」


 ほ、と、吐息とともに言ったが、佑祥は顔を顰めて答えなかった。


「咆號の群れとの戦闘の途中で、倒れたんだ……討ち切れなかった咆號は、京城衛おれたちでなんとか片付けたが」


 それでずいぶんと負傷者を出して、いまのこの有様ということらしい。


「それで、令雅は……?」


「瘴気がひどくて、そのときは誰も近づけなかった。将軍の隼が守ってたから、咆號に咬まれたり、爪に掻かれたりは、されずにすんだが……そのあと、瘴気の放出がおさまってからも、まだ意識が戻らないんだ。こんなこと……これまでに、なかった」


 どうやら令雅が妖魔にやられたというのは誤報だったようだ。京城衛の敗走という報についても同じくで、彼らは実際のところ、妖魔の害から京城を守護するという役をきちんと全うできたらしい。


 それでも、令雅ひとりを欠いただけで、これだけの怪我人が出る。一騎当千という言葉があるが、まさにそのごとく、令雅の力は人並外れたものなのだ。


「でも、将軍は……いつかこうなるかもしれないって、たぶん、わかってたんだ」


 佑祥がぽつりと続けた。


「だからいつも、最後まで身体がもたなかったときのために、おれたちに援護を命じるんだ」


 それは、援護くらいしか出来ない無力な自分を心から口惜くやしがるような口調だった。詩鸞に理不尽に怒りをぶつけるのも、言葉にならない忸怩たる想いが原因だと思えば、佑祥を責める気持ちも萎む。


「詩鸞さま、旦那さまは奥の寝台に……どうか、旦那さまをお助けください」


 部屋の中へ入ると、蓉香に懇願された。


 詩鸞は無言のまま、足早に寝台に近付いていく。そこには令雅が横たわっていたが、彼の肌に浮き上がった痣は、いままでになく色を増していた。


 赤黒く痛々しいほどの痣に、詩鸞は無意識に指を伸ばした。


 触れると熱を持っている。令雅に口づけているとき肌を刺す、疼くような、熟むような、熱にも似た痛みを思い出す。きっとあれよりももっとひどい感覚が、いま、令雅を襲っているのだ。


「なんで……もっと早く呼びに来なかったんだ、ばか……」


 こんなになって、と、詩鸞は意識のない相手に向けて悪態をつく。眉を顰める。

 寝台の傍に屈むと、身体を傾け、答えない相手のくちびるに、己のそれを押し当てた。


 熱が流れ込んでくる。身体が燃えるように熱い。


 ついで、何かが引き剥がされるような感触とともに、ほととぎすの高い啼き声が辺りに響いた。


 ちいさな羽音が幾重にも聞こえる。小鳥は部屋を旋回する。甲高いさえずりが増した。


 生じた鳥たちはやがて、扉から点々と空へと舞い出て行く。


「はっ、ぁ……」


 詩鸞は荒い息を吐いた。


 そのとき、令雅が薄っすらと瞼を持ち上げる。


「……詩、鸞……」


 こちらに、ぼう、と、金茶の眸を向けた。


「あんた……試験、は……?」


「あなたね……そんなひどい状況のくせに第一声がそれとか、ばかですか」「で、も」


「ちゃんと受けてきた後ですから、安心して……」


 きっと令雅の頭には、今日も妖魔の襲来があるかもしれない可能性など、最初から想定されていたはずだ。それでも、詩鸞が朝、試験を受けに貢院へ出掛けていくそのとき、彼は一言もそれについて言及しなかった。


 わかっていて何も言わずに見送ってくれたのは、詩鸞が試験に集中できるようにだったのではなかったか。こんなときでもまず最初に詩鸞が試験を無事に受けられたかどうかをおもんぱかってくれるのだから、きっと、そうだったのだ。


「まだ……痣、ずいぶん、濃いから……もうすこし、続けましょう」


「……わる、い……迷惑を、かけて」


「いいえ。おかげさまで、試験も無事に終わりましたから……別に減るものでもないですし、遠慮なく……あなたが楽になるまで、して、いいですから」


「うん……すま、な……」


 また詫びの言葉を口にしかけたらしい相手のくちびるを、詩鸞はくちびるで強引にふさいだ。


 令雅の腕がゆっくりと持ち上がり、詩鸞の背中に回される。かと思うと、器用に身体を掬い上げられ、返され、寝床に横たえられていた。


 ちぅ、ちゅ、と、音を立てて口を吸われる。深く重ねられる。


 舌が這入り込み、口中を撫でまわした。


「ん、ん、ぅ……ふぅ……」


 ちゅく、ちゅく、と、粘度の高い音が響く。舌を絡め取られて、吸い上げられると、頭の奥が痺れるようだった。熱い。


 詩鸞は自分を閉じ籠めるように掻き抱いている令雅のたくましい背中に腕をまわした。ひしりと抱き合って、幾度も幾度も、口付けを繰り返す。


「んん、っ……ぁ……っ」


 身体を侵食する熱に浮かされるように、潤んだ眸で令雅を窺い見た。令雅は我を忘れたように、必死で詩鸞のくちびるを貪っている。おそらくは本能的なことで、無意識なのだろうと思われた。ただ、乾いた身体が水を求めるように、自分が楽になるよう行動しているだけだ。


 これは治療だ。わかっている。


 でも、身体の奥に、奇妙な疼きが点った。詩鸞は令雅の背にまわしていた腕に、すこしだけ、力を籠めた。


 ほととぎすの啼き声が響いている。鳳凰のしもべ、彼岸と此岸を行き来する鳥。プゥルゥグィ、と、小鳥は啼いた。それはいったい、何を、誰のどんな想いを、天の彼方へ持っていこうとしているのだろうか。


 カァン、と、ふいに詩鸞は、別の高い啼き声を聞いた気がした。


 ぼんやりとしていた意識が、一瞬、現実感を取り戻す。令雅の接吻はまだ続いていた。それを意識すると、身体が熱くて、まただんだんと気が遠くなってくるようだった――……このまま、たとえば着物を脱がされ、肌をまさぐられたとしたら、自分は、どうするだろう。


「……だいぶ、楽になった……助かった」


 令雅の声がして、詩鸞ははっと我に返った。くちびるを離した令雅は、ぼんやりとしている詩鸞の青銀の房髪を梳いている。


「どう、いたしまして」


 詩鸞は慌てたように、ふ、と、わらう。


 本能に従って口づけばかりはたくさんするくせに、それでも、たとえこのまま詩鸞が気を失ったとしても、令雅はそれ以上のことは絶対にしないだろう。そう確信できるのが、なんだか不思議だ。そして、令雅が我が身のために無理を通さないそのことをすこしだけもどかしいと思ってしまった自分も、わけがわからない。


「無茶、しないでくださいよ……治療するこっちも大変なんですから」


 己のうちに生じた不可思議な感覚に蓋をするように、口を曲げた詩鸞は、小声で敢えて相手への文句をこぼしてやった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る