九 天翔
そのとき、夜の中に、ピュゥウィ、と、かすかに高い鳴き声が響いた。
「あれは……あなたの鳥?」
音がしたほうへ視線を向けた
「そうだ。――俺たちの話し声を聞きつけて、構いに来いと言ってるな」
「鳥と会話ができるんですか?」
詩鸞は目を丸くした。
霊鳥は総じて頭がよく、人の意をよく汲むとは言われている。が、だからといって、人語を介しての意思疎通ができるとは聞いたことがない。
「いや。ただ、そんな気がするだけだ」
令雅は苦笑して、ちいさく首を振った。
なんだ、と、詩鸞は溜め息をつく。
「でも、ずいぶん仲が良いんですね。構いに来いだなんて」
「あいつが
「じゃあ、もしかして、あの子はまだ子供ですか?」
霊鳥の寿命は人間よりもはるかに長いとされていた。まだ
「たぶんな。仕事のときは信頼できる相棒だが、普段はまだまだ甘えただ。――ちょっと構いにいってやるかな」
そう言って立ち上がる令雅の口許は、ほんのすこし、ゆるんでいた。その表情から、彼が己の乗騎の霊鳥を可愛がっているのが伝わってくる。
「あの子、名前はなんていうんですか?」
詩鸞もつられたように立ちあがって、気づけば令雅の背を追い掛けながら訊ねていた。
「名前はない」
「え?」
可愛がっているふうなのに名をつけていないというのが不思議で、詩鸞はびっくりして声を上げてしまった。
「軍では乗騎の鳥には名をつけないのが慣習なんだ」
令雅がそう付け足した。
「そうなんですか? どうして?」
「死んだときにつらいから」
振り返らないまま令雅が言った。
詩鸞は、は、と、言葉を呑んだ。
「俺たちが相手にするのは人外の妖魔。本来なら人間の適う相手じゃない。兵卒だって……今回、太風を追って遺骸だ戻った俺の部下もそうだが、殉職だって珍しくない。鳥だって、そうだ」
小屋の戸を開けながら、令雅が何でもないことのように言った。
「奥に霊鳥が一羽いるだろう?」
言われて小屋の奥を覗き込むと、手前にいる令雅の隼以外に、もう一羽、巨躯を誇る鷹の霊鳥の姿が見えた。どうやら怪我でもしているらしく、翼には布が巻かれている。
「死んだ部下の鳥なんだ。冷たくなった主の身体を背に乗せて戻った。こいつ自身も、ひどい怪我だった。なんとか一命を取り留めはしたが、な」
対妖魔の戦闘を主任務とする京城衛である。その危険は、考えるまでもなく、大きなもののはずだ。詩鸞はあらためて、令雅たちの就いている職、京城衛というものを思った。
目にした令雅の戦いぶりがあまりにも人並み外れていたから意識されていなかったが、妖魔討伐を行う彼らの仕事は、本来、いつも命の危険と隣り合わせなのである。京城の人々の安寧のため、日々、身命を
「情の深い鳥だと、騎手の盾になって死ぬこともあったりするからな。名なんかつけて可愛がっていると、亡くしたときにしんどい。だから、あえて、名はつけないことが慣習なんだそうだ」
詩鸞は目の前の隼を見る。令雅を背に乗せ、空を切って颯爽と飛んでいた霊鳥だ。けれどもいまは、近づいていった令雅に甘えるように頬を寄せていた。
令雅が手を伸ばすとその手に懐く。令雅はとろりと金茶の目を細めて、ゆっくり丁寧に乗騎の隼を撫でてやっている。
「名前……つければいいのに」
そんな一人と一羽の様子を見て、詩鸞はぼそりとつぶやいた。
「そんなに可愛がっているなら、ちゃんと名前をつけて、呼んであげればいいのに……軍の単なる慣習で、べつに、絶対につけてはいけないわけではないんでしょう?」
「まあ、それはそうだが」
令雅が驚いたように答えた。
詩鸞は言葉を続ける。
「だって、名前なんかなくたって、もう、そんなに可愛がっているじゃないですか。名前があろうがなかろうが、その子が亡くなったりしたら、どっちにしろ、あなた、ぜったい、悲しいでしょう? だったら……慣習なんか放っておいて、名前をつけて、呼んで、めいっぱい可愛がってあげればいいのに……失くしてしまった後になって、もっともっといっぱい大事にしておけば良かったって後悔したって、遅いんだから」
帰ることすら出来なくなってしまった故郷を、その地に眠るはずの親しいたくさんの人たちを、詩鸞は思う。
十五年前にすべてを失くしたとき、詩鸞はまだ幼かった。大切なものをめいっぱい大切にすることなど、まだ、わからないほどに幼い頃だった。
大事なものは、大事だと意識する前に、失われてしまった。ちゃんと大事に出来るよりも先に、この手は届かなくなってしまった。
そして、心に、喪失の穴だけがある。
「大事なものは、できるときに……いっぱい大事にしたほうがいいんです」
わずかにくちびるを引き締めて、独り言ちるように口にした。
「……なるほど。考えたこともなかった」
令雅が言って、詩鸞を見た。金茶の眸が、いたわるような眼差しをこちらに向けている。その表情に、詩鸞は一瞬、どきりとした。
「よければ……あんたがつけるか?」
「え?」
「こいつの名。あんたが考えれば、俺が慣習を破ったことにもならないし」
「で、でも……この子は、あなたの大事な鳥でしょう?」
それなのに出逢ったばかりの詩鸞に大切な名付けを任せていいのだろうか。ぽかんとすると、令雅は、いいんだ、と、肩を竦めた。
「近づいてみろ」
「え?」
「ほら、手を出して」
令雅は詩藍の手を取り、隼に触れさせた。
あたたかい。思ったよりも、ふわふわする。恐る恐る撫でてみると、隼は目を閉じ、クルル、と、可愛らしく喉を鳴らした。
思わず表情がゆるんでしまう。
「こいつも、あんたを気に入ったようだから……佑祥なんかは、最初の頃、よく
「そうなんですか」
「うん。あんたがつけたなら、こいつも文句は言わないと思う。良い名をやってくれ」
詩鸞は戸惑う。けれども令雅がどうにも退く様子がないのを見て、諦めて考えてみることにした。
目の前の隼を見る。金と黒の眸が詩鸞を真っ直ぐに見詰め返してきた。まるで期待しているかのような眼差しだ。
鋭い爪、
「――
思いついた名を、口にする。
ありきたりだろうか。それとも、大袈裟にすぎるだろうか。
詩鸞が窺うように令雅を見ると、相手は目を細め、己の隼をゆっくりと撫でた。
「天翔か……いい名だ」
ほう、と、吐息するようにつぶやく。
「おまえもそう思うだろう? 天翔」
さっそくそう呼びかけると、隼――天翔は、あたかも
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