八 故郷の悲劇
蒼い月光が冴え冴えと射し込んでいる。夜は静かだった。沈黙が重く肩に圧し掛かった。
「――申し訳ない」
声を荒らげたあと、うつむいて黙り込んだ
「え?」
意外な言葉に紫黒の目を瞠った詩鸞は、思わず顔をあげて、令雅の顔をまじまじと見た。
令雅は何ともいえない、複雑な表情を浮かべている。
「どうしてあなたが謝るのですか? いえ……何のことを謝っているのですか?」
詩鸞には令雅の謝罪の意図するところがわからない。それでありのままにその疑問を口に出すと、相手はますます眉をひそめた。
「あのとき……東の辺境に未知の妖魔が出たとの一報が入ったとき、陛下の命を受けて東へ向かったのは俺の父母だ。同道したのは、鳳凰旗を掲げた禁軍……率いていたのは、俺の伯父だ」
いまも、その頃も、禁軍――皇帝直属の軍――を率いているのは、前皇帝の長子、今上皇帝の異母兄である人物である。なるほど、皇帝の姉の子である令雅にとって、母方の伯父にあたるというわけだ。
「禁軍が
「ええ。――あれよりほか、仕方がなかったのでしょうね」
詩鸞はちょっと皮肉っぽく、嘲るような笑みとともに言った。
「いや……それはそうなのだとしても、住人の退避が間に合わないままに作戦を決行し、民に数多の犠牲を出したことは、責められて然るべきことだと……すくなくとも、俺は思う。よその
令雅は再び謝罪して、詩鸞に向かって潔く頭を下げた。
詩鸞は言葉を探し
詩鸞は普段、自分の身分を明かすときに、
でも、いまはもう、その廬はない。いまの地図を見ても、かつて廬があった場所にはもう、芝蒼という名は記されることがない。
廬は消滅したのだ。いま、国の東の外れの廬は利陶で、そこから先は監察使の資格を持つ者か、あるいは、一定以上の等級の兵卒の鳥行師でなければ、足を踏み入れることも許されない場所となっていた。
妖魔の
詩鸞の故郷は、人智の外にある、黒い森に呑みこまれてしまった。
十五年前、東の辺境に妖魔の大群が出た折に、国の掃討作戦で廬ごと焼かれ、消滅したのだ。
詩鸞はぐっとてのひらを握りしめた。
それから顔を上げ、きりりと令雅を睨み据えた。
だが、べつに、国への怒りを令雅にぶつけようというのではない。
「それ、どうしてあなたが謝るんですか?」
詩鸞は言った。
「皇帝陛下か、あのときの禁軍将軍が頭を下げるというなら、まだ、わかりますけれどね。あなたは、そうじゃないでしょう。それなのに、詫びるだなんて……思い上がりも甚だしくはないですか」
「いや、しかし」
「だって、あなたはあなたでしかなくて、あれはあなたがやったことでもなんでもないんですよ。なのに、簡単に、謝らなくていい。むしろそんなことをされたら、わたしは頭に来てしまうんですけどね」
詩鸞が
「だが……俺は、皇室と縁ある身だし」
それでもまだ、まるで自分には詫びる義務があるのだとでも頑固に主張するように、令雅は口にする。けれども詩鸞は、はん、と、鼻を鳴らした。
「だから?」
「え?」
「だから、それがなんなんですか。さっきも知ったように話していましたけど、あなた、あの頃、せいぜい五歳とかでしょう? 五歳の幼童だった人間に、あの出来事についての、いったいどんな責任があるというのですか。ばかばかしい」
「そうは言うが、俺の縁者がやったことだから……かわりに、俺がと」
「だから! それが要らぬ気遣いだって言ってるんです! あなたは、本当にあなた自身に責任があることだけ、謝りなさい。
肩を怒らせた詩鸞はひと息に言って、それから、まったくもう、と、呆れたように大きく溜め息をついた。
「――……わかった」
しばらくの沈黙の後、令雅が、ぽつ、と、答えた。
その口許が、ほのかな笑みを浮かべて緩んでいるのを見つけて、詩鸞はなんだか、妙にそわそわした気分になった。
「ひとつ、言っておいていいですか」
こほん、と、咳払いをする。
「別にわたしは……国を、恨んではいませんよ。――いえ、まあ、ちょっとは、軍属なんてろくでもないんじゃないかとか、思ったりしてたのは否定しませんけど。でも、それも……偏見だったのかなって、あなたを見てたら、思いましたし」
言い分けでもするときのように、歯切れ悪く、ぼそ、と、言った。
「たしかに、禁軍が、わたしの廬を灰にした。でも、一方で、わたしを助けてくれたのもまた、国でしたから。妖魔の体液を浴びて倒れていたわたしを、通りかかった監察使の方が救ってくれたのもそう。それに、故郷を失い、孤児にはなりましたけど、国はわたしたち芝蒼の生き残りに、ちゃんと生活の保障をしてくれました。おかげさまで、わたしはいま、こうして無事に長じることができていますしね。――恨んでいません」
自分自身の心をたしかめるか、あるいは自分自身に言い聞かせるかのように、詩鸞は繰り返した。
「――あんたは……強いな」
「そうですか? 普通ですよ」
「強いよ。あと、人が
「は? なんですか、それ」
「お人好しだといったんだ」
令雅はすこしだけ喉を鳴らすようにして笑った。詩鸞は返す言葉に困ってしまって、ただ口をぱくぱくとさせた。
「
そう意地を張ると、三角に立てた膝を抱えて、そっぽを向く。
令雅はまた、はは、と、笑った。
「ほんとうは、あんたの身の上に勘付いて、ちょっと後ろめたかったんだ。俺はあんたの
「考え過ぎです」
「うん。――すこし、気が楽になったよ」
令雅は夜空を仰ぐと、ほう、と、息をつく。
「この話を聴いたあんたが俺に協力するのを嫌だと思うようなら、治療薬を降りてもいいと、言うつもりだったんだ。故郷を滅ぼした人間の血縁者となんて、関わりたくないと思っても不思議じゃない」
「……失礼な。わたしはそんな小さな人間じゃありません。恨んでないって言ってるでしょ」
「そうだな。あんたの心の強さを、俺は見誤ってたみたいだ」
「そんなに強くなんて、ないです。だってほんとうは……恨んでいないと、自分に言い聞かせているだけかもしれない。そんな負の気持ちにとらわれて、一生を台無しにしたくないから……だから……それだけです」
「うん。それでもあんたは強いと思うよ」
令雅の言葉に、詩鸞は一瞬、黙り込んだ。
それから、隣にいる相手のほうに、眼差しを向ける。
「……さっき……」
「ん?」
「さっき、あやまってくれて……ありがとう、ございます」
ぼそ、と、詩鸞は言った。
「さっきはああ言いましたけど、わたしも……なんだか、気持ちが楽になった気が、します。わたしの廬、わたしの家族、その犠牲を、仕方がなかったのひと言で片付けないでくれて……ありがとう」
詩鸞が真っ直ぐに言うと、令雅は目を瞠った。
詩鸞は、ふ、と、わらう。
「でも、もう、謝るのは今夜っきりでいいですから。あなたの治療、いまさら断ったりなんかしません。乗りかかった舟ですし……誰に二言があろうと、わたしには二言はないんですよ」
詩鸞は立ちあがって言い、敢えて令雅の前で仁王立ちの恰好をした。軽く胸をそらせるようにして言うと、瞠られていた令雅の金茶の目が、すっと細まる。
「うん」
痣の浮かぶ腕が伸びてきて、詩鸞の手を引いた。
「え?」
詩鸞は身体の均衡を崩して、
「ちょっと……なんですか?」
詩鸞が窺うように、怪訝な顔で令雅を見ると、相手は笑いながら軽く首を横に振った。
「いや……初めて会ったときみたいに、急に、あんたが綺麗に見えたから」
恥ずかしげもなくそんなことを言う。
「なっ……! また、あなたは、わけのわからないことを! そんなこと言ったって、絆されないんですからね」
詩鸞は真っ赤になる。はは、と、笑いながら、令雅はすぐに腕を解いてくれた。
体勢を正して、令雅の隣に座り直す。まったくもう、と、口を曲げた。
「あんたが監察使を目指すのは……芝蒼のことがきっかけか?」
しばらくして、令雅が訊ねた。
「俺はあのとき、灰燼に帰した芝蒼の光景を見て、幼心にも、あんな理不尽は二度と繰り返されるべきではないと思った。妖魔退治を
同列に語ったことを申し訳ないとでもいうように令雅は言葉を足す。ほんとうに真面目な人だな、と、詩鸞は紫黒の眸を瞬いた。
先程、令雅は――何を血迷ったのか知らないが――詩鸞を綺麗だなどとのたまった。が、ほんとうに澄んで気高いのは彼の心根のほうこそではないのか、と、おもう。
でも、そんなことを口に出せるはずもないから、むう、と、押し黙り、またしても三角に折り曲げた膝を抱えた。
「……べつに……わたしのは、あなたみたいに御大層な理想なんかじゃありませんよ」
妖魔によって滅びた廬を見て、妖魔の害を
詩鸞の望みは、ごくごく、個人的なものだった。
「監察使の資格があれば……故郷のある森へ、行けるので」
詩鸞の廬は、妖魔の進行を防ぐ目的で火をつけられ、焼き払われてしまった。逃げ遅れた住人は、廬ごと、妖魔とともに火に呑まれた。
その後、廬はそのままに放置され、朽ちて、いまでは廃墟となっていることだろう。きっともうすっかり、黒い森に侵食されている。
「十五年も経ってるし、きっと荒れ果ててるんでしょうけれどね。お墓参りというか……親兄弟や親類縁者、それから、近所のやさしかったおじさんやおばさん、おじいさんやおばあさん、仲の良かった友だち……みんな、あそこでいまも、眠っているんです。――その場所で祈ることくらい……せめて、したいじゃないですか」
抱え込んだ膝の頭に額を擦りつけるようにしながら、ぼそ、と、つぶやく。
芝蒼が地図から消え、国の東の外れは利陶になった。そこより先は、人が簡単に足を踏み入れることの出来ない魔境。立ち入るにも資格がいる。監察使か、それとも一定等級以上の兵卒か。そうでなければ、利陶の東に張られた結界を越えることができなかった。
だから詩鸞は、どうしても監察使の資格がほしいのだ。
それがあれば、故郷の廬へ帰ることが出来る。帰って何ができるわけでもないのはわかっていたが、それでも、大切なものたちが眠る場所に、再び、この足で立ちたかった。
それが詩鸞の唯一の、譲ることのできない願いだ。
難関だとされる試験に挑めるだけの準備を整えるのにずいぶんかかってしまったが、ようやくあとすこしのところまで来た。あとすこしで、手が届く。
「すみませんね。一生苦労しない暮らしを保障してくれるんだし、はいはいって言って、何も気にせずあなたに抱かれてあげられれば簡単だったのにね」
しんみりとしてしまった空気が気まずくて、冗談っぽくそう付け足して肩をすくめ、へら、と、笑う。わざと明るい声を出したつもりだったが、それでも令雅は深刻な顔で、こちらに金茶の眸をじっと据えたままで黙っていた。
そこで黙られても困る、と、詩鸞は再び顔を伏せて膝に懐く。
詩鸞がちいさく息をついたとき、試験、と、令雅がふいに言った。
「試験は、明後日だったな」
「ええ……そうですが」
「うまくいくことを祈っている」
「……それは、どうも……」
なんとなくくすぐったいような気持ちがして、詩鸞は顔を上げないままに、素っ気なくそう答えた。
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