七 月下の語らい

 じじ、と、かすかな音を立て、一瞬ゆらりと揺らいだ燈明の明かりが、ふ、と、消えてしまう。部屋が真っ暗になって、書卓について熱心に書物に目を通していた詩鸞しらんははっとした。


 時刻はもう深更も近い。


「油切れ、か」


 ずいぶんと長いこと書物に集中していたらしい。喉も渇いた。燈明とうみょう油をもらいに行くついでに、水でも一杯飲んでこよう、と、詩鸞は立ち上がった。


「んんっ」


 腕を上に持ち上げて伸びをする。ずっと同じ体勢でいたために固まってしまった肩やら腰やら軽く叩いてほぐしてから、ゆっくりと扉を開けて部屋を出た。


 屋敷は静まり返っている。それもそのはずで、半月を越え、もう望月に近いほどにふくらんだ月は、すでに上天をすぎ、西へ傾きかけていた。みな寝静まっていて当然の時刻だ。


「水だけいただいたら、わたしもさすがに寝るか」


 詩鸞は、そ、と、独り言ちた。


 そのとき、ふと、目の端を何かの影がかすめた。詩鸞ははっとしてそちらに視線をやった。


 紫黒の眸をじっとらす。すると程なくして、月明かりの下でひとり剣を振るう姿が浮かび上がった。


 令雅れいがである。


 繰り出される、力強い剣。しなやかな身のこなし。先日目にした蜚牛を相手取って全身に返り血を浴びながら戦う彼の姿が脳裏によみがえる。けれども、いま彼が浴びるのはさやかな月光だ。冴え冴えと蒼い月影の下で剣をふるう相手はどこか幻想的で、まるで優雅な剣舞でも目にするかのようで、詩鸞はなぜかじっとその光景に見入ってしまっていた。


 ほう、と、無意識に嘆息している。


 すると、こちらの気配に気づいたのか、令雅がぴたりと動きを止めた。


「そこにいるのは……詩藍どのか?」


 夜目も利くのか、即座に言い当てられた。


「はい。令雅どのは、こんな遅くに稽古ですか?」


「ちょっと寝付けなくてな」


 令雅は詩藍のほうへと歩み寄ってきて、苦笑しつつ、ちら、と、肩をすくめてみせた。


「先程まで部屋に明かりがついていたようだが、あんたは勉学か?」


「ええ。よい書物をお貸しいただいたので、つい、読みふけってしまって」


「そうか。詩鸞どのは熱心だな」


 感心するように言われ、こんな夜更けに稽古にはげむ人だって熱心だろうに、と、詩鸞は心の中でだけ思った。ついでに先程令雅の稽古姿に――一瞬だけとはいえ――ぼうっと見惚みとれてしまったことを思い出してしまって、ひとり、あたふたとした。


「どうかしたか?」


「い、いえ! その、あの、えっと……」


 しどろもどろになってしまう。


「ああ、そうだ! その、わたしのことは……ただ、詩鸞で、かまいません。詩鸞どのなんて言われると、ちょっと、据わりが悪いというか……ええ、だって、年齢としも、近いですし……お偉い立場の方にそんなふうに呼ばれると、かえって、気恥ずかしいというか……」


 言い訳で誤魔化すように、そんな思い付きを、もごもごと口にした。


 詩鸞からのいきなりの申し出に令雅はわずかに金茶の目を瞠ったようだが、すぐに、ふ、と、笑った。


「なるほど。じゃあ、これからは詩鸞と呼ぶ。――そのかわり、俺のことも令雅でいい」


「そんな!」


「なにしろこちらは無理を押しつけている立場だからな。それに、年齢としだって近いんだろう? ちなみにあんた、何歳いくつなんだ?」


「え? 二十三ですけど」


「なんだ、ふたつも歳上だったのか。ますます非礼を詫びるべきだな、俺は」


 令雅は言って、軽く喉を鳴らすようにして笑った。


「どういう理屈なんですか、それ」


 詩鸞は一瞬、む、と、くちびるを引き結ぶ。


「歳上は敬うべきだろう?」


 令雅は肩を竦めて冗談かるくちの口調で答えた。なんだかこちらもおかしくなってきて、詩鸞は、くすくす、と、軽く笑い声を立てていた。


 笑う詩鸞を見詰め、令雅が金茶の眸を細める。


 穏やかな眼差しを向けられて、詩鸞ははっとした。


 ほだされかかってないか、だめだぞ、と、気つけのために、己の頬を、ぱん、と、軽く叩いて気を引き締め直した。


「百面相だな」


 令雅がまた、くつくつ、と、笑った。


「というか、あなた、稽古なんかして大丈夫なんですか? そんなのでまた痣を濃くされでもしたら、治療するわたしが迷惑なんですけど」


 極まり悪さも手伝って、詩鸞は敢えて、つん、と、そっぽを向きながら令雅に言った。すると相手は、平気だ、と、あっさり言う。


「やってたのはただの剣の稽古だからな。神気を練らなければ悪化することはない。あんたに迷惑はかからない」


「それならいいですけど……でも……痛みとかは? 普段は痛んだりはしないんですか、その痣」


「慣れた」


 さらりと返された言葉に、詩鸞は刹那、息を呑んだ。それは、痛くないというのとは、根本的に違う答えだった。


 令雅に口づけられると、詩鸞の身体の奥はほんの刹那だけ、燃え立つように熱くなる。それはじくじくと身を刺す痛みにもにた熱なのだが、詩鸞の場合、肌を染めた痣がほととぎすの形に成ってしまえば、同時にその熱も消えうせるのが常だった。


 でも、もしかすると令雅の身体は、詩鸞が一瞬だけ味わうああしたうずくような痛みに、ずっとさいなまれ続けているのだろうか。


 寝付けないのはその痛みのせいなのでは、と、詩鸞は窺うように令雅を見た。


 月明かりの下に立つ相手は、先程まで稽古に励んでいたためか、多少、肌が汗ばんではいるようだ。が、欠片かけらの不調もないとでもいうふうに、まるで平気そうな表情かおをしていた。


 国を背負う武人というものは、皆、こうしたものなのだろうか。令雅のように、自らの身を国や民のためになげうって悔いないと、誰もが、そんな気高い心の有り様をしているのだろうか。


 否――……もしもそうなら、十五年前、詩鸞の故郷の辿った運命は異なったものになっていたはずだ。詩鸞は無意識にこぶしを握っていた。


「どうかしたか?」


 黙りこくった詩鸞をいぶかるように、令雅がこちらを覗き込んできた。知らず俯いていた詩鸞は、はっと顔を上げる。


「あなたは、どうして……」


「ん?」


「いえ、その……良い家柄に生まれて、べつに努力などせずとも、一生、楽に暮らしていけるだろうにと、ふと、思って……それなのにどうして、わざわざ、京城衛に?」


 言ってしまってから詩鸞は、あ、と、思った。


 まだ出逢って数日の相手にするには、ずいぶんと踏み込んだ質問ではないか。別に詩鸞は、ただ成り行きで、令雅の治療を――しかも、こちらに出来る範囲に限ってだけ――請け負っているだけのことである。


 それなのにどうして、相手の内面に深くかかわるような質問を投げかけてしまったのだろうか。


「す、すみません! ……忘れてください」


 すぐに恥じ入るように俯いて、慌てて発言を取り消した。


 それでもやっぱり、気になってしまう。気にかかってしまう。


 いま令雅は、痛みには慣れたと言った。そして平気な顔をしている。そうやって普段は誰にも抱える苦痛を気取らせず、ごくごく平生を装っていられる相手が、それでも、蜚牛を倒すために神気を使った後には顔を歪め、うめき、ふらつき、ついには倒れ込んでうずくまっていた。


 そのときの苦痛は、いったい如何いかばかりなのだろうか。


 それは想像を絶する痛みなのに違いない。そんなものに繰り返しさいなまれて、いったい、令雅は無事でいられるのだろうか。蜚牛でもそうなのに、伝説の妖魔である太風を相手にして、大丈夫なのだろうか。


「――どう、して……?」


 令雅の抱える苦悶を想像した詩鸞は、再び、問いかけてしまっていた。


 令雅が首をゆるく傾げる。忘れてほしいと言った舌の根も乾かぬうちに、何故、己は問いを重ねているのだろう。そうは思ったけれども、今度は――これもまた、なにゆえなのか――詩鸞は問いを引っ込める気にはならなかった。


「どうして、あなたは……だって、神気を練らなければ、呪詛は悪化しないのでしょう? だったら京城衛を退いて、二度と神気を使わなければいいじゃないですか。そりゃあ、あなたはお強くて、そんなあなたが戦線を離脱すれば、みなは困るでしょう。でも、そうまでして……命まで賭けて、あなたが、すべてを背負うことなのですか?」


 詩鸞はじっと令雅を見詰めた。


 令雅は、ふ、と、笑った。


「俺が神気を使わなければ、あんたも、俺に交合を迫られたり、繰り返し口づけさせられたり、しなくてすむものな」


 からかわれた。冗談かるくちめいた言葉で誤魔化そうとされたのだと思って、詩鸞はかっとなった。


「ええ、ええ! そうですよ! わたしはひどく迷惑をこうむっているのですから! わたしには理由わけを聞く権利くらいあるはずではないですか!?」


 苛立ち紛れに、強い口調で、矢継ぎ早に言い放った。


 言ってみて、そうだ、そうとも、自分は迷惑をかけられている立場だから令雅の行動について気になるのだ、せめてそれくらい知らされてもばちは当たらないはずだろう、と、詩鸞は心中で悪態あくたいつくように思っていた。 


「だって、京城衛でなくなって妖魔討伐をせずにすむようになれば、あなたの呪詛、快癒こそしなくとも、悪くはならないのでしょう? それでいいではないですか。妖魔を倒すのは、他の京城衛の方に任せて……それではいけない理由は、なんなのです。どうして、あなたひとりが……真っ先に、犠牲になるようなやり方を……?」


 詩鸞は眉を顰め、てのひらを握りしめた。


 一を犠牲にして百を救う。たぶんそれは、国としては正しい選択だ。いかに少ない犠牲で、いかに多くを救うか。将軍という高位の立場にいる令雅は、当然、そうした思考をするのだろう。


 それでも、詩鸞はすんなりとそれに納得できない。一の犠牲を当然のものと認めてしまえば――……自分の故郷の悲劇も、仕方がなかった、と、認めねばならないことになる。


 詩鸞はきゅっとくちびるを引き結んで、令雅を見据えた。


 こちらの真摯な眼差しを受けて、令雅はしばらく黙っていた。


 が、やがて、そ、と、息をつく。


「どうして、か……わけはたぶん、いろいろあるんだが」


「いろいろ?」


「うん。ものすごく個人的な話をするなら……太風を追って命を落とした部下の仇討あだうちかな。それから、いまなお消息不明の監察使は、俺のいとこだから、とか。もちろん、やつを打ち損じてしまったことには、悔いがある。だから俺自身の手で始末をつけたいとも思っている」


 そんなふうに理由を連ねてから、また、ふう、と、今度は長めの嘆息をもらした。


「座らないか」


 言って、令雅は院子と堂宇との間の短いきざはしを指し示した。自分はそこに腰掛けると、ふくらんだ月を見上げて、また息を吐いた。


 詩鸞は令雅の横に、すこし間を置いて座る。ちらりとこちらを見てそれを確かめた令雅は、目を細め、また月を仰いだ。


「あんたも言ったとおり……俺は、恵まれている」


 ふと、そんなことを言い出した。


おう家は代々高官を排出した名門の家柄なんだ。俺の場合、ついでに母は公主ひめ――皇室の出身でもある。幼い頃から、最上の環境で、なに不自由なく育ったよ」


「そう、ですか」


「そうなんだ。――でも……俺が良い暮らしをして来られたのは、俺自身のおかげでもなんでもない。そう思うと……なんというかな、こう、いつも、借金を背負わされているような気分だった」


 令雅は眉を寄せ、苦虫を噛んだような顔をした。


「借りっぱなし、もらいっぱなしは、どうも据わりが悪い。だからいつか、返そうと……たいした努力もなしに恵まれた暮らしをさせてもらったぶんを、何かで返さなければならないんだと、ずっとそう思っていたのかもしれない」


「いまが、そのときだと……?」


 令雅は答えなかったが、わずかに目を細めた表情が、詩鸞の問いかけへの肯定を示しているように思われた。


 詩鸞は俯く。膝を抱え込む。


 令雅の考えは崇高だが、たかだか二十年ばかりしか生きていない青年がすべてをすというのは、やりすぎではないかと思ってしまった。


 でも、そう思うのは、詩鸞がいち庶民だからだろうか。いわゆる上流階級で育った令雅の考え方は、詩鸞にはわからないだけなのだろうか。


 生真面目な答えを聞かせた令雅は、しばらくしてまた、ひとつ息をついた。


「俺が京城衛に勤めようと思ったのは……たぶん、幼い頃の経験がきっかけだ。――十五年前……東の辺境にあった、芝蒼しそうむら


 令雅の口にしたその名が耳に忍び込んだとき、詩鸞は一瞬、呼吸を忘れた。


 目の前のすべてが真っ赤に染まる。その舐めるような焔を背景に、大きな鳥の影がある。カァン、と、高い啼き声が響いた。松明を持って走る兵卒。悲鳴をあげて逃げ惑う人々――……詩鸞はきつく目を瞑り、無意識のうちに、頭を抱えるようにして耳をも手で覆っていた。


「俺は、陛下の命を受けた父母とともに、あのとき、芝蒼の廬の付近にいた。そして、廬が妖魔に襲われ、火に呑まれて亡ぶのを、この目で、見た」


「っ、たしかに、廬は妖魔に襲われた! でも、わたしの廬に火を放ったのは……禁軍だった!」


 思わず叫んでしまってから、詩鸞ははっと息を呑む。


 令雅の橙まじりの金茶の眸が、どこか痛ましげに、詩鸞を見詰めている。


「あんたの出身を聞いたときから、そうかもしれないという気がしてた。――やっぱり、あんた……芝蒼の生き残りなんだな」


 しずかに言われて、詩鸞はくちびるを噛みしめてうつむいた。

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