五 妖魔の襲来

「旦那さまっ!」


 扉の向こうから、令雅を呼ぶ声が聞こえる。切迫した、叫ぶような調子だった。会談の場に生じていた奇妙ななごやかさは刹那にして凍りついた。


 場の空気に緊張が奔る。詩鸞しらんはただただ驚くばかりだったが、さすがに武人というべきか、令雅れいが佑祥ゆうしょうも、瞬時に表情を引き締めていた。


「どうした」


 令雅はさっと立ち上がると、扉を開けて駆けてきた家人かじんに問う。


京城きょうじょうえいよりの急報にございます。郭壁かくへきの南の森にて、監察使が蜚牛ひぎゅうの群れを確認したとのこと。進行方向に瑛洛えいらくが位置していると」


「蜚牛……っ?!」


 詩鸞は思わず声を上げてしまっていた。


 蜚牛というのは、ひとつ目の牛形で、蛇の尾を持つとされる妖魔である。その行く所、土中の水はれ、草木もまたたちまちしおれてしまうという。まちむら這入はいり込めば、疫病をもたらすのだともされていた。


「佑祥、出るぞ」


 報告を受けた令雅は、副官を振り返ると、短く言った。


「蜚牛なら俺ひとりでも片付けられる。おまえは一隊を率いて援護にまわれ」


「お、お待ちください、将軍! それではお身体が……」


「大丈夫だ。さいわい……詩鸞どののおかげで、呪詛ずそは弱まっているしな」


 ちら、と、令雅が詩藍を見たので、詩鸞は紫黒色の目をぱちぱちと瞬いた。


 一瞬、なんのことだ、と、思う。が、どうやら口づけの後に、令雅の身体に這いまわる呪詛の痣が薄くなっていることを言っているらしい。


 そのことに思い至って、詩鸞は思わず赤面しつつ、己の口許をがばりと手で覆っていた。


「心配するな、佑祥。つ……いや、たせるさ」


「そんな……っ!」


「ぐだぐだ言っている間に京城が危なくなるんだ。とっとと行くぞ。――出来れば、灌木地帯に入る前に止めたい」


 まだ心配げな声を上げる副官を置いて、令雅はさっさと部屋を出て行ってしまった。


 そのとき、不意に佑祥が、なぜか憎々しげに、き、と、詩鸞のほうを見た。なんだ、と、思ううちに、彼はつかつかとこちらへ近づいてくる。


「な、なんですか……?」


 詩鸞が警戒を滲ませすると、伸びてきた手がこちらの腕を取った。


「お前も来い」


「えっ!?」


「お前の事情など知るか。将軍に万一のことがあったときには、即座に身を捧げてもらう」


「はぁっ?! っていうか、森で?」


 余計なひと言を付け足してしまってから、いやそういう問題じゃないだろう、と、詩鸞はかぶりを振った。


「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。離して」


 抵抗を試みたが、武人の力に適うはずもない。ぐい、と、手を引かれた詩鸞は、無理やり部屋の外へと連れ出された。


 そのとき、ふわり、と、風がおこる。


 ばさり、と、逞しい羽打ち音が響いた。


 はっとそちらを見ると、遙かな青空へ向けて、おおきなはやぶさが飛び立ったところだった。


 駆っているのはもちろん令雅だ。大きく翼を広げた影が虚空こくうを切り裂いて舞い上がる。


 詩鸞は一瞬、状況を忘れて、その優美な姿に見入っていた。


 空の上には、おそらくは京城衛の部隊なのだろう、同じように様々な種類の巨鳥に乗った兵卒たちの姿があった。令雅は彼らを追い越して先頭に立つと、そのまま南を指して飛んでいく。


 その影はぐんぐん小さくなる。物凄い速度だ。まさに、天翔けるという言葉がふさわしいのではないか。


「何をぼんやりしているんだ。行くぞ」


 佑祥が詩鸞の手を、ぐ、と、引いた。詩鸞ははっと我に返った。


 屋敷の中庭では、下男らしき男が一頭の鳥を引いて待ち構えている。巨大な鷲である。おそらくはそれが佑祥の鳥なのだ。令雅の副官は詩鸞を引き摺るようにして巨鳥に近付き、下男から手綱を受け取って騎乗すると、こちらの身体をも大鷲の背に引き上げた。


「落ちるなよ」


 そう一言素っ気なく告げると、詩鸞を抱えた体勢で飛び上がる。


「将軍を追うぞ!」


 空中で待ち構える部隊に向かって、佑祥は声を張り上げた。おう、と、それぞれに応じる声がある。


 令雅の姿はもうかなり遠くなっていた。それを追うように、佑祥は鳥を駆った。後には兵卒たちが続く。


「どうして……あの人は、ひとりで飛んでいくんです……?」


 佑祥たちは上官の後を追ってはいるが、その距離はまるで縮まるふうがない。それだけ令雅が速いということだろうか。


 だが、これでは部隊のていをなしていない。単騎行の令雅の姿を視界の遥か遠くにとらえつつ、詩鸞は無意識につぶやいた。


 それは単なる独り言だったが、聞き咎めたらしい佑祥が、ち、と、不快そうに舌打ちをした。


「鳥を駆るには神気を使う。だからだ」


「どういうことですか?」


「さっき将軍が言ってたろう? 神気を練れば、呪詛が発動する。反動みたいに、将軍の身体は瘴気しょうきを発してしまうんだ。――霊鳥は大丈夫みたいだが、おれたち人間は、それにてられる。一定の距離以上、将軍には近づけないんだよ」


 傍で上官の補佐が出来ないのが口惜しいのだろう、歯噛みするように佑祥は言った。


 令雅が佑祥に対して部隊ともども援護にまわれと言われたのには、どうやらそういうわけがあったらしい。では令雅は、本気で、蜚牛の群れにたったひとりで対処するつもりでいるということなのだ。


「だいじょうぶ、なのですか……?」


「なにがだ」


「相手は蜚牛なのでしょう? ……決して、小物ではないのではありませんか」


「よく知っているな」


「これでも監察使の資格を目指している身ですからね。そりゃあ、妖魔の知識なら、ある程度はありますよ」


 詩鸞は小馬鹿にするような佑祥の言に、むっとしてそう返した。


 佑祥が、ふ、と、息をつく。


「たしかに小物じゃないな。おれたちだって腐っても京城衛、妖魔討伐の精鋭部隊ではある。だが、それでも、ひとりで一頭を相手にするのが手一杯だろうな」


「それなら……あの人、危ないじゃないですか」


「お前、将軍を甘く見るなよ。おう将軍なら……」


 佑祥が言いかけた頃、彼の駆る大鷲は京城を囲む郭壁を越え、さらに南の森の上空へと向かいかけていた。


 詩鸞は前を見る。令雅はさらに前を翔けている。


 そのとき、彼の操る隼が、大きく翼を広げてぐるりと空を旋回した。かと思うと、そのまま、暗緑色の葉を繁らせた木々がまばらに並ぶ森の中へと一気に急降下した。


 それに合わせるように、佑祥は手綱を強く引いて鳥を止めた。後ろを振り返って、続く部隊に向かって声を張り上げる。


「展開! 弓、用意!」


 佑祥の指示に従い、兵卒たちが散る。佑祥は令雅が先程高度を下げたあたりまで飛んで、先程令雅がしたのと同じように、その上空を旋回し出した。


 そっと見下ろすと、令雅が隼を操り、疎林の間を縫うようにして低い位置を飛んでいる。右手に剣を提げ、そのまま、蜚牛の群れの先頭へと突っ込んだ。


 令雅と妖魔の群れとが交錯する。ひと太刀、ふた太刀、すれ違いざまに令雅は剣をふるい、蜚牛を斬った。


 そのまま急角度で上昇する。繁る木の葉を抜けて、令雅が上空まで飛び上がってきたところで、佑祥が右手をさっと振った。


て!」


 合図で、いっせいにが放たれる。蜚牛の群れの上から、雨のように降りそそぐ。


 ぐるりと上空をひとめぐりした令雅の隼は、再び斜めに高度を下げた。


「討ちもらしがあれば片付けろ! 灌木地帯を越えさせるな!」


 張りのある声でそう命じ、彼は隼の上で器用に身体をひねって、霊鳥の蹴爪にぶら下がった。ある程度の高さまで下りたところで、身軽に地面に降り立った。


 令雅の前には十数等の蜚牛の群れが見えている。鳥から降りた令雅は剣を提げて地を駆けていった。


 剣先がひらめく。それが白銀に輝くたび、昏い色の血飛沫しぶきが飛び、蜚牛の巨体が、どう、と、地面に倒れ込む。


 それにつまずいた蜚牛が体の均衡を崩すと、令雅はその体に跳び乗って、角のある頭をひと息に刺し貫いていた。


「す、ごい……」


 討ち漏らしなど出ないのではないだろうか。蜚牛が次々と倒されていく様子に、詩鸞は思わず感嘆の声をあげていた。


「百年、いや、千年にひとりの逸材だとまで言われてるんだ」


 佑祥がぽつりと言った。


「濃密に練り上げた神気を武器に込めて、的確に急所に叩き込む。あんな芸当、誰にでも出来るもんじゃない。しかも、何頭とやりあっても枯渇知らずの神気が、あの方の体内には満ちてるらしい。――おれたちがやっと一頭倒せるかどうかって相手を、あの方はひとりで群れごと壊滅させちまうんだから……強さのけたが、ちがう」


 そんな独白じみた言葉の間にも、地上には妖魔のむくろの山が築かれていた。


「陛下の甥が最年少で京城衛の将軍だなんて、ふつうなら、身内贔屓びいきだと文句も出るところだ。だが、汪将軍に文句をいうやつなんて、いない。あの方は、本物だから。――だからこそいま、国がもし、汪将軍を失うようなことがあったら……」


 佑祥はきつく眉を顰めた。くちびるを噛み、うつむく彼は、たしかに、上官の身を、そして国の大事を、心の底から思い遣っているようだった。


 だからこそ詩鸞にも、あんなふうに、礼を失した咬みつき方をしたのかもしれない。そう思って、詩鸞は、きゅ、と、てのひらを握り込んだ。


「っ、将軍!」


 そのとき、ふと佑祥が悲鳴じみた声をあげた。


 はっとして下を見る。だが、すでに、すべての蜚牛は倒されたものと見えていた。どうやら令雅が妖魔にやられたというのではないらしい、と、詩鸞が、ほう、と、吐息した刹那だった。


 令雅の身体が、ふら、と、かしいだ。


 そのまま地面へと倒れ込む。


 佑祥が手綱を引く。巨鳥は翼をはためかせると、ゆっくりと降下した。


 令雅がいる場所からやや離れたところに降り立った佑祥は、反射的に、令雅のほうへ駆け寄ろうとした。


「来るな!」


 面に座り込んだ令雅が、低い声でそれを制する。


「まだだ。まだ、瘴気が収まっていない」


 佑祥が足を止める。くそっ、と、毒づきつつ、口惜しそうにその場で地団太を踏む。


 肩で息をする令雅の身から、墨色のもやのようなものが、くゆるように立ちのぼっていた。


 あれが瘴気だろうか。周囲の草木が枯れているのは、果たして、蜚牛の行進のためなのか、それとも令雅の身を侵す呪詛から発せられる強い邪気のせいなのだろうか。


「く、ぅ……っ」


 苦しげな声が聴こえ、詩鸞ははっと顔をあげた。


 令雅が我が身を抱え込むようにしてうめいている。顎のあたりから首、手や腕に、鎖の巻きつくような痣が、色濃く浮かびあがっていた。


 きっとあれは全身に這いまわっているのだ。その痣の色は、先程よりも、否、昨日はじめて令雅を見たときよりも、明らかに赤黒くなっていた。


「あ、れ……だいじょうぶ、なんですか」


 詩鸞は令雅の様子に息を呑みながら、恐る恐る佑祥に訊ねた。そういえば、瘴気はまわりのものだけでなく令雅自身の身体をもむしばむのだと言っていた。


「瘴気って……おさまるん、です、よね……?」


 先程の令雅の口調からすれば、そうだろうと思われる。だが、放っておいて大丈夫なのか、と、詩鸞は不安にかられていた。


 ちら、と、令雅の副官の表情を見上げる。彼はじっと令雅のほうへと眼差しを向けつつ、厳しい表情をして、くちびるを引き締めていた。


「わからん。これまでは……しばらくしたら、収まってた。だが、瘴気は間違いなく将軍自身の身体をいためていってる。だから、いつかは……」


 いつかは、なんだというのだろう。令雅の副官が呑み込んだ言葉の続きを想像して、詩鸞は目を瞠った。


 伝説級の妖魔の呪詛。それに侵された身体。神気を練るたびに呪詛はひどくなる。わかっていて、ひとり戦闘を切って妖魔の群れに突っ込んでいった姿――……なぜ、そんなことができるのだろう。


 自ら進んで犠牲になることはあっても、と、不意に、先程令雅が口にしていた言葉が、詩鸞の頭の中に甦って響いた。


 その刹那、詩鸞は衝動的に駆け出していた。


「っ、くるな!」


 令雅が切迫した声で叫ぶ。だが、詩鸞は構わずに走った。


 相手は必死で身を起こしてこちらから距離をとろうとするようだ。が、弱った身体ではままならないと見えて、身体ごと引き摺るように歩きかけたところで、ふら、と、よろめいた。


 その身を、詩鸞は受けとめる――……受けとめ切れずに、一緒に地面に倒れ込む。


「瘴気が、まだ……」


 令雅が絞り出すような調子で言った。詩鸞は相手の重たい身体を支えるように、なんとか抱き起こした。


「大丈夫、みたいですよ……神託を下した鳳凰の加護かもしれませんね」


 瘴気にてられることも覚悟しないではなかったのだが、実際のところ、いま詩鸞の身体には目立った変調はなかった。


 令雅がわずかに目を瞠る。しかし、それ以上なにか言う気力もないものと見えて、ぜい、ぜい、と、荒い息だけを繰り返した。


 薄っすらと開かれたそのくちびるを、詩鸞は刹那、じっと見詰めた。


 自分がいま何をしようとしているのか、もう一度、自問する。


 なぜ、と、問われたら、答えられない。なんとなく放っておけなかったとしか言えない。もしかしたら、馬鹿なことをしようとしているのかもしれない。それでも――……。


 ぎゅっと目を瞑る。


 ええい、と、ほとんど自棄やけっぱちのていで、令雅のくちびるに己のそれを押し当てた。


「なっ……」


 令雅が驚いて、一瞬、息を呑んだ。けれどもすぐに詩鸞の意図を察したのか、抵抗することはなく、口づけを受けている。


 プゥルゥグィ、と、独特の啼き声が高く響いた。


 ほととぎすだ。くちびるを離して目を開けると、詩鸞の身体からは、廟堂で令雅に口づけられたときと同じように、融け出るように次々と小鳥が湧いていた。


「……な、ぜ?」


 すこしは楽になったのか、やや落ち着いた呼吸で、令雅が改めて詩鸞にそう訊ねた。


「なぜ、ですかね」


 詩鸞は言った。別に誤魔化したわけではなく、本当に、自分がどうしてこんな行動を取っているのか、自分でも理解できていなかった。


「ただ……わたしが断ったせいであなたが死んだりしたら、さすがに、寝覚が悪いからかも」


「詩鸞どの……」


「交合は、できません。でも……接吻これでも、すこしはましにはなるんですよね。だったら……接吻それだけでいいなら、協力します」


 呪詛をやわらげるための協力ならばしてもいい、と、そう告げて、詩鸞は目を閉じると、再び令雅に口づけた。

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