四 純潔の誓い

「は? 断るだと!?」


 はっきりと首を横に振っての詩鸞しらんの返答を受け、佑祥ゆうしょうが声を荒らげ、つくえを叩いた。


「お前、将軍の話を聴いただろう。ことは国の一大事なんだぞ。それをあっさり断るとは、いったいどういう了見なんだ……!」


「そんなこと言われたって知りませんよ! そっちに事情があるように、こっちにだっていろいろあるんです!」


 再びの売り言葉に買い言葉で、詩鸞は、き、と、令雅れいがの副官を睨んだ。


「なんだと?!」


 対する相手もますます目を怒らせたが、詩鸞はまるで怯むことなく、ふんと、鼻を鳴らした。


「そっちこそ、なんですか。そっちの事情ばかりが優先されて、わたしの事情は無視されるとか、不公平なのは事実でしょ?」


 眉を顰めてそう受けて立ったところで、ふう、と、しずかな溜め息が聴こえた。吐息の主は、詩鸞の傍らに立っている蓉香ようかである。


「ねえ、佑祥。さっきからあなたが喋ると話がややこしくなるだけだって、わからないのかしら? すこし黙っていなさいって」


 柔かな口調で、穏やかな笑みを浮かべて、けれどもそれとはうらはらに、蓉香は容赦なく指摘した。彼女の直球のたしなめを受け、佑祥は、う、と、言葉に詰まっておとなしくなる。どうやら令雅の副官は、上官の乳母めのとのこの女性には弱いらしかった。


「お客さま……いえ、詩鸞さま」


 蓉香は今度はこちらに視線を向け、口許に穏やかな笑みを刷いて語りかけてきた。


「私どもも、とても無茶なお願いをしていること、十分に承知しておりますわ。でも、佑祥も申したように、ことは国の大事なのです。旦那さまは史上最年少で京城衛の将軍職にお就きになりましたが、そんな旦那さまをしても、太風たいふうごわい相手……いかな精鋭ぞろいの京城衛とはいえ、旦那さまを欠いた状態で適う敵ではないのです」


「そうは、言われましても……」


 詩鸞としても、彼女に真摯な眸を向けられると、無碍むげにするのも心が痛む。それでも、やはり、簡単にうべなうことはできそうになかった。


「……鳳凰の結界が弱まってさえいなければ……」


 ふと、佑祥が口惜しげにつぶやいた。


「佑祥!」


 それを、鋭い口調で令雅がさえぎる。


 佑祥ははっと口をつぐんだが、詩鸞の耳はすでにその言葉を聞きとがめてしまっていた。


「鳳凰の結界……というと、京城きょうじょう瑛洛えいらくを包み込み、守っているという?」


 地理的に要衝となるむらまちでは、祭祀官が廟堂で霊鳥を祀ることによって、妖魔の害を防ぐ加護の結界を張っている。皇帝の在所であるここ瑛洛には、最高神である鳳凰の加護が授けられているはずだった。


 皇帝の傍近くにいる鳳凰。神廟でその鳳凰をまつることによって、京城の周囲結界が張りめぐらされている。それがあるから、普通、妖魔は簡単には京城に近付けないのだと言われていた。


 その結界が弱っているというのは、いったいどういうことなのだろうか。


 詩鸞が目をまたたいて令雅を見ると、一瞬苦々にがにがしい表情を見せた相手は、すぐに隠し通すことを諦めたらしく、ふう、と、ひとつ嘆息した。


 ちら、と、失言をした部下をひと睨みしてから、あらためて詩鸞に向き直る。


「鳳凰の結界が、いま弱まっているらしい。一般には伏せられているが、もうもたないという段になったら、鐘を打って知らされることになってはいる」


「結界が弱まっているというのは……太風の出現と、関係があるのですか?」


「わからん。太風が現れたから弱まったのか、あるいは、結界が弱体化したために太風が現れたのか……ただ、叔父上――陛下はとりあえずのところ、変わらずご健勝だ。問題があるとすれば鳳凰のほうではないかというのが神廟の祭祀官の見解だった」


「そうなんですね。……って、陛下が叔父上!?」


「ああ、俺の母は陛下の同母の姉だから」


「も、もしかして、公主こうしゅさまが、このお屋敷にいらっしゃったりする?」


「いや。この屋敷は、俺が将軍職をたまわったときに構えたものだ。京城衛の屯所に近いほうが何かと利便性が良かったしな。父母とは別居だから、あんたもここでは気安く過ごしてくれていい」


 令雅は言ったが、いっそそんなことはどうでも良い。しれっと告げられた数々の事実に、詩鸞は頭が痛くなってきてしまった。


 そもそも、皇帝の同母姉の降嫁先となるくらいだから、令雅は、父方もそれなりの家柄なのではないのだろうか。


 最年少の京城衛の将軍で、しかも皇帝の血縁者とは、いっそ嘘みたいな境遇だ。辺境の出身のいち庶民でしかない詩鸞からしたら、縁のない話すぎて、実感が湧いてこなかった。


 それなのに、そんな相手から、出逢って間もなく交合を迫られているとはいったい何がどうなっているのだろう、と、思わず額を押さえてうなっていた。


「この際ついでだから、もうひとつ話しておいていいか?」


 令雅が付け足した。


「まだあるんですか。っというか、ついでって何だ」


 詩鸞の声は、やや、げんなりした調子になってしまった。


「先程、乗騎の鳥が俺の部下の遺骸を乗せて戻ったという話をしたな。霊鳥もひどい怪我を負っていたんだが……どうも刀剣によるもののようだった」


「はあ……それが?」


「人の関与が疑われる。つまりは、きなくさいということだ」


「たとえば誰かが、太風の討伐を邪魔しようとしているってことですか? なんのために?」


「わからん。討伐の邪魔立て……だけならば、さほど大きな問題でもないのかもしれないが」


 令雅は歯切れ悪く言った。


「伝説級の妖魔の出現に、時を同じくして、京城の結界の弱体化……これ自体は、人間の意図によって引き起こせるとは思わん。人智の外のことだ。が、この機をさいわいと、京城や、ひいては皇帝を害そうというやからは出てきてもおかしくない。陛下もひそかに皇宮司を動かして、探らせているようだ」


「……それって、一大事じゃないですか」


 令雅が口にしたのは、皇帝位の簒奪さんだつということではないのだろうか。詩鸞が紫黒の目を瞬いたら、ふん、と、佑祥が鼻を鳴らした。


「まさに一大事なんだよ、最初からそう言ってんだろうが! そういうわけで、将軍だって仕方なしに、お前に頭を下げてるんだ。わかったらとっとと協力しろ!」


「だからわたしだって無理だって最初から言ってるでしょ!」


 反射的にそう応じてしまってから、詩鸞ははっとした。とにかく、令雅の言うまぐわう云々うんぬんが冗談ではないこと、相手がかなりのっぴきならぬ状況で詩鸞に本気で助けを求めていることは、わかった。


 詩鸞は、こほん、と、咳払いをする。


「ご事情はわかりました。京城を守護する結界が弱まっているうえに、京城衛の将軍が戦闘不能の状態では、さぞ、お困りのことでしょう。国の大事といわれれば、とう国の民であるわたしにとっても、まったくの無関係とはいえないのかもしれません。とはいえ、ですね……解決のために、わたしが将軍と、その、ま、ま、まぐわうというのは、やはり、むり、です」


「尊厳にもかかわることだ。協力してもらったとしても、必ず秘密は守ろう。保証も、出来る限りはするつもりだ」


 令雅の声も眼差しも真摯なそれだった。


 実際、相手は将軍職の人間で、かつ、皇帝陛下の甥でさえある。保証という意味では、こちらが想像する以上のことをしてくれそうではあった。


 だが――……。


「そういう問題では、なくてですね」


 詩鸞は困ったように眉尻を下げた。


「その……わたしは、監察使を目指していて。それで、純潔の誓いを、しているのです。それを破るわけには、いかないというか……」


 こほん、と、咳払いをしつつ詩鸞が言うと、令雅は怪訝けげんそうに金茶の目を瞬いた。


「祭祀官だというならともかく、監察使には、その身を清らかに保たねばならないという規則などはなかったと思うが? 実際、俺の父母はかつて監察使だったが、婚姻を結んだのは、まだその職掌にあった頃のはずだ」


「それは、そうなんですが……わたしはもともと、神気じんきを練るのが下手で……それで、鳳凰神像の前で、身を清らに保つという誓いを」


「ああ、なるほど……不邪淫の戒めを己に課すことで、あんたは、神気を高めているというわけだな」


「そう、です」


 詩鸞が目指す監察使は鳥行ちょうこう、すなわち、霊鳥に騎乗して空を駆けられなければならなかった。そして、霊鳥を操るためには、体内で練った神気が必要なのだ。神気をうまく練り上げられないと、その職を務めることができない。


 神気というのは、多かれ少なかれ、ほとんど誰もが有してはいる。だが、その過多は、生まれもった才に大きく左右された。神気の量が多く、練り上げるのが巧みであればあるほど、兵卒なら、強い攻撃が可能になる。鳥を操ることにおいても、より高位の霊鳥を、思うがままに駆けさせることができるのだ。


 神気は、訓練によって、多少なら高めることが出来るとされている。が、それにも限度はあった。そこで、神像の前で祈り、誓約をなすことで、力を強めるという方法が取られるのだ。


 詩鸞は鳳凰神の前で身の純潔を誓って、それで本来よりも強い神気を練ることが出来るようになっていた。


 だが、これにはもちろん、不利な点もある。


「誓約を破れば、その反動で、わたしは神気を失ってしまいます。それは、困る」


 そう告げると、令雅は一瞬視線を落として、何か思案するふうを見せた。ややあって顔を上げると、金茶の眸で詩藍を見据える。


「あんたが一生、暮らしに困らないだけのものを用意するといってもか」


「生活の問題では、ありませんから。そうではなくて……わたしはどうしても、監察使にならねばならぬのです」 


 そう、詩鸞はなにも、暮らしの糧のために監察使になりたいわけではないのだ。どうしてもならなければならない、と、強く思うだけの大きな理由があった。


 変わり果てた故郷の姿が脳裏にひらめく。


 詩鸞は、きゅ、と、くちびるを引き結んだ。


「やはり……協力は、できかねます」


 紫黒の眸で真っ直ぐに令雅を見返して、言った。


「お前な! 国の大事より、自分の個人的な事情を優先するのか!」


 再びわめくように言ったのは佑祥である。詩鸞は、き、と、相手を睨んだ。


「あのね……っ」


 わたしの事情を何も知らないくせに、と、反論しかけたところで、令雅がさっと手を挙げて副官を制した。


「佑祥。個よりも国を優先すべきだというのは、俺たちが京城衛だからこその考え方だ。民の血税を糧にしている俺たちなら、その理屈も、通る。が、彼は、そうじゃない」


「ですが、将軍……っ」


 まだ承服しかねるというふうに反論を続けかけた相手に、令雅は静かにかぶりを振ってみせた。


「国は民のためにいくらでも犠牲になるべきだが、その逆は本末顛倒だ。国のために民に犠牲を強いてはいけない、と……すくなくとも、それを当然のことだとしてはならないのだと、俺は公主である母に、そうきつく言い聞かされて育った。――国の中央に近い者であればあるほど、自らが進んで犠牲になることはあっても、民を捨て駒にすることは、あってはならない」


 静かにさとされて、佑祥はぐっとくちびるを噛む。


 詩鸞は詩藍で、令雅の言葉に息を呑んでいた。


 かつて、燃え盛る焔に消えた故郷を思う。あのとき詩鸞のむらに火をつけた将軍は、いくらやめてと叫んでも、聞き入れてはくれなかった。こうするより仕方がない、と、頭ごなしにそう言った。


 あのとき、先陣に立っていたのがもし、いま目の前にいるこの将軍だったならば廬の運命は変わっていただろうか、と、一瞬、詩鸞はそんならちもないことを考えてしまっていた。


「佑祥」


 令雅が副官を呼ぶ声で、はっと現実に返る。


「おまえが国を心底憂えているのはわかっている。俺の身を案じてくれていることも、な」


 眉を顰めて黙りこくった副官の肩を、令雅は目を細め、口許に笑みを刷きつつ、軽く叩いた。それから詩鸞のほうへ顔を向けると、こちらに対しては、ゆっくりと頭を下げる。


「改めて、詩鸞どのには、昨日の我が無体、非礼のことを、詫びさせてもらう。此度こたびは、こちらの身勝手な事情に付き合わせて、すまなかった。――たしか監察使の登用試験は、一次の学課が、五日後だったか。よければ試験が済むまでの間、この屋敷に逗留とうりゅうしてくれ。蓉香に世話もさせる。俺からの、せめてもの罪滅ぼしだ」


 令雅の申し出は、地方の出身で、京城にこれといった伝手つてなどもない詩鸞にとっては、実にありがたいものだった。重ねての丁寧な詫びのこともあり、そうまでされてはむしろ、こちらのほうが申し訳なくなってくるような気の遣われ方である。先方の頼みを断った立場の詩鸞としては、すこしばかり居た堪れないような気分にさえなった。


「えっと……まさか、逗留の対価として、後で身体を差し出せとか……言いませんよね?」


 ついついそんなことを言ってしまったのは、令雅の言葉が、うまい話し過ぎて不安だったというわけでは、ない。多分に、己の中に生じた居心地の悪さを誤魔化すための軽口みたいなものだった。


 ぼそりとこぼしたこちらのつぶやきを聞き咎めた令雅は、一瞬きょとんと目を瞠り、それから、くく、と、喉を鳴らした。


「なるほど……その手があったか」


 くつくつと笑う相手の言葉は、けれどもきっと、これも単なる冗談かるくちに過ぎないのだ。そんな気などさらさらないのだろうな、と、初めて見せられた相手の嫌味のない微苦笑を前に、詩鸞はなぜか、そんな確信を抱いていた。

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