四 純潔の誓い
「は? 断るだと!?」
はっきりと首を横に振っての
「お前、将軍の話を聴いただろう。ことは国の一大事なんだぞ。それをあっさり断るとは、いったいどういう了見なんだ……!」
「そんなこと言われたって知りませんよ! そっちに事情があるように、こっちにだっていろいろあるんです!」
再びの売り言葉に買い言葉で、詩鸞は、き、と、
「なんだと?!」
対する相手もますます目を怒らせたが、詩鸞はまるで怯むことなく、ふんと、鼻を鳴らした。
「そっちこそ、なんですか。そっちの事情ばかりが優先されて、わたしの事情は無視されるとか、不公平なのは事実でしょ?」
眉を顰めてそう受けて立ったところで、ふう、と、しずかな溜め息が聴こえた。吐息の主は、詩鸞の傍らに立っている
「ねえ、佑祥。さっきからあなたが喋ると話がややこしくなるだけだって、わからないのかしら? すこし黙っていなさいって」
柔かな口調で、穏やかな笑みを浮かべて、けれどもそれとはうらはらに、蓉香は容赦なく指摘した。彼女の直球の
「お客さま……いえ、詩鸞さま」
蓉香は今度はこちらに視線を向け、口許に穏やかな笑みを刷いて語りかけてきた。
「私どもも、とても無茶なお願いをしていること、十分に承知しておりますわ。でも、佑祥も申したように、ことは国の大事なのです。旦那さまは史上最年少で京城衛の将軍職にお就きになりましたが、そんな旦那さまをしても、
「そうは、言われましても……」
詩鸞としても、彼女に真摯な眸を向けられると、
「……鳳凰の結界が弱まってさえいなければ……」
ふと、佑祥が口惜しげにつぶやいた。
「佑祥!」
それを、鋭い口調で令雅が
佑祥ははっと口を
「鳳凰の結界……というと、
地理的に要衝となる
皇帝の傍近くにいる鳳凰。神廟でその鳳凰を
その結界が弱っているというのは、いったいどういうことなのだろうか。
詩鸞が目を
ちら、と、失言をした部下をひと睨みしてから、あらためて詩鸞に向き直る。
「鳳凰の結界が、いま弱まっているらしい。一般には伏せられているが、もうもたないという段になったら、鐘を打って知らされることになってはいる」
「結界が弱まっているというのは……太風の出現と、関係があるのですか?」
「わからん。太風が現れたから弱まったのか、あるいは、結界が弱体化したために太風が現れたのか……ただ、叔父上――陛下はとりあえずのところ、変わらずご健勝だ。問題があるとすれば鳳凰のほうではないかというのが神廟の祭祀官の見解だった」
「そうなんですね。……って、陛下が叔父上!?」
「ああ、俺の母は陛下の同母の姉だから」
「も、もしかして、
「いや。この屋敷は、俺が将軍職を
令雅は言ったが、いっそそんなことはどうでも良い。しれっと告げられた数々の事実に、詩鸞は頭が痛くなってきてしまった。
そもそも、皇帝の同母姉の降嫁先となるくらいだから、令雅は、父方もそれなりの家柄なのではないのだろうか。
最年少の京城衛の将軍で、しかも皇帝の血縁者とは、いっそ嘘みたいな境遇だ。辺境の
それなのに、そんな相手から、出逢って間もなく交合を迫られているとはいったい何がどうなっているのだろう、と、思わず額を押さえて
「この際ついでだから、もうひとつ話しておいていいか?」
令雅が付け足した。
「まだあるんですか。っというか、ついでって何だ」
詩鸞の声は、やや、げんなりした調子になってしまった。
「先程、乗騎の鳥が俺の部下の遺骸を乗せて戻ったという話をしたな。霊鳥もひどい怪我を負っていたんだが……どうも刀剣による
「はあ……それが?」
「人の関与が疑われる。つまりは、きなくさいということだ」
「たとえば誰かが、太風の討伐を邪魔しようとしているってことですか? なんのために?」
「わからん。討伐の邪魔立て……だけならば、さほど大きな問題でもないのかもしれないが」
令雅は歯切れ悪く言った。
「伝説級の妖魔の出現に、時を同じくして、京城の結界の弱体化……これ自体は、人間の意図によって引き起こせるとは思わん。人智の外のことだ。が、この機をさいわいと、京城や、ひいては皇帝を害そうという
「……それって、一大事じゃないですか」
令雅が口にしたのは、皇帝位の
「まさに一大事なんだよ、最初からそう言ってんだろうが! そういうわけで、将軍だって仕方なしに、お前に頭を下げてるんだ。わかったらとっとと協力しろ!」
「だからわたしだって無理だって最初から言ってるでしょ!」
反射的にそう応じてしまってから、詩鸞ははっとした。とにかく、令雅の言うまぐわう
詩鸞は、こほん、と、咳払いをする。
「ご事情はわかりました。京城を守護する結界が弱まっているうえに、京城衛の将軍が戦闘不能の状態では、さぞ、お困りのことでしょう。国の大事といわれれば、
「尊厳にもかかわることだ。協力してもらったとしても、必ず秘密は守ろう。保証も、出来る限りはするつもりだ」
令雅の声も眼差しも真摯なそれだった。
実際、相手は将軍職の人間で、かつ、皇帝陛下の甥でさえある。保証という意味では、こちらが想像する以上のことをしてくれそうではあった。
だが――……。
「そういう問題では、なくてですね」
詩鸞は困ったように眉尻を下げた。
「その……わたしは、監察使を目指していて。それで、純潔の誓いを、しているのです。それを破るわけには、いかないというか……」
こほん、と、咳払いをしつつ詩鸞が言うと、令雅は
「祭祀官だというならともかく、監察使には、その身を清らかに保たねばならないという規則などはなかったと思うが? 実際、俺の父母はかつて監察使だったが、婚姻を結んだのは、まだその職掌にあった頃のはずだ」
「それは、そうなんですが……わたしはもともと、
「ああ、なるほど……不邪淫の戒めを己に課すことで、あんたは、神気を高めているというわけだな」
「そう、です」
詩鸞が目指す監察使は
神気というのは、多かれ少なかれ、ほとんど誰もが有してはいる。だが、その過多は、生まれもった才に大きく左右された。神気の量が多く、練り上げるのが巧みであればあるほど、兵卒なら、強い攻撃が可能になる。鳥を操ることにおいても、より高位の霊鳥を、思うがままに駆けさせることができるのだ。
神気は、訓練によって、多少なら高めることが出来るとされている。が、それにも限度はあった。そこで、神像の前で祈り、誓約をなすことで、力を強めるという方法が取られるのだ。
詩鸞は鳳凰神の前で身の純潔を誓って、それで本来よりも強い神気を練ることが出来るようになっていた。
だが、これにはもちろん、不利な点もある。
「誓約を破れば、その反動で、わたしは神気を失ってしまいます。それは、困る」
そう告げると、令雅は一瞬視線を落として、何か思案するふうを見せた。ややあって顔を上げると、金茶の眸で詩藍を見据える。
「あんたが一生、暮らしに困らないだけの
「生活の問題では、ありませんから。そうではなくて……わたしはどうしても、監察使にならねばならぬのです」
そう、詩鸞はなにも、暮らしの糧のために監察使になりたいわけではないのだ。どうしてもならなければならない、と、強く思うだけの大きな理由があった。
変わり果てた故郷の姿が脳裏にひらめく。
詩鸞は、きゅ、と、くちびるを引き結んだ。
「やはり……協力は、できかねます」
紫黒の眸で真っ直ぐに令雅を見返して、言った。
「お前な! 国の大事より、自分の個人的な事情を優先するのか!」
再び
「あのね……っ」
わたしの事情を何も知らないくせに、と、反論しかけたところで、令雅がさっと手を挙げて副官を制した。
「佑祥。個よりも国を優先すべきだというのは、俺たちが京城衛だからこその考え方だ。民の血税を糧にしている俺たちなら、その理屈も、通る。が、彼は、そうじゃない」
「ですが、将軍……っ」
まだ承服しかねるというふうに反論を続けかけた相手に、令雅は静かに
「国は民のためにいくらでも犠牲になるべきだが、その逆は本末顛倒だ。国のために民に犠牲を強いてはいけない、と……すくなくとも、それを当然のことだとしてはならないのだと、俺は公主である母に、そうきつく言い聞かされて育った。――国の中央に近い者であればあるほど、自らが進んで犠牲になることはあっても、民を捨て駒にすることは、あってはならない」
静かに
詩鸞は詩藍で、令雅の言葉に息を呑んでいた。
かつて、燃え盛る焔に消えた故郷を思う。あのとき詩鸞の
あのとき、先陣に立っていたのがもし、いま目の前にいるこの将軍だったならば廬の運命は変わっていただろうか、と、一瞬、詩鸞はそんな
「佑祥」
令雅が副官を呼ぶ声で、はっと現実に返る。
「おまえが国を心底憂えているのはわかっている。俺の身を案じてくれていることも、な」
眉を顰めて黙りこくった副官の肩を、令雅は目を細め、口許に笑みを刷きつつ、軽く叩いた。それから詩鸞のほうへ顔を向けると、こちらに対しては、ゆっくりと頭を下げる。
「改めて、詩鸞どのには、昨日の我が無体、非礼のことを、詫びさせてもらう。
令雅の申し出は、地方の出身で、京城にこれといった
「えっと……まさか、逗留の対価として、後で身体を差し出せとか……言いませんよね?」
ついついそんなことを言ってしまったのは、令雅の言葉が、うまい話し過ぎて不安だったというわけでは、ない。多分に、己の中に生じた居心地の悪さを誤魔化すための軽口みたいなものだった。
ぼそりとこぼしたこちらのつぶやきを聞き咎めた令雅は、一瞬きょとんと目を瞠り、それから、くく、と、喉を鳴らした。
「なるほど……その手があったか」
くつくつと笑う相手の言葉は、けれどもきっと、これも単なる
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます