三 呪詛と神託

 蓉香ようかと呼ばれた女性は、ひとたび部屋を出で行ったあと、ほどなくして茶器や菓子などを入れたはこを持って戻ってきた。


 彼女の手で、卓の上には、じつに手早く茶の用意が整えられていく。香り高い茶と、紅梅を象った繊細な菓子とが卓に並べられていく様を、詩鸞は黙って見守っていた。


 ちら、と、男のほうをうかがってみる。


 蓉香が詩鸞の前に茶の入った器を出し終えたところで、相手は自らの茶器を手に取って、ひと口それを呑んだ。


「なにから話すべきか」


 ほう、と、息をついた男が最初に言ったのは、そんな言葉だ。


 そんなことを言われても、こちらとしては、何もかもがわからない。詩鸞がむっと押し黙っていると、ふたりの間の微妙な空気を感じ取ったのか、蓉香が声をかけてきた。


「お客さまも、どうぞお召しになってくださいな。――こちらも、ぜひ……特別なお菓子ですのよ」


 穏やかな声に促され、詩鸞は茶器を取る。ちょうど良い温度で淹れられた茶は、香りも味も上品で、きっと随分と良いものなのだろうと思われた。


 卓に並んだ菓子もそうだ。特別なもの、と、蓉香は言ったが、一見して、まるで祝い事にでも供されるかのようなそれだった。京城衛将軍だというこの屋敷の主の水準の高い豊かな暮らしぶりが思われる。


 一瞬、妖魔の襲撃に遭って灰燼と帰し、その後、そのまま打ち捨てられて廃墟と化し、我が故郷の姿が脳裏に浮かんだ。詩鸞は知らず、眉根を寄せていた。


「非礼は、詫びよう」


 男が口を開いた。口にされたのは謝罪の言葉だ。どうも相手は、詩鸞がいま眉間ににじませた感情を、己の一連の礼を失する振る舞いに対する不快からくるものだと思ったようだった。


 そうではなかったが、それはそれで腹は立っているのも事実だ。だから詩鸞は敢えて訂正はせず、じろ、と、男を見た。


 腹立ち紛れに卓の上の菓子を乱暴に手づかみし、口の中へと放り込む。むぐむぐ、と、咀嚼そしゃくして呑み込み、いっそ行儀悪く、あおるように茶を呑んだ。


 とん、と、音を立てて茶器を置き、ふう、と、息を吐く。


 そんな詩鸞のあからさまな態度を見た男――おう令雅れいがは、わずかに目を瞠ると、それから、ふ、と、ちいさく苦笑した。


「すまなかった」


 深々と頭を下げてみせる。それなりの立場があるはずの人物のあまりにも素直な謝罪に、詩鸞はやや、面喰った。軍属とは、もっと、身勝手で冷酷な存在だと思っていた。


「ま、まったくです」


 それでも、詩鸞は意地を張るように、そう言い募る。


「将軍ともあろう御方が、か弱い庶民に、いきなりあんな破廉恥な真似……しかも廟堂の、ご神像の前でなんて。謝って済む問題ではないと思いますけどね!」


「なっ! お前はまた、将軍に向かってそんな口を!」


 再びいきり立って口を挟んだのは、佑祥ゆうしょうという青年士卒である。詩鸞と令雅とが卓について向かい合ってから、彼はしかめっつらを隠さぬまま、令雅の後ろに立っていた。


「佑祥、黙れ」


 令雅は溜め息とともに、青年をたしなめた。


「しかし、汪将軍。こいつは……」


 佑祥はまだ不満げに何かを言いかけたが、令雅はかぶりを振って、その言を押し止める。


「俺が彼に失礼を為した事実の前に、俺の地位などは関係ない。詫びて当然のことをしたのは俺のほうだし、詫びを受けたうえで、許す許さないは彼の判断だ。彼の気持ちは、こちらがどうこうと口を挟めることではない」


 冷静な語り口で言う相手は、とてもではないが、初対面の相手にいきなり接吻などという無体を働くような人間には思えなかった。


 またしても意外な思いが湧いてくるとともに、詩鸞の中の怒りはすこしだけしぼんでいた。それに反比例するかのように、廟堂での行動には何かのっぴきならぬ理由があったのかもしれない、と、そんな気持ちがふくらんでくる。


「あ、の……」


 躊躇ためらいつつ声を上げると、橙まじりの茶金の眸が詩鸞を見た。


「ああ、すまない。自己紹介もまだったな。――俺は、汪令雅という。昨秋より、京城きょうじょうえい将軍の任を陛下から拝命している。で、後ろにいるこれは、佑祥ゆうしょう。俺の副官だ。そちらは蓉香ようか。俺の乳母めのとで、親子ともども、長く我がおう家に仕えてくれている」


 令雅は己の名や身分を明かすとともに、その場にいる他の人物たちを紹介した。それでも佑祥はむすっとしてそっぽを向いたままだったが、蓉香のほうはそっと笑んで、ちいさく詩鸞に目礼をくれた。


 礼には礼を返さねば、と、詩鸞も蓉香には軽く頭を下げる。


詩鸞しらんです。しん利陶りとうの」


 詩鸞が名乗ると、令雅はちらりと片眉を上げた。


「利陶……国の、東の外れだな」


「悪かったですね。どうせ田舎者ですよ」


 詩鸞が反射的にむっとして返すと、令雅は首を横に振った。


「そんなつもりで言ったんじゃない。気を悪くしたなら謝る」


 今度もまた素直に詫びの言葉を口にした。


 そんなふうにされると、いちいち突っ掛るような物言いをした己のほうが悪いことをしているような気になってくるではないか。詩鸞は、こほん、と、軽く咳払いをして、茶をひと口含み、令雅を見た。


「それで? 話したいことって、何なんですか? さっき神託とか言ってましたけど。あとついでに、先の無体の理由わけも説明していただきたいです」


「ああ、そうだった。――単刀直入に言う」


 令雅は茶金の眸を、真っ直ぐに詩鸞に向けた。


「あんたに、俺と、まぐわってもらえないかと……協力してもらえないか?」


「ま……まぐわっ……!?」


 令雅の発したあまりの言葉に、詩鸞は目を白黒させた。


 まぐわうとは、あのまぐわうか。交合、交接、交歓。性交、情交。同衾、閨事。なんでもいいが、あの、いわゆる、まぐわいだろうか。


「なっ、あ、あなた、いったい、何を……っ! いきなり口づけしただけでは飽き足らず、まぐわいだなんて……破廉恥なっ!」


 詩鸞はわなわなとふるえつつ、頬を真っ赤に染めて言う。対する令雅は冷静そのもので、じっとこちらを見据える眸は真剣だった。


「無理は承知で頼んでいる」


 そう言う相手は、すくなくとも、冗談を言ったり、詩鸞をからかったりしているというわけではないようだ。そのことは、令雅の真摯しんしな表情から、わかる。


 だが、だからといって、はいそうですか、ではさっそく致しましょう、と、うべなえるはずもない話だった。


「その、とりあえず申し上げておきますが……わたしは、男ですけれど」


 頬を染めたままで、ぼそぼそ、と、言うと、令雅はちいさく苦笑する。


「そのようだ。それについては、俺も予想外だった」


「は?」


 相手の口にすることは、いちいち、わけがわからない。しかしどうやら、令雅が廟堂で詩鸞を見初めて我を忘れて求愛しているだとか、そうした色恋めいた話というのではないようだった。


「あの、最初から……説明していただけます?」


 何がどうして己とまぐわえなどというとんでもない要求が出てくるのか。何やら事情があるようではあったが、順を追って話してくれなければ、どう動くことも出来ないではないか。


 詩鸞が求めると、令雅は、うん、と、ひとつ、うなるような声を出す。


「何から話せばいいか……とりあえず、あんた、京城衛の仕事を知っているか?」


 問われて詩鸞は、こく、と、うなずく。


「京城の警備、ですよね」


「そうだ。京城内の治安維持なんかは皇宮こうぐうの役人があたるから、俺たち京城衛が担う職務は、主に妖魔への対応になる」


 人間が暮らす場所はすべからく郭壁に囲まれており、その行動範囲は――すくなくとも地上ということで言うなら――郭壁のまわりのわずかな地域のみだった。


 その周囲、森の中には妖魔がいる。そして、特にこれが多いとされるのが、辺境といわれる国の端の地域と、そしてなぜか、中央、すなわち京城の付近なのだった。


 どこからともなく湧き出た妖魔は、時に人馬を襲い、土地を荒す。嵐や火災、疫病など、諸々の禍をもたらすこともある。


 妖魔を退治することが出来るのは、特殊な訓練を受け、神気じんきと称される精力しょうりきを体内で練って武器に込めることが出来る者たちだけだった。そうした精鋭部隊のひとつ、かつ、国内最強と言っても過言ではない組織が、京城を守護する京城衛なのだった。


 その京城衛の将軍が、いま、詩鸞の目の前にいる。


「いまから半月ほど前のことだ」


 令雅はそう、口を開いた。


「ここ瑛洛えいらくの東の森に、太風たいふうと呼ばれる妖魔が出た」


「太風……?」


 それは詩鸞には聞き覚えのない名称だった。詩鸞とて、監察使の資格を得るための試験に臨む身である。妖魔の出没について監視するのもその職務のひとつだったから、妖魔の種類についても、それなりに勉学を重ねてきたつもりだった。その詩鸞が知らないということは、頻繁に現れる類の妖魔ではないのかもしれない。


「東方にある青丘の沢にむという、伝説の妖魔、だそうだ。というか、伝承にしか記されていないような存在で、いったいどういうものなのか、ろくにわからないというのが実情なんだが……破壊をもたらす怪鳥なんだという」


「怪、鳥……ですか」


 とう国においては、鳥の姿をしたものというのは、総じて霊威が高いと信じられていた。神や、神の使いはすべて、鳥の姿をしている。妖魔であっても鳥形のものであるなら、それだけ力の強い、兇悪な存在であることが想像された。


「太風の目覚めに最初に気がついたのは、京城周辺の森に巡察に出ていた俺の部下と、監察使だった。が、なにしろ太風は、文献にしか出てこないような伝説上の知見しかない存在だ。人間の手に負えるような存在なのかどうかもわからんし、下手に刺激しない方がいいかもしれん。それで、もうしばらく様子を探ってみることになった。引き続き、部下と監察使とがその任にあたることになって、森へ戻ったんだが……」


「その方々は、その後……?」


 なんとなく嫌な予感を覚えつつ、詩鸞は恐る恐る訊ねる。令雅はちいさく眉根を寄せ、くちびるを引き締めた。


 黙り込んでしまった令雅に代わって答えたのは、彼の副官だという佑祥だった。


「戻らなかったんだよ。というか、戻ったのは、斬り傷を負った乗騎の霊鳥だけだったんだ。背中には、すでに息絶えた兵卒を乗せていた。監察使のほうは、いまだに消息不明のままだ」


 詩鸞は言葉を失う。話を聞く限り、監察使のほうもまた、とても無事でいるとは思えなかった。なにしろ妖魔のうろつく森で消息を絶ち、そのままになっているのだ。令雅や佑祥が見せる痛ましげな表情の意味は、あらためて問うまでもなかった。


「そうこうするうちに、城郭の東に怪鳥が姿を見せた」


 佑祥が言葉を継いだ。


「京城衛は、汪将軍を主軸に、太風を迎え撃った。けど……」


 そこで口籠った佑祥の言葉を、令雅が受ける。


「不甲斐ないことに、俺たちは、太風にとどめを刺すことが出来なかった。取り逃がしたんだ。そして、俺のこの痣は……」


 令雅は言って、卓の上に己の腕を乗せると、二の腕あたりまで短袍の筒袖をめくりあげた。あらわになった逞しい腕には、ゆがんだ鎖紋様が、這いずりまわるように伸びている。着物で覆われていて定かではないが、もしかしたら、その痣は令雅のほぼ全身に及んでいるのかもしれなかった。


「皇宮の神廟に仕える祭祀が言うには、これは呪詛ずそのようなもの、らしい。俺は太風を斬り、そのときに、やつの返り血を浴びた。おそらくそのせいでこうなったのだろう、と」


「呪詛、ですか」


「ああ。太風の血には破壊の力が宿るとか。――以来、俺は、神気じんきを練ることができない。いや、正確に言うと、練ると反動のように、この痣が瘴気しょうきを発するんだ。まあ、それが俺の身をむしばむだけならいいんだが、その強烈な邪気は、周囲の草木は枯らすし、生き物をも害してしまう。だが、それを気にして神気を練らなければ、鳥も操れないし、妖魔も倒せない。京城衛としての務めが果たせないというわけだ」


 令雅はちいさく嘆息して言った。


 その後ろでは、佑祥が口惜しそうにてのひらを握りしめている。


「それは……お困りでしょうね」


 ふたりの見せる深刻な様子に同情して詩鸞は言う。すると令雅は、金茶の眸をこちらへと向け直した。


「そこで、あんただ」


「はい?」


「俺とまぐわってもらえないか」


「っ、だから……なんでいきなりそうなるんですかっ?!」


 再び飛躍した話に詩鸞は声を荒らげる。だが、令雅はそれにひるむことなく、じっと詩鸞を見詰め続けていた。


「旦那さまは、神託をお受けになったのですって」


 蓉香がこちらの茶器に茶を注ぎ足してくれながら、令雅の言葉足らずをそう補った。


「神託……?」


 皇宮の神廟には鳳凰を祀る祭祀官が奉仕しているが、その祭祀は時に、神たる鳳凰の託宣を聞くことがあるという。それのことだろうか。


「昨日のあの刻限、京城の北の廟堂に現れる、青銀の尾髪と紫黒色の眸の者。その者とまぐわえ、と、鳳凰がそう告げたらしい。――それで俺は、昨日、あそこであんたを待っていたんだが」


「まぐっ、まぐわうって、なんで、そんな……!」


 詩鸞は再び頬を染める。


 鳥の中の鳥、翼ある者の王とされる最高神の鳳凰が、そんな破廉恥な神託をするだなんて、にわかには信じ難かった。


「鳳凰は、鳳が雄、凰が雌……雌雄が合一した姿であり、陰陽いんよう和合わごうの象徴だ。まぐわえというのも、別にさほど、おかしくはないんじゃないか?」


「そ、それは、そう、かもしれませんが……いえ、そう、ですか……?」


 令雅の言うことは一理あるようでもあり、しかし一方で、なんだかうまく言いくるめられているような気もする。詩藍はもごもごと口にしつつ、そのまま何となくうつむいてしまった。


 自分と交合してほしい、鳳凰のお告げだから、と、そんなことを言われても困る。だいたい、それで本当に呪詛が何とかなるものなのだろうか。


 神廟の祭祀が授かったという神託を疑うわけではないけれども、詩鸞にとって、どうしたって、はいわかりました、協力します、と、簡単に言ってしまえるような内容ではなかった。


「……あなたはそれで……あのとき、いきなりわたしに口づけを……?」


 おずおずと訊ねると、令雅は一瞬、困ったような表情をみせた。


「あれは……ほんとうに、悪かったと思っている。俺としても、あんたの協力は欲しかったが、いきなりあんなことをするつもりなど毛頭なかったんだ……だが、なぜか、気付いたらあんたに接吻していた。衝動が止められなかった。――あのとき、神像の前にいたあんたが、ひどくきれいに見えたからかな。ああせずには、いられなかった」


「なっ、なっ、きれいって、あなた、何を言って……!」


 そんな言葉にほだされてなどやるものか、と、詩鸞は耳まで赤く染めつつ、くちびるをわななかせた。


「無体の言い訳をするわけではないんだが……実際、あれは鳳凰のお導きだったのかもしれないと、俺は思ってる。実際あの接吻で、俺の呪詛があんたに移って、そのまま浄化された」


「あ、のときの……ほととぎす……?」


 いきなり令雅に口づけされた後、己の身体から湧き立つように生じては飛んでいった鳥の姿に思い至る。そうだ、と、令雅は口許にちいさな笑みを刷いてうなずいた。


「呪詛を受けて以来、濃くなりこそすれ、痣が薄くなったのなんてはじめてだった。神託の相手は、あんたで間違いないんだと思う。――で?」


「……で、とは?」


「俺としては、あんたが神託に従って、俺とまぐわうことを了承してくれるとありがたいんだが」


 橙まじりの金茶の眸を細め、すこし首を傾けて、うかがう調子で令雅が言った。


 ひと房だけ赤い前髪がゆるりとゆれる。痣の浮いた腕がこちらへと伸びてくる。


「っ」

 詩鸞は思わず身を引いていた。


 事情は理解した。理由のない無体ではなかったこともわかった。


 が、かといってやはり、はいそうですか、ではやりましょう、と、そうはならない。なるわけがない。


「む、むりです! 謹んでお断わりいたします! どうぞ他を当たってください!」


 詩鸞はぶんぶんと首を横に振っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る