二 将軍の屋敷

 目の前が真っ赤に燃えていた。


 夜空を舐める巨大な赤い舌のようなほのおを前に、詩鸞は血を吐かんばかりに泣いていた。


 あの赤は、詩鸞の大切な場所を、ものを、人を、全て呑み込み蹂躙じゅうりんしながら燃え盛っているのだ。それがわかっているのに、ただ声を上げて泣くことしかできない。


 それほどに、詩鸞はまだ幼かった。


 ああ、これは夢だ、と、おもう。


 故郷が灰燼かいじんに帰した日の夢だ。


 音はない。


 匂いもない。


 感触もなにもない。


 その中で、ただ、兇悪な焔だけがひどく鮮やかなのだった。


 もう見たくないと思うのに、夢は終わってはくれなかった。いつだってそうだ。だから詩鸞は知っている。次に自分の目の前に現れるのは――……巨大な鳥の影なのだ。


 はたして、泣き続けて声もれた頃、それは詩鸞の前に姿を見せた。


 焔の赤よりも赤い、禍々しいほどにうつくしい鳥である。けれどもその身体には、憐れにも、無数の矢が突き刺さっているのだった。巨鳥は血にまみれていた。


 鳥は、目をみはる詩鸞の前にしずかにたたずむと、カァアァン、と、高く澄んだ声でひと声、啼いた。


 その音だけは、無音の夢の中で、不思議とあたりに響き渡る。


 そして鳥は、そのくちばしから血を吐いた。その刹那、自分の視野が真っ赤に染まり、身体がひどく熱くなったと思ったのは、詩鸞がその血を浴びたからだったのかもしれなかった。



「ん、う……」


 小さくうめいて、詩鸞はまぶたをふるわせた。


 ゆっくりとそれを持ち上げる。目覚めの気分はあまり良くはなかった。久しぶりに見た夢のせいだ。


 眉をひそめた詩鸞の視界に入ってきたのは、見慣れたものとはまるで違う天井である。


 ここはどこだ、と、思う。自分はどうしたのだっけ、と、思う。


 ゆっくりと身体を起こして周りを見回してみて、どうやら自分は、いまこの瞬間まで、見知らぬ寝室の豪奢ごうしゃな寝台の上で眠って――あるいは気を失って――いたらしいことだけを理解した。


 そして、はっと思い出す。


 京城へついて早々、そういえば、とんでもない目に遭ったのだ。誰かもわからない相手に、神像の前で、いきなり口づけられた。こちらの口中に忍び込んだ舌の感触が生々しく蘇ってきて、詩鸞は頬がかっと熱くなるのを感じた。


 半分は羞恥からだ。


 そして、もう半分は怒りからだった。


「なんだったんだ、あいつは、いきなり……っ!」


 そう独り言ちたときだった。きぃ、と、小さな音を立てて、部屋の入り口の扉が開いた。


 はっと息を呑み、反射的に身構えてそちらを見ると、入ってきたのは小柄な女性である。彼女はすぐに詩鸞が寝台の上に身を起こしているのをみとめて、あ、と、声を上げて、大きな眸を瞬いた。


「お目覚めになったのね。よかったわ」


 ほう、と、息をつくように言うと、そのまま詩鸞のほうへと近づいてきた。


「ご気分はいかがかしら? あなたね、丸一日くらい眠っていらしたのよ。旦那さまも、それはそれは、ご心配なさっていて……あ、そうだわ! 旦那さま! 旦那さまにもお客さまのお目覚めをお知らせしないと……!」


 そう言ってきびすを返そうとする相手を、詩鸞は慌てて引き留めた。


「ちょ、ちょっと待ってください! あの……ここは、何処どこなのでしょう? わたしはいったい……」


 いまにも部屋を出て行ってしまいそうだった相手を呼び止め、目に困惑をいっぱいに浮かべた詩鸞は、すがるように彼女に問うた。そんな詩鸞の眼差しを受けて、女性は、ぱちぱち、と、目を瞬いた。


「ああ、そうよね。それは混乱しますわよね。すみません、私ったら……」


 ちら、と、苦笑すると、ちいさく肩を竦めた。


「ここはおう令雅れいがさま……京城きょうじょうえい将軍の、お屋敷にございます」


「京城、衛……将軍……?」


 詩鸞はぽかんとした。


 京城衛といえば、京城みやこである瑛洛えいらくの警備全般を司る組織である。その職務の最たるものは、主に京城を襲う妖魔討伐だったはずだ。


 皇帝の在所である京城・瑛洛と、その周辺を襲う妖魔の害に対応すること――……そのために組織された、少数精鋭の部隊。


 京城衛に所属する兵卒は、みな、普通の兵卒に倍する実力を持つ、選び抜かれた精鋭だといわれていた。将軍といえば、その部隊のおさではないか。東の辺境出身の、ごくごく普通のいち庶民に過ぎない詩鸞からしてみたら、まったくもって、雲の上の人物だった。


 そんなお偉方の屋敷になぜ自分などが、と、ますます困惑を深めたところに、不意に、再び扉が開く音が聞こえてきた。


 詩鸞はそちらを見る。


 そして、息を呑んで、目を見開いた。


「あ、なたは……」


 今度入ってきたのはしなやかに引き締まった体躯の、長身の男だった。


 浅黒い肌、どこか猛禽類を思わせるだいだいまじりの茶金の眸。焦げ茶色の髪にまじった、前髪の一房の燃えるような赤。そしてなにより、頬や首、腕など、見える限りに広がっている、鎖のような赤黒い痣。


「あ、のときの……破廉恥男っ!」


 詩鸞は思わず相手を指さしてそう声を荒らげていた。


「なっ、貴様……! 将軍に向かって何という口をきくんだ!」


 詩鸞の言葉を受けてそう抗議したのは、男の背に付き従うように入室してきたもうひとりの青年である。こちらもどうやら兵卒のようで、男と同じような短袍に身を包み、腰には剣を提げていた。


 彼は男を追い越すようにして部屋へ入ると、足音も高く、つかつかと詩鸞のいる寝台へ近づいてくる。そのまま、目を怒らせて、仁王立ちの恰好になった。


「貴様、こちらの御方を誰だと思っているんだ!? 去年、最年少の二十歳はたちで京城衛の将軍に就任された、京城の守りのかなめおう令雅れいがさまだぞ!」


「は!? そんなの知りませんよ! 破廉恥男に破廉恥男と言って何がいけないんですか! いきなり人に口づけするなんて……」


 売り言葉に買い言葉のようにそこまで言って、詩鸞は目の前の青年を、き、と、鋭く睨みつけた。しかしその後で、はた、と、言葉を失う。


「……って、京城衛、将軍……? そこの、ひとが……?」


 信じられない思いで、扉のところにたたずんだままの男を見る。男は肯定も否定もせず、ただすこしだけ苦笑するふうをみせて、詩鸞に眼差しを送っていた。


「そうだ。わかったらまず、貴様は将軍への非礼を詫びろ」


 目前の青年は、不愉快げに鼻頭に皺を寄せつつ、ふんぞり返るようにして言った。


「は? 非礼を詫びるというなら、まずはあっちがさきでしょうが!」


 男の態度と言い方に腹が立って、詩鸞はまた扉のところの男を指さした。


 男をじっと見る。


 男もまた、真っ直ぐに詩鸞を見据えていた。


 が、やがて、ひとつわずかに息を吐くと、部屋の中へとゆっくり足を踏み入れてきた。そのまま歩んで、中央の、丸いつくえが据えられた位置で立ち止まると、そこから再び、詩鸞へと静かな眼差しを向けた。


「気分はどうだ? 起きられるならここへ来て、茶でも飲まないか。――昨日の非礼なら詫びる。俺は、あんたと話がしたい」


 とんとん、と、軽く卓を叩くようにしながら言われる。


 どういうつもりだ、と、詩鸞は相手に警戒の視線を向けた。


「おい、将軍の誘いだぞ。早くしないか」


 隣で青年がまたわめいた。


佑祥ゆうしょう、ちょっとうるさいわよ、あなた。旦那さまのお客人に対して、失礼なのはあなたのほうじゃないの」


 呆れたようにとがめたのは、最初に部屋にやってきた女性である。佑祥と呼ばれた青年が、指摘され、う、と、言葉に詰まったところで、彼女は詩鸞に向けてしずかに微笑んだ。


「ごめんなさいね、この人、うるさくて。お客さまは、おなかは空いていらっしゃらないかしら? お菓子もご用意いたしますから、よかったら卓へお付きになってくださいな。さ」


 穏やかに促され、詩鸞は戸惑い、迷ったすえに、結局は寝台を降りることにした。いつまでも寝台の上で籠城を決め込んでいたって、事態は変わらないだろう。


 恐る恐るというていで、卓の傍、汪令雅という名らしい相手のほうへとへと近づいていく。こちらを待ちかまえていた男は、丁寧な仕草で椅子を引き、詩鸞をそこへ掛けさせた。自分は向かいの席に座る。


蓉香ようか、茶を」


 女性に短く命じ、応じた彼女が部屋を出ていくと、ほう、と、またひとつ吐息して、改めて詩鸞へと視線を向けた。


「非礼は詫びる。が、あんたは神託の相手……俺には、あんたの協力が必要なんだ」


 男はそんなことを口にした。

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