二 将軍の屋敷
目の前が真っ赤に燃えていた。
夜空を舐める巨大な赤い舌のような
あの赤は、詩鸞の大切な場所を、ものを、人を、全て呑み込み
それほどに、詩鸞はまだ幼かった。
ああ、これは夢だ、と、おもう。
故郷が
音はない。
匂いもない。
感触もなにもない。
その中で、ただ、兇悪な焔だけがひどく鮮やかなのだった。
もう見たくないと思うのに、夢は終わってはくれなかった。いつだってそうだ。だから詩鸞は知っている。次に自分の目の前に現れるのは――……巨大な鳥の影なのだ。
はたして、泣き続けて声も
焔の赤よりも赤い、禍々しいほどにうつくしい鳥である。けれどもその身体には、憐れにも、無数の矢が突き刺さっているのだった。巨鳥は血に
鳥は、目を
その音だけは、無音の夢の中で、不思議とあたりに響き渡る。
そして鳥は、その
*
「ん、う……」
小さく
ゆっくりとそれを持ち上げる。目覚めの気分はあまり良くはなかった。久しぶりに見た夢のせいだ。
眉をひそめた詩鸞の視界に入ってきたのは、見慣れたものとはまるで違う天井である。
ここはどこだ、と、思う。自分はどうしたのだっけ、と、思う。
ゆっくりと身体を起こして周りを見回してみて、どうやら自分は、いまこの瞬間まで、見知らぬ寝室の
そして、はっと思い出す。
京城へついて早々、そういえば、とんでもない目に遭ったのだ。誰かもわからない相手に、神像の前で、いきなり口づけられた。こちらの口中に忍び込んだ舌の感触が生々しく蘇ってきて、詩鸞は頬がかっと熱くなるのを感じた。
半分は羞恥からだ。
そして、もう半分は怒りからだった。
「なんだったんだ、あいつは、いきなり……っ!」
そう独り言ちたときだった。きぃ、と、小さな音を立てて、部屋の入り口の扉が開いた。
はっと息を呑み、反射的に身構えてそちらを見ると、入ってきたのは小柄な女性である。彼女はすぐに詩鸞が寝台の上に身を起こしているのをみとめて、あ、と、声を上げて、大きな眸を瞬いた。
「お目覚めになったのね。よかったわ」
ほう、と、息をつくように言うと、そのまま詩鸞のほうへと近づいてきた。
「ご気分はいかがかしら? あなたね、丸一日くらい眠っていらしたのよ。旦那さまも、それはそれは、ご心配なさっていて……あ、そうだわ! 旦那さま! 旦那さまにもお客さまのお目覚めをお知らせしないと……!」
そう言って
「ちょ、ちょっと待ってください! あの……ここは、
いまにも部屋を出て行ってしまいそうだった相手を呼び止め、目に困惑をいっぱいに浮かべた詩鸞は、
「ああ、そうよね。それは混乱しますわよね。すみません、私ったら……」
ちら、と、苦笑すると、ちいさく肩を竦めた。
「ここは
「京城、衛……将軍……?」
詩鸞はぽかんとした。
京城衛といえば、
皇帝の在所である京城・瑛洛と、その周辺を襲う妖魔の害に対応すること――……そのために組織された、少数精鋭の部隊。
京城衛に所属する兵卒は、みな、普通の兵卒に倍する実力を持つ、選び抜かれた精鋭だといわれていた。将軍といえば、その部隊の
そんなお偉方の屋敷になぜ自分などが、と、ますます困惑を深めたところに、不意に、再び扉が開く音が聞こえてきた。
詩鸞はそちらを見る。
そして、息を呑んで、目を見開いた。
「あ、なたは……」
今度入ってきたのはしなやかに引き締まった体躯の、長身の男だった。
浅黒い肌、どこか猛禽類を思わせる
「あ、のときの……破廉恥男っ!」
詩鸞は思わず相手を指さしてそう声を荒らげていた。
「なっ、貴様……! 将軍に向かって何という口をきくんだ!」
詩鸞の言葉を受けてそう抗議したのは、男の背に付き従うように入室してきたもうひとりの青年である。こちらもどうやら兵卒のようで、男と同じような短袍に身を包み、腰には剣を提げていた。
彼は男を追い越すようにして部屋へ入ると、足音も高く、つかつかと詩鸞のいる寝台へ近づいてくる。そのまま、目を怒らせて、仁王立ちの恰好になった。
「貴様、こちらの御方を誰だと思っているんだ!? 去年、最年少の
「は!? そんなの知りませんよ! 破廉恥男に破廉恥男と言って何がいけないんですか! いきなり人に口づけするなんて……」
売り言葉に買い言葉のようにそこまで言って、詩鸞は目の前の青年を、き、と、鋭く睨みつけた。しかしその後で、はた、と、言葉を失う。
「……って、京城衛、将軍……? そこの、ひとが……?」
信じられない思いで、扉のところに
「そうだ。わかったらまず、貴様は将軍への非礼を詫びろ」
目前の青年は、不愉快げに鼻頭に皺を寄せつつ、ふんぞり返るようにして言った。
「は? 非礼を詫びるというなら、まずはあっちがさきでしょうが!」
男の態度と言い方に腹が立って、詩鸞はまた扉のところの男を指さした。
男をじっと見る。
男もまた、真っ直ぐに詩鸞を見据えていた。
が、やがて、ひとつわずかに息を吐くと、部屋の中へとゆっくり足を踏み入れてきた。そのまま歩んで、中央の、丸い
「気分はどうだ? 起きられるならここへ来て、茶でも飲まないか。――昨日の非礼なら詫びる。俺は、あんたと話がしたい」
とんとん、と、軽く卓を叩くようにしながら言われる。
どういうつもりだ、と、詩鸞は相手に警戒の視線を向けた。
「おい、将軍の誘いだぞ。早くしないか」
隣で青年がまた
「
呆れたように
「ごめんなさいね、この人、うるさくて。お客さまは、おなかは空いていらっしゃらないかしら? お菓子もご用意いたしますから、よかったら卓へお付きになってくださいな。さ」
穏やかに促され、詩鸞は戸惑い、迷ったすえに、結局は寝台を降りることにした。いつまでも寝台の上で籠城を決め込んでいたって、事態は変わらないだろう。
恐る恐るという
「
女性に短く命じ、応じた彼女が部屋を出ていくと、ほう、と、またひとつ吐息して、改めて詩鸞へと視線を向けた。
「非礼は詫びる。が、あんたは神託の相手……俺には、あんたの協力が必要なんだ」
男はそんなことを口にした。
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