一 出逢い

 詩鸞しらんの乗った鳥船は、郭壁かくへきに囲まれた京城きょうじょう瑛洛えいらくまちうち、北の一角にある広場に到着した。船を降りた詩鸞は、うん、と、ひとつ伸びをする。


「さて、と……まずは鳥の王へのご挨拶かな」


 独りちつつ、ぐるりとあたりを見回してみると、すぐに目当ての建物を見つけることが出来た。


 白木の柱に瑠璃るり色に輝く瓦を戴いているのが廟堂である。鳥の中の鳥、羽あるすべての生き物の王たる鳳凰ほうおうを、神としてまつっていた。


 郭壁の中に閉じ込められたような暮らしをする人々にとって、大空を自由に旅する鳥は、憧れとともに尊崇の対象でもあった。


 身近にあって、うつくしいさえずりを聞かせたり、愛らしい姿を見せて心慰めてくれたりする鳥も、そう。あるいは、大空を悠々と飛び、ときに獲物めがけて俊敏に風を切る凛々しい鳥たちも、そう。


 だが、人々が鳥たちを敬う理由として、霊鳥と呼ばれる特別な鳥の存在もまた、大きなものだった。


 郭壁の外側に広がる森の中で生まれるとされる、巨大な体躯を誇る鳥が霊鳥だ。


 賢く、情が深く、よく人に馴れる。この霊威ある鳥たちが、鳥船として人々を運んだり、鳥行ちょうこう――兵卒や監察使――の乗騎となったりと、人々と共に生き、様々に人々に温恵をもたらしていた。


 その霊鳥の中でも最も尊崇されるのが鳳凰なのである。雌雄同体、生と死とを司る、この国の最高神でもあった。


 悠久を生きるとされるこの霊鳥は――もはや神鳥といってもいいかもしれないが――皇宮のうちで、常に皇帝に依り添っているといわれていた。


 皇宮にある廟堂では、この偉大なる霊鳥を、祭祀官が神としてまつってもいる。そして、それにならうようにして、各まち、各むら、およそ郭壁の内側には、必ず鳳凰を祀る廟堂が――規模の大小の差こそあれ――存在しているのである。


 無事に京城までの旅を終えられたいま、まずは空の旅を加護してくれたことへの感謝の祈りを、鳳凰に捧げなければならないだろう。そう思った詩鸞は、鮮やかな青の瓦の建物へと近づいていった。


 さすが京城の廟だけあって、入り口にそびえる門は立派だ。神廟という扁額へんがくが懸かった門を越えて、中庭を真っ直ぐに抜けていく。短いきざはしを上ると、扉が開け放たれた建物の奥では、蝋燭ろうそくほのおがかすかに揺れていた。


 中央の祭壇に鳳凰像が祀られている。神秘的で、厳かな雰囲気だった。


 詩鸞は廟堂の中へゆっくりと足を踏み入れると、神像の前へと歩を進めた。


 いま、鳳凰像の前には先客がある。


 恰好からして兵卒だろうか。筒袖つつそでの、いかにも動きやすそうなほうまとい、腰には長剣を提げている。年齢としはまだわかく、詩鸞とさほどかわらないように見えた。しなやかに引き締まった体躯をした男だ。


 詩鸞はつい、ちら、と、男のほうをうかがい見てしまっていた。いったいどんなつもりなのか、彼が神像を前にしてひざまずくでもなく、ただただ真っ直ぐに突っ立っていたからだ。


 ずいぶんと不敬だな、と、詩鸞は男の態度をいぶかった。軍属とはこういうものか、と、ついつい偏見まじりに眉をひそめたそのとき、男が不意に、詩鸞に一瞥いちべつをくれた。


 詩鸞ははっと息を呑む。


 男のひとみの色は、暗くてよく見えなかった。が、どうも、だいだいがかった茶金のようである。こちらを見据えた鋭い眼差しは、まるで、猛禽類を思わせる鋭いものだった。


 なぜかじっと見詰められて、詩鸞は一瞬、ひるんでしまった。


「な、なんですか」


 実は先んじて男を見ていたのは自分のほうだったのだが、それを棚に上げて、声に警戒をにじませる。


 男は答えなかった。しかし、まるで何か確かめでもするかのように、まだじっと詩鸞に眼差しを送っていた。


 そんな男の視線と、刹那、こちらの視線がかちあってしまう。詩鸞は慌てて相手から目を逸らした。そのまま、その場を取りつくろい、誤魔化すかのように、鳳凰像の前にひざまずいた。


 なんとなく居た堪れないきもちがする。竦むような怖さをも覚えて、こうなったら――神たる鳳凰には申し訳ないけれども――早いところ祈りを済ませ、さっさとこの場を去ってしまおう、と、そう思った。


 そして、作法に則って三度拝礼し、顔を上げたときである。


「――あんた、か……?」


 そんなつぶやきが聴こえた。


「え……?」


 詩鸞は思わず声のしたほうを見る。そして再び、息を呑んだ。


 男は、いまもなお、詩鸞のほうを見据え続けたままでいた。もしかすると、詩鸞が拝礼している間も、ずっとそうだったのだろうか。真っ直ぐな眼差しがこちらへと向けられている。


 詩鸞は戸惑った。


「あ、の……わたしに、なに、か……?」


 用でもあるのだろうか。京城に知り合いはいなかったはずだが、と、困惑しつつ問うてみると、けれども男は無言で、そのくせ、つかつかと詩鸞のほうへ歩み寄ってきた。


 焦げ茶色の髪の中に、ひと房だけまじった、燃え立つような赤の前髪が揺れる。


 鋭い眼差しをこちらへ据えたまま、男は詩鸞との距離を詰めた。それに恐怖を覚えた詩鸞は、反射的に、身を引こうとした。


 だが、一拍、間に合わない。


「あんたか」


 男はもう一度、そう言った。今度は、やや、確信をふくんだ声音だった。そして、詩鸞のほうへ、素早くその逞しい腕を伸ばしてきたのだ。


 まさに立ち上がりかけていた詩鸞の二の腕のあたりを、がし、と、大きなてのひらがつかんでいる。


「あんただな」


 男はまた言った。


 しかし、詩鸞には、男が何のことをいうのか、まるでわからなかった。


「えぇっと……」


 戸惑って声をあげかけた刹那、詩鸞はぎょっと息を呑んだ。


 もちろん、男がとっている唐突な行動に戸惑ったからというのもある。が、同時に、自分に触れている男の腕の、異様ともいえる有様ありさまにも仰天していた。


「あ……」


 陽に焼けたその腕には、まるで太い鎖が絡みついたかのような赤黒い紋様がのたうっている。


 否、紋様というほどにそれは整ってはおらず、どこかいびつだった。あざといったほうが近いかもしれない。


 それが、見えている肌の全体に広がっているのである。


 はっとして男の顔を見上げ、詩鸞はさらに言葉を失った。


 先程は暗さで気付かなかったものの、男の身体の痣は、首筋にも、顎から頬にかけたあたりにまで、及んでいたからだ。その姿は、どこか痛ましい印象をすら抱かせるものだった。


 思わず竦んだように動きをとめていると、男はもう一方の手を伸ばし、詩鸞の前髪をすくった。ちょうど、青銀のひと房がまじるあたりである。


 かと思うと、今度は折り曲げた人差し指の背で、詩鸞の目許を軽く撫でた。


「青銀の尾髪に、紫黒色の眸」


 そう、独りちる。


「あの……わたしが、なにか」


 さっきからいったいなんなのだ、と、詩鸞は眉をひそめた。


 その瞬間、男のてのひらが詩鸞の後頭部にまわり、ぐ、と、頭を固定されている。


「え……?」


 男の、精悍でありつつも不思議に気品を感じさせる端整な顔が、ずい、と、詩鸞に近づいてきた。


 抵抗する間など、ありはしない。


 気づけば詩鸞は、男に口づけられていた。


「……んっ……んん、ん、ぅ」


 肩の付近を掴む手、頭の後ろに添えられた手に力が籠り、くちづけが深くなる。詩鸞は、驚愕に一瞬大きく瞠った目を、思わずのように、ぎゅっと瞑っていた。


 呼吸を奪うような接吻に、息苦しさのあまり、薄くくちびるをひらいてしまう。すると、歯列を割って、ぬる、と、男の舌が無遠慮に口中へと忍び込んだ。


 くちびるはさらに深く重なる。


 身体の奥に、覚えのない熱が点る。


「ん、ぅ、うん、んっ」


 そうやって、神像の前で、どれだけくちびるを貪られていただろうか。男の強引な口づけから解放されたときには、詩鸞の呼吸はすっかり乱れてしまっていた。


「ちょっ……いったい、なにを……っ!?」


 目を怒らせて相手を睨み据え、けれども詩鸞の言葉は、そこで途切れた。


 男の頬のあたりや首にある痣が、先程より、明らかに薄くなっていた。まだこちらの身体を掴んだままでいる相手の腕をたしかめるように見てみると、そこにある痣もまた、同様に、色を薄めている。


「ど、うし、て……?」


 詩鸞は、自分でも何を訊ねたいのかわからないまま、そうつぶやいていた。


 そして、はっとする。


 男のごつごつしたてのひらに重なった、己の白い手。そのてのひらに、いま、すみ色の痣が浮かんでいた。


「え……なに、これ……?」


 まったくもってわけのわからない事態に、詩鸞が声をふるわせたときだった。たなごころに浮かんだ痣から、まるでじんわりと空気に融け出すかのように、もやのようなものが立ちのぼりはじめる。ゆらゆらとくゆるそれは、見る間にこごって、やがて一羽のちいさな鳥の姿となった。


ほととぎすか……死と再生を司る鳳凰のしもべ、此岸しがん彼岸ひがんとを行き来して結ぶ鳥」


 男がうたうように言った。


 男が鵑だと言った鳥は、プゥルゥグィ、と、高く独特の啼き声をあげると、ぐるぐると廟堂の中を飛び廻った。しばらくそうした後に、扉から外へ出る。そのまま、大空めがけて飛び去っていく。


「我が身が受けた呪詛ずそを、鳥が天へ帰してくれたのか……なるほど、下った神託の相手は、間違いなくあんたのようだ」


 空へと消えていった鳥の影を見送ってから、男は目を細めて再び詩鸞を見ると、満足げにつぶやいた。


 痣はてのひらに浮かんだだけではなかった。詩鸞の二の腕のあたりにまで及んでいる。そこからひとしきり鳥が生じては、同じように堂内を啼き巡って飛び去っていった。


 プゥルゥグィ、プゥルゥグィ、と、鵑の啼き声が廟堂に響き渡る。なぜかそのときの詩鸞には、その啼き声が、まるで亡きものを恋うてくような切ない呼び声にも聴こえていた。


 胸が締め付けられる。


 ずきずきと頭が痛い。


 詩鸞の身からすっかり痣が消えるまで、鳥は生じ続けた。そして、最後のそれが空へ飛び去る頃、詩鸞は己の意識が遠くかすんでいくのを感じていた。

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