【BL】八千八声を啼き続け

あおい

「あれが、京城きょうじょう


 まだ遙か遠くとはいえ、視線を送る先に、たしかにまちを取り囲む郭壁かくへきが見えている。とう国の京城みやこである瑛洛えいらくだ。詩藍しらんは深い紫黒色の目を輝かせつつ、ほう、と、息をついた。


 こことう国では、まちむら、田やはたけなど、およそ人間ひとが暮らしを営む場所はすべて郭壁へいに囲まれている。その外側は、草地と灌木地帯とを経て、後はまばらに木々がはえる森が広がるばかりだった。


 森は人の領域ではない。そこは人外魔境である。


 獣たちのほか、地を荒し、牛馬や人を襲い、様々な災禍さいかをもたらすとされる妖魔が、森の中にはうろつくのだ。


 まちみらを囲む郭壁には、出入口となる門が、もちろん、ある。


 けれども、人々が門から外へ出ることは、ほとんどないといって過言ではなかった。あったとしても、郭壁からさほど遠くない、草地や灌木地帯までである。妖魔が徘徊する森の中に足を踏み入れるのは、よほど腕に自信のある者に限られていた。


 かくして、ごくごく一般の庶民たちは、城郭の中に閉じこめられて暮らしてている。まちむらも、だから、あたかも大海原の中に、ぽつり、ぽつりと点在して浮かぶ小島のような有様なのだ。


 では、城と城、廬と廬、あるいは城と廬との間を、人はいかにして移動するのか――……こたえは、空である。


 詩鸞は青く透き通った大空を遥かに振り仰いだ。


 ばさり、と、大きな羽音が響く。風が立つ。


 詩鸞の前髪の、つややかな黒髪のなかに一房だけ青銀に輝く前髪が、ふわりと吹きつけた風にゆるくなぶられた。


 空を仰いだ詩鸞は、すぅ、と、目を細めた。巨大な鳥の、やわらかそうな羽毛に覆われた白い腹が見えている。


 鳥船だ。


 巨大な霊鳥が運ぶ船である。


 多くの人は――多寡はあれど――体内で神気じんきと呼ばれる気を練ることができた。その神気を与えることで、巨大な鳥、霊鳥を操れるのである。


 その霊鳥が、人を乗せた船を運ぶ。人々は、定期的に空を駆けるこの鳥船を乗り継いで、郭壁に囲まれたまちから城、むらから廬へと移動するのだった。


 ばさり、と、また羽音がした。


 徐々に高度が下がっていく。もう目的地はすぐそこだ。


「あ!」


 そのとき、すぐ隣にいた幼子が声をあげた。


「母さん、鳥行ちょうこうさまだよ!」


 少年は弾んだ声で続ける。その指さす先には、いま詩鸞たちが乗る船を運ぶのよりもふたまわり、みまわりほど小さい、それでも牛馬ほどの大きさはあろうかという立派な鳶とびの姿があった。その背には人がまたがり、手綱を取っている。


「あれ、ほんとうだねぇ。単騎だから、監察かんさつ使さまかしら」


 母親らしき女は、にこにこしながら、我が子に向かってそんなふうに応じていた。


 嶌国において、自ら鳥を駆って空を自由に行き来できる者は限られていた。


 ひとつに、将や兵卒だ。彼らは鳥を駆って、時に森から出てきて人馬を襲い、田畠を荒らす妖魔と対峙する。


 兵卒でないのならば、その鳥行師は監察使――……城や廬、その周辺の森を巡っては、人々の暮らしぶり、または妖魔の出没状況などを監視する役目を担う、皇帝直属の官吏だった。


 軍ならば普通、隊を組んで動く。単騎行であることはまずなかった。


 ならばいま空を駆けるのは、ほぼ間違いなく――……。


「……監察使……」


 詩鸞は、ほう、と、吐息するようにつぶやいた。


 隣では少年が、京城である瑛洛から飛んできたらしい鳶に向けて、大きく手を振っている。鳶を駆って天翔けるのはどうやら女性官吏のようで、彼女はこちらへちらりと視線を送ると、わずかに目を伏せるようにして礼をしてみせた。


 前を向き直った彼女が手綱を引くと、大鳶は速度を上げる。


「あれが、監察使……」


 鳥船からすこし離れたところを颯爽と飛び過ぎていく影を、詩鸞もまた、視線で追いかけた。思わずうっとりと目を細めている。


 詩鸞にとって、監察使というのは、ずっと目指してきた憧れの職種であった。


 かつて詩鸞の暮らすむらを大きな災厄が襲った際、詩鸞は、監察使の手で助け出されたのだ。十五年前のあの日、あの監察使がいてくれなければ、もしかしたら詩鸞はいまこの世に生きてはいなかったかもしれない。


 それに、と、詩鸞は思った。


 詩鸞には感謝と憧れ以外にも、どうしても監察使になりたい、否、ならなければならない理由があった。


「いよいよ、試験か」


 杜《と》詩鸞しらん当歳とうさい二十三。


 出身は、嶌国の東端。その向こうはもはや未開の地とすれ呼ばれるような、辺境といってよい廬だった。いまはもはや存在していない故郷の廬を思いながら、詩鸞は京城の郭壁へと視線を送る。


 片田舎での苦学の末、詩鸞はいままさに、監察使の資格を得るための試験を受けようと、上京してきたところだった。

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