見世物小屋の影無し男 其ノ弐

 春前といえど深夜の空気は冷たく、簡単に指先の温度を奪う。

 しかし、ネタ集めの張り込みで寒さに慣れているシゲルは特に気にすることもなく歩を進めた。

 見世物小屋の裏に人の気配は無い。客もみんな帰ったようだ、この場にいる彼女を除いて。

 シゲルの手には革製の手帳がある。記事を書く上で案をまとめる大事なものだ。しかし、人差し指が挟まれたページは白紙だった。


「まさか見入って一文字も書けないなんて……」


 記者失格だ。その場の熱を読者に届けなければいけないのに、ただ客として最後まで見入ってしまった。これでは記事ネタをくれた大乗に顔向けができない。

 なにか記事にできる謎、できれば特ダネになり得るものを探さなければ。そう思って見世物小屋の裏手に回ったが、目を引くものは何もない。


「座長さんに取材とかできたらいいんだけどな……ん?」


 シゲルの足元。薄汚れた天幕が破け、留め具がはずれている。かがんで少しばかり持ち上げてみれば、ひと一人くらい通れそうな隙間ができた。

 降って湧いたような幸運だ。しかしそれ対する喜びを、つばを飲むことで胃の辺りに抑える。騒いで関係者に見つかっては元も子もない。

 シゲルはすぐに行動を起こした。着ている銘仙着物や履いている編み上げブーツが汚れることも気にせず、四つん這いで見世物小屋内部へ進む。ただ、蛇腹式カメラが入っている肩掛け鞄だけは大事に抱え込んだ。



◇◇◇◇◇



 月の光が入らない分、天幕の中は深夜である外よりも暗かった。目がろくに見えないと神経が過敏になり、自分から発する衣擦れの音にすら反応してしまう。

 手探りで進むと、看板や照明のようなものにぶつかった。どうやらこの辺りは、不要の判が押されたもので溢れかえっているようだ。

 一歩進むたびに身体のどこかをぶつけていたが、急に開けた場所に出る。その頃には、明瞭でないにしても暗さに慣れてきていた。

 現在地はどの辺りだろうかと考えていると、独特な臭いの生暖かい風を顔全体に浴びる。――生暖かい、風? 天幕内なのに?

 真正面に目を凝らす。そこには、人間の顔なんていともたやすく噛み砕けてしまうような牙があった。


「ぃひッ⁉」


 本能に直接刺さる恐怖を前に尻餅をついてしまう。見えてしまえば簡単だった。ここは見世物小屋。見世物になる珍獣だって、裏にしまい込まれているのだ。

 シゲルの目の前にあったものは檻。そしてその中にいたのは、人なんていともたやすく壊せてしまいそうな白虎だった。客席で見た個体かは分からない。だが、そんなものを考えている余裕はなかった。

 腹の底に響く白虎の重い唸り声に反応し、ほかの檻に入った獣たちも次々に鳴き声をあげる。ぐわんぐわんと頭の中で反響した。


「おい! なんだ! 急にどうした!」


 びくりと肩が震える。司会だった男の声だ。おそらく、静かだった獣たちが急に鳴き始めたため異変を感じたのだろう。大きな足音が近づいてくるのが分かった。

 ――どうしよう、どうしよう、どうしよう!

 浅く、速くなる呼吸。鼻につく獣臭。鼓膜を破るような咆哮。立ち上がろうと下半身に力をこめるが、身体は動き方を忘れたように言うことをきかない。腰がぬけていた。


「誰かいんのか!」


 確実にシゲルの方へ近づいている声に、もうだめだと諦めた瞬間――


「――ぅわッ⁉」


 ――強い力で右腕を引かれた。あれだけ動かなかった身体が宙に浮くほどの力だった。

 自分が今どうなっているのも分からない。ただ気付いた時には、温度を感じないなにかに包まれていた。


「しぃ……」


 まるで泣きわめく子どもをあやすように、細く長い息が鼓膜を揺らした。恐怖とは別の意味で身体が固まる。声なんて出せる状態ではないことは明白なのに、シゲルを包んだなにかは優しく彼女の口に蓋をした。


「あーうるせぇ! 静かにしろ珍獣ども! おい影無し! てめぇもお仲間みてぇなもんだろうが! どうにかしろ!」


 司会だった男は苛ついた口調で怒鳴り散らす。すると、シゲルの頭上から答えが返った。


「やだなぁ司会さん。あたしはただの影が無いだけの男です。猛獣使いになった記憶はありません」


 低く、軽薄そうな声だった。年齢は推測しにくいが二十代後半くらいだろうか。


「獣のみなさんも暴れたくなる時だってあるでしょうよ。許してやってくださいな」

「相変わらず気色悪ぃしゃべり方する奴だ。てめぇと話してっと脳みそが腐る気がするね」

「そいつぁわるぅござんした。あたしには腐る脳みそなんて立派なものはないもんでして」

「もう腐ってる脳みそしかない、の間違いだろうがこの影無し野郎」

「あら、こりゃ手厳しい一本だ」


 なにがおかしいのか、影無しと呼ばれた男は乾いた笑いをあげた。それを見た司会は、気味悪そうにそそくさとその場を後にする。男は十分に足音が遠ざかったことを確認すると、ゆるりとシゲルの口から手をはずした。


「司会さんは行きました。もう息しても大丈夫ですよ。まぁしてもらっててもよかったんですが」


 緊張のため、知らず知らずのうちに息が止まっていた。男の言葉によって、シゲルはそのことに初めて気づく。


「…………っはぁ!」

「魚みたいに陸上で窒息死するかと思いましたよ。生きててよかったですねぇ、東の客席にいたお嬢さん」


 シゲルの身体に巻き付いていた腕がほどかれる。自分を司会の目から包み隠してくれていたのはこの影無し男だったのだとようやく分かった。背中から覆われていた形だったので、お礼を言うためにも少し距離を取って向かい合う。ぬけた腰は治っていたようだった。


「あの、さっきはありがとうございました。とても助かりました」

「こりゃご丁寧にどうも」


 男はそう言って笑みを浮かべた。だがそれは表面的で、どこか不気味だ。暗いためシゲルに顔の細部は分からないが、雰囲気や空気が怪しいもののように感じた。


「あ、その、どうやって助けてくださったんですか? ここ、檻の中ですよね?」


 おそるおそる質問を投げる。あまりにも非人道的だが、見世物であるこの男は腰を抜かした原因の白虎と同じように檻の中に入れられているのだ。つまり、彼の身体で隠されていたシゲルも一緒に檻の中にいるということである。しかし、彼女は元々檻の外にいたのだ。どうやって中に引き入れたのか見当もつかない。


「ああ、そりゃ簡単なことです。普通に扉を開けて、あなたを引きずり込んだんです」

「……扉を開けて?」

「はい。それ、このとおり」


 軽い調子でそう告げた男は、身長に見合う大きな手を檻の隙間から出す。そして錠に触れると、慣れたように外してみせた。ぎぃ、という不快な音をたてて扉が開く。


「壊してそのまんまにしておいてるんです。好きな時に散歩とかしたいじゃないですか」


 男はへらりと笑った。おそらく、錠を壊したことは見世物小屋関係者には伝えていないのだろう。加えて、しっかり錠が機能しているように見せかけている。もはや詐欺師だ。


「まぁなにはともあれ――」


 シゲルの頭に大きな手が優しく置かれる。


「――見つからなくてよかったですねぇ。……でもはやく帰った方がいいですよ。次も隠してやれるとは限りませんから」


 瞬間、もしかしたら――と思った。この男はここに愛着があるわけではない。先ほどの会話を思い出しても明白だが、関係者との仲が良好というわけでもなさそうだ。

 であれば、男の望む対価を用意すれば手助けしてくれるのではないだろうか。

 シゲルはこの小屋の間取りを知らない。しかし好きな時に檻を出て散歩する彼ならば、座長の所だろうがネタが集まった所だろうが、どこにでも案内できるはずだ。こんなに助かる協力者はそういない。

 そう思い、シゲルはすぐ行動に移した。


「あのッ――」


 頭に乗っている手を逃がさないというふうに掴む。いっさい温度を感じないことに疑問を覚えながらも言葉を続けた。


「――失礼は承知なのですが、なにも聞かずわたしに協力していただけませんか? もちろん報酬はお支払いします」

「えぇ? いやですよ」


 一刀両断だった。

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鬼門の怪談手帖 福島んのじ @torinomadmax

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