5  あの夏に残した宿題

 赤いシーグラスを組み込んだ針金細工の金魚。


 赤い、歪な三角形のシーグラスに金色の針金を組んでヒレをつけた金魚は、三年前の夏に叔父の手を借りて作ったものだ。

 勤める店の一角を借りて、アクセサリーや小物の販売もしているらしい叔父の指導は確かで、五年生が作ったとは思えないほど出来はよい、と思う。


太一たいちぃー? 開けるわよ?」


 母の声に慌てて眺めていた針金細工を学習机の引き出しに突っ込む。やはり、こちらの返答も待たずにドアが開く音がして、太一は眉をひそめた。


「なんだよ。勝手に開けんなって言ってるだろ?」


 平静を装って、低い声を出しながら振り返るが、母は動じた様子もない。


「声かけたじゃない。さては、あんた。また隠れて漫画でも読んでたんでしょ」


 見当外れなことを言いながら、廊下からこちらを覗き込んできた母はなぜか得意げだ。


「ちげぇよ」


 これ以上入ってこられてはたまらない。出しっぱなしになっていたドリルに視線をやって、あからさまにページをめくる。


「勉強してるんだから、用がないなら出てけよ」


 太一としては『出てけよ』の比重を重めに伝えたつもりだったけど、母には用があれば居てもよいと伝わったらしい。


「そうそう。太一、七月の二十八日って空いてる?」


 先に用件を言わないあたり、察するまでもなく面倒事だろう。


「あー? とりあえずずっと忙しい」


「わかった。伝えとくね」


 何があるのか、誰に伝えるかはわからなかったけど、どうせたいした用じゃない。扉を閉めて母が去っていったことで、ほっと息を吐いた。

 引き出しから雑に扱ってしまった金魚を取り出して、注意深く針金でできたヒレの一つ一つが変形していないか確認していく。


(手遅れ、ってどういうことだよ? 引っ越すなら引っ越すって言えよ、バカさや……)


 この金魚に向き合うたびによぎるのは、気になる様子と言葉を残して太一の前からいなくなってしまった幼馴染のさやのことで。


 聞けなかった『どうしたんだよ』の一言が終わらない宿題のように心にのしかかって、さやと過ごした日々を単なる思い出にできずにいる。


 針金が凹んでいなかったことに安心した太一は、引き出しの奥から定位置になっている菓子箱を取り出すと、金魚をそっとしまった。


 この金魚を飾れるほど自分の無力さと向き合えないし、捨てられるほどは割り切れもしなくて。




    *   *   *




 残暑という言葉は不思議だ。


 ちっとも残りなんて気のしない暑さが続くあたり、太一は作り上げたばかりの金魚とともに祖母の家から帰ってきた。

 考えるより手を動かすというのは太一の性にあっていたらしく、行きの車での気分が嘘みたいに心は軽かった。

 

(さやも今頃は楽しく夏休みを過ごしているんじゃないかな)


 最後にみかけたお祭りでは、友達と一緒だったみたいだしきっと楽しい夏を過ごしていることだろう。


 木の上に作った秘密基地で待つともなくさやを待つこと数日。太一のようにさやも帰省しているかもしれないと気づいたのは、その頃だった。


 とりあえず留守か確認しようと向かったさやの家は、カーテンが外されてしんと静まり返っていた。ガラスサッシからはがらんと何もなくなった室内がよく見える。


 思わずぐっと握った手の中で針金細工の金魚がわずかに歪んだ。


(引っ越し……? そんなどうして……?)


 家族ぐるみで付き合いがあったから、引っ越しなんて話があれば母が大騒ぎしているはずなのに。

 最後に話したときの哀しそうな表情はもしかして。


 物心がつく前から一緒にいたから、さやのことはよく知っているつもりだった。


 背が低いのを気にしていること。大人しそうな外見に反して負けず嫌いで、めったに泣かないこと。

 食べ方はきれいだけど、しいたけを食べるときだけ箸が迷うこと。友達と話すときには、普段より声が少し高くなること。


 あきらかにおかしいのはわかっていたのに。


 お祭りで友達と過ごしていても笑っていたさや。もしかしたら無理をしていたんじゃないか。


 何も伝えられる言葉は持ち合わせていないけれど。


 だからって……。


 手のひらに硬い感触がして、金魚のことを思い出す。さらに歪になった針金細工は、今の太一の気持ちのようだった。




   *   *   *




 中学に進学してからは小学校の頃より宿題や課題が増えた。ギリギリに宿題を終わらせる質だった太一だけど、一年目に地獄を見てからは早めに終わらせるようになった。


 特に、自由研究とかは滑り込みに資料を探すと同じような考えの奴も多いのか困ることが多い。くどくどと怒られるのも面倒くさいし、とっとと自転車で図書館へ資料を借りに行く。途中、秘密基地の木の横を通りかかった。


 さやが見つけて競うように登ったこの木での思い出は、小五の夏休みで終わっている。太一にとってとっておきの隠れ家だった基地だけど、最後にさやと過ごした記憶と待ちぼうけの侘びしさが自然と足を遠ざけさせていた。



 資料をカゴに突っ込んだ図書館からの帰り道。秘密基地の木の横に見慣れない人影をみかけて太一は自転車を停めた。

 その人は、何かを探すように木の上の方をちらちらと見上げている。


「もしかして……、さや?」


 後ろ姿に声をかけると、相手が振り返った。観察するようにこちらをしげしげと見つめ、


「…………? 太一?」


 たっぷり時間を取って相手が太一の名前を呼んだ。振り向いた顔はだいぶ大人びてきていたけれど、間違いなくさやだ。


「どうしたんだよ?」


 驚いて自転車ごと詰め寄ると、さやが目を見開いた。そして、嬉しそうにふわりと微笑む。


「オープンキャンパスが思ったより早く終わって、時間が空いたから」

「ふ、ふーん?」


 当たり前のように言われて毒気が抜かれる。


「背、かなり伸びたね」

「さやは……変わらないな」


 嘘。背はたいして伸びていないけれど、中一の頃よりも大人っぽくなった。

 きっと、変わらないってどういうことよ、なんて返されると思っていたのに。


「本当?」


 華やぐような表情。きらきらとした顔で見つめられて当惑する。思わず目をそらしてしまったのを不自然には思われていないだろうか。


「なんで、嬉しそうなんだよ」


 さやは質問に答えずにふふと笑って、秘密基地のあった枝のあたりをもう一度見上げた。


「秘密基地だけでも覗いていこうかなって、思って来たの」


「……そうかよ」


「会えるとは思ってなかった。太一のお母さんから忙しそうだって聞いてたし」


 なぜか母親の話が出て、「は?」と間抜けな声が出た。きょとんとした顔のさやが首をかしげる。


「あれ? 聞いてない? 時間がどれくらい取れるかわからなかったから予定だけ聞いてもらったはずだけど」


 予定を聞かれることはたまにある。その大抵がたいしたことのない用事だったから聞き流してしまったのかもしれない。

 それにしても。


「なんで親なんだよ。直接俺に……」

「えー? だって太一、スマホなんて持ってなかったでしょ?」


 確かにスマホを持ったのは、……中学に入った頃からだ。


「そうだけど、さ」


 事実だけど。たった一年ちょっと産まれたタイミングがズレただけなはずなのに。


「親に連絡先聞けばよかったじゃん」

「個人情報だし。もしかしたら」


 少しためらうように、言葉を止めてさやが眉を下げた。


「迷惑かもしれないなって。それに忘れられてるかもって思ってた」


「……忘れないだろ」


 憮然として答える太一を見てかさやが目を丸くする。その様子にまた気まずい気持ちが湧き上がってきたけれど。


「それに、迷惑でもない」


 続けた太一にさやは、「そっか」と笑った。


「やっぱり、お母さんとは話しないとね」


 さやの笑顔が昔見たいたずらっぽい表情に見えて、どきりとした。



 今日は宿題に手がつかない気がする。


 だけど、長年抱えた宿題がやっと片付いた気もするから、ひさしぶりにあとまわしにするのもいいかもしれない。


 どこまでも青い空に白い雲が細く長く続いていた。

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ある夏の日、秘密基地にて 今井ミナト @wizcat

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