第1話

 十月某日。

 ようやく長い夏が終わりへ向かい、過ごしやすくなってきた頃。

 東京の郊外の……、そのまた郊外で収まるのか?

 ともかく住所だけは東京の、木々に囲まれたポツンと建つ木造アパートの前。


 先日、SNS上で偶然見かけた投稿に映っていた女性が気になり、投稿主にDMをした。

 投稿内容がいかんせん怪しいものだったので警戒したが、あまりに快く応じてくれたので、人は見た目……いや見た文では無いということが僕の中で確立されたものだ。


 大学を中退し、実家に帰るのも憚られた僕は、何となく藁にもすがる思いで彼女の元を訪れることにした。

 なぜだかはわからない。

 ほぼ衝動的なもの。

 学生時代話したことがあるのはただの一度だけ。

 それでも、彼女の元へ行けば解決すると、どこか確信があった。

 どくどくと強く脈打つ僕の心臓に呼応するかのように、木々がざわめく。


 浅く息を吸って、一歩前へ出る。


 ところで気づいた。


「部屋番、どこだ……?」


 親切な方が教えてくれたのはアパートの名前までで、肝心の部屋番号は教えてくれなかった。

 そもそも確認しなかった僕が悪いのだが。

 見た感じ、三階建てで横には四部屋。

 3×4で計12部屋。


「……いける」


 もし先輩以外が出てきたら、素直に謝って部屋番号を聞こう。

 僕は最悪のパターンを想像しながら頬を軽く叩いた。


「あのー、なんか用すか?」


 突然後ろからかけられた、どこか気だるげな懐かしい声。

 一際強い風が吹き、草木が揺れる。

 心臓が、どくりとはねた。


「今日、定休日なんで。明日以降にお願いできます?」


 僕は振り返る。

 目の前には、きっちり上まで閉められた、オーバーサイズのベージュのマウンテンパーカーに、細身の黒いパンツを身につけた女性。

 パーカーのポケットに突っ込まれた右手には小さめのビニール袋がぶら下がっている。

 左足に重心を置きダルそうに立つ女性の顔は、風になびく艶やかな黒髪のせいで見えない。


「……高見先輩、ですよね」

「誰すか?」


 少し、声が低くなった。


「僕、先輩と同じ高校に通ってました」

「はぁ……」


 ようやく風が弱まったところで女性と目が合う。

 黒髪の下に隠されたハイライトのないヘーゼルの瞳。

 眉間に深く刻まれた皺がこちらへの警戒を物語る。


「僕、笹川ささがわゆうです」


 がさりと、女性の持っていたビニール袋が音を立てた。

 何を考えているのか分からない表情でこちらを見つめられ、少し背筋が伸びる。


 ああ、そうだ。

 初めて話した時もこの感じだった。

 懐かしい。


高見たかみはるさん、ですよね」


 僕の言葉に、彼女は視線を一度左右に動かした後、下へ向けた。

 五秒ほど目が合わない時間を過ごしたかと思うと、今度はこちらが緊張してしまうほど真っ直ぐ見つめられる。

 不健康な白い肌に映える赤い唇が薄く開いた。


「……知らん、誰?」

「んぇ?」

「いやまあ、私は高見なんだけど、お前誰?」


 ガチでわからん。

 再度告げられた言葉に僕は、それもそうかと、ひとりごちる。

 彼女の眉間に寄っていた皺はいつの間にか無くなり、幸か不幸か出会ってからの数分間で一番穏やかな顔をしていた。


「んでその、さ……スゥー…ごめん、もっかい名前言って」

「あ、笹川です」

「笹川くんはどんな依頼なわけ?」


 ほんとは定休日だけど、知り合いっぽいし話くらい聞いたげる。


 こう言った高見先輩は手元のビニール袋をガサゴソ漁ったかと思うと、おもむろに中から小さな飲むヨーグルトのパックを取り出し、ストローを刺した。

 そしてなんの躊躇いもなくストローを口に運び、一口飲んだ。

 ゆっくりではあるが迷いのない動作に、僕は少し呆気に取られてしまった。

 先輩が自分で買ってきた飲むヨーグルトだろうし、そもそも飲むヨーグルトなので一連の流れに何も間違いはない。

 間違いではないのだけれども。


「……ヨーグルト」

「……あげんよ?」


 あ、せっかく穏やかになっていたのに、再び眉間に皺が寄ってしまった。


「いえ、欲しいとかではなくその……飲むヨーグルトだなぁって」

「身体にいいだろ、ヨーグルト」


 フンッと鼻を鳴らす先輩。

 いるよなあ、ヨーグルトとか野菜ジュースとか、少し摂って健康になった気になる人。


「んでなに? 用がないなら帰ってもらえる?」

「あ、あります! 用! 用しかないです!」


 左手で持った飲むヨーグルトを左右振り、ちゃぽちゃぽと音を鳴らしながら、先輩はため息混じりに呟いた。

 いぶしげな顔のまま僕を上から下まで眺めた後、そのまま歩きだす。

 僕とすれ違う直前、くだらない話だったら追い出す、と吐き捨てるように言われた。

 おそらく着いてこいということだろう。

 僕は慌てて小走りで近づく。

 昔は腰あたりまで伸びていた黒い髪も、いまでは肩口で切りそろえられている。

 僕よりもはるかに小さいはずなのに、何故かすごく頼もしく見える背中。


 どこからともなく、線香のような香りが鼻をかすめた。

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