第2話 火の用心
「わしは昔、大賢者と呼ばれておったのじゃ。」
正二さんがそういった時、オレの横で他の入居者を介助していたスタッフは、「また老人の中二病が始まりましたね」と笑っていた。
でも、オレは笑えなかった。
「はいはい、大賢者様だったんですねー。」などと、軽く話を合わせることも出来なかった。
なぜなら、そう語ったときの正二さんの表情にはチカラが戻っていたから。
本当に一瞬であるが、周囲に対するプレッシャーのような圧も発していたように感じられた。
まあ、オレ以外のスタッフにそんなことを言うと、「とうとう主任もおかしくなった」と言われそうだから言わないでいるのだが。
その日以来、
「わしは昔、大賢者と呼ばれておったのじゃ。」
正二さんのその言葉が、妙に心の奥に引っ掛かっていた。
◇ ◇ ◇ ◇
「主任ー。」
「どうしました?」
今オレを呼び止めたのは、同じ棟に属する介護スタッフの川島いろはちゃん。
この春、福祉系の大学を卒業してうちに就職した新人の介護福祉士だ。
社会福祉士の国家資格や、ゆくゆくはケアマネージャーの資格を取得したいと公言する、福祉に対してモチベーションの高い、今どきは珍しい期待の新人である。
そんな彼女だから、入居者さんの人格を尊重するという方針のオレに対する、数少ない理解者でもある。
そんな彼女が、オレを呼び止める。
「ちょっと報告というか、疑問というか、確認? 何ですけど。」
「どうした?」
「さっき正二さんのオムツ交換したんですけど」
「お疲れさん、それで?」
「えーと、オムツあふれて衣類寝具もびしょ濡れでー。交換はしたんですけど」
「うん」
「なんでしょう、尿臭全くしないんですよね?」
「それって、水分補給のお茶とかお水をこぼしたんじゃないの?」
「私もそう思ったんですけど、水分補給の担当も私だったので、正二さんの周囲にあそこまでびしょ濡れになるような液体は存在しないんですよ。尿にしてもとても多量ですし、不思議なんです。」
「うーむ、確かに不思議だな」
「それでですね、正二さん、その時、「水魔法を暴走させてしまった」って言ってたんです!」
「み、水魔法‥‥‥」
「それを聞いた他のスタッフさんは「漏らした言い訳まで中二病だよ」って笑ってましたけど‥‥‥、私にはどうも、そうは思えなくて‥‥‥。」
「わかった。いろはちゃん。」
「はい。」
「いろはちゃんは、もしかしたら正二さんの言っていることが本当の事なんじゃないかって思ってるってこと?」
「で、でも、こんなこと言ったら、私へんなやつだって思われそうで‥‥‥。しゅ、主任しかこういうこと話せるひとがいなくって‥‥‥。やっぱり変ですよね? 私。今の話はわすれてくださいっ!」
いろはちゃんは、話したことを後悔するかのようにしょぼんとしている。
「いや、いろはちゃん。実はオレも、そんな気がしているんだよ。みんなには内緒だけど。」
「よかったあ! 私だけじゃなかったんですね! だって! 中二病発言してる時の正二さん、表情とか見ても、ぜったいつながってますよね!」
『まだらボケ』の状態にある人が、まともな思考回路に在る時のことを業界ではスラングで『つながっている』と言ったりする。
まあ、多分脳の回路がつながっているとかいった意味なのだろうが。
で、ここまでの会話で、オレはとある重要なことに思いが至る。
「なあ、いろはちゃん。」
「はい、なんでしょう主任。」
「もし、もしもだよ。正二さんの言っていることが本当のことだとして。」
「はい。」
「さっき、「水魔法を暴走させた」というのが本当だとしてだ。」
「はい。」
「もしそれが、『火魔法』だったらやばくね?」
「そ、そうですね! 火事になっちゃいますー!」
「‥‥‥火災の避難訓練、日程前倒しにしようか」
「はいっ! お手伝いしますっ!」
こうして、オレは施設長宛の起案書を急いで作成して避難訓練を前倒し行う算段を付けるとともに、想定出火元を正二さんの居室とした計画に対して施設長や他のスタッフ、協力依頼した消防署員からも疑問を投げかけられるのであった‥‥‥。
◇ ◇ ◇ ◇
「ふう、休憩入っていいよ」
「あ、主任。お疲れ様です。」
今は夜勤中。
今日のシフトはいろはちゃんと同じ棟だ。
「あ、いろはちゃん、休憩前にちょっといいかな。」
「はい、私も主任にお話が合ったんです。」
32歳の独身男性と、23歳の独身女性。
入居者以外は二人っきりのこの建物の棟の中。
もしかしたらもしかするシチュエーションではある。
だが、オレのようなしがない介護職の三十路の男に彼女なんてできる訳がないっ!
そう断言できるほど女っ気のないオレは、一切の期待などしない。
今のこの話も、当然業務に関するものだ。
「ねえ、いろはちゃん。」
「はい。」
「正二さんの魔法について、どうにかしないといけないと思うんだ。」
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