田舎の老人ホームのおじいちゃんが昔は大賢者だったと言うので魔法を習ってみた。
桐嶋紀
第1話 古の大賢者
「はーい、正二さん、ごはんですよー。あーん。」
「ばあさんや、ごはんはまだかのう? もしゃもしゃ」
「えーと、オレはばあさんじゃないですし、ごはんは今絶賛食べてる最中ですよー」
「そーか、ばあさん、ありがとうなぁ。もしゃもしゃ」
ここは、人口約5万人ほどの田舎の某市にある特別養護老人ホーム。
オレは、ここの介護主任を務める吉岡
そして今オレの目の前に居るのは、要介護5の寝たきり状態、96歳の中村正二さんだ。
この言動からわかるように、認知症。言葉を悪く言えば、いわゆるボケ老人だ。
ベッドの上半身部分をギャッジアップして、昼食の食事介助の真っ最中である。
オレは、茶碗に盛られたお粥を介助用のスプーンで掬い、口に入りやすいように摺り切り状態にして正二さんのお口に運ぶ。
「はい、お口開けて下さーい。おいしいですよー。」
「ばあさんや、いつもすまないねー。」
「だからオレはばあさんではなくて‥‥‥。はいはい、それを言っちゃあおしまいだよおじいさん。まだありますから、いっぱい食べてくださいね。」
オレは、正二さんの勘違い言動を否定して真実を告げることをやめ、正二さんの想いの世界に寄り添う返事を返す。
いいじゃないか。
いま、正二さんの目の前に居るのが、正二さんの長年連れ添ったばあさんでも。
オレは当然、正二さんの妻ではないが、少なくとも正二さんがそう思って、感じて、すこしでも心穏やかにいられるのならば、いくらでもばあさんになりきってあげようじゃないか。
「ところでばあさんや。」
「なんですか、おじいさん。」
「ワシの魔導ローブと魔力杖、結界の指輪と歩行速度50%アップの革のブーツは何処にしまったっけかのう?」
「はい?」
「ああ、ばあさんや、ごはんはおいしいのう。もしゃもしゃ。」
正二さんは、たまにこういうことを突然話す。
こういったことを話すときの正二さんは、ほんの一瞬だが目にチカラが戻り、まるでボケてなどいないのではないかという圧に近いものを周囲に発するのだ。
そしてまたすぐ、いつもの正二さんに戻ったりする。
そんな正二さんのことを他のスタッフは「中二病のおじいちゃんウケるー」などといって少しバカにしている。
介護主任として、いかに認知症であろうとも入居者さんを馬鹿にするような言動は慎むよう指導しているのだが、やはりオレは少数派だ。
スタッフ連中に煙たがられていることも自覚はしている。
それでも、人生の大先輩に対してその尊厳を軽んじることなく人格を尊重することは、この仕事に対しての最低限の責任だとオレは思っているのだ。
他のスタッフは、正二さんのことを「認知の中二病」と決めつけ、その言動は取るに足りない、妄想か勘違いの類だと決めてかかっている。
しかし、オレから見ると、ちょっと違う様に見えるのだ。
『まだらボケ』というスラングがある。
これは、ボケている時とまともな状態でいることが代わる代わる現れる状態像のことを指して言う。
オレは、正二さんはこの『まだらボケ』の状態ではないかと思っているのだ。
つまり、ときたま正二さんの口から出てくる中二病っぽい言動。
それは全て真実なのではないかと思っているという事だ。
先日、こんなことがあった。
入浴介助中、浴槽に浸かった正二さんが、突然「ぬるい」と言い出したのだ。
正直、高齢者の入浴はリスクが高いこともあり湯の温度は温めに設定している。
突然の脳出血等を防ぐためだ。
当然、入浴前には血圧の測定なども抜かりない。
なので、入居者さんが、いくら「ぬるい」と言ったとしても、スタッフがそれに応じて湯の温度を上げることなどありえない。
ところがその日、正二さんはチカラを取り戻した目をして「ぬるい」と言ったあと、なにやら呪文のような言葉をもごもごと言いはじめたのだ。
すると、みるみる浴槽に入れていた湯温計の温度が上がり、その時介助にあたっていたオレは緊急時の排水レバーを下げ、正二さんの乗っているリフトを上昇させた。
結果、正二さんは軽い全身やけどで済んだのだが、この日の出来事は「原因不明のインシデント」ということで報告書に記された。
施設長からは、「おまえらの誰かが正二さんの言葉を真に受けて温度上げたんじゃないのか?」というお言葉をいただいてはいるが、もし仮にそうであったとしてもあんな短時間であれほどの湯温の上昇は現代のボイラーや給湯機では実現不可能だ。
そんな正二さん。
とある日の、お茶の時間にふとオレに言ったんだ。
「わしは昔、大賢者と呼ばれておったのじゃ。」
と。
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