1話 二日酔い

私史上、最も最悪な朝だったと思う。

吐気、同時に頭痛ときて、少し遅れてひりひりとした痛みが私には襲いかかってきた。


幸いにも今日が定休日で良かったと安堵しつつ、昨晩の記憶を上手いこと辿らせる。



「ぷわぁっ〜!」


大きなジョッキ片手にビールを豪快にあおって見せた。視線の先には上司が一人と同僚が一人。

どちらとも男性が対向するようにこちらに視線を向けながら互いにビールを呷る。

私の右隣には女性が「これ美味しいですね」なんて言いほのかな笑みを浮かべながら唐揚げを咀嚼そしゃくした。その様子を見た上司はさぞかし気をよくしたんだろう、ここは俺が出すから遠慮はするなと言いテーブルの脇に置いてあったメニュー表を軽く手に取ると、私たちに見せるよう中央に置いた。


正直言うと、上司一人が居る飲み場にはあまり来たくなかった。

初めは同僚の安西あんざい心春こはるちゃんに今夜食事でもどう?と誘われて、のち桑田くわたくんも良ければ一緒にどうか、となって、同僚三人でビールでも嗜む程度に飲んで駄弁だべってその日はお開きだろう、なんて想像をしていた。


それほど値段だってお高くは無い大衆酒場だ。どこにでもあるような。

ここにしよう、とお店を決めたのは心春ちゃんと桑田くんらしかった。いざ入店してみると、上司が誰と待ち合わせでもない、誰と来たわけでもなく、一人で飲んでいた。

上司が私たちに気がつくと、一緒にどうだ——と誘ってくる。年上の人が居るってだけで気を遣わなければならないのだから、遠慮したかった。


心春ちゃんが心優しい女性だから。私とは違う。

「それでは、ご一緒に」と快くおっけーした。さいあく、と文字が私の顔には出ていたのか、桑田くんに耳打ちされた。


「まあ矢野やのさんなら、それほど気を遣わなくてもいいと思うよ」


まあ、それは分かる。

矢野さんは部下想いで気軽に話しかけてもくれる。本意ではなかったけれど、私も席に腰を下ろした。

そうして今に至るというわけだ。


「えー 奢ってくれるんすか」


桑田くんが一言、上司に視線を向けて言った。場繋ぎのためだろうか。

矢野さんは首を縦に振り、誇ったような顔で自分の胸を叩く。


「おう、気にせず食べて飲んでいいぞ」


すると心春ちゃんも口を開いた。


「わぁっ!ありがとうございます」


二人とも矢野さんの顔を立てるの上手いな、一人ビールを呷りながらそう思う。

その瞬間、矢野さんは私に視線を向ける。そして話しかけてもくる。


「どうかしたのか?後藤……」

「あっ…… いや、どうもしてませんよ」


いかん。楽しくないオーラでも漏れていたか。

役者のように満面の笑みでも宿らせて言う。


「このお店、静かでいいですね」


まるで何かを誤魔化すように唐揚げを箸で持ちあげると、口元まで運んだ。また、何かを誤魔化すようにして咀嚼をすると、ビールで流し込む。


「まあ——今日は静かだな」

「矢野さんって、よく来るんすか?」

「この辺の飲み屋と言えばここしか無いからな」


桑田くんの店員さんを呼ぶ声がこの店内に響くことはあっても、他のお客さんの声はしなかった。

矢野さん曰く、賑わっている時とそうでない時はあるらしい———


「ビールください……あと、他なんかいる?」


桑田くんが全員と目を合わせ、訊いた。

矢野さんもビール、心春ちゃんは焼き鳥と答え、私は特に無かったから首を横に振る。


「後藤、あまり飲んでなくないか?」

「飲んでますよ……もう四杯目ですよ」


この時までは、そこまで酔ってはいなかった。あれは何分、あるいは何時間が過ぎたあたりだろうか。

気がつけば六杯、または七杯は飲んでいた。

矢野さんの「お開きにするか」という言葉があって、私たちは席を立つ。その日は珍しく心春ちゃんも酔っていて、頬が赤い。立ちくらみを起こした心春ちゃんに肩を貸したのは桑田くんで、きっとタクシーでも捕まえて帰宅したと思う。

矢野さんは歩きで、私も歩きで。

タクシーを捕まえてもよかったけれど、家まで距離があるってわけでもないし、お金の無駄だからとやめた。


多分、何度か転んだ。その証拠に膝には擦り傷だってある。


鼻歌でも歌いながら、ふらふらと電柱に体当たりしてはまた転けてを何度か繰り返して、家の形が見えてきたところまで歩いた。


視界がぼやける。視界が揺れる。見えてるものが何重にもなって、わけが分からない。

これほど飲んで、これほど酔ったのは久方振りだ。


綺麗とはとても言い難いアパートの階段を駆け上がり、鞄から鍵を取り出した。鍵穴に挿す———。


そこから見事に記憶が無くなっていた。けれど、ベッドに直行して倒れるように眠ったんだろうと思う。しかも、スーツのまま。


私はベッドから体を起こした。


「あ……ろくな食料がない…」


冷蔵庫の扉を雑に開け、そこで初めて気づいた。まあ、一人暮らしの社会人の冷蔵庫なんだ。

冷蔵庫の中身が賑わっているわけもない。

買いに行くか〜、と腰を上げて、財布だけを持って家を出た。


———ひた、冷たい地面に何かが触れる音がした。と同時に、擦れてズズっ——みたいな音もした。

私から見て右側。見てみると、そこには高校生くらいの女子がお尻をつけながら、上の空といった感じに当てもない視線を彷徨わせていた。


私は女子高生に気がつけば夢中になり、気がつけば声をかけていた。それは心配……なのか、あるいは興味本位なのかは分からない。

ただ、一言言葉が零れていた。


「私の家………来る?」


女子高生の視線は私に向いた。我に返った私は、目を見開いて自分の言葉に驚いた。


「え?」

「あっ…」


立ち上がった女子高生に、私は少し後ずさる。

なんてことを言っているんだ、と不審者同然の言葉を吐いてしまった私はその場から逃げようとも考えた。


「泊めてください」


そう小声で呟いた。聞き取れるか聞き取れないかの小声だ。私は昔から耳が良かった。


「家は?」

「ここです……。隣の部屋。けど、帰ってくるな……そう親から言われているんです」


親子喧嘩。家出少女。私には関係もないし、関わらない方が良さそうだ。それに、警察の厄介にもなり得る。———それでも、私は首を縦に振っていた。


「いいよ」

「え?」


きっと、ダメと言われる気で居たんだろう。そりゃあ、社会人なんだから大事にでもなったらあとにも関わってくる。

ただ、と私は条件を付けて女子高生に言った。


「お金は払う。だから、娘を演じて。」

「娘……?演じ……」


女子高生はその場から私の姿形をじっと這うように見つめる。何かに気づいたみたいに、ハッと口を開けて「もしかして——」上唇を流暢に持ち上げ、吐くように言った。


「藍沢雪……さんですか?」


ヤベッ……思わず、顔を伏せる。

私のことを知っていたのか、そう思ってその場からは一刻も早く逃げ出したかった。

まあもう遅い。……隣人みたいだし。


「昔はね。もう引退したし……それでどうする?」

「いいです、条件でもなんでも呑みます」

「そう……じゃあ、部屋でまってて。買い物に……」


女子高生は頬をパンッ!優しく叩いて出る音じゃない。かなり強く叩いて、ほらみたことか。頬が少し赤くなっている。

目蓋まぶたを下ろして、目蓋を上げて。

私に目を向け、言う———。


「え〜っ! わたしも行きたい!ママっ———」


この時から女子高生の声色は。言葉遣い、目つきも。その全てが色鮮やかで。


その瞬間から私は女子高生に。違う、まだ名も知らない彼女に不可解な感情を抱くようになったんだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

お隣の社会人は女子高生の娘を買う 久瀬 @kuzedesu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画