第3話

「あははっ! 見て。あれ、私の家よ。ちいさーい」

 少女は小さなゴンドラの中できゃらきゃらと笑い声をあげた。しなやかな指先がしめすさきにあるのは、辺りの民家と比べて一回りも二回りも大きな豪邸だ。

 夕暮れを受けて黒光りする屋根だけでも民家ふたつ分は優に超えているのに、おまけに広い庭までついている。それを〈小さい〉と嬉しそうに報告されても、どうしたらいいのかまるで分からない。

 あの家が小さかったら、翠の家などゴマ粒以下だ。

「もう。あなた、ちっとも笑わないのね」

 ゴンドラの外に釘付けだった京香は、ため息をつきながら、翠の正面に腰掛ける。乱暴に動くせいで、赤色のゴンドラがぐらりと揺れた。「あ、病院も見える。結構遠いのね」ちょうど、観覧車の頂点に差し掛かったのか、ゴンドラがゆっくりと地面に近づいていく。

「それで、あなたの未練はこの場所にありそうですか?」

 この場所、と言いながら翠はゴンドラの外に目を向けた。街並みが広がる右側ではなく、おとぎの国に似せた施設が並ぶ左側だ。翠と京香は今、病院からバスで三十分ほどの遊園地を訪れている。二年ぶりに目を覚ました彼女とのデート、なんて言えればよかったのだろうけれど、生憎これも死神としての仕事の一環だ。

 死亡が確認されてから洗濯屋への引き渡し期限である、七日目までに、死者の未練をひとつでも多く解消し、汚れを減らす。

 洗濯の前の、予洗いみたいなものだ。

「あなたは、私の未練がここにあると嬉しい?」

 少女は黒いロング丈のスカートの中で足を組み替える。ゴンドラの硬い背もたれに体をあずけて、口元にはいたずらな笑みを浮かべて。斜めに差し込む日差しが京香の顔に、濃く、影を落とす。

「俺に感情は問題ではありません。重要なのは、あなたの心残りです」

「はぁ、つまらない返事。言ったでしょう? 私は、好きなひとと、恋人のように過ごしてみたかったって。今のところ思い当たる心残りはそれしかないのだから、それをどうにかしたいのなら、あなたももっと協力してくれなくちゃ」

「協力ならしているでしょう。誰のために、傍目には一人で遊園地を訪れたうえに、わざわざカップル向けのハートのゴンドラに乗る、なんて恥ずかしいことをやっていると?」

「ふふふ。ハート用の列に並んでいるあなた、とっても愉快だったわよ?」

 彼女は目を伏せて、くすくすと笑う。「あなたがどうしてもこちらが良いと言うから、白い眼を向けられても逃げ出さなかったんですよ」ため息を吐いてみせながら、翠は震える右手を背中に回した。

(ここに、未練があったら嬉しいか、だって?)

 そんなの、うれしいに決まっている。

 同じくらい、くるしいに決まっている。

 この遊園地は、翠が翠になる前、何度も、京香とともに訪れた、思い出の場所だった。

 最初に来たのは、ここができてすぐの小学校二年生の時。互いの家族も含めて、大所帯で遊びに来た。全体的には大人数だったけれど、激しいコースターに乗りたがった京香の兄に、彼女の母親がかかりきりになり、まだベビーカーにのっていた翠の妹に翠の両親は夢中だったから、結局、二人きりのようなものだった。小学校の修学旅行、中学の入学祝、高校合格のお祝い、高一の時の京香の誕生祝い。

 節目のときに訪れては、二人で時間を重ねてきた。

「私ね、好きなひとがいたの」

 たぶん、知っている。互いに、もうずっと、本当は気が付いていた。

「その人と、よくここへ来たわ」

 京香は眦をゆるめて、窓の外に視線を向ける。その横顔の美しさに、翠は息を呑んだ。

「家族がいたときもあったけれど、園内では大抵二人きりだった。傍から見れば、恋人同士のように見えたでしょうね」

 京香の視線が正面を向く。口角はあがっていたけれど、その表情は笑顔にはとても見えなかった。

「でも、結局、なんにもないままだった。手を繋ぐことも、キスをすることも、好きだということも、言われることも。なんにも」

 言いながら、京香は俯く。膝の上でぎゅっと握りしめられた手に触れようとして。けれど、結局翠は両手を背中に隠した。彼女に触れる権利は、今の翠にはない。

「では、あなたの未練というのは」

「ええ」

 そこで京香は勢いよく顔をあげる。にっこりと、唇の両端をつりあげた表情は今度こそ、笑顔だった。

「だから私、誰かと恋人のように過ごしてから死にたいの。仕方がないから、相手はあなたで妥協してあげる。もちろん、手伝ってくださるわね?」

 どうして、誰かに何かを頼むときばかり、そう上から目線になるのだろう。翠は肩の力を抜いて、かすかにほほ笑んだ。素直に乞えない不器用さが、彼女の一番愛おしいところだった。

「……仕方がないですね。死者の未練を解くのは、死神の仕事ですから」

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いつか、そんな夜明けが来るとして 甲池 幸 @k__n_ike

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