第5話

洋菓子店『カシュカシュ』。


果たして正式名はなんだっただろうか。あまりに長すぎて覚えている人がおらず、略称で呼ばれるその店は、フランス語で『かくれんぼ』を意味する。


文字通り都内の隠れた場所にある、知る人ぞ知る名店だ。



静かな雰囲気の店内で、机を拭く手を止めたアヤメは「さて」と時計を見る。


「そろそろ頃合いかな……」


アヤメが呟いたのとほぼ同時に、来客を告げるカウベルが乱暴に鳴った。

入り口には、息を切らした少年が一人。



「アヤメさ~ん! 勉強教えてください~!」


少年――結城カンナは泣きついた。





表では大学生、裏では使者の顔を持つアヤメには、もう一つの顔がある。それがケーキ屋のアルバイトだ。


時間概念から外れ、生きる時代に縛られないアヤメは『人の記憶に残りにくい』という体質をもつ。


彼が歴史に干渉をしても改変が起こらない理由であり、だからこそ使者という役割を担っているのだが、どういうわけか稀にその影響を全く受けない者がいる。



「うわっ、このタルト美味しい!」


「がっついて喉詰まらせるなよ?」


アヤメの前で嬉しそうにケーキを頬張る少年、結城カンナもその一人だ。霊感が強く、あらゆる怪異に好かれる彼は、アヤメを忘れるどころか寧ろ何かと頼ってくる。


勉強、人間関係、将来の進路などなど、多感なアイドル志望の高校一年生の悩みは多く、彼がいつ来るか分かるようになるぐらいには相談を受けてきた。



今日は中間試験の山を張りに来たようだが、教科書そっちのけで好物のケーキを頬張っている。


好物に目が眩んだのか、はたまた現実逃避なのか。


アイドルの卵がケーキを暴食するのはマズくないか?とアヤメが思い始めたところで、カンナの食べる手が止まった。



「そうだ、アヤメさん。琥珀のこと、覚えてます?」


ようやく口を開いたかと思えば、全く違う話だった。アヤメは半ば拍子抜けしつつ、言葉を返す。


「あぁ。五十年も約束を信じて待ち続けた、哀れなやつだろう?」


「そうそう。その琥珀、文字が読めるようになろう~って俺と一緒に勉強してたんですけど、疲れてきたのかサボりがちだったことがあって」


「まぁ、中弛みはよくあることだな」


「うん。でもね、なんか最近、急にスイッチが入ったというか、やる気が凄いというか……ものすっごい勉強を頑張ってて」



「なんかあったんですかね~」と首を傾げながらケーキを口に含むカンナ。思い当たることがあるアヤメは、クスリと笑う。


「さてねぇ。そういう時期なんじゃないか? ……例えば、読みたい本が増えたとか」


「あ、そうかも! なんか見たことのない本?冊子?持ってたし」


「黒表紙に金っぽい文字で……」


「そうそう、いつの間に~……ってえぇ!? アヤメさん、なんで知ってるの!?」


「いや? 俺は想像で言っただけだが?黒と金の組み合わせなんてよくあるだろう」




弥生と琥珀の約束が果たされることはなかった。



だが、彼女が残した想いは……願いは。


時を越えて、本を通して、確かに伝わったのだ。



――こちとらその物語のために弥生に捕まって、時間を取られたんだ。ちゃんと気づけよ、琥珀。




最も、彼女が残した物語を全て読んで、その真意を知るまでにはまだ時間がかかるかもしれないが。




弥生にとって、琥珀と過ごした日々が小説に残したいほどの思い出になったように。


琥珀にとって、弥生と過ごした日々も、彼女の面影を追って文字を学んでいるこの時間も、いつか――




「……思い出になるといいな」



吐息と共に聞こえない声で呟いたアヤメは、「さて」と机に頬杖をついて、未だスイーツを前に幸せそうなカンナを見据える。



「カンナ、勉強は?」


「あっ、これ食べてから……」


「アイドルの卵がケーキ六個も頬張っていいのかねぇ」


「うっ、お願い今日だけ見逃して!」


「俺の休憩時間はそんなにないぞ? なんなら、残り時間お前さんを放ってどっか散歩に行ってもいいんだが?」


「あー! ごめんなさい現実逃避してごめんなさい! ちゃんとするから、テスト勉強の山張るの手伝って!」


テストの結果が悲しい思い出にならないように、今度はカンナに付き合わなければならないようだ。



縁とは、思いもよらないところで繋がるものだとアヤメは思う。

それが、この上なく鬱陶しく厄介だとも。



それでも。






それでも、見離すことなど出来ないのだ。



――Fin――

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いつかの縁 有里 ソルト @saltyflower

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