第4話

「今日でいったん、終わりにしましょう」



しばらく続くかと思われた付き合いは、弥生のこの言葉であっけなく終わりを迎えた。



「明日から母の実家に帰省する予定で、しばらく帰って来れないんです。だから、夏休みが終わって帰ってきてから続きを……」


『それは無理だ。俺もそろそろここを離れる』


「そう、ですよね。旅の最中に寄っていらしたんですもんね……」


あからさまに肩を落とす弥生に、アヤメの心が痛まないわけでもない。その気になれば待つことも出来る。


だが、待ったところでその約束が果たされることはない。




――もうすぐ、お前さんは命を落とすんだ。




弥生は帰省先で交通事故に遭って死亡する。覆らない死の運命。これが、彼女を待ち続けた怪異『琥珀』との約束を果たせなかった理由でもある。


人の生死に関わる他者への介入を禁じられたアヤメは、黙って見送ることしか出来ない。



「協力してくださり、ありがとうございました。私、これからも執筆を頑張りますので! きっと有名になるので、待っててくださいね?」


『期待せずに待ってる』


その夢が叶わないと知っているからか、嬉しそうに笑う弥生が酷く眩しく見えて、アヤメは思わず目を逸らす。


仮に死の運命に介入したらどうなるか。その場では助かるが、すぐにまた別の理由で死ぬ。運命とはそういうものだ。


情が移らないようにと他人との関わりに淡泊になっているアヤメが、今さら他人の死の運命を前に揺らぐことはない。



だが、運命を分かっていながら見送ることに関しては、小さな針で心をチクチク刺されるような感覚を覚えた。




「じゃあな」


軽く手をあげて、その場を去ろうとするアヤメ。数歩歩いたところで「待ってください!」と弥生に引き留められた。



「アヤメさん、一つ頼みたいことがあるんです」


「なんだ、帰りを待つことは出来ないぞ?」


訝しげなアヤメを前に、弥生は一冊の薄い和綴じ本を取り出す。手作り感満載のそれは、黒い表紙を金の糸で丁寧に綴じたものだった。


「アヤメさん、琥珀の知り合いなんですよね? ……この本、琥珀に渡してくれませんか?」


「これは……?」


アヤメは受け取って、ざらりと表紙を撫でてみる。

上質な和紙が使われているようだった。金の糸で綴じた模様も複雑で、素人目に見てもかなり凝ったものであると分かる。


「琥珀と出会って話した思い出を元に書いてみた短編小説です。私視点の物語なんですけど……」


説明しながら恥ずかしくなったのか、弥生はほんのり頬を赤らめる。


「私、何故かあの人の声だけはちゃんと聞こえるんです。もう二度と音のある世界は見れないって思っていたから……話してくれるのが、琥珀の声を聞けるのが嬉しくて」


琥珀の声が聞こえたのは、琥珀が怪異だからか、はたまた弥生が死に近づいていたからか。それを確かめる術はない。




ただ、確実に言えるのは。


文字を知らなかった琥珀が弥生を通して文字を知り、新しい世界を見たように。

弥生もまた、琥珀を通して再び音の世界を見たということ。



「琥珀が文字を読めるようになったら、私の書いた話を読んでほしくて。本の感想を『声』で聞いてみたかったんです」


「贅沢なお願いですね」と弥生は笑う。アヤメは仕舞っていたメモ帳を取り出した。




『それは構わないが、どうして自分で渡さない?』


「私、しばらく帰れないんです。実家も県外で遠いし、あんまり時間が経つと、恥ずかしくて渡せなくなってしまいそうだから……今のうちに。小説ってナマモノなんですよ?」



おどけたように言った弥生は「それに」と声の調子を落とす。




「なんとなく、私から渡せない気がするんです。なんでだろう……琥珀に渡すところがうまく想像できなくて」




死に際だから、特別勘が働くのだろうか。アヤメは黙って表紙を撫でる。

今は熱のこもったこの物語も、しばらくすれば物言わぬ冷たい遺品へと成り果てる。




「……あのね、私から渡さない理由は今言った通りなんですけど……」


そこまで言った弥生は、内緒話をするように口に手を当てた。


「アヤメさん、私の悪口を言っている生徒から、さりげなく遠ざけてくれてましたよね」


「!」


「少しですが、読唇術で分かるんです」


弥生は穏やかな笑みを浮かべる。気づいていたのだ。きっと傷ついているだろうに、そんな素振りを一切見せずに彼女は続ける。


「私がどうして『異国ものの恋愛話』を書こうとしているかも、聞かないでくれた。そんな優しい貴方に、この本を預けたい。……これが一番の理由です」


使者の仕事に対価は発生しない。代わりに、依頼人の想いの強さが判断材料となる。依頼人が本気で願い、届けたいと思わなければ、使者が動くことはない。


「配達人さん、渡してくれますか?」


「……」


それは祈るような問いかけ。しばらくして、使者アヤメは形の良い唇を静かに開く。

 


「承った」



「……ありがとう」


弥生が浮かべた微笑みは、アヤメが今まで見てきた彼女の表情で一番優しいものだった。

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