祠壊しと闇のフィクサー

海月里ほとり

第1話

――まさか、祠があれほど脆いとは思わなかった。

 僕はたまたま遊びに行った山奥で古びた祠を砕いてしまったのだ。祠は音もなく砕け散った。同時に世界も綻び始めた。

「まさか、あの祠を壊してしまったのですか?」

 役場の田中さんは困ったように眉を寄せた。

「あの祠は世界のへそだったのです」

 世界の崩壊は役場にも届いていて、普段は人々で賑わう受付も、今は綻びと欠片が散乱するばかりで、誰もいない。いつも待合席に屯していた野口さんも、竹中さんも今日は姿が見えない。家で綻びに呑まれたのか、道中で欠片に寸断されたのか。静かな待合室には田中さんと僕だけが残されていた。

「はい、そうですね。できるだけはやく」

 気がつくと、田中さんはどこかに電話をかけていた。どこに電話をかけているのだろう。聞くともなしに耳を傾けてしまう。けれども相手の声は遠くて、あまり良く聞こえない。

 いつの間にか田中さんの声も遠く、小さくなる。

 顔を上げると、電話をかける田中さんは千々に破れてばらばらになっていた。

 真っ暗な破れ目から、老婆の顔が覗いた。

 それも一人や二人ではない。

 三人だ。

「ああ、また壊してしまったんだね」

 老婆の一人が言った。ひどく億劫そうな口調だった。

「仕方ないさ。形があるものはいつか壊れる」

 別の老婆が受話器を置きながら答えた。受話器からはぷーぷーという断絶の音が聞こえた。

「壊れたら直せばいいさ」

 最後の一人がそう言って、僕に何かを差し出した。

「ほら、頼むよ」

 僕は首を傾げる。こんなに壊れてしまった世界で、何ができるというのだろう。

「頼むよ」

 老婆は繰り返した。見ると、老婆が差し出していたのは古びた針と糸だった。僕はそれを受け取った。

「最近目がよく見えなくてね。糸もろくに通せないのさ」

 それで、僕は針に糸を通そうとする。けれども、針の穴はとても小さくて、糸はとてもぼさぼさで、何度やっても上手く通ってくれない。

「いいさ、焦らなくてもいい」

「ゆっくりで大丈夫だよ」

「どうせ、全部終わってしまってるんだから」

 老婆は口々に僕に声をかける。優しい声だけれども、その声の一つ一つに僕の気はせくばかりで、緊張と焦りによる手の震えは止まらない。

「あの、まだかかります?」

 ふいに、声がした。顔を上げる。少しだけイライラした感情のにじむ無表情で、田中さんが僕たちを見つめていた。

「すみません。針に糸を通せなくて」

「まさか、持ってないんですか? 糸通し」

 驚いたような呆れ声。それから、ため息をついて田中さんはポケットを探った。

「じゃあ、これ使ってください」

 田中さんが取り出したのは細い針金だった。田中さんは針金を少しだけ幅を持たせて二つに折り曲げると、僕に手渡してきた。

 遠い記憶を呼び覚ます。昔、学校の家庭科の時間に習ったことを。あの銀に輝く誰とも知らぬ横顔を。そうだ、あの顔こそないけれども、この針金はあの時の応用だ。

 針金の曲り目を慎重に針の穴に通す。針金は糸を通すよりはるかに簡単に穴を通り抜ける。ここからだ。今度は針金と針の成すU字の空間に糸を通す。これも何とかやり遂げる。

 そして、ゆっくりと針の穴から抜き取っていく。糸は針金に通して二つに折ったまま。ここで焦ってしまえば全部が台無しになってしまう。息の詰まる瞬間。

 かすかな手ごたえとともに、糸が針の穴を通り抜ける。

「よくやったね、坊や」

 老婆たちが声の声がそろった。

 老婆の一人に針と糸を手渡す。老婆はそれを受け取る。右手から左手へ。そのまま、隣の老婆へ。隣の老婆は受け取り、また右手から左手へ。さらに隣の老婆へ。最後の老婆は受け取って、また右手から左手へ、そして最初の老婆に手渡す。針と糸は老婆たちの手の中を泳ぐように行き交う。そのうちに僕は気がつく。針と糸が何かを縫い留めていることを。それは千々に破れた世界の断片だということを。針と糸が世界を縫い固めていく。

 そうして、いつの間にか僕は祠の前に立っていた。

 前と変わらない、砕ける前の祠。いや、違う。祠には痛々しい縫い跡が残っていた。

「今のは?」

「闇のフィクサーですよ」

「え?」

 振り返る。そこにはうんざりした顔をした田中さんが立っていた。

「世界が壊れたら、ああやって破れ目から出てきて、世界を縫い合わせるんです」

「はあ」

「でも、大変ですね」

 田中さんは僕を見ながら言った。その目には冷ややかな哀れみが込められているように思えた。

「なにがですか?」

「修理代ですよ。それなりに高いものになると思いますよ」

「そう、なんですか?」

「ええ」

 田中さんは頷く。僕は不安になる。何を支払わないといけないのだろう。支払うのに十分なだけのお金を自分が持っているようには思えない。

「いつ支払うことになるのですか?」

「さあ、知りませんけど。いつかは支払わないといけませんよ」

「はあ」

「ええ、だからもう壊さないように気を付けてくださいね」

 もう一度ため息をついて、田中さんは去っていった。

 僕はもう一度祠を見つめた。祠は何も言わないでそこに建っていた。


 それから、僕はもうあの山に入ることはなかった。

 支払いの請求はまだ来ていない。

 少なくとも今のところは。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

祠壊しと闇のフィクサー 海月里ほとり @kuragesatohotri

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る