03

『今日の全国の新規感染者数は0人で、国内に限定すると完全終息の見通しが――』

 季節は移り変わり、学校も、街のお店も、なにもかもがほぼ元の生活に戻っていったらしい。

 徐々に社会が以前の活動を取り戻す少し前に、あの人からの連絡は途絶えた。

 心配になり、SNSで連絡を試みるも、いつまでも返事はかえってこなかった。

 しばらくして、僕の住んでいる地域で雪の降り積もったある日、隣町では数年で一度の積雪量になったとのニュース速報が流れてきた。

 久しぶりのその街の名前を聞いて、思わず涙が出た。いま隣町に行けば、雪合戦をして遊べるかもしれない。

 そんな年相応の口実が得られるのなら、一度あの街に行っても許されるのではないか。そんなことを思った。まぁ、僕には友達はいないんだけど。

 くもった電車の窓ガラスを指先で透明にしていった。ひんやりとした冷気を感じながら、徐々に自分の姿が明瞭になっていく。

 ぼんやりとうつった顔に僕はつらくなった。右ほおに一つだけニキビができていて、気づいた瞬間からずきずきと痛くなった。少し前までは、こんなものはできたことがなかったのに、なぜか最近は僕の肌にいくつもの痕をつくっている。 

 それでも、こうして不意に自分の姿を見つめるとき、一瞬だけ目に留まる自分のまばらなまつ毛の生え方だけが懐かしいと感じる。

窓から見える景色からは田んぼやビニールハウスがだんだんと減っていき、広い川の上の鉄橋を僕は走っていた。水面はきらきらと輝いていて、それはときどき僕の瞳を鋭く差した。

川のある景色を抜けると、途端に巨大なビル群がこちらを向くようにたたずんでいた。そのひとつひとつが水族館でいつか見たチンアナゴの身体のように見えた。巨大なブルーの水槽の街中。そう思うと、僕の存在はいったい何なのだろう。この大都市の中でずいぶんとちっぽけな存在なのだと感じてしまった。

 隣町に着いてからはまずは件の大きな美術館を探した。あの人は、美術館の近くに住んでいると言っていた。安直ではあるが、美術館のあたりをしらみつぶしに歩きまわれば、SNSの写真で見たあの人の家にたどり着けるかもしれないと思ったのだ。

しかし、僕の考えはあまかったようで、いつまで経っても、見覚えのある景色にはたどり着くことができなかった。

入り組んだ住宅地に僕は迷い込み、何度角を曲がっても、また同じ景色に揉まれ、この状況は昔ゲームであきらめたダンジョンを僕に思い出させた。もうだめだ、しかしこれは現実なのだから、やり直せない。一生ここから僕は出ることができない。

空の青がいっそう暗くなり、吐息が暖かいと感じたころ、次の曲がり角から女性たちの笑い声が聞こえた。いったいなんだろうと思っていると、そこには僕が写真で見た景色が広がっていたのだった。

 立派な門構えの庇の下に入ると、扉の隙間からおばあさんたちが笑顔を向け合っているのが見えた。僕は途端に恥ずかしくなり、後ろに身をひこうとしたそのとき、わずかな段差に気づかず、足場をふみちがえて腰を落としてしまった。

 ずどん、と音がするかと思ったがそんなことはなく、むしろ僕のぎゃっ、という悲鳴が高く響いた。

「おや」

 扉がゆっくりと開いて、談笑をしていたおばあさんのうちの一人が口を大きく開けてこちらを見ていた。僕はもうここにはいられないと震えながら体に力を入れて逃げ出した。

「大丈夫ですか」

 僕の背中にぶつかった高い声は、なぜか鋭く聞こえて、もう痛いどころではない。

何度も心のなかでちくしょうと悲鳴をあげながら、見知らぬ道を走り、走り、走り抜けた。

駅の方向がどこかもわからず、角をいくつも曲がった。どこをどう走っても街の景色は変わらないままで、僕はスマホに手を伸ばした。

反射的にSNSを開いてしまったが、すぐにそれを閉じた。今は無理だ、今は無理だ。何も話せない。

冬の濃い汗がスマホの画面に落ち、それを拭いた際に、着信履歴を誤って開いてしまった。気が付けば一番上にある、お母さんの電話番号を僕は選んでいた。

「もしもし、もしもし、」

「あぁ、あんた。いまどこ?」

「今日、大切な人に、会いに行ったんだ」

「えぇ? いまどこ? 大丈夫?」

「うん、大丈夫」

「ええと、どこに、誰に会いに行ったの」

「ちょっと、隣町まで。ごめん」

「ていうかそういうのはきっちり事前に言ってから行きなよね」

「うん、ごめん、ごめん、ほんと、でも、大丈夫だった」

「いや、どういう意味? わかんないんだけど、とりあえず帰ってきなよ」

「うん、ほんとよかった、ほんとよかった」

「はいはい、よかったよかった」

「そんな、よかったよかったなんてレベルじゃないんだよ。ほんとうによかったんだ、ほんとうに」

「帰ったら全部聞く。鼻かんで、歩き出せ」

「わかってるって」

「よし、じゃあ切るよ?」

「だめ、切んないで。いま切ったら、たぶん色々とやばいの、しんどいの」

「なにそれ、笑うわ。じゃあずっと電話繋いでいてあげる」

「うん」

「家かえってきたらたくさん話してね?」

「……うーん、うん」

「なんか、最近切羽詰まってた?」

「……うん」

「ごめん、なかなか構ってあげられなくて」

「うん、いや、ううん」

「うんうんって。おもしろい子だなぁ」

「おもしろい?」

「いいや、なんでもないよ。大好き」

 僕は電話を切らないまま、夜の空が明るい方角を目指した。いちばん力強い光の下にはターミナル駅があって、喧騒の中にいるとだんだんとお母さんの声がきこえなくなった。

 電車に乗り込むころには、あきらめて電話を切った。年末年始の車両はひどく混雑していて、みんな誰かと連れ立っていた。たぶん、僕だけが、僕たちを田舎町へと運んでいく景色を知っていたのだと思う。

 暗い車窓に映る自分の顔を撫でた。来年、中学生になる男の顔と思えないほど、柔く幼い。

 来年の今頃はもっと骨がごつごつとしてくるのだろうか。手や足や、肩や首は、もっと、おれだ、おれだ、と男性的に主張してくるだろうか。

 大きくなりたい、と、小さくありたい、というバランスの悪い感情がいつまでも心のど真ん中を巣食っている。こういう中途半端な歩き方に対して、僕はいつか折り合いをつけなければいけない。

 そんな身体を、じぶんで抱きしめようとしたが、スマホが高く鳴った。僕はいそいでSNSを開いた。

――今日、小学生くらいの男の子が家に前に見えました。少しの間、こちらを眺めていたようなのですが、すぐに去ってしまったようでした。久しぶりにお友達とおいしいものを一緒に食べていたので、そのいい匂いにつられたのでしょうか。分けてあげたかったです。

――そんな幼気な姿を見て、ふとあなたのことを思い出しました。しばらく連絡を差し上げなくてごめんなさい。お元気でしたか。もう、そちらも日常を取り戻している頃でしょうか。

 僕は震える指を画面に這わせた。何度、文字を入力しても、思い通りにはならない。あふれる気持ちをおさえて、簡単な言葉を必死に選んだ。

――まぁ、普通に元気ですけどね。

――お返事有難う。元気なのですね。ほっとしました。また、私と文通をしてくれますか。私、歳の離れた友達ははじめてで、もっと、もっとお話ししてみたいです。

 僕も、もっと話したいことがある。しかし、どうしても言葉にならないこともある。こんな世界だからだ。こんな世界だからだ。だから仕方がないのだ。そう思いたい。

――果たして、貴方が僕についてこられるかなぁ。

――世界は完全に元通りとはいかないけれど、あなたのいる新しい世界を、ぜひご一緒したいですね。

 たったの一人なのだ。僕が新しい世界で新しく出会ったのは。それなのに、こんなにも僕の親指が震えるとは。

 別に、いいけどさ。僕の独特な世界観を伝えるのは、大変なんだけどなあ。でもそれも悪くないか。

 そう思いながら、ゆっくりと、慎重に言葉を選んで入力していく。

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ゆびさき 西村たとえ @nishimura_tatoe

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