02

 朝、目が覚めると、いくつもSNSの通知がきていた。またあの人だろうな、と思いメッセージを開くと言葉だけでなく写真も送られてきていた。

鬼ごっこをするにはじゅうぶんに広い庭、そこをかけずりまわっている飼い犬の様子、傍らで咲く名前の知らない花、それを覆うように生い茂る緑の額縁。隅の方に映る優しそうなおばあさんの姿、その手前にこの人の名字だろうか、表札が掲げられている。

 思っていたよりもずいぶんと高齢の人で僕はびっくりしたが、こんなにも柔らかい笑顔をした人を僕は見たことがなく、じっと画面を見つめてしまった。

それに、アパート暮らしの僕にとっては、庭付きの一戸建ての暮らしはとても裕福であることの象徴に感じられ、羨ましくもあった。

――丁寧に手入れをした自慢の庭です。でも、いまはひとりぼっち。私の住んでいる街はとても広くて都会で、ほらあの日本で一番有名な美術館があるでしょう。あの近くです。近所に仲の良い人もたくさんいるのですが、いまはほとんどひとりぼっちになってしまいました。ほんとうに寂しいのです。

 そんな言葉が添えてあった。

 僕は嫉妬の気持ちも込めて、自分の趣味が詰め込まれた四畳半の狭い部屋の写真を送り付け、これが僕の城だ、非常に残念な仕上がりだろう! と自虐的な文章を書いた。

 すると、わぁ、立派な模型がたくさんありますねと返事が返ってきた後に、たてつづけに、写真の端にうつっているのはなんですか? 天井からぶらさがっている人形の名前は? いつもこの部屋のどこに座っているのですか? などと言葉を投げかけてきた。

 僕は時間をかけて丁寧に説明をした。その人の書き言葉を真似て、その人の言葉を覚えるように、丁寧に説明をした。なぜか、すごく楽しかった。

 次はどんな文章を送ろうかと考え、にやにやした僕の表情がスマホの画面に映ったころ、僕の部屋の襖が勢いよく開いた。

「あれ、起きてる」

「うわっ、びっくりしたっ」

 仕事に行ったままだったお母さんがかえってきていて、眠たげな目で僕を眺めていた。化粧をしておらず、髪の毛もはねたまま。完全にオフのオンナ、というやつだ。

「ねぇ、開ける前にノックしてよ」

「なにいってんの、その年で。なんかマセてるよなぁ」

 窓のない部屋に、光が差してまぶしい。

 チャーハンつくるわ、と遠くなった声が聞こえた。僕は朝から重たいメニューだなと思ったが口には出さないでおいた。

「お店は?」

 パラパラのチャーハンをつつきながら僕は訊いた。テーブルの下にだらしなく収まるお母さんの脚はぶらぶらと跳ねている。大きな身体をした子どもみたいだ。

 足の指先のネイルが剥げてきていて、かろうじて色鮮やかだった断片が喰らいついている、というあんばい。

「しばらく閉めることにしたよ。今開けててもねぇ……いろいろと微妙なんだよね……」

「微妙? え、もしかしてお母さん、体調悪いとか?」

「いや、私は別に平気だけど。……まぁ、お客さんがなかなか来ないからなぁ……」

 会話はそれっきりで、しばらくスプーンの音とお母さんの過剰な咀嚼音だけが鳴っていた。お母さんの脚は跳ねるのをやめ、いまはもうかたく結ばれてしまった。

「あ、お茶は?」

「買い忘れてたわー。ペットボトルの水あるでしょ。あれ飲んどいて」

 冷えている二リットルのペットボトルを取り出した。

『今日新たに四百人以上の感染を確認しました。うち、十名が重篤な症状を示しています』

 つけっぱなしのテレビからそのようなアナウンサーの声が僕たちに届いた。

 コップに注ぎすぎた水が溢れて、思わず手の甲についた水滴をすする。零れ落ちた水滴が、静かに畳に染み込んで、僕の手の届かないところまで消えていった。

 じぶんの皮膚の味が僅かに舌に残り、それを何か新しいものに変えたかった。コップに入った水を、渇いた喉に注ぎ込んだ。

 思ったよりも冷静に、しかし乱暴にグラスをテーブルに置いてしまった。

 もしかすると、という考えてはいけないが考えずにはいられない想像が一瞬頭をよぎってしまった。

『それでは、次のニュースです』

 普段は絶対に考えないことなのに、僕の中でたった一つの気持ちが急に沸騰して勢いを増すのをやめない。

 どうしてもあの人に会いたい。そう思った。

「ねぇ、お母さん」

「ん?」

「隣町に大きな美術館があるでしょう。あそこに行きたいんだけど」

「えぇ? 今は絶対だめだよ」

「わかってる」

「どうしたの? あんた芸術とかそんなん好きだっけ」

「うん、そう、好きなの。ねぇ、もう少し収まったら行っていい?」

 僕はテレビ画面に映るニュースキャスターとまだチャーハンをつついているお母さんを交互に見た。お母さんは「んー、そうだなー」とあいまいな返事を繰り返している。

 僕はスマホを取り出して、油っぽい指を滑らせて「近いうちに会おうよ」と文字を打ち、あの人に向けて送信した。

 いつもなら、すぐに返事が来るのにもかかわらず、その日は、日が暮れても返事が来なかった。結局、返事が来たのはずいぶんと夜遅くだった。

――昨日から実は体調が悪くて、寝込んでいます。熱はないのですが、ストレスのせいでしょうか、気分が落ち込んでいます。

 僕はその言葉を何度も繰り返し読んでいた。どのような返事をしていいのかわからず、現れては消える儚い文字を目で追うことしかできなかった。

 言葉を紡ぐことに慣れた指先は僕の気持ちを無視して、てきぱきと動くことを止めない。一方で、僕の気持ちがそれを堰き止める。

 そうして、薄っぺらい文章ばかりが、スマホの画面を埋める。理由なんてないはずなのに、僕はときどきひどく辛い。

「ねぇ、さっき話だけど……」

 傍らにお母さんが立っていることに気づいた。続けて、僕に「なんで急に?」と訊いてきた。

「友達がいるんだ。その人に会いたいんだ。その人が、隣の街にいるんだ」

「……美術館じゃなくて?」

「そう、そうだよ。友達に会いたいんだ。でも、今は行けないんでしょ。そんなのわかってる」

 気がつけば僕のてのひらは、あの人を想う気持ちで濡れていた。

 小さい両手から落としたスマホが、ゆっくりとカーペットへと沈んでいく。いのちよりも大切だと思っていたものが、音もなく横たわる。こちらを向いた画面が、一瞬自分の瞳の光をとらえて反射したようにみえたが、あとは真っ暗のまま。

「だいじな友達なんだね」

「うん。けど、もう少しだけ我慢する」

「えらい。そうしな」

 あの人は、博士でもなければ、お姉さんでもなかった。しかし、僕は彼女と話をする時間がはっきりと好きだった。 

 それは、友達や家族という形ではなく、もっと手のひらに収まるほど小さなものだと思う。「おはよう」や「おやすみ」といったようなすり減ることのなく繰り返される言葉。お互いに自分の好きな写真を見せ合い喜び合うこと。あるいは、繋がっていない時間でさえ、相手が何をしているのだろうと想像する気持ち。

 そういった関係に身を置きたいと思うとともに、そんなふうに世界が穏やかになってほしいと、僕はだんだんと望むようになっていった。

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