ゆびさき
西村たとえ
01
――世界よ、僕みたいになれ。
SNSでそう呟いてからちょうど一年が経ったとき、はじめてコメントがついた。
――ほんとうにそうなっちゃったね。
ずいぶんと古い僕の言葉なのに、それを拾ってくれる誰かがいたなんて。僕は心底嬉しかった。
しかし、続けて届いた言葉に、スマホの画面に触れる僕の指先は冷たくなった。
――家からあまり出られなくなってから、友達に会えなくなりました。とても寂しくて、SNSを始めました。よろしければ私と仲良くしてください。
ネット上のやり取りなのに、とても丁寧な文章を書く人だな、と僕は思った。まるで、教科書で読んだことのあるような知識人の文章だ。きっと、分厚い眼鏡をかけた、博士のような人からの連絡なのだろう。
――友達に会えないことがそんなに寂しいの?
僕は画面上に、指を這わせてそう書いた。
――友達に会えないのは、とても寂しいことです。今般の状況で、あなたも思い当たるところはありませんか。
思い当たるところ……?
あるわけがない。僕はもう、一年以上は学校に行っていないし、友達がいたのは遠く昔の話だ。すぐに汚い言葉を使ってしまう僕の悪いクセのせいで、僕はすべてを失ってしまったのだ。もう僕は何も持っていない。だから友達に会えなくて寂しいなんて感情は、ずっと昔に置いてきてしまった。
全く、この人は幸せな人だ。友達がいて、その人たちに会えないのが寂しいだなんて、ある意味この道の初心者だな。
――ないですね。僕は寂しいだなんて慣れていますし。こんな状況であっても、僕には何にも都合が悪くないですね。むしろ、愉快っすね。世界が僕と同じような状況になったんだから。
僕は次第に、身体が熱を帯びるのを感じながら返事を書いた。スマートフォンの画面の上を、滑らかに動く指。こんなにもいきいきと踊る、跳ねる、久しぶりの感覚。
――そうなんですか。心の強い方なのですね。羨ましいです。
なんなんだ、僕を煽っているのか? ほんとうに心が強いわけではないのは、僕の投稿を舐めるようにみていればわかるはずなのに。
絵文字や顔文字といった装飾の過剰な文面に違和感をおぼえた。たぶんこの人、SNSを使うのが初心者のおばさんなんだな。こういった大人たちほど、やたらと文面にはっきりとした表情をつけたがるのはいったい何故なのだろう。
あーあ、この人の相手をしていても正直つまらないな。しかも、そろそろ眠くなってきた。
僕は傷だらけの学習机に突っ伏して大きくあくびをした。鼻先がいつかつくった消しカスをかすめて、ずいぶんと懐かしい匂いがした。そういえば、最近鉛筆を握っていない。
そのとき、ちょうど、玄関扉の金属音が鳴った。ようやく、お母さんが夜勤にでたんだ。
僕は毎日、お母さんが玄関扉を開いて外に出る音を確認してから眠りにつく。そして、朝早くに起きて、ゲームのスイッチを入れてから洗面台に向かう。一年以上続いている、僕の毎日の日課だ。
一日という膨大な時間を、この狭い四畳半の中で消化するのには、どのように過ごせば良いのかを僕は良く知っている。もうそんな生活をみんなよりもずっと早くしてきたからだ。その点で、僕は今回のような状況になっても、全く困りはしない。
お腹がすいてくると、いつも冷蔵庫に入っている食材を適当に選んで調理をする。名前の付けようのない炒め物を食べて、また部屋に戻る。その繰り返し。
食べ物の味がよくわからないタイプの人間でよかったなと僕は思う。もしも僕が美食家だったら、味のクオリティにこだわるのはもちろん、徹底的に美しく飾り付けなければ気が済まないだろう。一度こだわりはじめると、意地でも手を抜くことができないのは面倒な性格だと思う。
今日もまた夜食からはじまり、朝、昼の食事を終えると、ベッドに寝転んでスマホに手を伸ばす。SNSから流れてくる雑多な情報を眺めていると、世界はどうなってしまうのだろうと不安になる。
『全国で新たに四百人以上の感染を確認 十日連続で二百人越え』
そんな見出しが、アプリの通知画面で踊っているように感じた。最近は、どこのニュースサイトをみていても、感染者数の話題ばかりが目に留まる。
しかし、なにひとつ僕に関係のあるニュースはない。それなのに、なぜ僕はこんなにも希望を失っていく思いがするのだろう。そんなものは、はじめからなかっただろうに。
そんなことを考えていると、またスマホの通知音が高く鳴った。SNSの通知音を鳴る設定にしていたようだ。あまり聞きなれない音なので、いちいち驚いてしまう。
――今日もまた、日が暮れますね。あなたの投稿内容をはじめのほうから閲覧していたら、一日があっという間でした。
また、この人か。やたらと僕に絡んでくるな。他に相手をしてくれる人がいないのか?
まさか、僕は見知らぬ人から好かれているのか。いや、そんな人がいるはずがない。でも、僕の投稿をはじめから見ていただと……。こんな僕に興味を持ってくれる人なんて……。
光の消えたスマホに映った瞳には青色が灯っていて、自分の黒目と白目の境界はあいまいになっていた。僕は部屋の電気をつけるのを忘れていることに気づき、スイッチへと手を伸ばす。
しかし、先にスマホの画面が再度明るくなり、ひょうきんな音が再度高く鳴った。
また、あの人からの連絡だ。
――お返事待っています。
なんだ、なんだ、なんなんだ。
僕だって、気になる人のSNSの内容を確認することはあるけれど、普通いちいち本人に対して直接それを報告してくるものかな。
――羨ましいですね。一日があっという間なんて。僕はいろいろとネットで情報を漁って、やっと膨大な時間を消化できるって感じなんですけどね。正直暇すぎて、ニュースサイトをはしごしてばかりですね。僕は新しい知識に出会うのが好きなのでね。新規感染者がどの地域で何人だとか、もはや暗唱できるレベルですからね。
僕はそう書いた。
――それはすごいことですよ。膨大な時間の使い方を知っているなんて。友達と会えないというだけで、狼狽している私とは大違いです。
――ええ、まぁ、僕ははじめから友達いないんで。
――そうですか。じゃあこの道のプロですね。
――へぇ、この道?
――現在の世界で生きていくうえでの、選ばれしエリートだということです。
……え、エリート……。
――いや、そんなこと言われたのは初めてなんですけど。
――そうなんですか。じゃあ、貴方の良さを私がはじめて発見できた人になりますね。
わけがわからない。いったい何なんだ。
不思議な人だ。おもしろい。
僕は頭から布団をかぶって、スマホの画面をまじまじと見た。一度、画面を暗くしてみる。ほんとうの夜がやってくる。画面を明るくする。何度見ても、僕を褒めてくれるとても美しい文章がそこにある。
悪くない気分だった。勉強や運動で褒められたことがない僕が、まさかこんなことで褒められるなんて。
きっと博士になるほど頭が良くて、しかも美人なお姉さまなのかもしれない。僕の想像はどんどんと更新されていった。
この人はこんなにも素敵な文章を書くというのに、僕のお母さんときたら。
――コンビニのチキン、マジ美味い。
一か月前にそんなくだらない投稿をしていて、それっきり投稿がない。なんてつまらない投稿をしている人間なのかと思うとともに、この投稿者が自分の母親であることがときどき恥ずかしい。
再度目を閉じる。今日はお母さんが帰ってこない日なのかもしれない。あるいは、また知らない人を家にあげて、朝までお酒を飲むのかもしれない。
このあいだは、ぼろぼろの服を着たおじさんを連れてかえってきて、お母さんはたくさん料理をつくって食べさせていた。そのまえは、派手な爪をした若い女の人を連れてかえってきて、お母さんは朝までその子の話をきいていた。
そのとき、僕は傍らでご飯を食べたり、後片付けをしたり、それが済んでしまったら、部屋の適当なところを掃除するふりをしていた。
僕は眠ったふりをして、自分の部屋から襖で隔てた隣の部屋の会話を我慢強く聞いていた。ときどき、泣き声が混じる陽気なおしゃべりは、ほんとうに楽しそうだった。
要するに、お母さんは困っている人を助けてあげたい性質の人間なのだ。
僕はとても賢いので、お母さんがそういうことばかりしているからお母さんの時間がなくなって、結果として僕やお母さん自身が貧乏になっているのだと気づいている。しかし、僕はやはり賢いので、いちいち本人にそんなことを言ったりはしない。
だけど、正直、ときどきさみしい。
そんな僕にも、SNSの友達はたくさんいる。しかし、一度たりとも実際に会ったことはない。そういうことを許してくれる社会じゃないし、僕はそれをわかっているから、忠実に守ってきたのだ。
たとえば、テレビの中の大人たちは、「ネットで知り合った人と実際に会っちゃダメ」と、ほんとうの親みたいに口うるさく言う。ウチの大人はお店で知り合った人を家に連れ込んでくるけれど、そんなのを見て育ってきた僕はいったい誰を信じればいいのだろう。
とりあえず、テレビの中の大人たちのほうがいくぶんちゃんとしているように見えるから、こちらを信じるとしよう、などと思う。
けれど、たとえばネットで知り合ったある人の姿を、一目見るだけだったら? 直接話はせずに、どんなふうに暮らしているのかだけを知るのは?
そんなことを考える。
沈みすぎた枕のせいで寝心地が悪く、僕は何度も寝返りを打つ。なんだか今日はいつもよりも寝つきが悪い。
気になる人を一目見るだけ。それなら、この厳しい社会は許してくれるだろうか。
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