第3話 二つ存在
浦島太郎の話が、
「表裏の発想」
というものを考えさせる一つの扉のように感じると、
「この浦島太郎の話を、別の角度から見る」
ということになり、その発想が、
「SFとしての話」
と考えられるのであった。
これが、前述の、
「光速で進むことによっての時空の歪み」
という発想である。
「限りなくゼロに近い」
という発想であったり、
「無限と限界」
という考え方などは、この浦島太郎の話に通じるものがあるということであった。
その中の一つとして、
「次の瞬間には、無限の可能性が広がっている」
という考え方で、それが、
「パラレルワールドという発想を生む」
ということであった。
パラレルワールドというものは、次の瞬間に広がっている無限の可能性というものが、別の形で存在しているというものである。
しかし、このパラレルワールドという考え方は、勘違いされやすいのだが、これは、
「異次元」
という発想ではなく、あくまでも、
「並行宇宙」
という考え方であり、
「ある世界、ある時空から分岐し、そこからつながっていくものだ」
ということであるので、可能性が無限と考えられる以上、その先には、無限しかないのではないかということになるのであった。
だから、パラレルワールドというのは、
「その可能性を考えることはできるが、異次元であったり、宇宙を一つと考えている間は、異質な考え方だということになり、簡単に信じられるものではない」
ということになるであろう。
その一つの考え方として、
「命というのは、一人の人に必ず一つなのだろうか?」
ということであった。
もっと考えれば、パラレルワールドが存在するということは、
「パラレルワールドの数だけ、自分が存在している」
といってもいいと考えることであった。
しかし、これは考え方によっては、
「次の瞬間、自分がこの世から消えている」
という可能性だってあるということだ。
そうなると、
「パラレルワールドというものを考える場合に、それを、誰か一人の人間という世界から見てしまう」
ということになると、そこには、
「終わってしまう」
という世界が広がっているということになる。
だとすれば、
「死んでしまう世界」
というものを、
「パラレルワールドとして、その人は認めることができるのか?」
とも考えられる。
「ロボット工学における、フレーム問題」
というものを、人間は、無意識に理解する形で、切りぬけているという考え方は、
「ひょっとすると、このパラレルワールドというものを凌駕できていることから、問題なくできている」
といえるのかも知れない。
つまりは、パラレルワールドがいくら無限にあるとしても、その中で。
「自分に関係のある部分」
というものだけを、
「しっかりと理解できている」
ということになるのであろう。
そんなフレーム問題を、無意識に解決できるということが、
「人間というものを、高等動物だ」
ということで認識し、それができない動物を、
「人間よりも下等なもの」
とし、さらには、原始生物を、
「最下等」
としてランク付けできるというのは、それだけ、
「人間というものの進化を、自覚している」
ということになるからではないだろうか。
人間というものを高等動物だと理解できることが、
「人間の人間たるゆえん」
であり、自信を持つことで、どんどん人間は進化をし、かしこくなっていくということになるのだ。
だが、進化ばかりしていていいのかという発想があるからなのか、人間には、
「戒め」
という考え方もある。
その考えは、宗教であったり、
「神様の存在」
というものから、人間に対しての、
「戒律」
というものが存在している。
これを、
「人間よりも上の存在としての、神様を作り上げることで、人間に対して、自信過剰になりすぎないように、戒めるのだ」
ということになるのだろう。
ここで、人間は、
「自信を持つことで、進化を遂げる」
という正の部分と、
「あまり自信過剰にいなってしまうと、いずれは、悪い方の報いを受ける」
という発想からなのか、暴走を防ぐという意味での、
「神様の存在」
あるいは、
「戒律による縛り」
というものが存在するということになるのであろう。
そんなことを考えていると、
「パラレルワールドと呼ばれるものが、本当にい、無限に存在しているのだろうか?」
ということである。
それを考えた時、
「人間の寿命というのは、このパラレルワールドに影響を与えるのかどうか?」
という考え方である。
いくら、無限の可能性があるとはいえ、その中で、
「人間一人一人の寿命は、パラレルワールドであっても、決まっているものであり、一つの世界で、その人が死ぬのであれば、すべての世界でも死んでしまう」
ということになると考えると、
「無限だ」
と思われるパラレルワールドは、かなり制限された世界になるということである。
こうなると、
「フレーム問題の解決になる」
というわけで、
「自信過剰というものが、人間においてのパラレルワールドを制限してくれる」
ともいえるのではないだろうか?
こうやって、パラレルワールドというものが、
「人間の寿命に大きく影響される」
と考えると、
「フレーム問題は解決できる」
と言え、そのことによって、
「ロボット開発も進む」
といえるのではないかと思えるが、
「果たしてそううまくいくのだろうか?」
ということもあるのであった。
それが、
「浦島太郎」
のような、
「表裏の話」
というものであり、
「情けは人のためならず」
ということわざに通じる、
「表裏の関係」
ではないか?
ということであった。
表裏の関係というのは
「正反対」
ということでもあるが、逆に、
「表裏一体」
と言われるように紙一重ともいえるのではないだろうか。
その考えがいわゆる、
「長所と短所」
というものではないだろうか?
一見、
「双極の端同士」
といえるものに見えるが、よく言われるように、
「長所と短所は紙一重」
ということである。
そこには、
「プラスマイナス」
という数学的な考え方が存在していて、
「鏡の発想」
として考えられることもあるというものだ。
鏡の発想として気になるものとして、一つあるのは、
「左右は反転するのに、上下は反転しない」
というものである。
鏡に自分の姿を正対させた時。
「右手が左手になり、左手が右手になる」
という現象を見たことがあるであろう。
さらに、プリントの入ったシャツなどを見ると、左右が反対に映っているので、正直、すぐには、何と書いてあるのか分からないというものである。
これに関しては、科学的にハッキリと証明されたというわけではない。
一つ言えることとしては、
「あくまでも、目の前に映っているのは、反射しているものだということを人間が、無意識に意識していることで、まるで、鏡に映っている自分を、
「背中から見ている」
という風に感じることで、
「左右が反対に見えるのは当たり前のことだ」
と、先回りして判断することで、不思議に思うことなく、左右の反転をとらえているのだろう。
その反転を無意識に見れるのが、
「人間」
というもので、こちらも、
「フレーム問題を人間が、いともたやすく解決できる」
ということの理由ではないか?
ということになるのだろう。
それを考えると、
「鏡の問題にしても、人間の錯覚に関するものというのは、意外と、ある程度人間には分かっているもので、それを意識しないようにするという習性が、人間にはあるのかも知れない」
と考えられるのであった。
このように、
「無意識のうちに何かを感じている」
ということで、
「科学的に、ハッキリと分かっていない」
というのは、結構世の中には一杯あるようで、その代表例として、
「デジャブ」
というものがある。
これは、
「初めて見るはずのものなのに以前にどこかで見たことがある」
という現象のことである。
これに関しては、ほとんどの人が感じたことがあるだろう。子供の頃の記憶であったりするのが多いのだが、よくあることとして、
「喫茶店や、美術館などに飾られている絵を見たりした時、デジャブと呼ばれる現象になったりするのだ」
という。
これも、ハッキリとした理由は分かっていないが、その中に考えられることとして、
「辻褄合わせではないか?」
と考えているのが、二宮賢三だったのだ。
辻褄合わせというのは、
「以前に見たことがあったと思われる漠然とした記憶が、似た絵を見ることで、無意識に感じていることを、根拠のあるものということで考えようとして、意識させようと考えている」
ということから、デジャブというものとして考えさせるのではないか?
と考えるのだった。
つまりは、
「デジャブ」
というものは、
「あくまでも無意識に感じているものだ」
という前提に立つことで、
「意識をいかに優先させえるか?」
ということであった。
無意識に感じることというのは、
「今まで感じたことに対して、辻褄を合わせようとするものではないか?」
と、二宮は感じていた。
だから、
「無意識というのは、意識して考えるということを自分で分かっているくせに、それを意識させようとしないことだ」
と考えるからではないだろうか?
「目の前にある絵を見たことがある」
として考えるのは、
「自分が人間なんだ」
ということを、
「意識しているからだ」
と考えるのは、考えすぎということであろうか?
ただ、考えすぎるということで、人間は、
「考えないようにしよう」
という意識が働くのではないか?
それを考えると、
「人間が、フレーム問題を解決したり」
あるいは、
「上下反転の鏡の問題を不思議だとは思いながらも、スルーしたり」
あるいは、
「デジャブ」
というものを、
「不思議なことだ」
と意識しながらも、受け入れることができているというのは、この、
「無意識という意識:
というものが、人間に与える影響の大きさというものを示しているということからなのかも知れない。
二宮は、子供の頃は、
「あまり無意識に何かを感じる」
ということはなかったと思っている。
むしろ、
「あまり、余計なことを考えることはなかった」
と思っているのであったが、
それは、
「無意識に何かを考えるということをしたくない」
という感覚があったということであろう。
小学生の頃から、
「天才ではないか?」
と言われていた二宮であったが、小学生の低学年の頃は、成績というのは、最悪で、
「将来、どうしようもないな」
と先制がさじを泣けるほどであった。
というのは、
「基礎の基礎が分かっていない」
ということであった。
というのも、算数でいえば、
「1+1=2」
ということが分かっていなかったのだ。
「どうして、そうなるんだ?」
ということを突き詰められると、先生も答えようがない。
数学的に証明することはできるのだろうが、それを小学一年生に説明しても何になるわけでもない。
だから先生とすれば、
「そうなっているんだから、素直にそう感じてくれればいいんだ」
としか言えないだろう。
確かに、少年は屁理屈を言っているのであって、先生からすれば、
「先生をバカにしているのではないか?」
とさえ思ってしまうほどであり。先生とすれば、
「なんとも面倒くさい生徒だ」
としか思わないだろう。
そして、
「こんな生徒が、一番厄介だ」
と感じていたのかも知れない。
できることなら、無視したいと思うくらいで、
「本当は天才なのでは?」
と一瞬頭をよぎるのかも知れないが、もし、天才だったとすれば、それはそれで、先生としては、
「なるべくかかわりたくない」
と思うことだろう。
特に、二宮の一年生の時の担任は、
「公務員というだけで教師になった」
というような、
「典型的な公務員教師」
であり、
「余計なことにはかかわらない」
という先生だったのだ。
特に、今の時代のように、
「これ以上ない」
というブラック企業であれば、とっくの昔に辞めていたことだろう。
というよりも、
「最初から教師などを目指すことはなかった」
に違いない。
この先生は、嫌なことにはかかわらないという性格であるが、そのかわり、かかわらないようにするための、下準備や、いろいろなリサーチに掛けては、余念がないといってもいいだろう。
だから、先生が教師になった頃も、少しはきつい状態であったのだろうが、今ほどではない。
何といっても、当時は、
「ゆとり教育」
という時代だったこともあり、確かに先生はそれなりに大変でもあったが、その先生が、
「辞めてしまおう」
というほどのことまではなかったようだ。
ゆとり教育ということで、
「生徒から面倒くさい質問がくる」
ということもなかった。
だが、中には、二宮のように、一年生の時から、成績が悪く、
「何が分からないから成績が悪いのか?」
ということが分かっていない生徒がほとんどだった。
そんな生徒に対しては、先生は、底上げということをしようとは、最初から思わなかった。
というのは、
「分からないということは、分かろうとしないのだから、いくら上から押さえつけてもどうしようもない」
ということが考えられるからであった。
しかし、二宮の場合は、
「何が分かっているのかまでは分からなかったが、明らかに何かを分かっている」
と感じたのだ。
そうでもなければ、
「あんな風に、しつこく質問をしてくることはないだろう」
ということであった。
だから、二宮としては、
「先生に嫌がらせをしている」
という意識があるわけではないのに、先生が面倒くさそうに対応してくるということを分かっているので、今度は二宮が、
「先生に嫌がらせをされている」
と感じるのだ。
そこで、彼が考えたのは、
「お互いにすれ違っているということをどっちが先に気づくのか?」
ということであったが、それが二宮だったことで、二宮は、そこで感じた、
「矛盾」
というものと、
「矛盾というものが、無意味に思えることの錯覚を呼ぶことになる」
と感じたことであった。
二宮は、
「無意識」
というものと、
「矛盾」
というものの、接点を感じた時、なぜか、それまで埋まらなかった、
「パズルのピースが埋まった」
かのように感じたのだ。
「1+1=2」
というものを、
「深く考える必要などないんだ」
と考えるようになった。
それは、
「考えることが無意味だ」
ということではないことに間違いはない。
ただ、
「無意味ということに意味がある」
と考えるようになったのも、無理のないことだったのだ。
そう考えることで、自分が、まるで最初に、その公式を見た時に戻ったかのようにい感じると、その感覚は、
「タイムリープ」
と呼ばれるものに似ていた。
「タイムリープ」
というものは、誰もが一度は考えるものとして、
「人生をやり直せるとすれば、どこからやり直したい?」
という時に考えられるものとすれば、
「過去に戻るアイテム」
として、
「タイムマシン」
であったり、
「ワームホール」
というものが、あるというではないか。
どちらも、
「タイムスリップ」
という現象に対してのもので、
「タイムマシン」
というのは、人間が作為的に作り出したものであり、
「ワームホール」
というのは、自然界において、出来上がったものだといえるものであった。
それぞれに、
「時空の歪み」
というものを利用して、
「時空を飛び越える」
という発想になるのだが、それは前述のように、
「距離的な移動ができるものではなく、あくまでも、時間のみを超えるものだ」
という発想であった。
そして、この際の、
「タイムスリップというものと、タイムリープとの違い」
というものがどういうものなのかというと、
「タイムスリップ」
というのは、
「自分の身体も精神も、、タイムマシンのようなアイテムを使って、飛び越える」
という発想にいなる。
しかし、
「タイムリープ」
というものは、あくまでも、
「自分が、どの過去の部分に戻りたいか?」
という発想から生まれたものなので、その範囲は、あくまでも、
「自分というものに限られる」
ということである。
つまりは、
「今の意識を持ったまま、過去や未来の自分に乗り移る」
というものである。
だから、
「タイムリープというのは、乗り移ることができる自分という範囲に限られる」
ということになる。
だから、
「タイムリープ」
においては、最初から、
「無限というものは考えられない」
といえるのではないだろうか?
それを考えると、
「本来であれば、タイムマシンというものを開発されるのが本当なのだろうが、無限というものがネックになっているのであれば、人間の限界というものは、タイムリープでしかない」
ということになるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「今の時代において、タイムマシンが開発されない理屈も分かる気がする」
ということになる。
そして、ロボット開発においては、逆に、
「フレーム問題」
というものがネックになっていると考えすぎるあまり、せっかく
「無限では解決できない」
ということを意識としては分かっているにも関わらず、そこから一歩先を見ることができないということで、
「ロボット開発」
というものも、行きつかないのだ。
といえるのではないだろうか?
「百里の道は九十九里を半ばとす」
ということわざがあるが、これを、
「逆も真なり」
と考えるとするなら、
「石橋を叩いて渡る」
という考えが、却って、
「自由な発想」
というものを妨げているのではないか?
と感じるのであった。
「タイムリープ」
というものが、
「1+1=2」
という簡単ではあるが、理解するには難しいというものを乗り越えるために必要なのは、
「一周回って、発想を豊かにするしかない」
ということを、二宮は感じた。
他の人のように、
「何も疑問を感じずに、こんなものだ」
と考えることができれば、
「どれほど楽だ」
ということになるということなのだろうか?
そこに、二宮少年が疑問を抱いたことで、遠回りにはなったが、そこで、
「遠回りではあるが、一周回ってすべてを見る」
ということで、
「ものには、限界というものがある」
ということを感じることができたということで、彼をそののち、
「彼は天才なのではないか?」
と言われるように仕向けたということで、二宮少年は、
「最初のステップ」
というものを乗り越えたということになるのだろう。
次のステップが乗り越えられるのかどうか、それは、何とも言えないということであり、二宮は、自分では、
「乗り越えられなかった」
と思っているのであった。
そんな状態で二宮は、
「一度、疑問を抱いて、そこに図らずも、無意識のうちに理屈めいたものを感じると、そこから先は、今までの遅れを取り戻すくらいは、なんでもないことであった。
今までは、どの科目も納得いかないということで、成績は最悪だったのだが、一つに辻褄という理屈が、歯車として噛み合うようになると、すべての科目についても、理屈が分かってくる。
「算数だけではなく、国語も理科も、社会も、辻褄が合ってくる」
ということで、成績もよくなってきた。
学校の先生は、
「私立の中学に行けばいい」
ということをほのめかしてくれたし、親も、
「ここまで成績がよくなったんだから、私立の中学に行っても構わない」
といってくれた。
それだけ、
「勉強に関してはどうしようもない」
という息子が、いきなり成績がトップクラスになったのだから、息子が望めば、
「私立に行く」
ということくらい、
「叶えてやりたい」
と思うのも、当たり前というものだった。
だが、二宮は、
「私立中学にはいかない」
と思っていたようだ。
というのは、二宮少年は、理屈が合わなければ、納得しないタイプということもあり、性格的に、
「石橋を叩いてでも渡らないタイプ」
ということである。
これも、言葉としては面白く。
本来であれば、
「石橋を叩いて渡る」
というのが本来のことわざであるが、二宮の場合は、
「石橋を叩こうとも、叩くまいとも渡らない」
ということであり、
「石橋は叩くが渡らない」
という意味ではない。
それこそ、
「情けは人のためならず」
ということわざに似たところがあるという意味ではないだろうか。
つまり、二宮というのは、どんなに用心しても、し足りないということであり、これこそ、
「臆病なのか、それとも、用心深いのか?」
ということが、
「紙一重だ」
ということになるのであろう。
それを考えても、
「二宮という男は、他の人と考え方が、まったく違っているものだ」
というものであった。
「ひょっとすると、1+1=2というものは、この臆病な性格からきているのではないだろうか?」
と考えるのであった。
「人間が、フレーム問題を解決することができる」
ということが、なぜなのか?
ということを考えた時、
「臆病だからではないか?」
と、二宮は、高校生くらいになってそう感じたのだが、その根拠となる考えは、中学時代のこの時に分かっていたのかも知れない。
しかも、臆病だと感じたのは、
「自分が中学受験をしない」
と考えたことに由来しているからであった。
「頭がキレるのは、臆病だからなのかも知れない」
といってもいいかも知れない。
これは、人間以外が持っている、
「強力な本能」
というものが影響しているのかも知れない。
それも、
「自衛本能」
というものだ。
それが、身体の特徴にもなり、
「保護色」
であったり、
「身体に毒を持っていたり」
と、相手が自分を攻撃してきた時に守ることができる力を持っている必要がある場合の本能ということである。
しかし、それはあくまでも、
「無駄な抵抗だ」
といえるのかも知れない。
「自然の摂理」
として、
「抗えない運命」
というものがあり、
「食われてしまうのは仕方のないこと」
という運命もあるが、実際には、歴然とした力の差があるが、
「この動物が食われてしまうと、自然の摂理がうまくいかない」
ということになる場合がある。
それが、一種の、
「三すくみ」
のような場合があるからだ。
力の差は歴然としていて、
「防備の業か力がなければ、相手に食われて終わりだ」
ということになると、そこで、
「自然の摂理」
というものが崩れてしまう。
ということになると、
「どうすればいいのか?」
ということを考えると、そこには、それぞれに、
「お互いに相手を襲うということができない」
という、
「力の均衡」
というものが存在しなければいけないということになる。
それが、ここでいう、
「三すくみ」
というもので、
「お互いにお互いをけん制し合う」
ということで、それぞれに、
「自分が優位に立っている相手に攻撃を加えると、次にやられるのは自分だ」
ということを、自分なりに理解しているということになるだろう。
それを思うと、
「もう一つの何かの力が存在する」
ということで、均衡が破れ、そこで、
「自然の摂理」
というものから、抜け出せる存在の動物が生まれてくることになる。。
その存在というのが、、
「人間」
という動物であり、それゆえに、
「高等動物」
としての存在を示すことで、
「人間だけが特殊なもの」
ということで、他の動物から見れば、
「人間というのは、神に近い存在なのではないか?」
と考えられるのではないだろうか?
「他の動物から見れば、人間は、二つの命を持っているのかも知れない」
と感じるのだった。
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