第2話 逆も真なり

 ここに一人、

「二宮賢三」

 という男がいる。

 彼は、大学を卒業し、そのまま大学院に進んだ一種の、

「天才だ」

 といってもいいだろう。

 彼は、

「時空について」

 という研究をしている、

「物理学者」

 であった。

 主にタイムマシンなるものの研究を行っていて、彼のモットーとすれば、

「考え方としては、基本的に、タイムマシンの開発は不可能だと自分では思っている」

 ということである。

 しかし、それでもタイムマシンの研究をするのは、最初は、

「タイムマシンの研究は、いくらやっても完成に至ることはない」

 ということを証明したいというところから始まっていた。

 いくら研究を続けても、最後まで行きつくことのない、いわゆる、

「交わることのない平行線を描いているのだ」

 とすれば、

「どこかで誰かが止める必要がある」

 ということであり、

「それには、誰かが、有無も言わさないような理屈で止めるしかない」

 ということであった。

 彼には一つの、

「仮説」

 と言えばいいのか、それなりの基本となる考え方があった。

 それは、

「限りなくゼロに近い」

 という発想であった。

 その発想の出発点は、

「合わせ鏡」

 であったり、

「マトリョシカ人形」

 というものであった。

「合わせ鏡というのは、真ん中に自分がいてその左右あるいは、前後に鏡を置くことによって、永遠に続いている自分という姿を映し出すことで、永遠に続いていくものが、無限であるがゆえに、本来ではゼロになるはずなのだが、実際に消えることがないというのは、数学が証明している」

 ということであった。

 この理論が果たして、物理学に通用するものなのか、そして、もしこれが、

「無限」

 ということで共通するものだとすれば、

「未来というものが、次の瞬間に、無限の可能性を秘めていると考えると、そのどれが瞬時にして決まるかということを、人間は、ある程度絞り込める」

 というわけである。

 それが、

「ロボット工学としては不可能と言われるフレーム問題というものを、人間だけが、何とかできる」

 ということである。

 動物も何とかできるのだが、そこは、本能という言葉によって裏付けられることで、人間のそれとは違っているということだ。

 しかも、人間における、

「フレーム問題」

 というのは、決して解決できるということではないのであった。

 ロボット工学における

「フレーム問題」

 というのは、基本的に前述の、

「次の瞬間には無限の可能性が広がっている」

 というところからきているというものである。

 というのも、何かをしようとすると、次の瞬間、さらには、その次の瞬間に何が起こるかということを前もって考えておかないと、そこからどのように行動していいのか分からず、

「一歩も動けなくなる」

 というのが、当たり前ということになるであろう。

 これは、人間にだけあてはまるものではなく、動物や昆虫にも言えることである。

 ただ、動物や昆虫というものは、

「天敵」

 というものの存在を知っていて、

「弱肉強食」

 という世界において、

「自分がいかにすれば助かるか?」

 ということを分かっている。

 それを、

「本能」

 というものなのだろうが、ただ、ここで弱者というものがすべて助かってしまうとすれば、

「自然の摂理」

 というものが成り立たなくなってしまう。

 ということである。

 世の中が循環することで、成り立っている世界としては、

「弱肉強食」

 というのは、存在しなければいけないことであり、それでも、、すべてが滅ぼされてしまうと、今度は、強い方も、

「餌がなくなる」

 ということで、当たり前のこととして、

「弱肉強食」

 というのは、絶対的な存在だということに間違いはないのだが、それだけになってしまうと、

「自然の摂理」

 というものが狂ってしまう。

 つまりは、

「自然の摂理を保つために、弱肉強食は必要なのだが、それがすべてではなく、そのために、バランスというものを保たなければいけない」

 ということであった。

 だから、

「弱肉強食」

 というものにおいて、保護色などのように、自分を守る本能というものの存在が、ある意味、

「絶対的なことだ」

 ということになるのではないだろうか。

 それを考えると、

「弱肉強食」

 というものと、

「本能というものである、自衛」

 ということが、それぞれの、頂点として、

「相対的なものだ」

 といってしかるべきではないだろうか?

 そこ保たれているのが、

「自然の摂理だ」

 ということになるのであれば、

「人間にだけ、フレーム問題を解決することができる」

 という理屈も見えてくるのではないだろうか?

 そんなことを考えていると、

「時間と空間のそれぞれを考える時空」

 というものが、その両端に、絶対的な境界を、

「限界」

 という形で持っているとすれば、

「それが人間というものではないか?」

 といえるのではないだろうか?

「人間というのは、無限を求めている」

 といってもいいのだが、

「無限でないからこそ、人間には人間にしかできないことがあり、それが、人間を、高等動物だ」

 ということとしていえるのではないだろうか?

 人間というのは、他の動物のように、本能という面では、それほどハッキリとしたものを持っているわけではなく、自然界に入ると、逃れることはできない」

 ということになるのではないだろうか。

 そもそも、

「無限というものが存在するのかどうか。それが問題である」

 といえる。

 一つの考え方としては、

「無限というものを証明することができれば、限界というものも証明することができる」

 ということで、逆に、

「限界というものを証明できれば、無限の存在も証明できる」

 ということになる。

「限界というものは、物証を伴うが、無限には物証を伴わない」

 といえる。

 つまり、

「物証が存在してしまえば、そこで、限界というものが証明されることになり、限界以外で、物証をどうしても見つけることができないというものがあれば、それが、無限ということになる」

 ということである。

 だから、

「無限というものを証明するには、まず、限界というものを証明しなければいけない」

 ということであり、先に無限だけを追い求めている考えだけを持っていれば、そこには、決して、

「無限も限界」

 というものを証明することなどできるわけはないということであった。

 どうしても、人間は、

「無限」

 というものを追い求めようとする。

 それが、例えば、

「不老不死」

 という考え方であろう。

 よくよく考えると、前述の。

「浦島太郎」

 のお話のように、

「自分の知らない。自分を知らない世界」

 というものが存在した時の、

「虚空という感情が、どれほど虚しいものであるか?」

 と考えると。そこにあるのは、

「いかに、限界というものをいかに求め、そこから、無限という発想に結びつけることができなければ、自分がそこに存在しているという意義をも見つけることができず。最後は虚しさという無限地獄を見る」

 ということになってしまうに違いないということである。

 世の中において、

「無限であるか、限界があるか?」

 ということを分かっておかないと、死んでからあの世に行って、自分がどのような運命にあるのかということが分からないだろう。

 果たして、死んでから、死後の世界にたどり着くまでに、自分の人生を顧みる時間があって、理解することができるのか?

 それこそ、

「時空」

 というものの正体なのではないだろうか?

 浦島太郎の話などで思い浮かべることというと、

「なぜ、ハッピーエンドではないのか?」

 ということであった。

 お話の最初は、

「虐められているカメを助けたことで、竜宮城へ連れていってもらった」

 ということから始まっているはずで、本来であれば、

「いいことをしたはずなのに、なぜラストが、玉手箱を開けてしまったことで、おじいさんになった」

 として、そこで終わっているのが、おとぎ話としての、

「浦島太郎」

 という話ではないか。

 実は、このお話には、続きがあった。

 それは、

「浦島太郎を愛してしまった乙姫様が、カメになり地上に上がってきて、ツルになった浦島太郎と二人、末永く幸せに暮らした」

 という話であった。

 つまり、本来であれば、浦島太郎のお話というのは、

「恋愛物語であり、ハッピーエンドを向かるお話であった」

 ということなのであった。

 それを考えると、

「なぜ、話が途中で途切れているのか?」

 ということは、詳しくは分からないが、少なくとも、

「開けてはいけない」

 と言われた玉手箱を開けてしまったことが、いわゆる、

「見るなのタブー」

 に抵触するということで、その見せしめとして、おじいさんになってしまったということは間違いのない事実であった。

 つまり浦島太郎というお話は、

「情けは人のためならず」

 という言葉の正論と、誤用との二つがかかわっている話だといえるのではないだろうか?

「人に対して情けを掛けることで、まわりまわって、自分の得になる」

 という正論で考えると、

「本来の口伝通りに、ラストのところが、恋愛物語の、ハッピーエンドだ」

 ということになる。

 しかし、誤用としての、

「情けを掛けるということは、掛けた相手のためにはならない。下手をすれば、自分が損をするということに飛躍すれば考えられなくもない」

 ということである。

 それは、やはり、

「言葉には、表裏の意味が存在しているというものが多い」

 ということもあるからであろう。

 このことわざの場合の、

「情け」

 という言葉であるが、この言葉も、表裏の意味を有する。

 一つは、言葉通りに、

「人情、情愛、思いやり」

 というものであったり、このお話にあるような、

「純愛、恋愛」

 と言った愛情関係の感情などがあるのだが、最近では、それが、

「同情」

 という形のものも存在していて、この同情というのは、

「相手のためにならない」

 という意識を持たせる場合において、勘違いされやすいものということになるのではないであろうか。

 つまり、

「誤用しやすい」

 というところの一つの理由としては、この、

「同情」

 という考えが大きいのではないかと考えられる。

 そして、もう一つの考え方であるが、

「人のためならず」

 という言葉における

「ならず」

 という言葉である。

 本来の意味としては、

「人のため」

 というところにかかるのではないだろうか?

 それを、

「ため」

 という言葉に掛けてしまったことで、誤用されることになり、

「これが本来の意味を誤信させるものになるのではないか?」

 と言われるゆえんであった。

 もちろん、このような解釈というのは、日本のことわざだけでもたくさんあるのだから、このような誤用というものが、他にはないとは言い切れないだろう。

 この言葉が、結構言われるようになったことから、

「ことわざの中には、表裏の意味があり、その解釈によって、正反対の解釈をしている人が結構いる」

 ということになるのであろう。

 特に、このことわざは、

「ことわざの意味がそれぞれ解釈されている」

 ということで、

「実際に、このことわざが使われるようになったのは、鎌倉時代から」

 ということなので、

「結構古くからある言葉だ」

 といってもいいだろう。

 いつ頃から誤用されるようになったのかは定かではないが、現代においては、

「このことわざから、それぞれの単語に、表裏の意味を含ませる」

 という考えが出てきたのではないかと考えられるのではないか?

 というのは、

「情け」

 という言葉を、

「人情、情愛、愛情」

 という言葉だけではなく、

「同情」

 という、ある意味、それこそ本当に、人のためにならないというような意味に使われるようになったものもあるのではないだろうか?

 それを考えると、

「他にも似たような解釈に結びつくような話もあってしかるべきではないか?」

 ということになるであろう。

 浦島太郎の話も、途中で切ってしまうことで、

「表裏の解釈」

 ということになるのであろう。

 考えてみれば、

「物語というものの構成がそうなっている」

 ということから言えるのではないだろうか。

 物語というのは、小説などのように、基本的に、

「起承転結」

 という節目を持って、構成されているといってもいいだろう。

 つまり、

「どこを切っても同じになる」

 という、まるで、

「金太郎飴のようなものではない」

 ということである。

「起承転結」

 における。

「転」

 という部分において切ってしまったことで、今まで言われている浦島太郎の話になっているわけで、最後の、

「結」

 の部分を切ってしまうと、

「まったく別の話になってしまうということのいい例だ」

 ということになるのであろう。

 そんなまったく違った話になってしまうと、どういうことになるかというと、

「起承転結」

 でいうところの、

「起」

 の部分における伏線が、本来であれば、

「結」

 の部分で、

「伏線回収される」

 というはずなのに、それがなされないということになり、

「浦島太郎はいいことをしたはずなのに、どうして、最後には、ひどい目に遭ってしまうのか?」

 という疑問だけが残る形になる。

 だが、

「それでも、このお話を、ハッピーエンドということにできない何かの理由が明治政府にはあったのだろう」

 ということで、どうやら、このお話を最後まで伝えなかったのは、学校教育の中で、浦島太郎のお話を、

「途中で終わらせる」

 という明確な意図があったのであろう。

 浦島太郎という話が、いかに伝わっているかということを、どう考えればいいのか、

「解釈としては、難しいところであった」


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