都合のいい免罪符

森本 晃次

第1話 正反対のことわざ

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年12月時点のものです。とにかく、このお話は、すべてがフィクションです。疑わしいことも含んでいますが、それをウソか本当かというのを考えるのは、読者の自由となります。前作品と、似ているところが多いが、まったくう別の作品となります。


「情けは人のためならず」

 ということわざがあるが、これは、世間では、

「誤用されやすいことわざ」

 ということで、話題になったり、クイズ問題として出題されたりする。

 確かに、言葉を聞いただけでは、それぞれに解釈をする人がいるだろうが、それは、誰も、

「仕方のないことだ」

 という解釈をしないかも知れない。

 というのは、

「どちらの解釈であっても、それぞれに、間違ってはいない」

 という解釈をするだろう。

 しかも、その両方を考えた時、

「これはしょうがない。無理もないことだ」

 という解釈をするだろうと、誰もが思うに違いない。

 しかし、このことわざのように、

「誤用されやすい」

 ということをいわれて、初めて、

「ああ、勘違いしてしまう解釈もあるんだ」

 と思うことだろう。

 人間というのは、

「思い込んでしまう動物」

 ということで、

「自分が信じたものが、絶対に正しい」

 というくらいに思い込んでしまうことで、余計に、

「別の考え方があるなど、普通は思わない」

 ということが当たり前だと思うのだ。

 人間ほどの、高度な知識や解釈を持っているのだから。当然、それくらいのことを考えても無理もないことであろうが、逆に、考えが、一直線だというのも、人間というものの特徴だといってもいいだろう。

 それも、

「自分が考えていることが一番正しい」

 と考えることが多く、そこが人間としての特徴ではないだろうか?

「人間というものが、他に誰もおらず、せめて自分の把握している範囲にだけしか人間というものが存在していない」

 ということであれば、理屈は分かる。

 自分というものが、

「人間という高等動物なのだ」

 と考えてしまうのは、ある意味、

「高等同部であるがゆえの、勝手な思い込みなのかも知れない」

 といえるのではないだろうか?

 それが、

「驕り」

 というもので、

「高等動物の高等動物であるがゆえのこと」

 ということなのかも知れない。

「人間というものを、自分とかかわりのある人だけに限定する」

 というものであれば、

「人間という動物の中に、階層があって、その階層が、一種の身分のようなものではないだろうか?」

 と考えたとすれば、それこそ、

「人間のおこがましいところだ」

 といえるのではないだろうか?

 しかし、これは、賛否両論があるのではないかと思うのだが、

「人間は一つのものであって、その中に、身分というものが存在している」

 ということであって、

「他の動物は、種族であったり、種目という分け方で人間は勝手に、同じ動物であったり、別の動物だとして理解しているが、他の動物から見れば、人間も、人それぞれで、別の動物に見えるのかもしれない」

 と考えるとすれば、

「ひょっとすると、人間というのは、自分たちだけが勝手に、高等動物だと思っているが、あくまでも、人間というものだけが、考えるという力を持っていることで、地球上で、君臨している」

 と思っているのかも知れないが、地球上に生きている人間以外を、

「別の生物だ」

 と思っているからできることだろう。

 もし、

「人間以外の動物は皆一つの共同体を持っていて、その共同体と人間だけの対立という構造で考えた時、人間ほど弱い立場はいない」

 といってもいいだろう。

 つまりは、

「人間包囲網」

 という考え方だといっても過言ではないだろう。

 それを考えると、そこに、

「異次元」

 という考えが生まれてくることになるのではないかと感じるのであった。

「異次元というものと、パラレルワールドという考えは、元々同じものであり、異次元という発想から、パラレルワールドが派生してきたのではないか?」

 という考えが生まれてくるのであった。

「情けは人のためならず」

 という言葉は、元々は、

「いい意味」

 で使われるのが、本当なのである。

 つまり、

「人に対して情けを掛けるというのは、相手のためになるだけではなく、まわりまわって、自分にも戻ってくる」

 ということであり、

「よい行いをすれば、報われることになる」

 ということであるという意味である。

 それを、最近は別の考え方として、

「情けを掛けると、その人のためにならない」

 ということで、まるで、

「人間というのは、確かに一人では生きていけないものだけど、下手をすると、人に頼りがちの考え方になってしまう」

 ということへの、戒めのような考え方となり、一種の、厳しい考え方として受け取られているようである。

 確かに、今の世の中であれば、

「誤用されている方が、ことわざとしての、説得力がある」

 といえるのではないだろうか?

 確かに、今の時代は、簡単に人を信用してしまうと、すぐに騙されるということになるのは分かっているからであろう。

 考えてみれば、昔も、

「人が人を騙す」

 ということもなかったわけではないだろう。

 しかし、戦前の、

「大日本帝国以前」

 という時代であれば、基本的には、

「国家が、人間を縛る」

 ということはあっただろう。

 特に、幕末の開国からこっちというのは、

「幕末という時代は、混乱があったが、あくまでも、一つの考え方を貫く集団が複数あったというだけのことで、それが、開国派であったり、攘夷論者であったり、幕府直轄の考え方というものがあった」

 ということであろう。

 もちろん、それぞれの論者の中に派閥もあるだろうが、

「やり方は異なるとしても、目的は一緒」

 ということで、今の時代の、

「個人主義」

 というほどではないだろう。

 今の時代の、

「個人主義」

 というのは、ある意味、

「戦争のない、平和主義国家」

 ということでの、一種の、

「平和ボケ」

 という考え方からきているものだといっても過言ではないだろう。

 それを思うと、

「逆に、前述のことわざのように、真っ二つに考えが分かれるということで、それぞれに一つの固まった考え方があるということで、まさか、正反対の解釈が存在するなどということは考えられない」

 と後から、

「そんな考えがある」

 ということを言われると、急にハッとした気分になるというのも、無理もないことなのかも知れない。

 それだけ人間というのは、

「自分が人間である」

 ということだけでも、それが誇りだとして考えるものなのではないだろうか。

 人間という種族がどういう動物なのかというと、

「他の動物と違って、思考能力を持っていることから、高等動物だ」

 と思っているのではないかと感じる。

「確かに、通じる言語を持っていて、考えることができることで、いろいろなものを発明して、文明を築いてこれることができた」

 といえるであろう。

 しかし、逆の発想というのもあるというもので、

「他の動物は、思考能力がないかわりに、本能というものがあって、その恩恵は、人間の思考能力に匹敵するものではないか?」

 ということである。

 しかし、実際には、

「人間のように、その時々で、柔軟な発想がないにも関わらず、ちゃんと生存できるのであるから、ある意味、人間よりも、したたかで、生きる力という意味では、他の動物の方が特化しているのかも知れない」

 と感じるのだ。

 だか、逆に言えば、人間が、他の動物を、

「人間ほど、高等な動物はいない」

 という発想のもとに、

「それがゆえに、他の動物は下等動物だ」

 ということになるのだとすれば。それは、

「自然の摂理」

 というものを、理解できていなかった時の発想なのかも知れない。

「自然の摂理」

 というのは、あくまでも、

「動物は、自然界の中ではある意味無力であり、摂理には逆らえない」

 ということだからではないだろうか。

 そこには、

「弱肉強食」

 という発想があり、

「生命には、限界がある」

 という当たり前ともいえることが、その表れというものではないか?

 といえるのではないだろうか?

 人間というものは、

「自然の摂理」

 という考え方の蚊帳の外にいる。

 と考えられるのではないかと思うのだ。

 人間の生命だって、限界があるのは、他の動物と変わりはないはずだ。しかし、人間にとっての、他の動物でいう、

「絶対的な天敵」

 というものはいないではないか。

 例えば、

「三すくみ」

 などのように、

「ヘビは、カエルを食べるが、カエルは、ナメクジを食べる。しかし、そのナメクジはヘビを溶かしてしまう」

 という

「絶対的な天敵」

 というものが存在していて、それが循環することで、うまく回っているということの証明として、この三つが、

「絶対的な天敵である」

 ということの証明になるのだった。

 人間の天敵というのは、本当は存在しているのかも知れないが、それを人間は頭脳によって、それを天敵としない、薬であったり、寄せ付けないという

「兵器」

 のようなものを当たり前のように持っていて。それを自覚していないことから、

「絶対的な天敵は存在していない」

 ということを思うことで、

「人間が高等動物である」

 という証明と、

「都合のいい解釈」

 ということになるのであろう。

「人間にあって、他の動物にないもの」

 ということであれば、それはいくつもあるだろうし、逆の場合もいくつもあるだろう。

 しかし、それが、

「相対するものなのかどうか?」

 ということも限らないといえるに違いない。

「人間にあった、他の動物にないもの」

 ということで、一つ考えられることとしては、

「文明」

 というものではないだろうか?

 人間も、動物も、

「その期間という長さは違う」

 ということであるが、基本的な寿命というものはある。

 ただ、

「人間と、人間以外」

 という考え方をする場合、どの動物に焦点を当てるかということで変わってくる。

「人間は生きて、大体100年がいいところであろうか?」

 もちろん、100歳まで生きれば、かなりのものではあるが、キリのいいところで、

「100年」

 というとしよう。

 人間以外で、身近なものといえば、まずは、

「ペット」

 ということになるであろう。

 ペットというと、一番多いのが、

「犬や猫」

 ということになるだろう。

 そうなると、大体が、10年から15年というのが平均的ではないだろうか。

 だとすると、

「人間よりも、かなり短い」

 と考えられる。

「では、もっと長い動物はいないのか?」

 と考えると、

「鶴は千年、亀は万年」

 というではないか。

 本当にそんなに生きるわけではないだろうが、少なくとも人間よりも長いというのは当たり前のことであろう。

 短いところでは、セミのように、

「成虫になってから、生きても一か月」

 ということであれば、

「人間から考えれば、まったく何もできない期間ではないか?」

 といってもいいだろう。

 だが、どれだけ長く生きようとも、その中身がなければ、どんなに長生きしても、それは

「地獄でしかない」

 といえるだろう。

「浦島太郎」

 の、

「玉手箱を開けた瞬間」

 という考え方と、西遊記などで言われるような、

「高貴な坊主の肉を食らえば、不老不死の力を得られる」

 ということでの、

「不老不死」

 というものが、本当にいいのかということを考えると、

「いろいろな発想が生まれてきて。人間だけでも、一人一人の考え方があるのだから、本当に、人間以外の動物に、まったく思考能力がない」

 と言い切れるのだろうか?

 と考えてしまうのであった。

「ファンというものは、どんなに多いところであっても、過半数に行かなければ、多数派ではない」

 と言われる。

 つまりは、

「ファン以外はアンチである」

 といってもいいだろう。

 もっとも、

「アンチも一種のファンである」

 という考え方も、一つの真理であり、

「逆も真なり」

 ということになるであろう。

「数の錯覚」

 ということでいえば、野球における、打率というのも、その一つだといえるのではないだろうか?

 というのは、

「大体3割打てれば、上出来であり、1割未満というと、戦力外に匹敵する。そして、4割ともなると、まずいないといってもいいくらいで、本当の希少価値だ」

 と言われている。

 3割というと、10打席に3回ヒットを打てばいい。

 ということで、単純に考えると、

「そんなに難しくない」

 と思われるのだろうが、数字というものが、それだけ間違いのないもので、シビアなのだと考えると、これほど、正確なものはないともいえるだろう。

 そう考えると、

「錯覚」

 というわけではなく、

「裏付けという根拠だ」

 ということになるのではないかということだ。

 となると、寿命というものも、

「元々、意味があって決まっているのではないか?」

 と考えると、その考えには基本的に間違ってはいないといえるのではないだろうか?

 確かに、

「自分の寿命が何年だ」

 ということは、誰も知らない。

 知らないからこそ、自分が今、寿命という意味でどこにいるのか分かってないということである。

 だから、

「人生が面白い」

 ということであるが、もし、この寿命というものが、長すぎるということになると、

「これほどつまらないものはない」

 といえるのではないだろうか。

 これは浦島太郎の話の裏付けになることであり、

「竜宮城から戻ってくると、そこには、自分の知っている人が誰もおらじ、自分を知っている人も誰もいない世界だった」

 ということで、あとから、

「そこは未来だった」

 ということになり、最初に、

「自分の、あるいは、自分を知っている人が誰もいない世界」

 ということで、

「そこが、どれだけ辛い世界であるか」

 ということを思い知らされるということであった。

「いくら長生きしたとしても、そこに自分の居場所がない」

 ということであれば、それは実につらいことだ。

 もし、あの世に行って。自分を知っている人がいるのであれば、別に死を恐れるということはないだろう。

 死後の世界に、いくつかのパターンがあり、同じ世界であっても、自分の知り合いと出会える可能性はほとんどないといってもいいのではないだろうか?

 なぜなら、

「あの世の世界に、時代という概念はなく、生まれ変わることがまだできずに、死後の世界にいまだにくすぶっているのであれば、その世界は、いろいろな時代の人間で膨れ上がっている世界ではないか」

 ということであり、

「時間や時代という概念のない世界だ」

 といってもいいのだろう。

「時間や時代という発想を考えると、そこには、タイムマシンと、ワープというような発想が生まれてくる」

 と考えることがある。

 そこに生まれる発想としては、

「ワームホール」

 というものがあり、それを、一種のタイムトンネルと考えるか、、あるいは、

「ワープへの入り口」

 と考えるか?

 ということである。

 ワームホールというと、

「まるでタイムマシンのようだ」

 という発想になるというもので、

「時間を飛び越える」

 という発想である。

 基本的に、

「タイムトラベルというと、時間を超越することで、同じ場所に、瞬時に移動する」

 ということで、あくまでも、時間だけを飛び越えることになり、空間を移動するものではないということだ。

 つまりは、

「時間と空間は、別々に存在しているもので、それを合わせると、物質の存在によって、歪みを生じるものではないか?」

 という考えがあるという。

 実際には難しすぎて、説明も難しいし、どこまでが正しいのかということを証明するのも難しいといってもいいだろう。

 それを考えると、

「タイムマシンでは、瞬間物質移動」

 という発想を生むことはできないのではないだろうか?

 つまりは、タイムマシンができたとして、

「過去に行くことができたとしても、今いるその場所にしか移動できない」

 ということになるのではないだろうか?

 だったら、

「瞬間物質移動」

 ということになると、同じ発想として、

「時間というものは、普遍でしかない」

 といえるはずだが、

「そうでもない」

 ということが言われている。

 そう考えると、

「宇宙と旅する」

 という、SFマンガなどによる話は、すべてに辻褄が合っていないような気がする。

 例えば、

「地球が侵略されていて、遠い星まで行って、何かのアイテムを、一定期間の間にもって帰らなければ、地球は滅亡してしまう」

 としよう。

 それが、

「1年以内」

 ということであれば、基本的に無理なことは分かりそうなものである。

 というのは、

「空間を、光速で移動すると、時間の進みは遅くなり、まるで浦島太郎の話のように、宇宙船の時間で1年以内に戻ってきたとしても、普通のスピードで動いている世界は、すでに、数百年。いや、数千年という期間が過ぎているということになる」

 というものだ。

 そうなると、時代は進んでしまったことで、

「とっくの昔に、地球は滅んでしまっている」

 ということで、それこそ、

「戻るところがなくなってしまった」

 ということで、

「そのうちに、食料も水も、さらには空気もなくなり、死んでいくということを待っているしかない」

 ということになるだけである。

「地球に残って、滅んでいくのを、他の人と一緒に迎えるのがよかったのか、危険を犯して地球のために、宇宙に飛び出したはいいが、間に合ったと思った地球に戻ってくれば、地球は滅亡していた」

 というのとどっちがいいのかである。

 地球に戻ってきたとして、結局、自分たちだけが滅びていくことを考えると、それまでの士気が一気に下がり、そんな場面をお話にするというのは、あまりにも、むごたらしいといえるのではないだろうか?

 そもそも、

「地球の滅亡」

 というのは、最初から分かり切っていたことであり、お話としては、

「結局、どんなに抗っても、地球の滅亡という運命から逃れることはできない」

 ということになるのであろう。

「希望を持って、理屈を考えることなく突っ走ること」

 あるいは、

「一歩冷静に考えて、地球の滅亡は避けられない」

 と考える方のどちらがいいのか?

 ということであるが、

「運命に逆らうことは不可能であるが、希望というものに突き進むという理念は、エンターテイメントとしては、十分にありえることで、それが、希望という形の、よりどころといえるのではないだろうか?

 これが、ことわざの、

「情けは人の為ならず」

 という、本当の意味であり、逆に、

「冷静に考えることで、抗うことのできない運命を受け入れて、さらにそこから何かを見つけようとすること」

 としての、

「誤用の意味」

 と考えると、

「決して、誤用というものも、悪いものではない」

 といえるのではないだろうか。

 確かに、

「希望というものを当たり前のこととして、正当な理由を、いかに正しいものとして考えるか?」

 ということであるとすれば、

「世の中において、何が正しいのか?」

 ということを突き止めるということは、すべてにおいて、正しいことだという理屈にはならないということであろう。

 その中には、

「気休め」

 ということも含まれているようで

「気休め」

 というものが、

「いいことなのか悪いことなのか?」

 ということをいかに考えるかということになる。

「誤用」

 という方を考えると、これを逆に考えると、

「一歩下がって冷静に考えることで、ある一点しか見えていなかった発想が、まるで、パラレルのように、扇型に広がっていくものではないか?」

 とも考えられるのだ。

 だから、

「こちらを正しいものだとすれば、それ以外はすべてが、誤りだということになり、その発想が、一つのことをすべてにおいて、正しいことだ」

 と勝手に思い込ませることになるのではないだろうか?

 それが、

「時空の歪み」

 という考えであり、それぞれに、

「絶対的に相対性の考え方」

 ということで、

「時間と空間」

 という発想をいかに、考えるかということになるのだろう。

「誤用というもののように、絶対的な相対性のあるものは、まるで、ワープなどの時に示される、湾曲で波状になったグラフの。頂点から頂点なのかも知れない」

 と考えられるのではないだろうか。


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