きみなわすれそ
田辺すみ
きみなわすれそ
ハカセさまと出会ったのは、満開の梅の花の下でございました。
親とはぐれて泣いていたわたくしを、ハカセさまはお館へ連れて帰ってくださり、暖かい床を設えて、美味しいご飯を食べさせてくださいました。
ハカセさまは、この国で一番偉い方のお側にお仕えしているのだそうです。だから毎日朝早くから夜遅くまで、宮殿に出掛けていらっしゃいます。お休みの日には、お好きな書物を読まれたり、お友達とお喋りなどなされます。その際にはいつも、わたくしを近くに置いてくださるのです。それですっかりわたくしも、このような身分で歌を読んだり、物語を聞くのが好きになってしまったのでした。
梅の花の下にいたのだから、名前は“うめ“が良いだろう、とハカセさまはおっしゃり、『うめや、こっちにおいで』とおおらかに呼んで、頭を撫ぜてくださいます。わたくしは、ハカセさまの物書きで固くなってしまった皮膚の手が大好きです。白いお髭も、目尻の皺も、銅の鐘のように響くお声も、大好きです。わたくしを膝に乗せて、ハカセさまは書物を読まれます。お庭を一緒に散歩することもあります。雨の日は、お子さまたちと絵を描いたり、賽子で遊ばれます。お友達の方々が、楽器を奏でてくださることもございます。みんな、ハカセさまが大好きでいらしたのです。
ご息女のうち、寧寧さまとわたくしは、とても仲良しでございました。お庭を駆けたり、木の枝や小石でいろいろなもの作ったり、貝殻を集めたりいたしました。うめ、鳥を追いかけては駄目よ、と木登りのできない寧寧さまは、紅色のほっぺを丸くしておっしゃいます。そんなに高いところに行っては、危ないわ、私の大事なうめ。そんなことを言って、本当に壁の向こうへ出ていきたかったのは寧寧さまだったに違いありません。親王さまに伴って、お館からあちらへ移られる前に、わたくしを抱いて密かに泣いておられました。うめや、私は入内などしとうない。うめと共に、山を越えて駆けていけたらよいのに。あの鳥のように、飛んでいけたらよいのに。
それからいくつかの春が回り、ハカセさまはわたくしの耳元に落ちた梅の花弁をそっと拾って、おっしゃいました。うめや、儂は間違ってしまった。あの子も親王さまも、高い地位など望んではいなかったのだろうに。儂だって、自由に本を読んで歌をつくって、家族や友人たちと過ごせることだけが、喜びであったはずなのに。権力とは恐ろしいものだ、嵐のように何もかも呑み込んで、何もかも見えなくしてしまう。うめや、お前だけがじっと、儂たちの
悪い知らせは突然にまいりました。わたくしには宮中のことなどおいそれと分かりません。その日、具足に刀を佩いた男たちがやってきて、ハカセさまを連れ去っていきました。それどころか、ご家族も館から追い出されてしまったのです。主人のいなくなった館から、女房たちも次々に足が遠のいていきました。わたくしは、何が起こったのか、必死に探ろうといたしました。女房たちの話によれば、ハカセさまは無実の罪を着せられて、遠い遠い南の土地に流されていったのだというのです。
あのような優しい方が、悪事を働くなどございますでしょうか。わたくしは、人気の無くなった館で、何日も待ちました。寒くなり、お腹も空いてきましたが、ただひたすらに待ったのです。ハカセさまにお会いしたくて、お会いしたくて、わたくしは泣きました。寧寧さまのお気持ちが、やっと少しだけ分かりました。ハカセさまを重用されていた、この国で一番偉い方ならば、ハカセさまを助けてくださるかもしれないと思って、宮殿へも赴きました。しかし、なんということでしょう、わたくしのような小汚い卑賤のものを宮廷に入れるわけにはいかないと、門兵に追い返されてしまったのです。
わたくしは途方に暮れました。ならば、会いにいこうと決めました。わたくしが行ったところで、何の役にも立ちますまいが、せめてお側にいたかったのです。南へ向かえばよいはずです。京の街を出て、ひたすらに、南へ、南へ。街道を南に走るわたくしを見て、道ゆく人々は怪訝な顔をしたろうと思いますが、構いません。ハカセさま、ハカセさま、お会いしとうございます。
付き添ってくれるものは月ばかりでございます。それでも、満月がまた満月になる頃までには、わたくしの脚は擦り切れ、身体は泥だらけで骨と皮だけのようになってしまいました。もう一歩も踏み出せません。あとどれくらい駆ければ、ハカセさまのところへ辿り着くのでしょうか。ああ、寧寧さまのおっしゃっていたように、わたくしも鳥のように空を飛べたなら。物語の中の獅子のように、力強くどこまでも跳躍できたならば。ひゅうひゅうとか細く喉が鳴ります。泣く力も残っておりません。ハカセさま、菅公さま、もう一度ご一緒に、梅の花を見とうございました……
しかしとて、この世は憐れみ深いものでございます。猫は長じて妖になると申します。気付きましたらわたくしは、月の光に舞うように、夜空を蹴っておりました。お独りで庵に篭られていたハカセさまを、やっと見つけることができました。お嘆きはいかばかりのものであったことでしょう。わたくしはもう、決してお側を離れません。そうして、太宰府には今も、菅公さまを慕って飛んできたと言われる、梅が満開になるのです。
きみなわすれそ 田辺すみ @stanabe
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