でたらめ

柊木ふゆき

でたらめ

 私は、あなたと別れてから初めてパリを訪れた。いままで海外旅行なんてしたことがないので、パスポートの取り方すらわからなかった。休憩や仕事終わりにスマートフォンと睨めっこして、余暇のすべてをこの旅行の準備に費やした。

 フランス語どころか英語すら話せない私は、国外での乗り換えが恐ろしく、割高な直行便を選んだ。現地の日本人ガイドも予約した。ホテルはそのガイドに勧めてもらった、安価だが治安のいい地区のものにした。本屋で一番目立つところに置いてあったフランスのガイドブックを購入し、隅から隅まで読み込んだ。行きたい場所はなかったが、「必見」と書かれたところには付箋をつけた。

 旅行のことは職場以外誰にも言わなかった。休暇の申請が不要なら、職場にすら言わなかっただろう。上司や同僚から、誰と行くのか、どうしていくのかと質問をされたが、私は嘘を並べ立てた。「付き合っている彼氏と行くんです。彼が行きたいっていうので。ええ、まだ結婚は考えてないんですけど」

 一言一句、残らず嘘だ。

 出立の前日、私は徹夜で部屋の掃除をした。大きな家具の裏の埃一つ残さずに。押し入れや箪笥の引き出しの中身をひっくり返し、不要なものは全部捨てた。マンションのゴミ置き場は私のせいで定員オーバー。だが、苦情が来る頃には私は日本にいないだろう。

 私はこの日のために買ったベージュの巨大なトランクを片手に、空港に向かった。空港に行くのも高校の修学旅行以来だ。タクシーの運転手に、どこに行くのか尋ねられたので、私は答えた。

「スペインに行くんです。姉がいるので。いや、結婚して。子供が生まれたんですよ」

 私は「ハーフ 赤ちゃん」と調べて出てきた写真を運転手に見せた。運転手は、シワシワのパンみたいな日焼けした顔でにっこり笑って「かわいいね。楽しみだね」と言った。

 インターネットで下調べをした通り、出発の二時間前に空港に到着し、チェックインを済ませた。身軽になった身体でさっさと保安検査を通る。

 鞄から出して直接トレーに入れなければならない物品のリストがイラストと共に書かれたラミネート紙が長机の側面にはられている。 私はスマートフォンと鞄を籠に入れて、モスグリーンのタンクトップを着た白人女性の後ろに並ぶ。彼女からは日本では嗅ぎ慣れない匂いがする。空港自体、なんだか日本じゃないみたいな匂いがするのだが。

 彼女が私の後ろに立つ男性に話しかける。どうやら私は彼らの間に割り込んでしまったようだ。何語で話しているのかはわからないが、きっとフランス語に違いない。

 こうやって、持ち物をトレーに載せて、どこまでも途切れない人の波に紛れていると、今から旅行に行くというのが嘘のようだ。なんだか、これから楽しいことが起こるとは思えない光景である。

 悪いことを何一つしていなくても、チェックされるというのは居心地の悪いものだ。特にあのゲートはよくない。前の方で警報音が鳴ると、自分の時も鳴ってしまって、恥をかくんじゃないか、もし飛行機に乗れなかったらどうしよう、と不安になる。モニターに映るレントゲンのような荷物の映像をじっと見つめる係員の前を通る時も緊張した。しかし、何事もなく荷物は私の手に戻ってきた。

 「日本のパスポートをお持ちの方はこちらです!」と声を張り上げる係員に従って、日本国籍のある人間しかいないレーンに並ぶ。まだ傷ひとつない、鮮やかな赤色のパスポートを無愛想な係員に提示し、出国審査を終えると、化粧品の巨大な広告に出迎えられた。目の周りを黒っぽく塗った白人の女性が、暗い赤色の唇を半開きにしてこちらを見つめている。背景は紫色で、ブランドのロゴが浮かび上がる。広告を見つめる私のそばを、母親と娘と思しき二人が話しながら通り過ぎた。

 「エアーフランス」と母親が言ったのに、娘が「エールフランスだよ」と訂正する。私は、手に持ったままだったパスポートに挟んだ搭乗券に視線を落とす。右下に”AIR FRANCE”というロゴが書かれている。私は辛うじて”FRANCE”は読めるが、”AIR”を「エアー」と読むことも「エール」と読むこともできなかった。

 コーヒーショップに寄って、うたたねをしているうちに搭乗時間になり、私は飛行機に乗り込むとすぐに眠り込んでしまった。機内食を食べるのも忘れて眠り続けて、目が覚めると丁度着陸の直前だった。私の右隣に座っていた女性が、微笑みながら英語で何か言った。私は意味がわからなかったので、笑って誤魔化した。

 窓際の席の人たちはみな、これから降り立つパリの地を見るために窓を覗き込んでいる。私は五列シートのど真ん中だったので、そこからどんな光景が見えるのか想像するしかない。興味もあまりなかった。

 入国審査では、「ボンジュール」と「メルシー」以外話すことはなかった。一応、質問の受け答えとホテルの住所をカタカナでメモしてきたのだが、あっさり通されたので拍子抜けだ。荷物を受け取るのに随分時間がかかったが、到着ロビーへ抜けると予約していた現地ガイドの女性が、私の名前が書かれたボードを持って立っていた。

「お疲れ様です」

 彼女は笑顔で名乗った。

「小林です。四日間よろしくお願いします」

 彼女は、小林というのは旧姓で、結婚してフランス人の姓になったのだが、日本の観光客にはこちらのほうが親しみやすかろうと旧姓で仕事をしている、という話を歩きながらしてくれた。フランスに住んでいる日本人とはどんなだろうかと思っていたが、想像していたより地味で、どこにでもいそうな中年女性だった。

 パリの空港は迷路のようだった。SF映画にでも出てきそうな、配管のようなエスカレーターに乗って、私はただ小林さんについて歩いた。なんだか、自分は旅行客というよりは、パリに運ばれてきた荷物にでもなったような気分だ。

 私たちはタクシーでホテルへ向かった。道中、小林さんは目に入った色々なもののことを説明してくれた。パリの街並みは、夢見た通りというわけではなかった。なぜなら、私はパリを夢見たことなどなかったのだ。

「どうしてパリにいらっしゃったんですか?」

 私は用意していた答えの中からひとつを選んで言った。

「パンが好きなんです」

 私もパンは大好きだ、と彼女は言った。それから一番好きなパンをたずねられ、私は「クロワッサン」と答えた。すると、家でクロワッサンを作ろうとして上手くいかなったという話をおもしろおかしく語ってくれた。小林さんは、私の簡潔な答えから話題をどんどん広げて、乗車中ずっと何かしら話していた。おかげで、海外のタクシーの車内で気まずい沈黙に耐えずに住んだ。

 彼女は、おすすめのパン屋をあとで紹介しようと約束してくれた。

 信号でタクシーが止まり、小林さんが私越しに窓の外の店を指さして声を上げた。

「あ、ほら」

 どうやらパン屋のようだった。

「あそこなんておいしいですよ」

 緑色の外装が鮮やかな路面店で、大きな窓ガラスからパンが並ぶ中の様子が見えた。歩道に張り出た黒い庇テントと、一番大きいガラス窓に店名が書かれている。それは、私たちが住んでいたマンションの近くにあった、個人経営の小さなパン屋さんと同じ名前だった。

 あなたが自慢げに意味を教えてくれた言葉を見つけた私は、ガイドの女性にあれはこういう意味だろうと伝えた。すると彼女は訝しげな顔で、言いにくそうに否定して、本当の意味を教えてくれた。

 私は声を立てて笑ってしまった。ずっと無反応だった運転手が、ルームミラー越しにこちらを睨む。小林さんも、微笑んだまま眉を上げて、驚いてみせた。あ、やっぱり日本の外に住んでるんだな、とその表情をみて反射的に考える。

 とんだでたらめだ。ほんとうに、真っ赤な嘘。私はそれを馬鹿正直に信じ込んでた。でもそう、そうだった。あなたはいつも、ついた嘘を教えてくれない。そんな人だったのに。

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