私の恋人

神田(kanda)

私の恋人

「通報してしまい、誠に申し訳ありませんでした。」

警察に連れていかれている人相の悪そうな男たちに対して、その人は、私の恋人は、謝っていた。深々と、心の底からの謝罪をしていた。そんな彼のとった行動を目の当たりにして、警察に連れていかれていた者の一人が、警察の手を振りほどき、大きな罵声と共に、私の恋人に殴りかかった。「ゴッ」という重い音が鳴る。私の恋人は、その場に倒れ込み、殴られた顔を押さえていた。



「大丈夫ですか、賢治けんじさん。」

「......沙耶さやさん。」

沙耶というのは、私の名前で、彼の名前は賢治さん。

「......すみません......せっかくの休日を、台無しにしてしまって......。」

今日は、一緒に一日外出する予定だった。だが、彼の服装の乱れ具合などから分かるように、彼は今すぐ病院にいかなければ行けない。たとえ、大きな外傷がなくとも、身体の中がどうなっているか分からない以上、病院に行かなければならない。

私がここに来るまでの間に、一体どれだけ殴られていたのだろうか。......考えたくない。

「いえ、お気になさらないでください。また、誰かを助けたのでしょう?......いつものように。」

「はい、先ほどの連れ去られていた男たちが、女性を車に連れ込もうとしていたのですが、誰一人として周囲の人が助けようとしていなかったので、つい、行動を起こしてしまいました。」

「それで.........どうして、あの人たちにまで謝るのですか?」

「.........彼らは、きっと、いや、もしかしたらですが、悪人ではなかったのかもしれません。ただ、環境か、あるいは先天的な何かが、この世界に住む多くの人々にとって害悪である者になるように仕向けてしまった。彼らは、被害者です。この世界での対立はきっと、誰もが被害者なのです。」

「......それなら、それなら、貴方も被害者なのですから、謝らなくていいでしょう。」

「......確かに、それも一理あるでしょう。ですがそれでも、たとえそれでも、彼らの方が辛いでしょう。だからこそ、謝罪せずにはいられなかったのです。彼らを苦しませている者の一人として。」

......言っていることの言葉の意味は理解できる。だが、それでも、その意味が表している事柄は理解できない。

賢治さんは、目の前で行われた犯罪行為に立ち向かった。彼は良いことをしたのだ。周りの人々は何もしていない中、そして、自身が人を殴ることのできない弱者であると知りながら。ただ一方的にリンチされるという未来を知りながら。

そして、複数人で女性を誘拐、いや、その後に行われることなど、おおよそ見当がつく。人殺しとなんら変わりない、ゴミのような人間のやることをやろうとした、ただのクズ共。そんなクズ共に、なんの謝罪がいるのだろうか。ただの悪人。それだけである。

なのにこの人は、いちいち悪人の背景を考える。それを考えて、それを知って、どうなるのだろうか。たとえ何か、悲しい事実があっても、彼らの犯した罪は現実に存在するのだ。

悪人はいらないから、消す。あるいは、悪人を善人へと無理やり変化させる。

自身を大切にしようとする本能を持つ我々人間にとって、当たり前のことである。自身の存在を脅かすものは、この世からなくそうとするのである。ただそれだけなのである。

きっと、この事は賢治さんだって分かっているのだ。それでも、自身の良心か、あるいは、不平等への嫌悪か、彼は自身を攻めて、悪人に謝る。

そんなことをしても、無駄だというのに。

......本当に馬鹿らしい。



「今、帰りました。」

「お帰りなさい、賢治さん。」

私は先ほどの場所から病院まで一緒に行き、先に帰宅して夕御飯の準備をしていた。

「沙耶さん。」

「はい。」

「改めて、今日は、本当に申し訳ありませんでした。」

そう言って、頭を下げられる。

......今の時刻は分からない。だが、部屋の窓から見える空には綺麗な夜空があった。

「......賢治さん。」

「はい。」

普段の私なら、きっと、この人を許していた。

だけどもう、許せなかった。

「私は、もう、貴方を.........許さない。」

そう言って私は、彼を押し倒して、首もとへ包丁を当てた。彼は驚いて目を開いていたが、すぐにこの状況を受け入れようとしていた。

「......ねぇ......どうして、どうしてそうやって、すぐに受け入れようとするんですか!」

この人の前で、初めて荒げた声を出した。

涙も、もうすでに、とうの昔に枯れきっていたと思っていた涙も、気づいたら私の目から溢れていた。

「......自分は、今まで沙耶さんに多大なるご迷惑をかけていました。こうなっても仕方がないかと。」

その顔を見ればすぐに分かる。もう、死を受け入れていた。きっと、恐いはずなのに。

「なんで......ですか。なんで...なんで......私のことが好きじゃないのですか......?」

「......自分は、沙耶さんのことを心から愛しています。」

「じゃあ......死にたくないって、言ってくださいよ......。なんで、どうして......いつもそうやって死ぬことを受け入れようとしたり、自分を傷つけるようなことを平気でするんですか......。私だって、貴方のことを愛しているから......だから......いつ、貴方を失ってしまうのか分からない、私の気持ちも考えてよ......。」

「......すみません。自分には、こんな生き方しか出来ません。ですが、善処することも......きっと......。」

こんな曖昧な返事しか返ってこないのだろうとは思っていた。そう、私は、彼の、こんなところに惚れたのだ。常に正しいものは何かを考え、変な方向に真っ直ぐで、毎日を穏やかに慎ましく生きている。そんな彼を愛している。

ただ、この世界は彼にそんな平穏を与えてくれない。与えてくれるはずがない。

だから...............

「......嫌です。もう......こんな思いをするくらいなら、この手で、貴方を殺します。もう、貴方のことなんて知らない、分からない。もう、嫌です。死んで下さい。」

「......分かりました。貴方がそう、望むなら。」

震える手で包丁を強く握り締める。彼の綺麗な首へ刃を突き刺すために、包丁を上に上げる。

呼吸が荒くなる。だが、こんな思いをするのは、これで最後なのだ。もう、つらい、いやだ。毎日のようにボロボロになって帰ってくるこの人を見たくない。これ以上危ない人に関わらないでほしい。他人のことなんでどうでもいい。自分自身のことを考えてほしい。もう、いやだ。

私は、包丁を、振り下ろした。

.........つもりだった。

「......嫌、嫌よ。なんで、どうして......私はただ、貴方のことが好きなだけなのに。なんでこんな思いしなくちゃいけないの。嫌よ、殺したくない。貴方とずっと一緒にいたい......貴方に死んで欲しいわけがない。」

気づいたら、包丁をその場に捨てて、彼を一方的に抱きしめていた。

「......沙耶......さん。」

「私は、貴方の一番になりたいの。貴方の抱えてる信念を全部投げ捨てて、私のために生きてほしいの。私のことだけ見て、私だけ愛して、それで、それで.........」

と、言っている時だった。

ぎゅっと、彼も私を抱きしめてくれた。

「......沙耶さん、私は、ただ、人における不平等なものが嫌いなのです。今日の彼らだって、本当の意味で悪人なのかと言われたら、それは表面的なことであって、真理に至るものなどではないでしょう。ですが、それでも悪事は悪事なのです......というような、悪人である側面というものを分かっていても、私は割りきれずにいました。だからこそ、今まですっと、中途半端でいました。本当は、恐かったのです。彼らに殴られているときも、彼らに歯向かうときも。しかし、それでもやらねばなるまいと思っていました。ですが、もう、やめます。貴方さえ守れれば、他の人がどうなろうと構わないと思うようになりました。なんて言うと、格好がつきますが、つまりはもう、逃げたいのです。私だって本当は、こんなにも、辛くて過酷で苦しい世界に一人で抗うなどということは、したくなかったのです。だから、もう、私は、貴方のためだけに生きます。」

私は、再び彼を強く抱きしめた。



それから、数ヶ月の時が経った。

今の私たちは元々住んでいた場所から遠く離れた場所に住んでいる。心機一転、新しい場所で、また一からやり直そうということになったのだ。

あれからというものの、彼は少し変わった。

きっと、これは勇敢に立ち向かう勇者などの姿ではないのだろう。ただ、多くの人は、大切なものを抱えて生きている。それを抱えながら、こんな世界にまで立ち向かうのは、本当に一部の人間のやることなのだ。少なくとも、彼のような優しさの塊のような人間には、出来ることじゃない。

「カチャリ」と、ドアの開く音がする。彼の帰って来た音だ。

「ただいま、沙耶さん。」

「お帰りなさい、賢治さん。」

目と目が合う。

それだけで、本当に幸せな気持ちになる。

きっと、この狂った世界で、正常なものなんて、ほんの少ししかないのだ。

私たちの関係性は、妻と夫だけれど、きっとその姿は、どろどろとした、沼のような愛。

だけどきっと、それがきっと、私たちにはぴったりなのだ。

そうして、穏やかな日々は続いていく。

ずっと、ずっと、ずっと続く。

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