鈴蘭

オダケン

鈴蘭

 「運命なんてない。未来は自分で切り開くものだ」

 昔、小学生の時にテレビで放送していた映画でそう言ってた。とてもかっこいいセリフ。小学生のアタシにでも分かった。

 でも高校生の今じゃ、アタシには耳の痛い言葉でしかない。切り開くってどうやって? どこに向かって? 何を使って? そもそもアタシには切り開いていく未来があるの?

 未来は無限大なんて言葉もある。なんて無責任な言葉だろう。正解は一つじゃない、って大人はよく言うけど、それって正直とってもムカつく。

 学校では個性を否定して、規律や勉学を強制させる。一つの正解に無理やり当てはめようとする。それなのに、学校を卒業したら、無限に正解のある社会に放り出される。なんて無責任な話だろう。でも、悲しいことにほとんどの人たちはこの矛盾を、矛盾とも思わず、もしくは感じているけどそれに振り回されることなく日常生活を送る。なんかズルい。

 最近の世の中は本当に便利で、特にSNSの普及もあって、「頑張る」人を支えるためのツールが身の周りに溢れている。頑張りやすい時代だ。頑張って努力して、自分を高めることが前提の時代にも見える。

 だけど、頑張ってない人、努力してない人は悪、といった一種の軽い差別のような風潮も生まれている気がする。実際そうなのだろう。人間は富、名誉を追い求める生き物だ。これは、原始時代に私たちが石の槍や斧を使って狩猟をしていた時から変わらない本能だ。機械にプログラムされているアルゴリズムのように絶対的で、普遍だ。

 このプログラム、人間で言うところの本能に反して、頑張れない、努力できない者はどうなるのだろう。怠けている、甘えているとみなされて異常者と言われ、腫れ物扱いされ、大多数によって淘汰されるのだろうか? もしくは自ら自滅するのだろうか。

 異端のものは排除されるのだろうか。


    ***


 アタシは今、学校の屋上で授業をサボっている。頭の中が色んなマイナスの考えでぐちゃぐちゃな時にはここで自分を落ち着かせている。というより、思考を停止させている。でないと、やってられない。

 最初は屋上のドアの前の踊り場でサボってたけど、不意に何となく捻ったドアノブの鍵が壊れているのを発見できたのは幸運だった。恐らくこの事実には誰も気付いていないだろう。ある一人を除いては。

 屋上の端には使われていない机と椅子がたくさん置かれている。学校が処分をメンドくさがって長年放置されているのだ。ここなら屋上の屋根で日陰にもなるし丁度いい。アタシはその椅子の埃を払って浅く座り、上半身を机の上に突っ伏す。眠るわけでもなく、顔を横にして空を眺めながら、ただただ時間を潰す。

 広大な青い空を、真っ白に肉付いた雲が泳いでいる様をアタシは眺める。人に自由を感じさせる景色だが、アタシの頭の中は真反対だ。だから、ここにいるとプラマイゼロでモヤモヤを無かったことにできるのかもしれない。白い雲を延々と目で追いかける。視界から消えてしまったら、また別の雲を。その繰り返し。

 高校二年の十月。秋になり、猛暑が続いた夏に比べると気温も下がり、外は少し過ごしやすくなった。青空と白雲の下で、今日も多くの人生がせっせと、とめどなく行き交っている。この学校でも、各教室で午後の最後の授業が行われている。でも、今のアタシには関係はない。

 吹き付ける秋の風は涼しくて心地良い。アタシは、襟足よりも短くしたベリーショートの髪形をしているので、余計に涼しく感じることができた。

 何でそんなに短くしてるかっていうと、三か月もしないうちに辞めてしまった陸上部に所属してた頃の名残りだ。

 別に面倒になったわけではない。中学でも陸上部に入っていたし、走るのは好きな方だ。

 だけど、高校に入ってすぐの頃は色々とありすぎた。とても何かに打ち込むような精神状態ではなかった。

 短い方が走るときに楽だし、普段の生活を送るときにも色々と楽だったので辞めてからもこのままにしている。

 遠くの方から、車の走行音、近くの道路を工事している作業音、授業中の先生や質問する生徒の声が、混ざり合うように私の耳に流れてくる。吹き付ける風が空の雲を流すだけでなく、音さえもアタシの耳に運んできている。心地よい環境音、心地よい気温のおかげで、アタシは無想に浸ることができる。

 放課後を告げるチャイムが鳴り出した。校舎中がガヤガヤと活気のある声で溢れ出す。部活に向かう者、友人もしくは恋人と下校し、どこかへ向かう者、そのまま教室に残り、いつ帰るかを決めるでもなく、だらだら友人たちと雑談をする者など様々な放課後の過ごし方をする生徒たちがいる。

 アタシはこれからどうしよう。授業が終わって放課後になった今、ここで時間を潰す必要もなくなった。人がある程度捌けるまでもう少しここにいようか。そんなことを考えていたら、屋上のドアがきいっと開く音が聴こえた。誰かが来た。先生だったら、ちょっとマズい。

 しかし、その時、なんとも心地よい、涼しい風が吹いた。それと同時に、とても女性らしい高い声で、「きゃっ!」と小さく叫ぶ声が聞こえた。アタシはその声の主のことをよく知っている。

 声の主は屋上に足を踏み入れる。こちらからはまだ姿は見えない。足音だけが聴こえる。ローファーで屋上の床の埃と砂利を踏む音。

 そして、声の主がアタシの真横に来た。少したれ目で、ぷっくりと柔らかそうな唇、常に微笑を浮かべているような少女。同じ制服を着ているけど、アタシみたいに着崩すこともなく、背筋をぴんと伸ばし、気品のある佇まいをして、学校指定のスクールバッグを前に持ったその姿はお淑やかという言葉が似合うんだろう。絹のように綺麗な黒髪はカールやウェーブがかかっていてふんわりとした見た目をしている。髪の毛の一本一本が綺麗に螺旋を描いているようにも見える。

 その少女の顔は、高校生らしからぬ慈愛までも感じられる微笑みを浮かべている。高貴な存在のように見える。実際、少女が学校の廊下を歩くと、男子生徒はもちろん、女子生徒までもが見惚れるように、その通り過ぎる背中を見つめるぐらいだ。

 実際、その少女は学校内では、品行方正、成績優秀で、生徒だけでなく教師からの信頼も厚い。まさに優等生ってやつだ。アタシとは大違い。

 真横にいるその少女は、少しかがんでアタシの顔の高さに目線を合わせてきた。顔を覗きながら、眉を斜めにし、困り顔をして話しかけてきた。

 「真美まみちゃんたら、やっぱりここにいた」

 急に真横に人の顔が来ても、アタシは特に表情を変えることはない。こんなにも顔の整った、いわゆる美少女にほぼゼロ距離で見つめられていようが。

 「なんだ、優理奈ゆりなか」

 アタシは素っ気なく呟く。

 「もう、なんだとは何よ」

 優理奈は、唇を尖らせ、軽く頬を膨らませた。眉をひそめながら、アタシの顔をじっと見つめている。

 「ちょっと先生かと思って、焦ったかな」

 「もう、本当に先生だったらどうするの?」

 「ま、違ったんだし、いいじゃん」 

 「まあっ、そういう問題じゃないでしょ」

 優理奈はいつもこういう口調だ。なんか甘やかしてくる喋り方。

 「また午後からここでサボってたでしょ」

 優理奈は中腰の姿勢を直して、腕を組んで私を少し高い位置から見下ろす。少しムスッとしている。あ、ちょっと怒ってる。

 「そうだよ」

 でも、アタシは素っ気なく答える。

 「もう、真美ちゃんたら……」

 優理奈は伏し目がちに佇んでる。

 「サボってたら勉強置いてかれるわよ」

 「ダイジョーブ。こう見えても容量はいい方なんで」

 手をひらひらと優理奈に向けて振った。

 「そういう問題じゃないでしょ」

 優理奈のプリプリと怒った感じが伝わってくる。

 「あと、お昼はきちんと食べたの?」

 「もー、食べたってば」

 優理奈はいちいち小言が多い。

 「それなら、いいんだけど」

 優理奈は以前として伏し目がちだ。そして、思い出したかのように、「あと、先生も怒ってたわよ。私のクラスにまで声が聞こえてきたんだから」と続けて言った。

 アタシのクラスと、優里奈のクラスは教室が隣り合っているため、少しでも大きい声を出すと、話している声が隣にまで聞こえてしまう。

 「『まーた、小出こいでの席は空なのか。今度からガムテープで椅子にくくり付けておかないとだなあ~』って。何言ってるのかしらね」

 優理奈はアタシの担任の口調を真似しながら言った。少し照れの入った、中途半端なモノマネ。アタシの前でしかこんなことはしない。

 「なにそれ、あいつそんなこと言ってたの?」

 「うん、ちょっと半笑いでね」

 「キモ、何が面白いんだか」

 アタシは突っ伏していた顔を上げた。授業をサボっている自分が悪いとはいえ、人のいないところで笑いのネタにされるのなんて気に入らない。

 アタシの表情を見た優理奈はその心情を察したのか、様子を伺うようにアタシのことを見つめる。

 「アイツって自分のギャグセンスが鋭いって勘違いしてるんだよ。いつもみんなが愛想笑いしてやってるのに」

 アタシはズバッと切り捨てるように冷淡に言い放つ。自分がこき下ろされていることを知る由もない担任の姿を想像したのか、優理奈は、口を手で押さえながら、小さく笑った。

 「相変わらず真美ちゃんは毒舌ね」

 「しかも人の事をダシに使って笑い取ろうとかホント最低!」

 アタシの気持ちを察したのか、優理奈の表情が曇る。つい声を荒げてしまった。だって本当に腹が立つ。あの男のために自分の感情をわざわざ起伏させるのも癪だ。

 アタシの怒りのこもった言葉が屋上から空に向かって飛び出していく。しかし、激しい苛立ち、悔しさとは裏腹に、言葉の勢いはすぐに衰え、空の中へと滲むように消えていった。少女一人が心の底から叫んだところで、この世に何か変化がもたらされることがあることはほとんど無いのだ。

 なんて虚しいのだろう。

 そんな事実を悟っているかのように、優理奈は目を細め、寂しそうな顔をしている。

 「ごめんね真美ちゃん。茶化すつもりはなかったんだけど……」

 「何、優理奈。わざわざそんなこと言いに来たの?」

 「そんなつもりじゃないけど……真美ちゃんのこと心配だったから……」

 優里奈は目を逸らして、屋上の床を見ている。

 「あっそ」

 今のはちょっと意地悪だったかも。アタシだってなるべく平静を保ちたいけど、うまくコントロールできない。そんな自分が情けない。

 アタシは気まずくなってしまって、優理奈から顔を背けてしまった。太陽が眩しい。でも、振り返れない。

 でも、知っている。優理奈は、こんな素っ気ない態度を取られても苛立ちを見せることはない。いつも穏やかで、どこか余裕のある微笑みを浮かべたままだ。いつもそうだ。時々この余裕には畏怖の念を抱く。

 優理奈はアタシの向いている方へと回り込み、アタシと太陽の間に立った。持っていたスクールバッグは他の椅子の上に置いたようだ。後ろの太陽の光が、まるで優理奈に後光が刺しているかのように見える。

 「で、今日はこれからどうするの?」

 優理奈がアタシの顔をいたずら気に微笑みながら覗き込んできた。

 優理奈のこの笑顔に骨の髄まで溶かされた男子、いや女子生徒たちは数知れない。この笑顔の前では、人間の奥底に普段眠っていて、表に出すのさえ憚れる羞恥的な感情が無理やり露見させられ、生まれたての赤子同然の状態にさせられる。優理奈の前では、中身がなく、取り繕っただけの見栄などは無意味で、瞬く間に消え去ってしまう。

 何か不思議なオーラが彼女にはあるのかもしれない。

 そして、アタシの意識レベルに一つの衝動が湧き上がった。

 ぞくっと波打つように鳥肌が立った。首の後ろがむず痒い。

 もう何回目だろう。この衝動に悩まされるのは。支配されないよう抵抗したいけど、その気力も湧かない。色々と疲れたし。

 この衝動に身を委ねたい。

 それに、おそらくこの衝動は優理奈には見透かされているだろう。そういうだもん。自分が優理奈の想像の範囲内にいることが少し悔しい。このちょっとした屈服感も。それでも自分の行動を制御できない。

 アタシは固まった背筋をぐーっと伸ばした。そして優理奈の方に体を向けた。立っている優理奈を見上げ、両手を挙げて、つんっと横に広げる。

 「んっ!」

 目線を合わせるか逸らすかの境目ぐらいで見ていたので、優理奈からは気まずそうに上目遣いをしている、何とも変な形相に見えただろう。

 「んー、んっ!」

 ちょっと腕を振って急かしてみた。我ながら恥ずかしい。でも、今さら思ったところでアタシと優理奈の間に何か影響があるわけでもない。それに余計なことを考えるのがただただメンドくさい。

 その仕草に優理奈は手慣れた様子で、ふふっと笑みをこぼした。

 「はいはい、いつものね」

 全部分かっているような表情をしてアタシの前に近づいてきた優理奈は、同じように両手をアタシに向かって開いた。

 準備が整った。

 「はい、どうぞ」

 その言葉が耳に入った瞬間、アタシは力尽きたように倒れこんで、優理奈に抱き着いた。ちょうど優理奈の、その豊満な乳房の下あたりにアタシの顔がくる。これがいい感じにいつもフィットする。そして、アタシの腕は優理奈の腰のあたりにだらんと回している。アタシは人肌で程よく温かみのある優理奈の身体に全体重を預けた。その瞬間、優理奈の制服から、柔軟剤だろうか、せっけんのいい香りがほのかに香り、アタシの鼻をくすぐった。

 優理奈はいつものようにアタシを受け止めた。腕をアタシの肩の後ろ辺りに回して、たまに腕を伸ばして背中をさすってくる。

 周りからは相変わらず町の生活音、生徒たちの声が聴こえる。

 アタシは優理奈の服越しに深呼吸をした。よどみのある息を優理奈の服をフィルター代わりにし、浄化して外に吐き出しているようだ。

 すると、アタシの背中を優しくポンポンと叩く。

 「あらあら、今日は一段と疲れているみたいね」

 優理奈はゆりかごを揺らすみたいに、抱擁しながら左右にアタシの身体を揺らしている。

 「別にぃー」

 語尾は伸びて、だらけきった声のトーンとだらんと伸ばした手。こんな様子じゃ説得力は全くないだろうな。

 「てか、優理奈また胸おっきくなった?」

 頭に当たる乳房の圧でふと気が付く。

 「あら、そう? でも、大きすぎるのも問題なのよね」

 「ふっ、何それ」

 我ながらどうでもいい会話だ。

 「てか、優理奈、部活行かなくていいの?」

 優理奈は園芸部に所属している。主な活動内容は、校舎内で育てている花や野菜、果物の花壇の土に生えた雑草を抜いたり、水やりをしたり、新しく苗を植えたりしている。実のなった果物や野菜があれば収穫をしたりもする。

 「大丈夫よ。少し遅れますって同じ部活の子にラインしたから」

 「ふーん」

 アタシは何気なく答えた。でも、ちょっと引っかかる。優理奈はここに来てからスマホを触っていないはずだ。

 「アタシとここで会う前に? 何で?」

 「さあ、何ででしょう?」

 質問に質問で返されたので、たじろいでしまった。優理奈はまさに心身共に、余裕そうにしてアタシの体を受け止めている。

 まあ、アタシがそれだけ同じ行動をしてるってことだ。

 「優理奈ってたまに怖いよね」

 「ふふっ」

 優理奈は怪しげにほほ笑むだけで、それ以上何も言わない。

 その時、風がアタシたちを包んだ。初秋の涼しく心地の良い風だ。

 少しの間沈黙が続いた。アタシたちは黙ってこの風を全身で味わう。

 「ほんとは何かあったんじゃないの?」

 風が止むのと同時ぐらいに優理奈が沈黙を破った。

 訊かれた瞬間、動揺して手をぴくっと動かしてしまった。今の優理奈にも分かっただろうな。

 「はぁー!」

 ため息で返事をしてしまった。

 「……進路調査票」

 アタシは小さくぼそっと呟いた。

 「……ん?」

 風の音にアタシの声が遮られた。

 「進路調査票のことで、ちょっと……」

 今度は聞こえるようにはっきりと言った。

 アタシたちの通う高校では二年生になると進路調査票のアンケート用紙が配られる。言うほど堅苦しい難しいものでもなく、卒業後の進路を「進学」か「就職」の二択を選ぶという内容だ。また希望する大学や就職先がある者はそれを追加で記入したりもする。現時点での生徒の希望する進路を把握するためのもので、三年生になるまでにあと数回行われる。そのため、今回のアンケートには軽い気持ちでとりあえず記入して提出する者がほとんどだろう。

 夏休みも終わり、二学期も始まっている。卒業後の進路を二年生たちは本格的に考え始めなければならない時期に入っている。

 「ちょっと……どうしたの?」

 優理奈がアタシの頭を撫でながら訊いてくる。

 「何も書かないで出した」

 しかも、提出期限はとっくに過ぎており、アタシは締め切りを過ぎた上に空白で提出した。これが担任教師の逆鱗に触れてしまった。

 「あらあら、それで昼休みに職員室に呼ばれてたのね」

 アタシはまた身体をぴくっと動かしてしまった。

 「見てたの?」

 アタシは手で優理奈の背中を軽く小突いた。

 「ええ、たまたまね」

 「ふーん、、ね」

 アタシは鼻息を鳴らした。

 「で、真美ちゃんは先生に絞られちゃったわけだ」

 「そ。怒鳴られこそしないけど、ネチネチ、ネチネチうるさいったらなんの。もう途中からはよく動く口だな、ってしか考えられなくてさ。どこから言葉があんなに出てくるんだろうね」

 優理奈はクスクスと笑っている。アタシ以外が見ているわけでもないのに、大声は出さず、上品に。

 「そっか。それは大変だったわね」

 「で、もう一回ちゃんと書いて出せってさ。まあ、そんなわけ」

 「じゃあ、早く書いて提出しちゃわないとね」

 「……うん」

 アタシは表情を曇らせて返事をした。今のはいくらなんでも分かりやすかったと思う。

 「……何か引っかかる事でもあるの?」

 ああ、やっぱり見抜かれた。顔は見えなくても、優理奈がどんな顔をして訊いているか分かる。

 「別にそんなことは無いんだけど……」

 実に分かりやすい嘘だ。中身を持たない、煙のような言葉が宙を舞った。

 「うまく決められない?」

 「……」

 喉がつっかえてしまい、うまく返事ができない。

 「でもさ、ほら、真美ちゃんだったら何でもできると思うな。大学に行けば、キャンバスイチの才女! 就職したら、若手の敏腕OL!……みたいな」

 優理奈の下手なジョークが屋上から空にこだました。アタシがうずくまる優理奈の制服が少し蒸れてきた。

 「なにそれ」

 アタシは笑うわけでもなく呟く。

 何より優理奈に気を使わせてしまったのが心苦しい。心臓がぎゅっと縮む感じがしてつらい。

 また沈黙が続いた。いや、続いてしまったというべきか。

 下の校庭から野球部員たちが練習中に士気を挙げるための声出し。みんな勢いで叫んでいるから、何と言っているかを聞き取ることはできない。そして、教室で友人たちとの談笑する声。余程盛り上がっているのだろう、誰かが甲高い声で笑う。それに釣られるかのように、また別の甲高い声も響き渡る。

 しかし、そんな喧騒とは対照的にアタシと優理奈の二人は静寂に包まれた。周囲から様々な音が二人に向かって矢のごとく飛んでくるが、静寂という透明なバリアによって弾かれる。二人にその音が届くことはない。このバリアの内側で発せられる音しか聞こえない。

 もう学校の、いや世界の音は聞こえない。

 今のアタシたちにとって、世界にはこの空間しか存在せず、他には何も存在しない。

 静寂の中で優理奈の心音が聞こえてきた。一定のペースでとくん、とくんと波打っている。優理奈は沈黙が苦手じゃないのかな? 今気まずくないかな? と心配になる。

 優理奈は今どんな顔をしているんだろう。頭の中にそんな思いがよぎる。

 ダメだ。また頭の中がモヤモヤしてきた。

 アタシは優理奈の腰に回している手をほどき、スッと立ち上がった。制服のスカートについた砂埃を手でポンポンと払った。そして、軽く深呼吸をして、トボトボと屋上のフェンスの方へと歩いて行く。

 両手でフェンスを掴み、もたれかかる。校庭、教室にいる生徒がちょうど上から見下ろせる。

 「みんなすごいよね……」

 「何がすごいの?」

 「これだっていう目標決めてさ……それに向かって疑うことなく突っ走ってさ……」

 ヤバい。目頭が熱くなってきた。うまく言葉が出てこない。

 このままじゃ優理奈に見られちゃう。

 「ねえ、真美ちゃ……」

 「そろそろ行きなよ。私はもう少しここにいるから」

 優理奈の言葉を遮った。

 「……そう」

 優理奈は寂しげに俯いた。

「大丈夫、長居はしないよ。帰って父さんの夕飯も作らないとだし」

 「なら、いいんだけど……」

 優理奈が心配そうな顔をして見つめてくる。

 「や、やっぱり、今日はこのままサボって、帰っちゃおうかしら」

 優理奈がわざとらしく笑いながら言う。

 「久しぶりに真美ちゃんの家に遊びに行きたいなー……なんて」

 アタシは何も言わず優理奈の顔をジーっと見つめる。

 「また前みたいに一緒に料理したりしましょ。ね?私もお夕飯作るの手伝うわよ」

 「大丈夫。一人でできるし」

 「で、でも……」

 「行きなよ、優等生さん。あんまり遅くなるとマズいんじゃない?」

 少し強めに言った。

 「……じゃあ、そうするわ」

 優理奈は折れて、スクールバッグを手に取り、トボトボと屋上の出入り口へと向かう。ドアノブに手をかけ、最後にこちらを向いた。

 「じゃあね、真美ちゃん。また明日」

 「うん……」

 アタシは優理奈に聞こえるか聞こえないかぐらいの声量で返答した。

 優理奈の方を見ないで言ったから、無視したように見えたかも。感じ悪かったよな。

 アタシは空を流れる雲をただ一心に見つめていた。

 教室に荷物を取りに行って帰らなきゃ。誰もいないといいな。

 相変わらず学校中に生徒たちの声が響き渡っている。


    ***


 アタシが優理奈の住んでいる地域に引っ越してきたのは、春から小学校に入学する年のことだった。それまではアパートに家族三人で暮らしていたが、アタシが小学生になるのを機に、これからの生活のことを考え、腰を据えるために、両親は念願のマイホームを建てた。

 引っ越して間もないある日。冬もまだ半ばの寒い日に、アタシとお母さんは二人で近所の散策がてらに、近所を散歩に出かけた。

 アタシはお気に入りの赤色のダッフルコートを着て、当時は長く伸ばしていた黒髪の上から薄ピンク色のニット帽を被って、同じ色のマフラーと手袋をしていた。

 この季節によく合ったコロコロとした格好だ。

 そんな姿で初めて見る景色の中をお母さんと一緒に歩いていた。アタシは見慣れない景色に不安もあったので、お母さんのそばを離れまいと、手を伸ばしてお母さんの上着の袖辺りをぎゅっと握っていた。

 アタシは小さい頃、不安になるとお母さんの服や身体の部位を触る癖があった。一番多かったのは、お母さんの肘の皴を摘まむことだった。ぐにゅぐにゅとした柔らかさが気持ちよく、程よい暖かさがあり、お母さんと繋がっていることが確認できて、安心していたのだろう。今思えばそう思う。

 住宅街をしばらく歩いていると、アタシと同じぐらいの年であろう子供の明るい声が遠くから聞こえてきた。冬という事もあって、空気が澄んでいて、音が響きやすいため、遠くからでもはっきりと子供の声だと分かった。どうやら今いる道の先にある角を曲がった方から聞こえて来ていた。

 お母さんは気になったのかアタシの手を優しく握り、声のする方へと向かった。アタシはお母さんの手の温もりを感じながらも同時に、想像がつかない何かへと向かう不安感、緊張感も感じていた。

 歩みを進め、角を曲がると、そこには花壇に植えられた花々に囲まれた公園があった。といっても、大した広さではなく、二人用のブランコと砂場、大人が三人ほど座れるぐらいのベンチが一つだけ設置されているぐらいの簡素なものだ。だが、たくさんの花の植えられた色彩豊かな花壇に見惚れたアタシは幼いながらに、その公園がお屋敷の庭園のようにも見えた。

 こんなところがあるんだ、とすっかり見入って近づいていくと、最初は花に隠れて見えなかったが、しゃがんで花を見ながら話している大人の女性と幼い少女がいた。すぐに親子なのだろうと思った。

 その少女が優理奈だった。

 品の良さそうなベージュのコートを着て、白色のマフラーを首に巻き、紺色の手袋もしていた。

 アタシよりも長くて綺麗な黒髪をなびかせていて、その服装と立ち振る舞いから、背丈よりも大人びて見えた。母親も同じように、高級そうなコートを羽織っていて、見た目も落ち着きがあり、気品に満ちていたのをよく覚えている。

 もちろんお母さんも二人には気が付いていた。すると、お母さんは私の前にしゃがみ込んだ。そして、アタシのニット帽についた小さな枯れ葉を優しく手で払ってくれた。多分歩いている途中に付いたのだろう。お母さんはモコモコとした手袋に包まれたアタシの小さな手を優しく掴んだ。

 「ねえ、一緒に公園に行って声かけてみない?」

 見たところ手荷物は持っていなかったので、この近所に住んでいる親子だと予想したのだろう。これはいい機会だと思い、これからの生活のためにもまずは自己紹介がてら、挨拶をして、親睦を深めようとしたのだ。何より、自分の娘と年の近そうな娘を持つ母親ならばなおさらだ。

 「で、でも……」

 だけど、アタシはとても困惑した。アタシは小さい頃から人見知りの傾向があったので、この提案は当時のアタシには難しいものであった。口をもごもごさせながら、キョロキョロとお母さんの顔を見たり、公園の方を見たりして、見るからに慌ててしまった。

 「お母さんも一緒だし、大丈夫だよ。ね、真美ちゃん」

 「アタシ、怖いよ……」

 お母さんの上着の袖を掴むのが、より一層強くなってしまった。

 そんなことをしていると、優理奈が自分のことを見つめているアタシたちに気が付いた。優理奈の母親も娘の視線から気付き、アタシのお母さんと目が合ったので、お互いに軽く会釈をした。

 優理奈も自分と同じくらいの年の少女がいるので、気になるのだろう。こちらの方をじっと凝視している。

 こうなってはもう、このまま立ち去るのは印象が悪い。そう思ったお母さんは「ほら、行ってみよ?」と優しく促すが、アタシは動けなかった。何故だか不安で、恥ずかしくて、首をふるふると横に震わせていた。早く家に帰ってしまいたかった。

 そんな様子でアタシがぐずっていると、優理奈の方からこちらの方にたったと駆け寄ってきた。どうやら、母親の元から勝手に向かってきてしまったらしい。母親も少し慌てているように見えた。優理奈はアタシのお母さんには目もくれず、走って荒くなった息を整えながら、アタシのことを見ていた。

 優理奈は上がった息を落ち着かせるとアタシのことをまじまじと見ながら言った。

 「可愛い、雪だるまさんみたい」

 優理奈は白い歯を見せ、満面の笑みをしていた。

 いきなり可愛いと言われ、アタシは面食らってしまった。驚きのあまり、アタシたちの間には少しぽかんと間が空いてしまい、アタシは自分が人見知りであることを思い出したかのように、時間差で遅れてお母さんの体にしがみついて、お母さんの服に顔をうずめた。

 「ありがとね、お嬢ちゃん。ほら、可愛いだって。よかったね、真美ちゃん」

 お母さんが優理奈にお礼を言って、アタシの名前を口にした。すると、優理奈は目をより一層輝かせた。

 「あなた、真美ちゃんって言うの?」

 隙間からちらちらと優理奈の方を見たが、好奇心に満ちた目でアタシを見ている。目が合いそうになるとアタシはぱっと顔を隠してしまった。

 「私、優理奈っていうの。よろしくね!」

 それでも優理奈はめげずにアタシに話し掛けてきた。

 「えっと、えっと……」

 焦ってばかりで頭の中にある言葉がうまく答えられなかった。お母さんも困ったようにちらちらとアタシの方を見ていた。

 それに焦っているのはアタシが人見知りだからだけではない。

 近くに来てやっと分かったが、この子はとても可愛い。色白の肌に、クリっとした目、鼻筋のまっすぐ通った小さい鼻、そして、薄ピンク色の唇。眉も綺麗に整っていた。こんな子初めて見た。同じ人間じゃないみたい。

 自分とは異種族にも思える容姿端麗で、凛とした少女を前にして、アタシは畏れ多さまでも感じた。そのくらい、何かしらのオーラを優理奈は幼いながらに発していた。

 すると、遅れて優理奈の母親が来た。母親同士はもう一度改めて会釈をした。

 「すみません、娘が急に。優理奈ちゃん、怖がらせちゃダメでしょ」

 「違うよ。この子が雪だるまさんみたいにコロコロしてて可愛いかったから、そう言っただけよ」

 初めて会った綺麗な子に「可愛い」と言われた。普通なら嬉しがるところだが、その時は喜びよりも驚きの方が勝っていて、素直に喜べなかった。

 「あの、もしかして……あの新築の家に越されてきた方ですか?」

 「はい、そうです。小出と申します」

 そこからはもう母親同士の会話が盛り上がっていき、アタシと優理奈は蚊帳の外だった。アタシはお母さんに助けを求めて、袖をグイグイと引っ張ったりしたが、お母さんは苦笑いしながら優理奈の母親と話しを続けていた。

 こうなるとアタシと優理奈の二人だけになる。この子とお話ししなきゃ。でも、恥ずかしい、怖い、緊張するといった感情でうまく言葉が出てこない。

 しかし、アタシがそんな態度を取っていても、優理奈は穏やかな顔をして、柔和な佇まいをしている。この年でこんな態度がとれる子供はそういないだろう。

 「真美ちゃんはいくつなの?」

 急かすことなく、穏やかに訊いてきた。冬の空気とも相まって、声が透き通って聞こえた。

 そのおかげでアタシは少し落ち着きを取り戻し、うずめた顔を起こして、恐る恐る優理奈の顔を見た。その時も、改めて優里奈に対して麗しさを感じた。

 「ろ、六才……春になったら小学生になるの……」

 「じゃあ同い年ね」

 こんなにも凛として、大人びた子が同い年だったことに、あの時は本当に驚いた。それに比べてまともに同い年の子と話すことができない自分が急に恥ずかしく思えてきたのも覚えている。

 初対面の子への緊張と自分に対する情けなさから、アタシは泣き出しそうになっていた。

 しかし、優理奈はそんなアタシの様子を察したのかこんな提案をしてきた。

 「ねえ、あっちで一緒にお花でも見ない?」

 優理奈は柔らかい表情と口調でアタシに話し掛けてくれた。

 その提案にアタシはどうしようかと、不安げにお母さんの顔を見た。お母さんは「行ってきなさい」と言わんばかりに優しく微笑んだ。どこか嬉しそうにも見える。

 すると、優理奈がアタシに向かって手を伸ばしてきた。

 「ねっ、行きましょ」

 優理奈は気品さと慈しみに満ちた笑顔で再びアタシを誘惑してきた。

 その笑顔を見た途端、アタシはさっきまでの緊張も忘れ、優理奈の小さくて真っ白な、柔肌の手を握った。

 アタシの手は吸い込まれるようにすーっと伸びていった。

 まるで妖艶な魔女に誘惑された男のように。

 アタシは手を握ったら、緊張して手袋の中が汗でびっしょりになってしまった。

 優理奈はアタシの手を優しく引いてくれて、花壇の所まで来た。色彩豊かな花壇は近くで見ると、より鮮やかに見えた気がした。

 「真美ちゃんはお花は好き?」

 「うん、幼稚園でもお花のお世話してたよ」

 「私もね、お花を見るのも、お世話をするのも大好きなの。綺麗で、可愛くて、ずーっと見てられるよね」

 優理奈の花好きは今も尚健在だ。高校生になった今では、この公園の花壇を近所の人たちが手入れするのを手伝ったりしている。

 それから帰るまでずっと優理奈はアタシに花壇に咲いた花の説明をしてくれた。花も綺麗だったけど、嬉しそうに花について話す優理奈の方にアタシは恥ずかしいけど見惚れてしまっていた。表情をコロコロ変えながら話す姿は実に可愛らしかった。

 優理奈のおかげもあって、帰るころにはアタシの中では優理奈への壁もなくなり、また遊ぶ約束をして帰るほどにまで仲良くなることができた。

 優理奈が母親に連れられて帰って行った後、お母さんはたくさんアタシのことを褒めてくれた。

 「真美ちゃん、すごいすごい! いっぱい優理奈ちゃんとお喋りできてたね!」

 人見知りだった自分の娘がそれを克服して、同い年の女の子と仲良くなることができたのだから、お母さんはよっぽど嬉しかったのだろう。母親冥利に尽きるというべきなのだろうか。

 お母さんは満面の笑みでアタシの頭をゴシゴシと煙が出るくらいの勢いで撫でてくれた。アタシはくすぐったかったけど、でもそれが大好きなお母さんがしてくれていると思うと、とっても気持ちよかった。そんなアタシは唇を目一杯広げて歯を見せて、顔がくしゃくしゃになるくらい顔に力を込めて笑った。

 優理奈と仲良くなれたことも嬉しかったが、アタシはお母さんに褒められたことの方が、胸がはちきれるくらいに嬉しかった。

 それからも、春から小学校に入学してからは毎日が楽しかった。同じ校区内に住んでいるので優理奈とは一緒の小学校に通うことができた。毎朝一緒に手をつないで登校し、下校する時もほとんど一緒だった。休みの日はお互いの家に行き来して遊んでいた。そして、中学に上がってからもその関係性が変わることは無かった。

 ずっとこんな日々が続いていくのが当然のものだと思っていた。


    ***


 アタシと優理奈の関係性が明確に変わってしまったのは、間違いなくアタシのお母さんが死んでしまった時からだろう。

 アタシと優理奈は親友と言っていいほど仲が良く、いつも一緒にいた。けど、アタシとお母さんの関係性には遥かに及ばなかった。

 優理奈がアタシの家に遊びに来ているときでも、アタシは優理奈の前で恥ずかしがることなくお母さんの腕に手を回したり、背中に抱き付いたりしていた。アタシはそれぐらいお母さんのことが大好きだった。身体の何かしらの部位を接触させていると安心できたからだ。

 だけど、これは優理奈のことを自分の素をさらけ出せるほどに信頼していたのもある。他の人の前ではとてもできない。

 アタシが引っ付いてきてもお母さんは口では嫌がりながらも、微笑みながらアタシの手を握ってくれたり、頭を撫でたり、鼻を人差し指でこしょこしょとくすぐったりしてくれた。

 大好きなお母さんの柔らかくて温かい手、そして人差し指。

 すらりとしていて、少し赤みを帯びた肌色をしていた。

 いつまでも触れられていたかった。

 そんなアタシたち親子の触れ合いを優理奈は、あのいつもの穏やかな笑顔をして見守っていた。間に割って入るわけでもなく、ただただ微笑ましく見守っていた。

 アタシとお母さんが親子、いや、はたから見たら恋人同士のように触れ合っているのを優理奈が微笑ましく見守るのがアタシたち三人にとっての『日常』だった。

 だけど、その『日常』は実にあっけなく、突然崩れてしまった。

 お母さんが死んでしまったのはアタシが高校に入学してすぐの頃だった。自動車事故だった。お母さんは赤信号を無視して交差点に進入し、大型トラックにはねられた。事故現場の写真をアタシはとても見ることができなかった。車もグチャグチャで悲惨だったらしい。

 警察の検視の結果、車両の異常は見られず、事件性はないと判断されたため、行政解剖が行われた。だが、遺体の損傷も激しかったため、なぜお母さんが赤信号を無視したかの詳しい原因を究明することはできなかった。監察医は走行中に居眠り運転か脇見運転をしたか、脳卒中か心臓麻痺か何かの病気を発症してしまい意識を失ってしまったのではないかという結論に至った。

 要するに、明確な事故原因を特定するまでには至らなかった。

 お葬式の時、アタシはお母さんの死に顔を見ることができなかった。棺桶の窓は閉じられていて、中のお母さんの遺体も損傷が激しく、腐敗していて臭いも強かったため、納体袋という専用の袋に入れられてた。

 あまりにも実感がなかったので、お母さんは死んでいなくて、どこかに隠れてアタシのことを見ているのではないか。棺桶の中の袋の中身はただの生ごみなのではないか。そんなことを考えても現実は変わらなかった。お母さんは死んだのだ。

 お母さんの死んだ日の朝、最後に見たお母さんの表情、最後にお母さんと交わした言葉、アタシは見事に何一つ覚えていない。

 その日だって他の日と同じで、ごく普通に過ぎ去る日だと思ってたのだから。

 だけど、大好きなアタシの綺麗で優しいお母さんは、突然ぐちゃぐちゃで醜い、腐敗臭の漂う肉の塊となってしまったのだ。

 もうお母さんはアタシにおはよう、いってらっしゃい、おかえり、おやすみなさいと言ってくれない。その口はもう動かないから。

 もうアタシの頭を優しく撫でたり、鼻を人差し指でこしょこしょとくすぐったりしてくれない。その手はもう動かないから。

 もうアタシの成長する姿を見ることはない。その目はもう動かないから。

 もう一緒に作った料理の香りを楽しんだりもしない。その鼻はもう動かないから。

 もうアタシと足を絡ませ合って遊んだりもしない。その足はもう動かないから。

 もうお母さんに抱き着いたときに聞こえる、アタシを安心させてくれるあの鼓動を聴くことはできない。その心臓はもう動かないから。

 アタシは人見知りだったけど、それよりも根柢の性格に、アタシはお母さん子なのだと思う。小さい頃から、いつもお母さんにべったりで、そばにお母さんがいないと不安だった。

 『日常』がお母さんの死によって崩れ去り、アタシの心の中にぽっかりと空洞が生まれてしまった。それは、アタシというジグソーパズルの最後のピースを失くしてしまったとも言える。その欠けたピースは複雑な形をしていて、この世に二つとして同じ形のピースは存在しない。

 この形は、これまでお母さんと暮らしてきた人生の中で丁寧に削られていき、できあがった形だ。

 だから誰にもこの空洞を埋めることはできないのだろう。

 お母さんが死んだ日から、アタシの人生の『時』は止まってしまった。だけど、アタシの周りでは、その他大勢の『時』が当たり前に過ぎていく。アタシだけ置いて行かれている気がする。

 周りのみんなは流れる『時』に乗りながら、人生の道を歩んでいき、岐路に立つと決断をする。それを繰り返していくことで成長していく。だけどアタシはそうではない。

 アタシはこれから先どうなるのだろう。先の見えない恐怖に支配されてしまい、不安を募らせる日々を送っている。それに、お母さんのいない未来なんて考えられない。

 お母さんが死んでからは、優理奈だけでなく、学校のクラスメイト、先生たちといった周りの人たちが優しく、本当に温かい配慮をアタシにしてくれたと思う。部活を辞める時も、他の部員たちはアタシが辞めるのを惜しんでくれた。そもそもアタシは優理奈以外にそこまで親しい友人がいなかったので、ただでさえ扱いにくかっただろう。こんなの今時珍しいぐらいだ。

 それに、父もだ。自分の妻を亡くし、悲嘆に暮れているのにも関わらず、朝から晩までクタクタになるまで働いてくれて、アタシの生活がこれ以上崩れないようにしてくれている。

 アタシはお葬式の時においおい泣いていた父の姿が忘れられない。

 もちろん一番アタシのことを心配してくれたのは優理奈だ。優理奈は自分の母親が死んでしまったかのように泣いていた。お葬式の時、アタシのことを抱きしめながら、「辛いよね、真美ちゃん」、「私がそばにいるから大丈夫だよ」と泣きじゃくりながら言ってくれた。

 それから後も、アタシの家での家事のことや学校生活のことでも、精いっぱいサポートすると言ってくれるくらいに、アタシのために協力してくれようとしていた。

 本当にたくさんの人がアタシに優しくしてくれた。

 でも、そのたびにアタシはしんどかった。

 もちろんみんなが善意から心配してくれているのはよく分かっている。だけど、周りからの優しさを受ければ受けるほどに、逆にしんどくなってしまった。

 それから次第に、アタシは周囲の人間から距離をとるようになっていってしまった。すると当然、周りの人たちもアタシに接しにくくなってしまい、アタシは学校に一人でいることが多くなった。

 家事を手伝うという優理奈からの申し出も断った。あの頃はどんな形でさえ、人と何かをするのが嫌だった。優理奈には申し訳なく思っている。

 高校もそれまでは優理奈と一緒に毎朝登校していたけど、今では別々に登校している。優理奈は朝に園芸部の花壇の世話のために早く登校し、一方でアタシは家のことをしてから登校のもあって、そもそも時間的な事情で一緒に登校できない。

 学校でもアタシは優理奈のことを避けがちになってしまった。これは優理奈の人気さゆえに、一緒にいると他の生徒からの目が気になるのもあるけど。

 だから高校ではアタシと優理奈の家が近かったり、親しい間柄だと知る者は少ないだろう。

 自分の殻に閉じこもるのは良くないと分かっている。

 何に一番腹が立つかと言うと、素直にその優しさを受け入れられない自分にだ。

 そう、これは単なるアタシの勝手な我儘だ。

 アタシはやっぱりお母さんからの愛だけが欲しい。

 大好きなお母さんのあの温もりだけに浸っていたい。

 そして、いつからか分からないが、この行き場のない悲しみや苛立ちを一番自分に近くて、いらない気を回す必要のない優理奈にぶつけるようになっていった。

 優理奈とは確かにほとんど学校で会うことは無い。でも、優理奈の謎の感知能力が働いてアタシのもとにやって来るときは別だ。

 アタシは気分がモヤモヤする時、基本屋上にサボりに来る。ここ以外にサボれる場所が無いので、優理奈にも場所のことは筒抜けだ。

 でも毎回優理奈が来ることはない。特にひどく気分が沈んでいるときに限って、やって来る。こういうところが本当に怖い。普段アタシは避けているのに、アタシが少しでも会いたくなった時に限ってだ。

 最初は、ただ一方的にアタシの方から愚痴っぽく話すだけだったと思う。アタシが周りへの我儘で、八つ当たりじみた罵詈雑言や情緒不安定な泣き言をどんなに並べようが、優理奈はあの柔らかい笑顔で受け止めてくれた。

 でも段々と、アタシの方が欲張りになっていったのか、人肌を求めるようになっていった。

 最初は手だった。アタシはいつものように一方的に優理奈に話していると、さりげなく優理奈の手を握った。完全に優理奈のアタシへの善意に甘えた行為だった。だけど、優理奈は手を握り返すわけでもなく、そのまま何事も無いかのようにアタシの話を聞いていた。それから、アタシが優理奈の肩にもたれかかるようにもなった。そして、段々と身体の接触面を増やすようにしていった結果、今では完全に、母親にしていたような抱擁になった。

 お母さんの温もりだけ欲しいとか偉そうなこと言っておいて。やっぱりアタシは都合がいい。だけど、気分が沈んでしまってどうしようもない時に、何も考えずにいられるための安定剤みたいなものが欲しかった。

 別に優里奈のことが好きってわけじゃない。多分お母さんの代わりを欲しがっているアタシのただの我儘なのだから。代わりにはならないと自分が知っているのに。

 そう、これはただ身体だけの関係。よく聞くような、大人の女性がことをしたい時にだけ会う男性との関係みたいなもの。そう自分に言い聞かせた。

 このことでお母さんを裏切っているような罪悪感にも似た気持ちも湧いてくる。

 だけど、他に方法が見つからない。だから、アタシは優理奈の身体を使って気を静めさせる。

 抱擁するようになっても、優理奈は拒まずに黙って受け入れてくれた。だからたまに優里奈のことが怖くなる。本当はどう思っているのか。ウザいって思っているのかな。メンドくさい子って思われているのかな。


    ***


 放課後。今、アタシは再び職員室にいる。

 あれから数日が経ったが、アタシは相変わらず、まだ提出していない。そのため、担任から再び呼び出され職員室へ連行された。

 担任の机の前にもう一つ椅子が用意され、警察の取り調べのように座らされた。二回目の説教はもっと長くて、ねちっこいものになるだろうと覚悟していた。

 しかし、そんな真美の思いとは裏腹に目の前には紙コップに入れられた熱いコーヒーと銀紙に包まれたチョコレートが二つ置かれた。

 このコーヒーとチョコレートは職員室に常備されているもので、もちろん教師専用の嗜好品である。生徒のためにあるものではない。そして、担任は自分の席に座り、一息つき、口に人差し指を当てると、「みんなには内緒だぞ」と小声で口ずさんだ。その口角は糸で引っ張られたように引き攣られ、気持ち悪いぐらいにこやかな表情をしていた。

 その表情を見た瞬間に、この後の担任の関わり方が容易に想像できた。

 そうきたか。

 アタシは心の中で深いため息をついた。恐らく下手に出て、特別感を出したかったのだろう。もちろん少なからずの親切心があるのかもしれない。だけど、この間アタシがサボった時もアタシをネタにして他の生徒から笑いを取ろうとしていたことは忘れない。

 この男は生徒に媚びることしかできないのだろう。

 半ばアタシの我儘で、揚げ足取りでしかない思いが頭の中を巡り、すぐに真美の中の冷却スイッチがオンになり、一気に冷めた気分になってしまった。

 アタシって本当にひねくれものだな。

 「あ、コーヒー苦手だったか?」

 「いえ、猫舌なもので。もう少し冷めたらいただきます」

 アタシは出された品に対してあくまで社交辞令として軽く頭を下げたが、手を付けるつもりは毛頭なかった。

 「砂糖は?」

 スティックシュガーを差し出しながら訊いてきた。

 「あ、いらないです」

 「そうか。この前まではミルクもあったんだがな。経費削減とかで無くなっちゃったんだ」

 「へえ、そうなんですか」

 中身のない空返事だ。

 担任は、スティックシュガーの紙をちぎり、自分のコーヒーカップに注ぐと、プラスチックのマドラーで何回も混ぜている。混ぜながら会話の切り出し方を考えているようにも見える。そして、混ぜるのをやめ、コーヒーで濡れたマドラーを四つ折りにしたティッシュペーパーの上に置いた。コービーがじわっとティシュペーパーに染みて広がる。担任はコーヒーを少し飲んだ。上唇の周りに付いたコーヒーの水滴を軽く舌で舐める。

 「最近、どうだ?」

 担任は穏やかな口調で会話を始めた。本人は穏やかな笑顔をしているつもりだろうけど、ニヤニヤ笑いながら、少し上目遣いをしながらアタシに訊いてきた。

 心底気持ち悪い。

 「え? どうって、何がですか?」

 アタシはヘラヘラとにやけながら答える。見るからにキョドっていた。

 アタシは気まずくなったり、反応に困ると、つい笑いながらごまかそうとする癖がある。

 根底にある人見知りのせいでこうなってしまうのだと思う。

自分のこの癖が本当に嫌いだ。

 「いや、そりゃあ学校生活とか、家のこととかだよ」

 こんなにありきたりな質問があるだろうか。まるで、臨床心理学の教本からそのまま引っ張ってきたような質問だ。

 「別に何も。いつも通りですよ」

 アタシに出されたコーヒーからゆらゆらと湯気が立っている。

 「いつも通りって、お前な。何かあるだろ」

 「だから、無いですって」

 まただ。またアタシは意図せず笑ってごまかそうとしてしまっている。

 これ以上アタシのパーソナルスペースにズカズカと土足で侵入しないでほしい。

 「いや、ほら、お母様も亡くなって、お父様と二人暮らしだから色々と大変だったり……」

 「ありませんって」

 思いがけず声がうわずってしまい、少し大きな声を出してしまった。アタシは恥ずかしくなり下を向いて唇を嚙み締めた。

 ああ、やってしまった。

 自分にも非があるとは言え、早くこの場から立ち去りたい。

 何よりこの状況でヘラヘラしてしまう自分に腹が立つ。嫌ならはっきりと態度で示せばいいのにそれができない。自分のごまかし癖が憎い。

 こんな風に笑っているから自分の人生も真剣に考えていないって思われているのかな。悩んでいないように見えているのかな。平気なように思われているのかな。

 職員室では急に大声が湧いたので、少し張り詰めた空気が流れた。他の先生たちが見てくるのだろう。アタシからは背を向けて座っているため、見えないが、この男が目を泳がせ、口をあわあわとまごつかせる滑稽な様子から容易に判断できた。アタシは何を見せられているのだろう。

 担任は会話をもう一度自分のペースに戻すために、咳払いをして、流れを仕切りなおした。

 「そうだ、こないだあの後授業サボっただろ」

 何とかして会話の主導権を得たいのだろう。アタシにとって不都合な話を出してきた。

 そう、アタシは前回昼休みに職員室に呼び出された後、そのまま屋上に行って放課後までサボっていた。これに対しては反論の余地もない。

 「ああ、はい……その件はすみませんでした。二度としません」

 「そう言って、もう何度目だ?」

 担任は少し顔を曇らせて問い詰めてきた。

 「おっしゃる通りです……」

 アタシは黙って下を向きながら、握りしめる自分の拳を見つめる。

 会話の主導権を得られたことで、この男は大層ご満悦そうだ。

 「お前な、それなりに勉強ができていても、サボって授業に出席してなかったら卒業させたくてもさせられないんだぞ」

 痛いところを突かれた。そろそろサボるのも控えなければいけないようだ。

 「しかし、小出は、地頭は良いんだ。サボったり、授業中もボーっとしていなかったらもっとテストの点も良いだろうに。もったいない」

 「はあ、そうですか」

 基本勉強はこまめにしている方だと思う。家事の合間だったり、寝る前だったりと。だけど、それは学校のテストの中の上ぐらいの点数をキープする程度ぐらいしかやらないので、そこまでパッとした成績ではない。可もなく不可もなくといったところだ。

 昔は優理奈と一緒に勉強してたっけな。

 「かすみの事とかも見習えよ。確か仲いいんだろ?」

 そんなことを考えていると優理奈の話が出た。霞とは優理奈の苗字だ。

 この男はという奴は。今は優理奈のことは関係ないだろ。

 「別に家が近いってだけで最近は話したりしてないですよ」

 「ああ、そうなのか」

 担任は自分のコーヒーに再び手を付ける。先ほどよりも多めに飲み、口を潤した。そして、座りっぱなしでズボンが蒸れたのだろう、軽く腰を浮かしてお尻をもぞもぞと触って座りなおした。

 男の人のこういう仕草。あまり好きじゃない。

 「で、進路調査票の件なんだが」

 予期していた話題がついに、思っていたよりも急に飛び込んできた。なので、アタシは担任と目を合わせるのが気まずくなり、一瞬ちらりとコーヒーカップに目をやった。さっきよりも湯気の量が減り、もう冷め始めている。

 「ええ、はい。まあ、その話ですよね」

 「まあ、担任である以上はこうして催促しないといけないんだよ」

 アタシ自身、自分の進路について検討すべき時期が来ていることは十分に理解している。

 「それについては分かっています。自分の中でまとまったらすぐに提出します」

 早くこの会話を終わらせたかったので、ここはおとなしく従うことにした。それに、明らかに自分が不利な状況で、一方的に詰められるのはとても気分が悪い。

 「本当だな?」

 「はい」

 「前みたいに空白とかは無しだぞ?」

 「はい、もうしません」

 「頼むぞ。早く全員分を集めて、進路指導部の方にも回さないといけないんだよ」

 完全に自分の流れに乗ったことをいい気に思ったのか、口調は少し強めになった。

 「はい」

 返す言葉もなかった。期日を守らないでいるのは他ならぬ自分なのだから。

 でも、全員がすんなり自分の進路を決めることができる訳ではないことを分かってほしいという気持ちもある。だけど、そう言ったところでこの男にはその事情を汲んでくれるほどの器量は備わっていないだろう。

 「今週中には頼むな。お父様ともよく相談して」

 「分かりました」

 いつからかは分からないが、この居心地の悪い空間に押されて、アタシは背中を丸めて俯きながら小さな声で返答した。

 気まずさに耐えきれずもう一度コーヒーカップに視線をずらすが、すっかりぬるくなってしまい、もう湯気は出ていない。

 「まあ、小出は一応成績は悪くないからとりあえず進学した方がいいんじゃないか」

 とりあえずって何だよ。とりあえず進学してその先に何があるんだよ。歯を噛み締めながら言葉を飲み込んだ。この男の視野の狭さを恨む。

 もっともらしいようで、中身のない言葉なんだろう。

 「そうですかね」

 アタシは俯きながら、流されるように答えた。

 「そうだぞ。とりあえず大学行って、それなりに勉強してたら、案外人生何とかなるもんだぞ」

 「じゃあ、就職組はどうなんだよ」の一言を飲み込み、アタシのお腹は黒く濁った言葉たちで満たされている。

 それに最後の言葉が引っかかった。あくまで、この男の視点から見た話にはなるが。この男にはアタシの人生はうまくいってないように見えるのだろうか。確かにアタシは早くに母親を失くしているが。いけない、この男に対して完全に否定的になっている。

 でも、なんてデリカシーのないことを言うのだろうか。前々から、生徒にいいところを見せたいだけの、ただの目立ちたがり屋だとは思ってはいた。だけど、ここまでとは。悔しさのあまり力みすぎたのか、喉の奥がぎゅっと閉まり、唾がうまく飲み込めない。喉の奥に唾が溜まっているのが分かる。

 「はい、頑張ります」

 何を頑張るのかという話だが、何も考えずにそう答えた。

 「そうそう、その意気だ」

 自分の熱意が伝わったと実感したのか、大層気分がよさそうだ。

 「じゃあ、明日からも元気にやっていこうな」

 「はい」

 もはやこの二文字以外を口に出す気力も湧かない。

 「まあ、こうやってサシで話せて本当によかったよ。小出が普段思っていることも知りたかったし、お互いに関係性を深め合うことができたじゃないか」

 今はっきりと分かった。この男は自分に酔っているのだ。

 もしも、この会話自体がテレビか何かのドッキリ番組で、この会話を隠しカメラで録画しているのならば、巻き戻して初めからしっかりと見てほしい。この男は私の思いを知った気になっているが、勘違いもいいところだ。初めから一方的にこの男が話すだけで、アタシの意見なんて会話に上がってなんていない。深め合うどころか、より一層関係性が希薄になってしまった。

 「小出は早くにお母様を亡くされて苦労している。本当に辛いことだ。悩みも多いだろう。だから、少しでも何か助けになりたいんだ」

 悩んでいるといえば、アタシは他の生徒よりも色んなことに悩んでいる方だろう。だけど、こんな風にアプローチされるのは気持ちが悪い。顔も青ざめてしまい、しつこい吐き気を催してしまう。本当にやめてほしい。

 それに一番腹立たしいことは、この男が嫌味で言っていないという事だ。この男が生まれてから現在に至るまで、両親の仕付け、通った学校での教育、友人知人、いるかは分からないが恋人といった様々な要因が影響し合った結果、形成された性格を元にしてこの男はこの言動を取っている。つまり、ごく自然に、無意識的なのである。それを証拠に、この男は輝かしく、飾り気のない、屈託のない顔をしている。しかし、全てにおいてズレているのだ。見当違い、的外れなのだ。このことに悔しささえも覚える。

 この男は自分でも気付かないうちに、アタシに寄り添った気になり、アタシを導く師になることができたと勘違いしている。そして、その達成感の波に飲まれ悦に浸るのだ。

 まさしくそれは、アタシにとって目の前で、この男の自慰行為を見せられているようなものなのだ。この男が自らの手で男根を弄ったり、べたつきながらにちゅにちゅと鳴くように音を立てたり、その反吐が出る臭気が匂ってくるような錯覚に陥ってしまう。

 この男は、話が終わったころには、快感エクスタシーを感じ、賢者タイムにでも浸るのだろうか。

 この男にとっての寄り添うとは、所詮自己満足のための行為に過ぎないのだろう。誰かを救い、導いた気になり悦に浸る。この男は、この快感を味わいたくてたまらないのだろう。ただの目立ちたがりぐらいの方がまだマシだ。

 アタシはこの男に自分の感情を蔑ろにされ、哀れに思われ、同情さえされる扱いを受けた。アタシの主観ではあるけど、それは、半ば凌辱行為にも近い、屈辱的な扱いだ。

 「……というわけだ。それじゃあ、今日はもう帰ってよろしい。進路調査票も忘れないようにな」

 急にこの地獄のような空間からの解放を告げる言葉が聞こえ、ハッと我に返った。頭の中で負の感情が洪水のように押し寄せ、思考が止まってしまっていたらしい。あの後からこの男はだらだらとつまらないことを言っていたのかもしれないが、全く気が付かなかった。というより、耳が完全に外部からの音を遮断してしまっていたのだろう。

 「帰りも気を付けるんだぞ。日が落ちるのも早くなり始めたしな」

 「あ、えと……今日は本当に申し訳ありませんでした」

 頭はまだぼやけているが、とりあえず社交辞令を言えるだけの余裕はあった。

 「てか、コーヒー飲めばよかったのに。すっかり冷めちまったな」

 担任は冷たくなってしまったコーヒーを見ながら言った。

 「折角出してくれたのに、すみません」

 今日は謝ってばっかだ。

 とにかく疲れた。

 早く帰りたい。

 「まあいいさ。また悩み事でもあればいつでも来ていいからな。コーヒー飲むだけでもいいからな」

 「ありがとうございます。そうします」

 もちろんその気は毛頭もない。

 アタシは椅子から立ち上がり、最後にこの男に軽く頭だけ下げて職員室を後にした。

 自業自得なのは重々分かっている。でも、この腹立たしさは何だろう。

 きっとあの男に対する嫌悪感だ。

 それとも、ただ単にアタシが我儘なだけなの?

 誰か教えてほしい。


    ***


 「眩しっ」

 アタシは黄昏に照らされた顔を手で覆った。オレンジ色に濃く光っている。

 十月にもなると、段々日が沈むのが早くなってきた。ギリギリ明るいうちに帰れてよかった。

 西の空に沈みゆく、オレンジ色に濃く光る夕日をアタシは指の隙間から眺める。草木が光合成をして栄養を取るように、自分も同じように回復して、今日のイライラなんて綺麗さっぱり消えて無くなればいいのに。だけど、そんなことは起こらない。

 「何が、『みんなには内緒だぞ』だよ。バッカみたい」

 ため息交じりに呟いた。そんなことをしているうちに家に着いた。アタシは家の門を重たげにぎいっと開けて、玄関の前まで来ると、家の鍵をがさごそとだるそうに鞄から出して、玄関を開けてやっとの思いで帰宅した。疲れとストレスのせいで一つ一つの動作が投げやりでオーバー気味になってしまった。

 アタシはすぐに玄関にへたり込み、深いため息をついた。今日は特に疲れた。しかし、片親の真美にはやらなければならない家事がたくさんある。まずは、朝、登校前に干した洗濯物を取り込んで畳まないといけない。洗濯は夜に帰ってくる父が自分の分を洗濯機に入れた後に回してくれるので、朝起きたらそれを取り出して干している。

 次はお風呂洗い。これは簡単で、スプレーをかけて数分待ってからシャワーで洗い流すタイプの洗剤を使っているのですぐに終わる。それから、お湯はりのスイッチを入れる。全自動は本当に便利だ。

 そして次に、自分の分はもちろん、帰りの遅い父の分の夕飯を作らないといけない。父親は家のために必死で働いてくれているので、帰りはどうしても遅くなってしまう。なので、基本夕飯は別々だ。父は夜に帰宅したらアタシが作って冷蔵庫に入れておいた夕飯をレンジで温めてから食べている。

 買い物は近くにある、野菜や日用品などが安いスーパーでポイントが倍になる曜日が二日あるので、その日にまとめ買いしている。昨日がその日だったので、今冷蔵庫の中に食材は十分にある。ちなみに、朝食は簡単に済ませるために基本パンで我が家は済ませている。昼食は、父は会社の食堂で済ませるが、アタシに至っては、昼食も購買部でパンを買って済ませている。

 食器洗いや部屋の掃除は割とこまめにしている方だと思う。二人分なのもあって食器の量や掃除する範囲、洗濯量もそうでもない。それに父は夕飯を食べた後は自分で食器を洗うし、朝食後の食器洗いも父がしてくれている。その間にアタシは洗濯物を干している。

 周りからはヤングケアラーだとか不憫に思われているかもしれないけど、父とも協力し、工夫しながら生活しているので、意外にうまく回っている方だと思う。

 今、冷蔵庫には、豚のこま切れ肉、ピーマン、玉ねぎ、人参があるので、今晩のおかずは野菜炒めにしよう。今日は本当に疲れていたので簡単に済ませたかった。

 アタシはキッチンに立ち、使い古された赤色のエプロンを身に着けた。

 包丁を手に取り食材を淡々と切っていく。昔はお母さんや優理奈と一緒に料理したっけな。

 食材を切り終わったら、フライパンに油を引いて、火にかけながら軽く転がしながら、油をならした。そして、いい具合に油が熱せられたのを確認すると、アタシは食材を投入した。菜箸を使いながら均等に炒めていく。

 炒め終わったらアタシと父の二枚の皿に盛りつけた。父の分はサランラップをして冷蔵庫に入れておけば帰ってからレンジで温めてから食べるだろう。

 最後に炊飯器からご飯を、そして、昨日作っておいたお味噌汁とほうれん草のおひたしを温めてからお皿によそった。

 夕飯が無事完成した。疲れていた割にはいい出来だと思う。

 アタシはエプロンを脱いで、完成した夕飯をリビングのテーブルに運び、一人で黙々と食べた。

 夕飯を食べ終わったアタシは、お風呂に入ってから軽く勉強でもしようか、などと考えながら、食器を洗って片づけようとした。

 すると、家のインターホンが鳴った。

 誰だろう。宅配便かな。そうは言っても、普段は夜に父が帰るまで一人で家にいるので用心は必要だ。そのため、父がアタシのために防犯モニターを設置してくれた。これだと誰が来たかすぐに分かる。

 アタシはモニターの画面を見た。すると、そこには花が写っていた。初めはどういうことか分からなかった。花は左右に揺れている。でもその花の横から人の顔が現れた。

 優理奈だった。

 「ごめんくださーい」

 アタシはモニター横の応答ボタンを押して話し掛けた。家に来るのはいつぶりだろう。

 「何どうしたの、優理奈?」

 「あ、遅くにごめんね、真美ちゃん。部活がさっき終わって、どうしても真美ちゃんに渡したい物があって」

 「え、何? まあいいや、とりあえず玄関開けるね」

 アタシは慌てて玄関まで出た。玄関を開けると、そこには綺麗な黄色の花を携えた優理奈が立っていた。

 「ごめんね、急に。お家の事とか忙しかった?」

 「いや、さっきご飯食べ終わって片づけようとしてたところだか……ら?」

 その時だった。

 アタシが話していると、優理奈が急にアタシの口元を見つめながら手を伸ばしてきた。

 柔らかそうな唇と唇の隙間を少し開かせて、その目は少し虚ろ気だった。

 アタシの口元に優理奈の透き通るように白い肌をした手が触れた。背筋がゾクッとして、鳥肌が立った。

 優理奈は何かを摘まんだ。そして、舌をペロッと出してそれを舐めとった。

 優理奈は妖しく笑った。

 「くすっ、おべんと付いてたわよ」

 アタシはとっさのことで驚いて身体が固まってしまった。ただ優理奈のことを見ているしかできなかった。

 だけどすぐに遅れて恥ずかしさがやって来て、口元を手でバッと押さえた。顔が熱くなってきているのが分かる。

 「うっ、うるさいっ!」

 優理奈から目をそらして、キレ気味に言い放った。

 ていうか、キスされるかと思った。

 「ふふっ」

 優理奈は相変わらず余裕そうに笑っている。

 とりあえず玄関まで優理奈を入れた。辺りはすっかり暗くなっていた。

 「で、何なのそれ」

 「これね、園芸部で育てたの。余ったから真美ちゃんの分もと思って」

 優理奈は携えた黄色い花をアタシに渡した。

 オレンジっぽくも見える濃い黄色をした花。何重にも花弁が開いていて、独特だけど、気分がスッキリするような香りがする。

 「これって、キンセンカだっけ?」

 「そうよ。ビタミンカラーの綺麗な黄色をしているから家に飾るのにいいかなって。真美ちゃん、この花知ってるの?」

 「うん。それってお見舞い用とかに送る花でしょ」

 「え? そうなの?」

 どうやら優理奈は知らなかったようだ。キンセンカは元気の出る見た目をしていることもあって、よくお見舞い用に送られたりする。かといって、別にそれ以外の用途でも問題はない。

 でも、優理奈のきょとんとした顔を見ると、アタシのいたずら心がくすぐられた。

 「じゃあ、アタシは病人ってわけだ」

 アタシはニヤニヤと笑いながら言った。

 「もう、いじわるしないで。知らなかったのよ」

 優理奈は頬を膨らませ、ふてくされた顔を作った。

 ついからかってしまった。珍しくこうなった時の優理奈はからかい甲斐がある。それにさっきはアタシの方がからかわれたので、これでおあいこだ。

 これで今日の嫌な気分もちょっと晴れた気がする。

 「うそうそ、別に普段送っても問題ないらしいよ」

 「なら、いいんだけど。勉強になりました……」

 優理奈は伏し目がちにして、しゅんとしている。

 「ところで、優理奈さ。わざわざ渡しに来てくれたんだ」

 「ええ、公園の花壇の様子も見たかったから、そのついでよ」

 「へえ、ついでね」

 「もう、これ以上いじわるすると怒るわよ」

 また優理奈の頬がぷくっと膨らんだ。ほんとからかい甲斐がある。

 「でも、ありがと」

 「いいのよ。花瓶はあったはずよね」

 「うん、後で花瓶に挿しとくよ……」

 アタシは少し黙り込んだ。

 「優理奈さ……せっかくだし上がってかない?」

 今日は何故か優理奈を家に上げたくなった。職員室でのことがあったからかな。

 「え、いいの?」

 「うん、何なら夕飯も食べていきなよ。おかず余ってるからさ」

 「そう。じゃあ、お言葉に甘えようかな」

 そう言って優理奈は、お家の人に夕飯は小出家で済ませると連絡をしてから家に上がった。アタシの家に上がるのは多分一年以上ぶりだと思う。まあ、普段アタシが優理奈だけでなく他の人を避ける生活をしているから当然のことだ。優理奈も気を使ってかあまり家に来ようとはしなかった。でも、今日は珍しくやって来たのだ。

 アタシはもう一度エプロンを着て、食器を洗い始めた。その間に優理奈は持ってきてくれたキンセンカを花瓶に移し替えて、リビングのテーブルに置いてくれた。洗い終わると、アタシは優理奈に夕飯を温め直してから出してあげた。優理奈はテーブルの椅子に座って、小さく手を合わせ、小声で「いただきます」と言ってから食べ始めた。アタシも椅子に座って、上品に、ゆっくりと食べる優理奈の姿をキンセンカ越しに頬杖をつきながら眺めた。

 「美味しい。真美ちゃんのお料理久々に食べたわ」

 優理奈は口に手を当てながら喋った。

 「そうだね。ほんと久しぶり」

 「あら、真美ちゃん。そのエプロンってもしかしておばさまの?」

 優理奈は脱ぎ忘れた赤いエプロンを見て言った。

 「ああ、これね。そうだよ」

 「なんだか懐かしいわ。思い出しちゃうわね、三人でお料理とかしたわよね」

 「……うん」

 「真美ちゃんはお料理中でもお構いなしで、いつもおばさまに引っ付いていたわね。おばさまは『暑苦しいよ』って口では言うけど、いつも嬉しそうに笑っていたわ」

 「そうだったね」

 「いけない、湿っぽくなっちゃったわね。ごめんなさい」

 優理奈は慌てて食事に戻った。

 「別にいいよ」

 そう言いながらアタシは優理奈がアタシの料理を咀嚼している口元をじっと眺めていた。

 そうしていると優理奈が食べ終わった。

 「片づけるから、置いておいていいよ」

 「そう、ありがとね」

 アタシは優理奈の食べ終わった食器を流し台に置いた。

 「じゃあ、これ以上お邪魔になっちゃう前に私帰るわね。晩ご飯ごちそうさまでした」

 「うん、分かった」

 あ、もう帰っちゃうんだ。まあ、もう外は暗いし仕方ないよね。

 アタシは家の門の所まで優理奈を送った。夜になるとうっすら肌寒くなっていた。でも、寒い方が空気も澄んでいて気持ちがいい。

 「すっかり肌寒くなってきたわね」

 「暗いし、帰りは気を付けてね、優理奈」

 「ええ、分かったわ」

 優理奈は家の門をぎいっと開けて道路に出た。

 「じゃあね、優理奈」

 アタシが手を挙げて別れを告げるが、優理奈は門に手を掛けたままで帰ろうとしない。

 「どうしたの?」

 「それはこっちの方よ。真美ちゃんたら私が家に上がってからずっと心ここにあらずって顔してたわよ」

 「え、ほんと?」

 やっぱり優理奈にはお見通しらしい。まあ、顔に出てても仕方ないか。

 「ええ、こう眉間にキューって皴が寄って難しい顔してたわよ」

 優理奈は手でジェスチャーをしながらおどけてみせた。

 「何それ」

 「だって本当よ」

 お互いにぷっと笑いが出てしまった。

 秋の澄んだ空に二人の笑い声が響いた。

 「それで、今日も何かモヤモヤすることがあったの?」

 「……うん、まあね」

 アタシは門の所まで近づいて、手を掛けてもたれかかった。

 「優理奈」

 「なあに」

 「アタシってやっぱり我儘なだけなのかな?」

 「どうしたの、急に?」

 「いや、今日放課後に担任と話してさ」

 「あら、また呼び出されちゃったの?」

 「うん。それでその時に思っちゃったんだよね」

 「そうなの」

 「今、アタシが抱えているモヤモヤがあるのって、全部アタシが我儘だからなのかなって」

 「うん」

 「だったら全部アタシの自業自得なんじゃないのかなって思ったらさ。しんどくて……」

 「そっか。今日も疲れちゃってたんだね」

 「うん。今日はホントに疲れた。でも、野菜炒めは上手くできたよ」

 「そうね、とっても美味しかったわよ。偉いわ、真美ちゃん」

 「そうだよ、もっと褒めてよ。これでも必死に頑張って生きてるんだから」

 「ええ、ちゃんと私は分かっているわよ」

 アタシはけだるそうにして門の上に腕と顎を乗せて、ため息をついた。

 「しんどかったね、真美ちゃん。でもね……」

 すると優理奈はアタシの鼻をこしょこしょとくすぐった。

 よくお母さんがアタシにしていた仕草だ。

 アタシは拍子抜けして身体が固まった。これで今日は二回目だ。

 「私は我儘な真美ちゃんの方が可愛くて好きだけどな」

 優理奈がいたずらっぽく歯を見せながら笑って言った。

 「え、どういう意味?」

 くすぐられた鼻先が何だか熱い。

 「ナイショよ。じゃあね」

 そう言うと優理奈は道路を照らす街灯に照らされながら去っていった。

 優理奈は秋の夜風に酔ってしまったのだろうか。


    ***


 悶々とした気持ちでアタシはお風呂に入っていた。優理奈にさっき言われたことを思い出しては、お風呂のお湯をバシャバシャと力任せに両手で波立たせた。そして、お風呂から上がって、集中できていない中途半端な状態で勉強していると、父が帰宅した。

 「ただいま」

 「おかえり、父さん。冷蔵庫に野菜炒めあるよ。あと、ほうれん草のおひたしも」

 「そうか、ありがとう。いつもすまないな」

 父はどんなに疲れていても、忘れずにありがとうと言ってくれる。

 「あれ?」

 父はリビングにあるキンセンカの花に気が付いた。

 「この花どうしたんだ?」

 「ああ、これね。優理奈が持ってきてくれたんだ。さっきまで家にいたんだよ」

 「ああ、そうだったのか」

 「久しぶりに夕飯も食べて帰ったんだ」

 「そっか……」

 父は何か考えるようにして黙り込んだ。

 「どうしたの?」

 「いや、優理奈ちゃんが来るの久しぶりだからな。昔を思い出しちゃったよ」

 「そうだね」

 「よく母さんと三人で料理したりしてたよな」

 「うん。さっきもその話になったよ」

 「何だか、父さん嬉しいよ」

 疲れ切った笑顔でアタシにそう言った。

 「うん、そうだね」

 何だかしんみりしちゃったな。

こんな空気の中で話づらかったが、そういうわけにもいかないので今日のことを話すことにした。

 「ねえ、父さん。実は今日担任に職員室に呼び出されちゃって」

 「どうかしたのか? 何かされたのか?」

 こういう時に、まず、「何かしたのか?」と疑って訊いてこない父の事を本当に感謝しなければならない。

 「いや、進路調査票が配られたんだけど、実はまだ出してなくて。そのことで」

 空白で出したことは黙っておいた。

 「おお、もうそんな時期だよな」

 「しかも今日呼び出されるの二回目なんだよね」

 「ははっ、それはまずいよな」

 父は苦笑いした。別にアタシのことを責めはしない。

 「で、真美はどうしようと思うんだ」

 「うん、それがさ……わ、分かんない」

 「そっか。こういう事をきちんとと話す時間も作らないといけなかったよな。すまないな」

 「いいって。言ってなかったアタシも悪いし」

 「ちょっと座って話そうか。コーヒーでも入れるよ」

 「大丈夫? 疲れてるでしょ」

 「いや、今話さないとダメだ」

 「うん、そうだね。ありがとう」

 父はコーヒーを淹れるのが大好きで、よくアタシにも淹れてくれる。ちゃんと豆から挽いて、ペーパーミルを使って、丁寧に濾して淹れてくれる。

 コーヒーのいい香りが漂ってきた。放課後に嗅いだインスタントコーヒーとは大違いだ。

 アタシと父はリビングのテーブルに向かい合って座った。二人の間の二杯のコーヒーから湯気がゆらゆらと出ている。

 「真美は将来何かやりたいことはあるのか?」

 「分かんない。何もないよ」

 「そうだよな。最近の高校生は早いうちにやりたいこと見つけてたりしてるみたいだけど、父さんが若い頃は何も思い浮かばなかったよ。時代は変わったんだな」

 「このまま、何も見つからないのかな?」

 「それは絶対にないと思うぞ」

 「そうかな」

 アタシは自信の無さげな、か細い声で答えた。

父はコーヒーを一口飲むと足を組み直して、アタシの目を真剣に見た。

 「少し長話をしてもいいか?」

 「うん、大丈夫」

 「よし、分かった」

 どんなことを言われるんだろう。少し緊張が走った。厳格な性格ではないから口うるさいことは言われないと思うけど。

 「それじゃあ……父さんはな、正直言うと真美には大学に行ってほしい。だが、これは世間一般で言うところの就職の時に困らないからとか、ありきたりな理由じゃないんだ。正直なところ、母さんが死んじゃってから真美はあまり他の人と関わらくなった気がするんだ」

 「うん、それは、否定できない」

 少し胸がチクっとした。でも、父はアタシのために言っているんだと思う。耐えて聞こう。

 「でもな、この世は一人で生きていくことは絶対にできないんだ。それに真美は母さんに似て美人で、頭も良い。だから、今のこの状況がもったいないんだ。だから真美にはこの家を出て、もっと人が多いところに行って、もっとたくさんの種類の人に会って、世界の広さを実際に見て感じてほしいんだ」

 父がこんなことを考えていたなんて。会って話す機会が少ないから全く知らなかった。

 「母さんが死んでから、家事は任せっ切りだし、それに父と娘らしい会話もできないでいた。それに、母さんが死んだことがまだ立ち直れないでいる。」

 「そんなの、父さんも家事とか手伝ってくれるし。それに、アタシだってまだお母さんのこと……」

 アタシの口が震えて、最後は言えなかった。

 「正直、今も仕事に逃げている自覚はあるんだ。だから、こうなるまで真美と話す時間を取れないでしまっていた。本当に許してほしい。本当に苦しいのは、母親を失った真美なのに……」

父はアタシに頭を下げてきた。こんなことは初めてだ。

 「大丈夫だって、父さん。父さんがアタシのために必死で働いてくれてるんだからさ」

 「いや、子供の幸せのために必死になるのは当然だ」

 「……」

 気圧され言葉も出なかった。

 「だけどそんな俺でも唯一出来ること。それはお金だけなんだ。幸い俺はそれなりに稼ぎはいい。いや、それしか能がないんだ。どんな大学にだって行かせてやれる」

 確かに。片親のアタシでもそれなりに何とか生活できているのは父の収入が多いのもある。

 「こんな俺でもできる唯一の父親らしいことがお金だけだなんて、本当に情けないと思う。だけど、こんな情けない父親の意見でも参考にしてもらえないか」

 父は強いとは言えない人だった。意思をはっきりと示すことが苦手な方だと思う。だけど、そんな父が弱々しくも、ここまで考えて、こんなに強く言ってくるなんて想像もしていなかった。

 「すまん、つい激しくなってしまった」

 父は恥ずかしそうに咳払いしている。

 「いいって」

 アタシまで何だか恥ずかしくなってきた。

 「とりあえず、今言ったことが父さんの意見だ。だけど、最終的には真美が判断したことを尊重するから。安心して考えなさい」

 「うん、分かった。ありがとね」

 「じゃあ、父さんはお風呂に入って、夕飯を頂くよ」

 「アタシはもう少し勉強してから寝るね」

 「ああ、分かった」

 父はコーヒーを洗い場に下げると脱衣所へと向かった。

 久々に父とゆっくり話して疲れた。アタシはふうと一息つきながら椅子にもたれかかった。

 ふいに机に目をやったアタシは父が折角淹れてくれたコーヒーに手を付けず、冷めてしまっていることに気が付いた。

 まあ、いいか。レンジで温め直して、勉強しながら飲もう。

 でも、今日は集中できそうにないや。もちろん父と話した内容の事もあるが、さっきの優理奈の事の方が大きい。

 

    ***


 昨日は色々と考えることが多い日だったと思う。おかげであまり眠れなかった気がする。

 そんなことをアタシは教室の窓際の自分の席から外を眺めながら考えていた。今日の空は曇っていて、今にも雨が降ってきそうな天気だ。心なしか気圧のせいで頭が重い。

 昨日の夜、優理奈とのことを考えれば考えるほど、恥ずかしくなって顔が熱くなってきた。ていうか優理奈、しれっとアタシのことを可愛いって言った。そりゃ、小さい頃はよく面白半分で言われていたけど。この歳になって言われると恥ずかしい。それに昨日は何で優理奈を家に上げたんだろう。昨日はあれだ、担任にまた職員室に呼ばれて、変に気分が落ち込んでしまっていたからだ。

 アタシはそう自分に言い聞かせて自分を納得させた。

 それに父のこともだ。あんな風に考えてくれていたなんて。

 でも、結局はアタシが決断しないといけなくなっちゃった。それに、あの家を出るなんて考えたこともなかった。

 あれ? でも、その時は優理奈とは……離れ離れになっちゃうのかな。

 そんなことを考えていると、いつの間にか帰りのホームルームが終わって、放課後のチャイムが鳴った。

 昨日は本当に疲れた。疲れがまだ取れていない気がする。でも、今日も帰ったら、家に干した洗濯物を取り込んで、軽く掃除機でもかけて、お風呂を洗ったら、夕飯を作らないと。あと、二学期末のテストに備えてそろそろ勉強したことの復習もしないと。それにあの進路調査表も書いて出してしまわなければならない。昨日父はああ言ってくれたものの、アタシの中ではモヤモヤとした説明しがたい感情が渦巻いているため、どうしようか答えを出す事ができない。何はともあれ、まずは今晩のおかずを何にしようか。冷蔵庫に入っている食材を思い出しながらアタシは帰りの支度をしていた。

 すると普段一人でいるアタシには聞きなれない声色でアタシを呼ぶ声が耳に入った。

 「小出さん、おつかれー」

 不意のことだったので、アタシは少し身体をびくつかせて声のする方を向いた。隣の席の松本まつもとさんという女子が呼んだのだった。そこまで派手ではないが、制服を着崩し、髪にはパーマをあてて、化粧をし、綺麗なネイルを付けている。アタシにとってはクラスのギャルといった印象しかなかった。下の名前は申し訳ないが覚えていない。席に座った松本さんの後ろには、同じような、ギャルっぽい身なりをした、他クラスの友達であろう女子もスマホを見ながら立っていた。

 アタシも多少は制服を着崩しているが、アタシの場合はただズボラなだけで、この二人はオシャレに着崩している。

 「あ、松本さん。お、おつかれ」

 アタシはキョドりながら、小さくぼそぼそと答えた。後ろの女子には軽く会釈だけした。

 「小出さん、何かあったの? 今日ずっとため息つきながら窓の外眺めてなかった?」

 いきなり図星を突かれたアタシは顔が引きつりそうになったけど、そこは何とかリアクションを取らないように耐えた。

 「え? 別に何にもないよ……」

 上手く笑えているか自分からは分からないが、愛想笑いをしながら、アタシは何事もないように振る舞う。

 「えー、ほんと?」

 結構しつこいな。

 「今日天気悪いからさ、それで一日頭重かったんだよね」

 「あー、分かる! 気分も落ち込んで、考えこんじゃうよね」

 「そうそう、この時期だと進路のこともあったり考え事多いしね」

 本心ではないが、あながちこれも嘘ではない。会話をなんとなく繋げてごまかすためにそう言った。

 それに今この場でアタシが昨日の優理奈とのことを話せるわけがない。

 「あー、そうだよね。この時期は悩んじゃうよね」

 「う、うん。なかなか決められなくてさ…」

 「私もだよー、そもそも学校卒業できるかだよー、勉強ニガテー」

 初対面だから緊張していたけど、後ろの女子も気さくにアタシたちの会話に混ざってきた。聞くところによると、優理奈と同じクラスの相川あいかわさんという子らしい。相川さんは松本さんにだるそうにもたれながら抱き付いている。松本さんは、相川さんの頭をこずきながらうざそうにしている。

 その絡みを見ながらアタシはとりあえず愛想笑いを振る舞った。

 昨日の担任や優理奈、父との事があって、まだ疲れが残っていたアタシは正直早く家に帰りたかったけど、なかなか言い出せずにいた。

 「そうだ、小出さん、私たちこれから進路相談室に大学のパンフレット見に行くんだけど……」

 「え……」

 「一緒にどうかな……?」

 アタシの様子を伺うように松本さんが訊いてきた。

 「えーっと……」

 二人が期待した目をしてアタシを見てくる。

 普段なら気まずくなるのを覚悟して断るのだが、今日は疲れていて断る気力も湧かず、つい流れに身を任せてしまった。

 「じゃ、じゃあ、アタシもちょっとだけ行ってみようかな」

 二人の目力に圧倒され断り切れなかった。まあ、ちょっとだけ見たら適当に帰ればいいだろう。

そう思ったアタシは二人と一緒に進路相談室に向かうことにした。

 二人の後を付いて行く形で、廊下を歩いていると松本さんが顔を覗かせて訊いてきた。

 「ねえ、小出さんって、霞さんと仲良いの?」

 松本さんの化粧の匂いがぷうんとして、鼻に刺さった。

 「え?」

 急に優理奈の話が出てくるとは。まあ、アタシたちの昔の関係を知っている人も何人かはこの学校にいるから、一部の人は気になるのだろう。

 そりゃあ、学校一の美少女とぼっちの女の子だ。違いがありすぎる。

 「ああー、別にただ家が近いってだけだよ。昔は遊んでたりしてたけど、高校に上がってからはすれ違いが多くなっちゃったけどね」

 「え? それって何か喧嘩とかして気まずくなったとか?」

 相川さんが割と踏み込んで訊いてきた。よくもこうズカズカと訊いてこれるな。まあ、それだけ気になるのだろう。相手はあの優理奈なのだから。

 「別にそんなんじゃないよ。ただお互いに忙しいってだけで、ただ時間が合わないってだけだよ」

 まあ、そんなことを言いながら二人で不定期に会って、ことをしているけど。昨日だって久しぶりだとは言え、アタシの家で夕飯まで食べて帰った。しかも帰りがけには意味深なことまでしてくる始末だ。いけない、折角忘れかけてたのにまた昨日のことを思い出してしまった。

 そんな話をしながらアタシたち三人は歩を進めていった。向かう最中、廊下では部活に向かう準備をしている者、下校して遊びに行こうとしている者、廊下や教室で話し込んでいる者、話からして図書館か塾に向かって勉強に励もうとしている者など、やはりたくさんの生徒の声と音で溢れていた。

 気圧で頭が重く、昨日の疲れがまだ残っているアタシにとっては少し耳が痛いほどにうるさかった。

 あ、今日はホントに疲れている日かもしれない。こういう日は何となく分かる。聞こえてくる声や音がどんどん、どんどん大きくなってくる。とても五月蠅い。心なしか冷や汗も出てきた。

 やっぱり断ればよかったかも。

 こういう時に正直に言い出す勇気が無い自分が憎い。簡単なことなのに。「ごめん、やっぱり今日具合悪いからもう帰るね」とだけ言えばいい。

 でも、これができない。言ったら、心配されるんじゃないか、せっかく誘ってくれたのにアタシが断ったたことで不機嫌にしてしまうんじゃないか。無駄に色んな事を考えすぎてしまって、その結果、行動を起こす事すら億劫になってしまい、ただ流れに身を任せてしまう。

 しかも、アタシはこの二人の下の名前すら知らないでいる。そんなことすら聞けないのだ。廊下を歩きながら二人はキャッキャと何を話しているか知らないけれど、アタシは話を聞いてもいないのに愛想笑いをし、スクールバッグの持ち手を握りしめながら二人の後ろを付いて行った。

 やっと進路指導室に着いた。アタシのクラスの教室からは校舎の真反対にあるのでとても遠く感じた。中に入ると、何人かの生徒たちが大学のパンフレットを見たり、進路指導の教師と話をしたりしていた。

 この空間でみんな将来のことを考えたりしているのかな。

 アタシってやっぱり置いて行かれてるな。

 そんなことを考えながら、適当にパラパラとパンフレット開いては閉じ、流して見ていると、相川さんが話しかけてきた。

 「ねえ、小出さんは気になってる分野とかあったりするの?」

 「い、いや。それが全く無くて」

 答えるのが気まずくて半笑いでごまかした。

 「あー、そうなんだ。でも、それってこれから色々な事決められるから楽しみだよね」

 そんなの楽しみでも何でもない。

 親切心で言ってくれているのに、アタシの心の中で黒い靄が渦巻き始めた。勝手にイライラしている。アタシってひどい奴だ。頭が重くて気分が悪いからなのかな。それとも、やっぱりアタシが我儘だからなのかな。

 色々って何? 多すぎて分かんないよ。

 まただ。どんどん靄が広がっている気がする。

 「私はねー、看護系行こうかと思ってるんだ。ほら、将来就職に困ったりしたくないし」

 相川さんは高校卒業後だけでなく、大学を卒業した後のことまで考えているのか。いや、でもこれが今の世の中では普通なのかもしれない。でも、アタシは心底驚いた。

 アタシは高校を卒業した後のこと考えるだけでも精いっぱいで、しかも決められずにいるのに。この子はさらにその先を見ている。

 アタシの中の焦燥感がぐつぐつとマグマのように沸き立つ。

 人によっては、この事に奮い立たされて、行動の活力にするのかもしれない。だけど、アタシはそこまで器用で、ポジティブな性格ではない。

 「へー、リン、看護行くんだー。まあ、安定だしね」

 相川さんが割って入ってきた。悪気は無いのだろうけど、肩がぶつかって軽く跳ね飛ばされた。だけど、すっかり話に夢中な二人はそんなことには気付かない。

 それに、松本さんの下の名前が今頃になって分かった。リンってどんな漢字だろ?

 「ランは?」

 あ、相川さんは下の名前、ランって言うんだ。リンとランって、まるでパンダみたい。ていうか、どっちか分かりにくい名前だな。

 うわ、アタシ何考えてんだ。ちゃんと二人みたいに将来の事考えろよ。だから、たかが進路調査票一枚書けないで担任に呼び出されたりするんだよ。

 アタシは将来だけでなく、今現在のこの場での会話にすら完全に置いてかれていた。

 「私は経営とか興味あるんだよね」

 「えー、ランが?」

 松本さんは半笑いで答えた。

 「ちょっとー、私みたいなバカには経営なんてできないって思ってるでしょ」

 「小出さん、知ってる? この子こないだのテストも赤点ギリギリだったんだからね」

 松本さんが急にアタシに振ってきた。

 「へあ? あぁ、そうなんだ……」

 相変わらずキョドってモゴモゴとした口で答えたので、まともな言葉になっていない。

 「ちょっと、それ言うなし。でも、私だってね、やりたいことのためなら努力だってするんだから」

 「へー」

 「あー、信用してないな。私だって色々な大学をリサーチしながら頑張ってんだよ」

 失礼な話だが、この子もこんなにまで自分の将来のことを考えていたのか。今までの立ち振る舞いからして意外だった。

 「へー、ランってば、すごいじゃん。見直したわ」

 「まあね、これぐらい当然しょ」

 相川さんはすっかりその気で答えていた。

 ああ、この子には明確な将来のビジョンがある。この先にどんな障害が立ち塞がろうと、この子はあらゆる手を尽くし、もしくは手段を学んで乗り越えていくんだ。その姿がはっきりと見える気がする。

 「まあ、でも、親からは薬剤師目指せって言われてうるさいんだよね」

 「あー、そこはやっぱり考えどこだよね。私も迷ったわ」

 「ホント迷うよねー」

 すっかり蚊帳の外って感じがする。

 まずい。焦燥感と疎外感で頭がグラグラする。

 「まあ、今のうちにこれくらい本気で考えとかないと、後で困るのは自分だからね」

 相川さんのさりげない一言がアタシの心をえぐった。相川さん自身のその言葉の本意はもちろん重々理解している。それでも、真っ黒で嫌な言葉がアタシの頭の中に浮かんできた。

 じゃあ、アタシは本気で生きてないって訳だ。

 大好きなお母さんも死んじゃって、毎日家事も頑張って、勉強も置いて行かれないように頑張って、先が見えない日々を怯えながらも何とか頑張って生きてるのに。

 こんなに一方的に考えたくない。相川さんだってそんなつもりないのに。でも、アタシの意思に反して思考がグルグル巡ってしまう。

 ヤバい。何だか泣いちゃいそう。目頭が熱くなるのが分かる。

 それにさっきと比べて気分も悪い。

 「ねえ、小出さんもやっぱり資格とかにも興味あるの?」

 また急にアタシに話が振られた。

 二人がアタシの話を期待して目を爛々とさせて見てくる。

 まるでアタシも当然のごとく将来のビジョンがあるかのように。

 「あ、アタシは……その……」

 やめて、そんな目で見ないで。

 アタシはみんなとは違う。今を生きるので精いっぱい。将来の事なんて分かんない。

 その時、顔がサーっと急に青ざめる感覚がした。背筋が冷たくなり、ぷつぷつと肌が泡立ち始めた。

 「ごめんっ、アタシっ、ちょっとトイレ行ってくるね!」

 凶器にも近い鋭さを持つ二人の眼差しを払いのけて、アタシは進路指導室を飛び出した。


    ***


 急に飛び出して行ったから、変な感じになっちゃった。二人とも絶対に怒ってるだろうな。

 でも、あれ以上あの場にはいられなかった。二人にはあるものがアタシには無いからだ。

 確かに、ほとんどの人は将来の明確なビジョンを持たずに生きているのかもしれない。でも、の人は意識的に持っていなくても、無意識的に将来のビジョンを持って生きていくから、それが何であれ、何者かになる事ができるのだ。アタシはそうではない。じゃないんだ。の人は、どうせ自分は何となくこうなっているんだろうな、と何となく感じながら生きていくけど、アタシには無い。それが、はっきりと自信をもって実感できてしまっている。アタシの先に見えるのは、暗闇ですらなく『無』なのだ。何もそこにはない。

 周りの人たちが羨ましい。妬ましい。

 ああ、嫌だ。こんなこと考えたくないのに。勝手に負の思考が巡り、アタシの気分が余計に悪くなっていく。

 アタシは口を手で押さえながら、廊下を早歩きで歩く。

 教室や廊下では生徒たちの声がする。

 廊下にいる生徒たちがみんなアタシのことを見ている気がする。いや、実際こんなにも挙動不審なのだから見ているだろう。

 外ではとうとう雨も降り始めた。薄暗い中で雨音が響く。

 小雨程度だけど、落ちて来る雨の一粒一粒が地面にぶつかる音が聞こえている気がする。

 校舎中の声や音がアタシに向かって押し寄せる。

 身体の感覚器官が敏感になっている。

 気持ちが悪い。吐き気が収まらない。冷や汗が止まらない。背中に気持ちの悪い悪寒が何回も、芋虫が歩く時のように波打って襲ってくる。

 喉の奥に酸っぱいものが上がってきた。ダメだ、これは吐いてしまう。人のいる前ではマズい。

 トイレに行こうか。いや、ダメだ。人もいるかもしれないし、何より空気が悪い。早く人のいない、外の新鮮な空気が吸えるところへ行かないと。

 アタシの向かう先は一つしかなかった。

 目的地が定まったことで、早歩きだったアタシの足がより速くなった。

 やっと屋上に上がる階段の下まで来た。屋上のドアが見える。

 しかし、その時ついアタシは気が緩んでしまい、喉を締める力を弱めてしまった。

 アタシの身体はその油断を見逃さず、一気に吐き気が濁流のごとく押し寄せて、限界が来た。

 アタシは激しく嘔吐いてしまった。まるでヒキガエルの鳴き声みたいな、汚い濁声が口から漏れた。乾嘔にも近かったけど、胃液と涎の混ざった吐瀉物が口と手の隙間から少量こぼれ出た。今日は頭が重かったのもあり、食欲がなかったので昼食は取っていなかった。なので、口からはやや粘度のある半透明な液体状の吐瀉物が出るだけであった。

 今、口からドロドロと溢れ出ているモノ。これが、お母さんが死んでしまった日から溜まっていったモノの正体なのだろうか。それがついに限界に達して、アタシの外側に出て来てしまったのかもしれない。

 きっとそうだ。

 嘔吐するのと同時に目からは涙も滲み出た。鼻水も出ている。そして、鼻にも吐瀉物が流れ込んで、酸っぱい臭いがする。鼻の中が染みて痛い。

 必死の思いでアタシは階段に吐瀉物をこぼし、片手で口を押え、もう一方の手を階段につきながら這い上がった。

 再び激しい乾嘔がアタシを襲った。今度は胃からは何も上がってこなかった。胃の中に何もないからだろう。しかし、そのせいで胃がギューッとねじれるように痛い。

 あ、まずい。うまいこと息ができない。早く外に出ないと。

 息も絶え絶えに、やっとの思いでドアの前まで来ることができた。ドロドロに汚れた手でドアノブを回した。滑って開けにくかったけど何とか外に出た。

 外はポツポツと雨が降り、風も吹いている。

 風でドアが激しく閉まった。

 新鮮な空気の中に出れたのも束の間、アタシは力尽きてその場に倒れこんだ。

 三度目の乾嘔がアタシを襲った。

 胃の中に何も無くて、うまく吐けていないから、乾嘔を抑えられない。そのせいで息がうまくできない。

 濡れた雑巾をギューッと絞るみたいに胃がねじれているみたいだ。

雨で濡れて寒い。それに、息苦しい。

 このまま窒息して死んじゃうのかな。

 どうしよう。松本さんたち、急に飛び出しちゃったから心配しているだろうな。すぐに戻らないと変に思われちゃう。

 それに帰って洗濯物入れなくちゃ。この雨じゃ台無しになっちゃう。

 それに夕飯も作らなきゃ。父さんがお腹空かしちゃう。

 それに優理奈。昨日の事はどういう意味なのかまだ聞けていない。

 でも、もういいや。死んだらお母さんに会えるし。

 大好きなお母さん。またあの柔らかくて、温かい手に触れられたい。抱きしめられたい。

 ——その時、雨の中、ドアの開く音がした。

 アタシを温もりのある手が包み込む。

 あ、もしかして、やっぱり……

 「真美ちゃん!」

 いや、違う。優理奈だ。

 でも、何で?

 「いや、真美ちゃん! しっかりして!」

 優理奈は持っているスクールバッグを投げ捨て、吐瀉物まみれで倒れているアタシを座って抱き上げた。

 優理奈はぎゅっとアタシのことを抱きしめて、必死に背中をさすった。

 「お願い……しっかりして……」

 優理奈、泣いてる?

 「ごめんなさい……」

 何で謝ってるの?

 だんだん乾嘔が落ち着いてきた。優理奈がアタシの背中をさすってくれて、抱きしめてくれて、人肌に触れたからかな。

 「優理奈、落ち着いて……もう大丈夫。」

 まずは優理奈を落ち着かせないと。アタシは息切れしながらも何とか声を振り絞った。

 「ああ、真美ちゃん。そうよ、ゆっくり息して」

 優理奈が泣きじゃくってる。こんな顔見るのお母さんのお葬式以来だ。

 「う、うん」

 アタシはもちろん、優理奈も雨と涙、鼻水、吐瀉物でべちゃべちゃだ。

 優理奈の涙か鼻水か分からないが、アタシの頬にボタボタと落ちてくる。

 「でも、何で?」

 「そんなことはどうでもいいから! とにかく、保健室に連れてってあげるわね」

 優理奈がアタシを抱えて運ぼうとした。

 でも、アタシは体に力を入れて立ち上がるのを拒んだ。

 「い、いや、もうホントに大丈夫だから」

 本当に嘔吐きはもう収まっていた。今はとりあえず何も考えないでこのまま座っていたい。今日の事も将来の事も。

 「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ! 体も冷えちゃってるし!」

 優理奈は珍しく感情が昂ってしまっているようだ。それもそうだ。アタシが呼吸困難で倒れていたのだから。ふらつくアタシの腕を無理やり掴んで保健室に連れて行こうとする。

 「優理奈、痛っ……落ち着いて……」

 興奮した優理奈の手がアタシの腕に食い込む。

 「ねえ、立って真美ちゃん……」

 優理奈はそれでもアタシの腕を引っ張る。

 すると、アタシの頭の中で火花が散る音がした。

 「いいから、もうほっといてってば!」

 カッとなったアタシは優理奈の手を力任せに払いのけ、胃酸でガラガラになった声で叫んだ。そのせいで、濡れてびちゃびちゃの屋上の床にお互いの身体が倒れこんだ。

 優理奈は濡れた目を丸くしてアタシを見た。アタシが大声を出したので、少し冷静さを取り戻したみたいだ。

 アタシの中に溜まっていたモノを、文字通り吐き出してしまったことで、アタシの中のか細い、解れかけの毛糸みたいな理性の糸がついに切れてしまったらしい。

 さっき嘔吐いていた時よりもたくさんの涙がアタシの目からブクブクと溢れ出てきた。

 アタシは両腕でごしごしと目を擦った。

 擦っても擦っても、一向に目が乾かない。涙が止まらない。

 止まれ、止まれよ。

 擦りすぎて目が痛くなってきた。

 優理奈、こんなアタシの姿見ないで。

 我儘で不細工な姿を見ないで。

 アタシはひたすらに目を擦りながら、嗚咽を上げて泣いていた。

 「ひぐっ、ひぐっ……」

 言葉にならない声が出る。

 「そんな、とりあえず屋根の下だけにでも……」

 「う……ひっく……」

 アタシは赤子のように泣き、優理奈に手を引かれながら屋上の出入り口横の屋根の下に座った。優理奈も黙ってアタシの隣に肩を寄せ合って座った。

 もはや何でアタシは泣いているのか分からなかった。それでも、アタシも優理奈と同じように感情が昂っているので、涙が止まらない。

全身が雨に濡れ、制服の胸辺りは吐瀉物で汚れているし、袖は雨とアタシから出た色んな液体でグシャグシャに濡れている。

 でも、優理奈はアタシの肩に優しく手を回して身を寄せてきた。ちょうど優理奈の頬っぺたがアタシの頭に当たっている。

 「やめなよ、今アタシこんなに汚いんだよ」

 アタシがそう言うと、優理奈はハンカチを取り出して、汚れたアタシの口元を拭いてくれた。

 「真美ちゃんなら別に平気よ。それにこうしてないと寒いでしょ」

 そして、優理奈がアタシの肩を優しくさすった。

 「やだ、離れてよ」

 「じゃあ、保健室行く?」

 「……っく……やだ。もう少しここにいる」

 アタシは嗚咽を上げながら答えた。

 「そうね。そうしよっか」

 小雨が止み、日が差してきた。冷えたアタシの身体を日の光が優しく温めてくれる。

 優理奈も温めてくれたからか、もうあまり寒くなくなった。でも、明日は風邪引くかもしれないな。

 とりあえず、優里奈のスクールバッグに入ってた水筒で口をゆすがせてもらった。少しは口の中もマシになった。

 十分くらいだろうか、まだ嗚咽を上げるアタシの横に優理奈はただ黙ってそばにいてくれた。

 泣き声がやっと、すすり泣き程度に収まってくれた。呼吸もちゃんとできている。

 松本さんたちとの事を話すと、優理奈はスマホで松本さんに連絡してくれた。どうやら連絡先を知っていたようだ。あっちもアタシが急に飛び出していったから心配してくれてたらしい。流石に心配させたことは明日ちゃんと謝ろう。

 「ちゃんと連絡取れたからもう安心していいわよ」

 「……うん、ありがと」

 「それでどう、落ち着いた?」

 優理奈が顔を覗かせて訊いてきた。

 「うん……何とか」

 「よかった、さっきはこのまま死んじゃうのかと思ったわ」

 「そんな、大袈裟な」

 でも、確かに。あの時の記憶は曖昧だ。

 「だって……私……」

 優理奈がまた泣き出しそうだ。何とかしなきゃ。

 「大丈夫だって。もう少し落ち着いたら保健室行ってあげるから。ね?」

 「もう、どの立場が言うのよ!」

 優理奈はいつもみたいに頬を膨らませて怒った。

 お互いの目が合った。その時、二人とも急に笑いが込み上げてきた。

 「何だか吐いたらスッキリしちゃった」

 「何それ。でも、よかった」

 二人で雲の隙間から差し込む光を眺める。

 何となく。何となくだけど、アタシは優理奈の肩に頭をポンと置いた。

 優理奈は別に何も言ってこない。

 落ち着きも取り戻し、さっき死にかけたこともあるんだろう。何だか心の中のブレーキが壊れた気がする。

 そんな気がしたアタシは、胸の内がスラスラと口から溢れてきた。

 「アタシやっぱりお母さんの事立ち直れてないや」

 アタシの肩をさする優理奈の手の動きが一瞬だけ乱れた。

 「そう。別にいいんじゃない。そのままでも」

 「うん。でも、お母さんの事だからあの世で心配してそう」

 「ええ、おばさまの事だから、きっとそうね」

 優理奈は少しくすっと笑ってくれた。

 「あの時からさ、優理奈も、父さんも、クラスのみんなも、先生たちもアタシに優しくしてくれたのはホントに感謝してるよ。だけどね、何だか優しくされる度にしんどかった。その度にお母さんが本当に死んじゃったんだって実感しちゃうからさ。だからね、人と関わるのがしんどくなっちゃったんだ。ごめんね、優理奈。優理奈までそうする必要なんて無かったのに……」

 「そんな……真美ちゃんが謝る事なんて無いわ。しんどかったのは真美ちゃんだったんだもの」

 「うん、そう言ってくれると、ありがたいや」

 アタシはちょっとはにかんだ。

 「……」

 アタシは頭の中で話すことを整理した。

 急に黙り込んでも優理奈は待ってくれている。

 少しして、アタシはまた会話を始めた。

 「アタシね、将来の事なんて何にも分かんない。みんなみたいに決められないし、楽観的にもなれない。選択肢が多すぎて溺れそうだし、そもそも今を生きるのだけで精いっぱい。お母さんが死んじゃってからアタシの中の時間は止まって、アタシだけ置いて行かれた気がするんだよね」

 アタシはひたすらに言葉を並べた。それでも、優理奈は黙って真剣な顔をして耳を傾けていた。

 「ていうかね、正直に言うよ。怖い。ただひたすらに怖い。アタシってただ決断して行動するのにビビってるだけなんだよ。そのくせ、将来の不安に押し潰されそうになってるんだよね。アタシってダサすぎでしょ。」

 「誰しも決断する時は恐れるものよ」

 優理奈があの柔らかい、優しい笑顔で相槌を入れてきた。

 「それにさ、みんな将来のため、自分を高めるために頑張るのが当たり前ってみたいな空気出してるけど。あれって一体何なの?頑張ってない人、頑張れない人は腫れ物扱いしてさ。無条件で怠け者なの?頑張ってない人は犯罪者なの?ある意味、差別だよね」

 もはや脈絡も無く、滅茶苦茶に叫んでいるだけだ。

 「アタシはみんなみたいに何も決められないし、頑張れないよ。みんなみたいに自分が何をしたいのかさえも分からない。枝分かれしている将来の選択肢の束に首を絞められて殺されちゃいそう」

今、アタシは何て情緒不安定なんだろう。いくら死にかけたからとはいえ。お母さんが見たら何て言うのかな。

 「大丈夫。真美ちゃんはちゃんとわよ」

生命としてという事を言いたかったのか、頑張ってという事を言いたかったのか。どちらの意味で優理奈が言ったのかは分からないけど、励ましてくれているのは分かる。

 折角乾いたアタシの目に涙が一雫流れた。そのまま地球の重力に負けて、ツーっと下に流れて、優理奈の制服に滲んだ。

 「こんなに長々と喋っておいてさ……昨日も話したけど……結局、アタシは、一人で何一つ決められないで勝手に一人で拗ねているだけの……ただの我儘なガキなんだよ。優理奈は我儘なアタシが可愛いくて好きとか言ったけど、アタシはこんな自分が憎いよ……」

 目からさらに涙がぽつぽつと零れる。

 「今から言うことは我儘なガキの、ただの戯言だと思って聞いてね」

 「……ええ、分かったわ」

 優理奈は異論がありそうだけど、そこは飲み込んでくれた。

 アタシは袖でぐいっと涙の粒を拭った。

 「みんな、ズルいよ。勝手に先に行っちゃってさ。てか、そもそもこんなこと考えているアタシの方がズルいか。ほんと笑っちゃう」

 アタシの悪い癖がまた出た。本当にしんどい時は笑ってごまかす癖。

 優理奈がアタシの肩をさする力がどんどん強くなっていく。

 ごしごし、ごしごしと、半ばやけにも見える。

 まるで、今にもバラバラに壊れてしまいそうなアタシの身体を繋ぎとめようとているようだ。

 「もういやだ。何も考えたくない。怖いよ、優理奈……」

 「大丈夫、大丈夫だからね、真美ちゃん」

 肩をさするのを止めた優理奈はアタシの身体をギューッと強く抱き寄せた。

 「しんどいことはたくさんあるけどね、その中でも一番辛いのは優理奈のことを粗末に扱っちゃったこと。都合のいい時に身体だけ利用して、あんな気持ち悪い事しちゃって……」

 アタシが優理奈にしていたこと。それはお母さんにしていたことだ。気付いていたくせに、アタシは蓋をしていた。見ないふりしていた。

 「私は別に……そんなこと思ってないわ」

 アタシはお母さんと身体を寄せ合い、一つになる事で『安心』を得ていた。

 でも、お母さんは死んじゃった。

 これまでずっと、お母さんが死んだことで失ってしまった『安心』を得たかっただけなんだ。

 その為にアタシは優理奈の身体を使っていた。優理奈の温もりと優しさを利用していた。

 「アタシ、何でもいいから安心したくて、優理奈の優しさに付け込んでた。我儘言って、依存しちゃってた」

 そう、優理奈の慈母心に依存していた。

 優理奈が拒んでこないことをいい事に。いや、最初から優理奈はアタシを拒まないと知っていたのかもしれない。

 誰もお母さんの代わりにはなれないのを知っているくせに。

 見ないふりしていた。

 逃げていた。

 お母さんを失ったことを否定し、駄々をこね続けていた。

 ずっと安心したかっただけなんだ。

 ——やっぱり、ただの我儘だ。

 それを優理奈にぶつけていた。

 「どうしよう、こんなの優理奈の事をずっとレイプしていたようなモンだよ」

 とうとうアタシは直面し難い、残酷な事実に気付いてしまった。

 アタシ、最低だ。

 お母さん、ごめん。アタシもうやっていけなさそう。

 ああ、できることなら生まれる前から人生をやり直したい。それに、それならお母さんに会えるし。

 こうして、アタシは全ての思いのたけをぶちまけた。

 話が終わり、熱が冷めてしまったからか、今自分が話した内容が改めてアタシの脳内を駆け巡った。

 自らの異常なまでのマザーコンプレックスや優理奈に対する執着、依存的な行為の数々。これらを改めて自覚してしまい、自分に恐怖感すら覚えた。

 同時に優理奈に対する羞恥心も芽生えた。こんな哀れな自分がどう思われているかという。

 アタシは優理奈の顔を恐る恐る覗いた。

 優理奈はこんな時でも、いつもの穏やかで慈愛に満ちた表情をしていた。

 しかし、何故か今は、その表情が途端に恐ろしくなった。

 この表情の裏側には何があるのだろうか。

 そう考えた瞬間にはもう、アタシの足は既に優理奈の前から立ち去ろうとしていた。

 優理奈は全て逃げずに真剣に聴いてくれたのに。

 しかし、そんな慌てて立ち上がったアタシの手を優理奈がバッと掴んだ。まるで触手みたいに。

 アタシの身体は寒気で、中腰のまま硬直してしまった。

 「真美ちゃん、どこ行くの?」

 座ったままの優理奈が妖しげに上目遣いでアタシを見てくる。その声は少し冷淡にも聞こえる。

 「え? ほっ、保健室っ!」

 「嘘ね」

 「ホントだもん」

 「嘘」

 「……」

 アタシは目を逸らして俯いた。

 「どうしたの? 急に?」

 「……怖くなっちゃった」

 「何が?」

 「優理奈にアタシのこんな異常な姿見せたことが。だから、逃げ出したくなったの」

 「あら、そうなの」

 優理奈の手がアタシの身体を引き寄せる。疲れて身体に力も入らず、アタシはなすすべなく優理奈の身体に吸い寄せられた。

 優理奈、何だか怖い。

 引き寄せられたアタシは静かにしゃがみ込んだ。

 愕然としていると、初めて優理奈の方からアタシに優しく抱き着いてきた。

 急に抱きしめられ、背筋がゾクッと波打ち、いつもよりも鳥肌がぷつぷつと立っている気がする。恐怖からだろうか、快感からだろうか。両方だろうか。分からない。

 それに何だか顔も火照って熱い。

 「真美ちゃん、私の事傷つけたと思って怖かったんだ?」

 「うん」

 「依存しちゃってたことを私が気持ち悪がってると思ったんだ?」

 「うん」

 アタシの耳元でぼそぼそと囁きながら訊ねてきた。

 ただ茫然と曇り空を見つめながら、アタシの口からは、ただ二文字しか出てこない。

 すると、優理奈は身体を離して、いたずらっぽく笑いながらアタシの顔を見た。

 曇り空から漏れた日の光が優理奈の白い歯を照らした。

 「そんなこと思ってたんだ。やっぱり、真美ちゃんたら可愛いわ」

 何故だか優理奈は気分が高揚しているらしく、頬を赤らめながら再びアタシを抱擁した。

 その瞬間、雨や汗、アタシの吐瀉物で蒸れ、そこに優理奈の匂いが混ざった香りが鼻を刺した。初めて嗅ぐ香りのせいで、何だか身体がムズムズして、アタシを変な気分にさせてくる。

 「茶化してるの?」

 「そんなことないわ。私はただ我儘な真美ちゃんが可愛くて好きなの」

 「こんなに考え方、拗らせて、めんどくさい奴なんだよ」

 「それだけ必死に生きているってことでしょ」

 「マザコンで、依存症の女なんだよ。異常でしょ? 怖いでしょ?」

 「真美ちゃんだから怖くないよーだ」

 「ほら、やっぱり、ふざけてる」

 「私は大まじめよ。私は真美ちゃんにならどれだけ依存されても構わないわ」

 「それこそ異常だよ。そんな関係は歪で、不健全だよ」

 「そう……そうかもね」

 優理奈が寂しげに呟いた。

 「優理奈、さっきからどうしたの?」

 「ねぇ、真美ちゃん……今度は私の話聞いてくれる?」

 さっきまでとは人が打って変わったみたいに見える。静かなる威圧感が込められていた。

 アタシはその問いかけに従わざるをえなかった。

 「わ、分かった」

 「真美ちゃんはさ、自分の事が異常だって、さっきから言ってるけど……」

 「そうだよ、アタシって異常なんだよ」

 「だったら、私の方がもっと異常よ」

 「——え?」

 「これまで真美ちゃんが悩み、苦しんできたのは私のせいなの」

 「ちょっと待って、優理奈、何言ってるの?」

 「私ね、真美ちゃんが苦しくて、しんどそうにしているのを見るたびね、悦んでいたの。だって、そうなるほど私に依存してくれるから……」

 優理奈の身体が小刻みに震えているのが分かる。それに、声も。抱きしめる手も強くなる。

 「えっ……え?」

 アタシの知らなかった優理奈が漏れ出してきた。

 「真美ちゃんが昨日担任の先生にしつこくされたり、今日の松本さんたちだってそう。私がね、少し入れ知恵していたの。真美ちゃんの事を気にかけて貰えないかって裏でこっそりお願いしていたの。今回だけじゃないわ。おばさまが亡くなってから、ずっとよ。種を蒔くように、周りの人に真美ちゃんに無駄に優しくするようにそれとなく伝えて、誘導していたの。みんな短絡的で、扱いやすかったわ。そう、私の方がズルいのよ、こんなに狡猾な女なの」

 おそらくアタシが松本さんたちの元を急に去ったあと、彼女たちも焦って優理奈に連絡したのだろう。それで、優理奈はアタシがいつもみたいに屋上に向かったと思ったのか。

 「何で、そんなことしたの?」

 「最初はね、本当に良かれと思ってしてたのよ。真美ちゃんのためを思って。でもね、それが裏目に出て、しんどくなって弱っている真美ちゃんが私の事を求めるように縋ってくる度にね、とても嬉しかったの。いいえ、あれはそんな単純な感情じゃなくて、もっとドロドロしたモノ。悦楽にも近かったわ」

 「そんな……」

 「私もこんなのおかしいし、何より真美ちゃんが苦しんでいるから、早くやめないとって思ったわ。でも、私を求めてくる真美ちゃんの姿が目に焼き付いて……私は欲に負けて、ズルズルと……」

 優理奈の鼻を啜る音が聞こえる。顔は見えないが、優理奈は泣いてる。

 「おばさまの代わりに見られててもいいやって思ったの」

 優理奈、気付いてたんだ。まあ、そりゃそうだよね。

 「私はね、自分の中に存在する凶悪な庇護欲に屈していたの。いえ、見ないふりをして、その欲に身を任せていたの。」

 でも、それってアタシと同じじゃん。アタシも欲に負けて、身を任せていた。

 「真美ちゃんはさっき、私のことをレイプしてたって言ったけど。私もそう。真美ちゃんの事を苦しめて、その姿を見て興奮していたの」

 じゃあ、お互い様ってこと? 何か笑えるね。いや、何考えてるんだ、アタシ。

 「その結果、さっき私は真美ちゃんを……大好きな真美ちゃんを失いかけた……生きた心地がしなかった。本当にごめんなさい。全部私のせいなの……」

 そっか、だからあの時、謝ってたんだ。

 普通の人なら怒りに狂って、優理奈の今までの行いを𠮟責し、罵倒するのだろう。

 でも、さっきからアタシの中に怒りが湧いてくる気配がない。というより、さっきからアタシは優理奈を擁護する言葉しか浮かんでこない。こんな扱いを受けていたのに。

 アタシは勘違いしてた。優理奈は全てを見透かす、高貴で慈悲深い存在だと。

 でも、優理奈も自分の心の中に巣食う異常性に怯えて、苦しみながら生きてたんだ。

 アタシみたいに怖かったんだ。不安だったんだ。

 それに何より、優理奈は泣いて後悔してる。それなら別にいいじゃん。

 恐らく、これを他の人に言っても共感されることはない。

 ——ああ、やっぱりアタシは普通じゃないんだ。

 今までとは違い、深く実感した。

 「これで分かったでしょ。私の方がズルくて、我儘で、異常な人間なの。本当に最低な存在」

 「……ヤバいよ」

 「そう、私はおかしいの。異常なの」

 「そうじゃなくて、ヤバいよ、優理奈。アタシやっぱり普通じゃないや」

 アタシは悟りにも近いような、何か不思議な感情に包まれた。

 何故か笑いまで込み上がってきた。アタシはとうとう狂ってしまったのか。

 「え?」

 「だって、全く優理奈に怒りの感情が湧かないんだもん」

 「何で? どうして?」

 「だって湧かないモンは仕方ないじゃん」

 「……ぐすっ、私の事酷いって思わないの?」

 「全然。それに、優理奈も苦しかったんだね」

 これまで優理奈がしてくれたように、アタシは優理奈の頭を優しく撫でた。

 「ごめん、ごめんね……真美ちゃん」

 「大丈夫、大丈夫だよ」

 完全に今までと立場が逆転した。こんなことが起こるなんて。

 もはや、アタシの頭の中にはお母さんの事、将来の不安の事など頭には無かった。忘れてしまうほどに衝撃的な事実を知ったからというのもあるかもしれない。

 いや、自分の悩み、苦しみよりも優先すべき事実にアタシが生まれて初めて直面したからだろうか。

 ある意味、アタシは今、一段階成長したのかもしれない。あれだけ自分には無理だと言い張っていたことができたのだ。

 優理奈は安心したからか、身体の震えが収まった。

 すると、寄せていた身体を離し、悲しそうに俯いてしまった。

 「私ね、今でも覚えてるわ。あの公園で初めて真美ちゃんに会った時にこの感情が芽生えたの。あのコロコロとした見た目。純粋無垢そのものを表しているような目、肌は白くてもちもちしてただけど、赤くてぷにっと丸いほっぺたをしていた。おばさまに掴まってぷるぷると震えながら、怯えながらも、ちらちらとこっちを見てたわよね?」

 「うん、昔は人見知り激しかったし。てか、今もだけど」

 優理奈の悲しそうな顔が気になって、ついアタシは少しおどけた。

 「怖がりつつも必死に生きようとしているその姿。少し涙目で、目をそらしながらもこちらの様子を伺う上目遣いの目。自分の庇護欲が高ぶるのを感じたわ。一目惚れだったのね」

 そうだったんだ。でも、あの時アタシもびっくりしてたんだよ。優理奈があんまり可愛くて綺麗だったから。この事は今言わないでおこう。

 そして、今までよりも恐れを抱いたような、神妙な顔つきで語り始めた。

 「それにね、私、おばさま……真美ちゃんのお母さんが亡くなった時、ちょっと喜んじゃったの……いえ、ちょっとじゃないかも」

 ——ああ、優理奈はこの言葉を今日言うまでの間にどれほど自分を忌み嫌い、蔑んできたのだろう。

 それを想像しただけで、アタシはこの今にも消えてしまいそうな少女を包み込んであげて、肯定してあげたい衝動にかられた。

 「私ずっとおばさまに嫉妬してた。いいな、いいなって思ってた。私もあんな風に真美ちゃんに求められたいって」

 優理奈が赤ちゃん返りしたかの如く、幼く見える。それだけ辛かったんだ。

 「……うん」

 アタシは小さく相槌を打った。今度はアタシが黙って真剣に聞いてあげる番だ。

 「夢にまで見たの。何回もよ。真美ちゃんが……とまぐわい、厭らしく喘いでいる夢。ああ、細部まで忘れられない」

 優理奈の身体がまた小刻みに震え出した。

 「落ち着いて、優理奈。それ、どんな夢?」

 アタシは動揺を見せることなく訊ねた。

 「真美ちゃんと私は真っ白なワンピースだけを着て、二人で真美ちゃんの家のリビングにいたわ……すると、突然赤い靄が現れて真美ちゃんを包んだの。そしたら、真美ちゃんは恍惚な目をし、頬を厭らしく赤らめだしたの。息も荒くなり、だらりと下品に舌を出して、唾液を垂らしながら……まるで愛撫されているみたいに声を出して興奮し、悦んで喘いでいた。私はそれを止めたかったけど、何故か身体は縛られてもないのに動かなくて、目も閉じられなかったの。ただ、それを見ることしかできなかったの」

 優理奈は少しヒステリー気味になっていた。

 「そんな夢を何回も見て、狂いそうだった……真美ちゃんが穢された……いいえ、羨望の眼差しで見ていた」

 「そうだったんだ……」

 「そう、あの赤い靄は、多分……」

 優理奈は顔を手で覆い、それ以上何も言わず、口をつぐんだ。アタシも何となくその正体は分かってしまった。

 確かに、あの頃のアタシはもしかしたらそういう感情を持っていたのかもしれない。

 「こんなおぞましい事、話すべきじゃないけど、知ってもらいたかったの」

 「うん……話してくれてありがとね」

 優理奈の懺悔が終わったらしい。

 「そろそろ、行こうか」

 「ええ」

 アタシたちはもう涙も枯れ果て、疲れ切っていた。

 ただただ静かに、何も話さず屋上を後にした。


    ***


 外はもう薄暗くなっていた。生徒たちは皆帰り支度をしている。アタシたちは真っ直ぐ保健室に行った。そして、保健室の先生にアタシが屋上と階段付近で嘔吐してしまった事だけを伝えた。それ以外は伝えなかった。

 そんなアタシたちの様子を見た先生は何かを察してくれたのか、事情を汲んでくれて、掃除はしておくから、着替えて早く帰るように言ってくれた。

 ありがたいことに、先生が便宜を図って、アタシが屋上を使っていた事も内密にしてくれた。でも、屋上には今後立ち入らないよう言われた。それぐらいは当然だ。

 それに、多分あの場所はもう必要ない。

 汚れた制服のカッターシャツはビニール袋に入れ、貸し出し用の体操服の上着を着て帰ることになった。着替えている最中、アタシたちは一言も話さなかった。一緒に着替えていて、優理奈の下着姿の上半身が不意に目に入った時、少しだけドキッとしたのは秘密だ。

 アタシたちは二人仲良く、ペアルックみたいな恰好をして帰った。上は体操服のジャージ、下は制服のスカート。しかも、二人ともプール上がりみたいに髪を湿らせていた。

 下校中の生徒たちはみんなアタシたちをじろじろと不思議そうに見た。何故、少し濡れているのか。何故、体操服のペアルックなのか。何より、なぜこの二人の組み合わせなのか。みんな様々な憶測を巡らせていただろう。

 そんな好奇の目も気にせず、アタシたちは並んで帰った。

 何を話しながら帰るわけでもなく、ただ並んで帰った。

 雨に濡れた道路。水たまりがたくさんできている。それを避けるたびにアタシと優理奈の身体が軽く触れ、借りた体操服の上着からカビの臭いがする。きっと、ずっと使われないでしまわれていたからだ。

 学校から離れ、他に生徒がいないところまで来ると、優理奈が話し掛けてきた。

 「みんな見てたわね。大丈夫だった、真美ちゃん?」

 「うん、ちょっと怖かったけど、平気だったよ」

 すると、優理奈がアタシの手をそっと握ってきた。

 「もう少し、こうしてていい?」

 「いいよ、優理奈がそうしたいなら」

 お互い気まずそうに俯きながら、トボトボと歩を進める。

 「そういえば、優理奈。今日、園芸部は?」

 「サボっちゃった」

 「やるじゃん、

 アタシは繋いだ手を軽く振った。

 しかし、おどけたアタシをよそに、急に優理奈が立ち止まった。

 「……真美ちゃん」

 「何?」

 「今日はあんな話してごめんなさいね。それに、そもそも真美ちゃんの悩みも解決できないままで……」

 「あ、確かに。すっかり話が逸れてたね」

 「私、やっぱり真美ちゃんの邪魔になってるわ……」

 再び優理奈が悲しそうに呟いた。

 「でも、優理奈があんな事をしなくてもどうせ同じようになってたと思う。不安に苦しんでたと思う。現に今も不安は消えてないよ」

優理奈は悲しい顔のままだ。

 「真美ちゃんは怒っていないって言ってくれたけど。やっぱり私は真美ちゃんのために罪滅ぼしがしたい……何でも言うこと聞くから……どんな酷いことでもするから……」

 優理奈の嘘偽りない、裸同然の感情から出た言葉なのだろう。アタシを見てくる、怯えた上目遣いでそれが分かった。

 その時、アタシの中で初めて対峙する欲が芽生えた。

 ああ、これが、優理奈が言ってた凶悪な庇護欲ってやつか。悦楽も実感できる。

 ——やっぱりアタシも優理奈も普通じゃない。

 「じゃあさ……ずっとアタシのそばにいてよ」

 「え、いいの?」

 「ずっとだからね」

 「うん」

 「もうこうなったらさ、異常なままでいようよ。たとえそれが茨の道でも、アタシたちはこれで大丈夫なんだよ。アタシ今日分かっちゃった」

 言っておくがこれは決して、自分を安心させるために言い聞かす言葉ではない。普通よりも固く、異常なまでに強く結ばれたアタシたち二人は、離れなければ何でもできる。そして、絶対にアタシたちが離れることはないという確信もある。なら、無敵だ。

 これって、おかしい?

 「ぐすっ、ありがとう。分かったわ」

 安心したであろう優理奈の瞳から透明で、澄んだ涙が一滴零れた。

 涙はまだ枯れてなかったようだ。

 「へへっ、優理奈って意外に泣き虫なんだね」

 「もうっ、言わないで」

 もっと涙がぽろぽろと零れていった。

 「それにさ、最初は確かにお母さんを求めてたのかもしれないよ。けど結局は……本当はただ優理奈を求めてただけなのかも。きっと、それがこんがらがってて分からなかったんだ」

 それを聞いた優理奈は急に頬を赤らめて、モジモジしだした。

 「それって……その……真美ちゃんと私はそういう関係ってこと……?」

 「それは発展しすぎじゃない?」

 アタシはいたずらっぽく笑って返した。

 「そ、そうよね……」

 優理奈が明らかに残念そうに俯く。

 「冗談だよ!」

 今度はアタシが優理奈の鼻をこしょこしょとくすぐった。

 「あっ、もう、真美ちゃんたらっ!」

 優理奈が子供みたいに口を尖らせ、頬を膨らませて怒った。

 「そうそう、優理奈はそうでなくちゃ」

 アタシは顔をくしゃくしゃにさせて力いっぱい笑った。それを見た優理奈も同じように笑った。

 ようやく昔みたいな関係に戻れた。

 いや、昔よりも荒々しく凶暴だけど、濃くて尊い関係のかもしれない。

 こうしてアタシは自身の異常性を改めて自覚し、それを許容した。そして、優理奈のも。

 優理奈の悲しみ、苦しみを今度はアタシが緩和させてあげたかった。

 そのためなら、異常だとか、そうじゃないとかなんてどうでもいい。

 未来に対する不安は消えない。その度にアタシたちはお互いを求め、慰め合うのだろう。

 それを人は異常だ、歪だ、不健全だと言うだろう。物事を多角的に見ることのできない、愚かな人たちがアタシたちを否定するだろう。

 でも、アタシ、思うんだ。

 お互いに依存し合うアタシたちの間には、純粋な愛しか存在しないんだよ。

 じゃあ、別に良くない?

 だって、アタシたちは無敵で、何でもできる。

 アタシはこの数時間で、異常で、我儘な、他者には認められようがない成長を遂げた。

 これから先もこうして成長していき、優理奈と一緒に困難を乗り越えて行く。

 そうだ、異常で何が悪い。

 汗ばんだ手をぎゅっと繋ぎながらアタシたちは帰り道を進んだ。

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鈴蘭 オダケン @ultimatekenchan

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