第5話 黒き翼に水の牙を剥く
「保護?」
「そ。
「〈沈丁花〉……」
沈丁花は花川家の家紋に用いられていた花。
将軍の屋敷にある広大な庭園には、数多の沈丁花が咲き誇っていたことを桜夜は思い出す。
「もっとも、その〈沈丁花〉の本拠地がどこにあるんか、まだ掴めてないんやけど」
「で、嵐慶は央都決戦で桜夜ちゃんが死んだと思ってる。何せ、変化したキミのお父さんがあたり一面焼け野原にしたからな」
神器所有者ならともかく、一般兵で生き残ってる人はまずおらんやろ。
龍の姿をとって暴乱する父が脳裏を過る。
桜夜は花唇を噛んで、両の拳を握りしめた。
「だから、ボクらは桜夜ちゃんと蓮夜くんの存在が嵐慶に知れ渡る前に、保護しようと迎えに来たわけ。これは輪皇陛下の勅命なんや」
「勅命だと?」
「
寧子――。かの御名は現輪皇を指し示す。
そういえば、央都決戦の最中に先代輪皇が持病の悪化により崩御し、代わりに皇位継承権第一位の第一皇女が即位していたはずだ。しかも、彼女は自分と年が近く、二十歳になったばかりと聞く。
――どうせ、私たちをいいように利用するに決まってる。
桜夜が眉根を寄せていると、伊織がにっこりと笑んで両手を広げた。
「というわけで桜夜ちゃん。こんな陰気臭くてかなわん山から抜け出して、ボクらと一緒に央都に行こ!」
「断る」
即答したところで、伊織は「そっか、残念」と口角をあげたまま仰々しく肩を竦める。
「じゃあここは大人しく撤退しますーってわけにもいかへんねよな」
そこで、伊織が抜刀して切っ先を桜夜に向けた。
「しょうがない。こうなったら、ちょっと乱暴するしかなさそうや」
不吉な紫光が闇夜に微かに閃く。
突如として放たれた冷厳な覇気に、桜夜は思わず慄いた。自然と柄を握る手も震える。
「キミらは下がっといて。ここはボク一人だけでいい」
「し、しかし……」
「相手はあの〈龍蛇の一族〉やで。キミらみたいな凡人兵には到底敵わん。あとさ、ボクを誰やと思ってんの」
邪魔やから早く下がって。
有無を言わさぬ威圧的な声色に、背後に控えていた部下たちは畏縮して渋々引き下がった。
――やはり、あの刀は神器。
桜夜は伊織が携えている特殊な打刀を注視する。
刀身は濡羽色、乱れ刃の刃文は仄白い。通常の打刀とは配色が正反対になっている。
桜夜の視線に「ああ、これ?」と伊織が黒刀を掲げて見せる。
「お察しの通り、これは神器〈
またもや胡散臭い笑みを向けられ、桜夜は鼻白む。
「さて、〈龍蛇の一族〉のお手並み拝見や」
そこで、伊織の声音が一段と低くなった。切れ長の紫瞳も底知れぬ闇を纏う。
一変した彼の気迫に、桜夜は改めて柄を握る手を強める。途端、伊織が勢いよく地を蹴って目にも止まらぬ速さで接近した。
――速い!
まるで瞬間移動したかのように一瞬で間合いを詰められ、桜夜が目を瞠るのも束の間、鋭利な黒刃が自身の喉元に肉薄した。
久しく感じていなかった死という恐怖に身の毛がよだちながらも、何とか伊織の逆袈裟斬りを寸前でかわし、すぐさま体勢を整える。嫌な冷や汗が背筋を静かに伝った。
「へえ、流石の反射神経やな。ボクの一太刀かわすのは熟練の剣士でもなかなかできんで」
余裕綽々とした笑みをたたえたまま、伊織は間断おかずに猛攻をしかけてくる。
ぎん、と重い剣戟が闇夜の深山に幾度も冴え渡った。
蒼白と黒漆の二刀がぎりぎりと十字になってせめぎ合う。伊織の部下たちも、その激しい攻防に息を呑んでいた。
「観念する気になった?」
「そんなわけ、ないだろう……!」
正確な太刀筋と速度、それから少しでも気を抜けば押しつぶされてしまいそうな刀の重さに、桜夜は苦心を露にする。
辛くも伊織の刀を押し返し、反撃と言わんばかりに大きく一歩踏み込んだ瞬間――
「姉ちゃん!」
家屋の方から稚さの残る少年の声がした。
その場にいた全員が彼の方へ視線を向ける。戸口の前には、困惑と焦りを隠せない蓮夜の姿があった。きっと騒ぎを聞いて心配し、様子を見に出てきてしまったのだろう。
「逃げて蓮夜!」
桜夜が叫ぶと同時に、伊織が後方の部下たちを一瞥する。彼らは頷いて、すぐに蓮夜の捕捉に向かった。
桜夜は舌打ちし、親兵たちを追おうとする。だが――
「〈
伊織が大きく〈黒翼〉を振り薙いだ。創出された白銀の旋風が桜夜の足を阻む。
「〈
神力には神力で対抗するしかない。桜夜は青白い水の神力をまとった〈水牙〉をもって、神速で斬り込む。瞬きする間に強靭な〈銀旋風〉は細やかに斬り刻まれ、
「ボクを無視せんといてほしいな」
渾身の神力を相殺されたことに臆する素振りを見せず、伊織は愛刀の峰を肩に当てたまま口角を持ち上げる。
「……殺されたくなければそこをどけ」
「おお、こわ。でも、そうは言うけど桜夜ちゃん」
人、殺せんやろ?
濃紫の双眸が怪しく光り、濃藍の明眸が大きく揺らぐ。
桜夜の様相に、伊織は目を
「桜夜ちゃんには殺気が無い」
桜夜は奥歯を噛み締めて、核心を突く伊織の指摘を振り払うかのように大きく踏み込む。
「キミの目にはまだ光がある。暗殺者には似合わん、優しすぎる光が」
伊織の言葉を聞き流し、怒りの権化となった水刃を彼の頸動脈めがけて差し向けた。
不意に現れた青年剣士を亡き者にしようと牙を剥いた結果――
「ほらな」
やっぱり殺せん。
嘲りをはらんだ明朗な低声が、耳朶に突き刺さる。
「っ……!」
桜夜は花顔を歪ませた。
〈水牙〉は自身の意に反して寸止めに留まってしまっていた。おびえたように刀を握る手が震え、その振動が愛刀にも伝わる。
「副長」
呼ばれて、伊織は部下たちに片目だけ視線を寄越した。彼に続いて桜夜も目を向けると、蓮夜は親兵たちに拘束されていた。
「姉ちゃんっ!」
「蓮夜!」
「じゃあ、そういうことで」
突如、首元に刹那の衝撃が走った。
――しまった……!
自身の呻き声が鼓膜を掠めたと同時に、視界が瞬く間に暗転していく。
「ごめんやけど、ちょっとの間だけ寝といてな」
意識が無くなるその時まで、自身に囁く伊織の声音と――
「姉ちゃん! 姉ちゃ……! ねえ……――」
何度も必死に呼ぶ弟の叫びが木霊する。
――蓮、夜……。
そこで、桜夜の記憶はぷつりと途絶えた。
蛇女双紙 海山 紺 @nagigami
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