最悪な一日
ria
『最悪な一日』
けたたましい音で目を覚ますと、時計の針は出発の時刻を刻んでいた。慌てて飛び起き、爆発した髪を梳かすと、スーツに着替える。
「あっ」
痛みから床に蹲る。手を離すと、ほんのり赤くなった足の小指が脈打っていた。
出勤用鞄を奪うように掴み、急いで玄関を出る。鞄を抱えるように持ち替えると、駅までの道を全速力で駆けていった。
上司の説教が耳の中で反響する。それは当然のことだった。遅刻したことはもちろん、動揺して連絡をしていなかったためだった。周りの視線を感じながら、私は上司のネクタイの柄を見つめる。紫と黄の縞模様が、蛇のように毒々しい。
会議で必要な資料を家に置いてきたことに気が付いたのは、会議の開始2分前だった。理由は言わずもがなだ。息苦しさを覚える。
「今日の資料、人数分コピーしたのか」
目の前で立ち上がる先輩に声をかけられ、息を呑む。返事を返そうと息を吸うと、情けない笛の音のような呼吸が漏れた。少しの沈黙の後、大きなため息が上から降り注いだ。
そんな失敗続きでも、腹が減るのが人間だ。帰り道にコンビニの明かりへ引き寄せられる。売れ残った弁当たちは、心なしか今の自分に似て疲れ切っていた。
一番安い海苔弁当をと緑茶を取りレジへ向かう。アルバイトの気の抜けた声を耳に通過させ、鞄を弄った。そこで重大なことに気が付く。
「すみません、あの、やっぱりいいです」
すでに袋に詰め始めているアルバイトの手が止まる。
「財布を、忘れまして」
家の扉に鍵を差し込み回す。何故か手ごたえがない。ゆっくりとノブを回すと、耳に刺すような金属音と共に扉が開いた。体内で不安が弾け、全身に浸透する。ワンルームの部屋へ続く短い廊下は、薄暗いアパートの外明かりだけを拾い、奥は塗りつぶしたように黒く染まっていた。
朝の自分を思い返す。跳ねるように飛び起きて最低限の身支度を済ますと、この部屋を置いてきた。鍵をかけた記憶は思い出せない。
恐らくは自分のせいだろうと、足を踏み入れた。念のため、廊下脇に配置された小さな台所から、使い古した果物ナイフを片手に持ち部屋の電気を付ける。数秒後、白い明かりが部屋に広がってゆく。ぐるりと部屋を見渡したが、いつも通り散らかっているだけのように思う。カーテンの裏、ベランダ、ユニットバスと除いてみるが、もちろん人などいるはずもなかった。
家内捜査結果に安堵した後、今度は軽い苛立ちを覚える。思い返せば、最悪な一日だった。何をするにも失敗続きで、その瞬間を嫌というほど鮮明に思い出すことができた。
「何やってんだろうな」
そう呟いた声が、地面に落ち転がっていったが、拾い上げる元気も残っていなかった。
重い体を動かし、小さな冷蔵庫を開いた。冷えたビール缶と消費期限が2日過ぎた卵を取り出す。もちろん今から料理する気など到底起きないため、今晩は卵かけご飯で腹を満たそうという魂胆である。
パックの白米をレンジに放り投げ、タイマーをセットする。一定の速度で回る白米を眺めていた時、今日初めて一日の憂鬱を忘れていたが、そのことに気が付くことはなかった。
温まった白米を机に置き、思い出したかのようにビールの栓を開けると、乾いた喉に流し込んだ。ようやく一日の終わりを実感する。目の前の侘しい食卓には、気が付かないふりをしよう。そう卵を机の角で割り、白米の上に落とした時だった。
「えっ」
真っ白い白米の空には、満月が二つ浮かんでいた。その月は照明の光を反射し、キラキラとこちらを見上げている。
「ははっ」
それは自然と零れた笑い声だった。よりによってこんな今日に、こんな今日の最後にサプライズがあるなんて。これを神様がくれたご褒美と呼ぶには、少し馬鹿々々しいかもしれない。それでも、負の沼にいた彼を笑わせたことは事実なのだ。
「あー、明日も頑張るか」
生きていれば辛い日も、寂しい日もあるだろう。どうしようもなくなって、動けなくなることもあるだろう。でもそれは、きっと永遠ではない。生きていれば、思いがけない幸せが転がり込むことだってある。それがどんなに些細なことであろうとも。それに気が付くことができれば、明日くらいは生きていけるかもしれない。
最悪な一日 ria @riaria_14
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