主人公
ria
『主人公』
私は何にでもなることができる。T大学の学生にも、オリンピック選手にも。医者に宇宙飛行士、手から炎を出すことだってできる。望めば犬や猫、レッサーパンダにだってなることができるのだ。
今あなたは何を馬鹿なことを言っているのだと、笑っていることだろう。いや笑ってもいないかもしれない。確かに限りなく嘘のような話ではあるが、残念ながら事実である。私は何にでもなることができる。ただしそれは現実世界の話ではない。これは私の頭の中での話だ。
つまり妄想の中では何にでもなることができるという話だ。現実のように寝る時間を削らなくとも名門校に入学し、体を苛め抜かずともサッカーではバロンドールになることができ、空を飛びながら町を破壊する害獣にデコピン一つで勝つことができる。
しかし、妄想を現実に持ち込むことはご法度だ。思考を止めれば、何の変哲もないただの男子高校生に戻ってくる。つまらない平凡な日常。誰も買うことがない物語の主人公だ。
電車のアナウンスで我に返る。気が付けば、目的の駅に着く寸前だった。今日も代り映えのない一日が待っているのかと、深くため息をつき鞄を肩にかけなおす。扉が開き人の波に任せるように吐き出されると、電車は無機質に扉を閉めた。
改札へ足を進めようと踏み出した時、足裏に違和感を覚えた。驚いて足を上げると、桃色の四角が地面に寝そべっている。屈みながら二本の指でつまみ上げたそれは、おそらくパスケースであった。もっぱらスマートフォンで決済をしている自分にとっては、日ごろ目にしないものだ。デザインからして、おそらく女性のものだと思う。
ふと顔をあげると一人の女子高生がホームを歩いている。スカートが同じ高校のものだと分かる。黒く長い髪が、歩を進めるたびに左右に揺れていた。
なんの理由もないが直感的に、彼女のものだと感じた。自分の息を吸う音が、はっきりと聞こえる。喉を鳴らしパスケースを掴みなおすと、足を踏み込んだ。
「あの」
後ろ姿に声をかける。彼女の足が止まり、世界がゆっくりと動くように振り返る。髪が緩い円を描くように動き、春の香りがしたように錯覚する。白い陶器のような肌、高く筋の通った鼻の先は正面を捉えている。化粧っ気はないが、十分に整った顔立ちは化粧の不要さを思わせた。
「これ」
手に握っているパスケースを差し出す。ゆっくりと視線が下がりそれを捉えると、自身の制服のポケットに手を入れた。それがないことに気づき、また視線が重なる。
「落ちてましたよ」
「やだ、すみません」
頬を赤らめ、パスケースを受け取る彼女。その際、彼女の指先が少し手に触れ、そこからじんわりと熱が広がるように熱くなった。
「ありがとうございます」
そう微笑む彼女に鼓動が速くなるのが分かる。風は二人の間を通り抜けていく。
「あら、同じ高校なんですね」
彼女が私の制服に視線を止める。無意識のうちに姿勢を正す。
「そうみたいですね。じゃあまた、学校で」
私も彼女に微笑みを返すと、また足を進めた。「あの」
すぐのところで、今度は彼女に呼び止められる。振り向くと、彼女は照れたように上目で私を捉えていた。
「もし良かったら、一緒に行きませんか?」
私を見つめる彼女の目は、日差しに反射して光を閉じ込めていた。私はそれに笑顔で返すと、かしこまった様に私の隣へと並んだ。彼女のいる右側だけが暖かかった。
よし、頭の中の私は完全にシミュレーションができている。何も問題はない。想像通りに動けば、すべて上手くことが進む。普段ならご法度だと現実には持ち込まないが、これは平凡な人生に彩を与える、またとない機会だ。今日だけは、今だけは希望を持ったっていいじゃないか。私が理想の私に近づくために。今からは私は、ほのぼのとした少女漫画のヒロインを射止めるヒーローになる。
「あの」
声が上ずる。手の汗でパスケースを落としそうになるのを、力を込めて握りなおす。ゆっくりと振り返る彼女。髪がなびく。心臓の音がうるさく耳に響く。
「何か」
振り返った彼女を見た瞬間、次に用意していた言葉が喉で止まる。それは緊張からなのか。きっと想像をしていた彼女とは少し、いや、かなり異なっていたからだろう。重たそうな瞼に平たい鼻、額には若者らしい吹き出物ができている。うねり一つない黒髪だけが、やけに目立っていた。
しばらく固まっていたかもしれない。人は予測が外れると、何もできなくなるらしい。不審そうに私を見る彼女に気が付き、慌てて声を出す。
「いや、あの、これ」
何を伝えれば良いのか分からず、静寂を断ち切るように吐かれた言葉は、あまりにも不格好だった。とりあえず、手に握っているパスケースを勢いよく彼女に差し出す。彼女は私の手をじっくりと見つめると、憂鬱そうに小さく息を吐き出した。
「私のじゃないですけど」
私は何にでもなることができる。妄想の中では何にでもなることができる。だがそれは、現実に持ち込むことはご法度だ。そんなうまい話があるものか。そう分かっていたはずなのに。
パスケースを持つ手から、自身の鼓動を感じる。この物語は、いつから粗末なギャグ漫画になったのだろう。
主人公 ria @riaria_14
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