第4話

スライド式の扉を開けるとフッ素の甘いようなくさいような香りがぼくの鼻を襲った。ちぇ、これだから歯医者さんはイヤなんだって思いながら、ぼくをここまで連れてきた母さんのピンク色のセーターを睨んだ。スリッパに履き替えて待合室へと進むと、ちゅんちゅんという鳥のさえずりと一緒に優しいオルゴールの音が聴こえる。待合室を見渡すと、奥の角にウォーターサーバーがあった。前はこんなのなかったのに。母さんが診察券をカバンから取り出して受付のおばさんと話をしてる間に、ぼくはカウンターにタワーみたく積んである紙コップを取って、ウォーターサーバーの水を注いだ。その日はとても寒かったから全く喉は乾いていなかったけど、ウォーターサーバーを見るとどうしても水が飲みなくなってしまう。


 待合室のに座って水を口に含んだ。ここに来るまでに母さんに歯医者さんに行きたくないと駄々をこねまくったぼくの口の中は、外の空気の寒さのせいでウォーターサーバーの冷やされた水よりも冷えていた。冷たいようでぬるいような不思議な水温を感じながらうがいをするように水をぶくぶくさせてみた。そうすると受付のおばちゃんと話していたはずの母さんが「こら」と言ってこっちを見たから、ごくり、という喉の音が誰にもバレないようにそっと水を飲み込んだ。


 そんなぼくの恥ずかしい姿を、受付のおばさんがにこやかに笑って見ていた。

「優斗くんも大きくなったけど、まだまだ可愛らしいままですねぇ」

「可愛いだなんてそんな。小学生になったらもっとしっかりするものだと思ってたんですけど、現実はそうじゃないみたいで…」

母さんはいつも他の大人にぼくのことを話すときに、ちょっとぼくの気持ちがムッとするようなことを言うんだ。今みたいに。ぼくだって幼稚園の時に比べたら、たくさんできることが増えたのに。頑張ったことは話してくれない。もっと、こう、筆算ができるようになった、とか、二重跳びがあとちょっとでできるようになりそう、とか、そういう話をしてくれたって良いじゃないか。


 モヤモヤする心を体の中に抑えるように、ぼくは紙コップに入った水を一気に全部飲み干した。ごちそうさまでした、とちょっとぶっきらぼうに言い放って紙コップを二メートルくらい先のゴミ箱に向かって投げた。ぼくに小さなアーチを描くように投げられた紙コップは、ゴミ箱のフチに当たってコロンという音をたてて床に着地した。あーあ。母さんに叱られる前にコップをゴミ箱に入れ直さなくちゃ。ぼくが床に落ちた紙コップに手を伸ばしたとき、ぼくより先に別の手がぼくの紙コップを拾い上げた。


「あ、誰かと思ったら…誰やっけ」


拾い上げた正体はぼくのことに気づいていながらも、ぼくの名前を思い出せずにいた。でもぼくはしっかりその声を、顔を、姿を、覚えていた。


「え!杉野くん?!」


 その日、ケンちゃんはぼくと同じく歯の定期検診のために歯医者さんに来ていたらしい。ぼくはケンちゃんとこんなところで出会えたことが嬉しくって、二回くらいジャンプをした。すると履いていた大人用のブカブカにスリッパが遠くの方へ飛んで行って、ケンちゃんに落ち着いた方がいいと宥められた。


 「杉野くんはもう検診終わったの?」

「うん。虫歯なかった」

「よかったね」

そう言うとケンちゃんはそれっきり黙り込んでしまった。そのまま誰も話さない時間が少しだけ続いた。小鳥の鳴き声とオルゴールだけがなっていた。この曲は確か、ディズニーの白雪姫の曲だった気がする。


 「優斗くん、笠井優斗くん、三番目のお席に座ってくれるかな」

診察室からひょっこりと顔を出した歯医者さんが、ぼくに手招きをした。あぁ、タイムリミットだ。ぼくが別れの挨拶をしようと顔の近くまで持って行った手のひらを、ケンちゃんがいきなり両手で掴んだ。

「自分、学校行ってへんけど、待ってて良い?」

ケンちゃんは下を向いていてどんな顔をしているか分からなかったけど、ぼくの手を握るケンちゃんの両手は確かに震えていた。初めての感覚だった。手のひらを介して、ケンちゃんの感情が未知のままぼんやりとしたまま、でも確かに、伝わってくる。どうしよう。ぼくが「うん」とだけ言うと、ケンちゃんはぼくの手のひらをぼくに返した。手のひらに残る震えを見つめながら診察室へと向かった。

 

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ケンちゃん あんころもち @616soda_moji

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