第2章 風雲児
『勇進日報』紙で大好評だった連載記事「子爵令嬢大波乱物語」の後日譚がルリ・キネで映画化される! それも、ルリ・キネ初の超大作ときている。脚本は才媛の誉れ高い村野黎子女史。タイトルは『花のゆくえ』。出演者は、製作陣は……といった続報が次から次へと、日を追うごとに詳細に、同紙で報じられた。読者は恰も目の前に製作の進捗状況を見るような思いで、ますます期待に胸を膨らましていく。
「『花のゆくえ』、やっぱりルリ・キネでやるんでしょう。他のところも映画化権買おうとしたって聞いたけど」
「何でも、勇進日報社の社長がルリ・キネに大きな期待をかけているって噂よ」
とある菓子屋で、お汁粉を食べながらお喋りに興じるモダンガール2人。ここから程近い映画館で『続・めんどり娘』を観た帰りの、楽しい語らいの時。
「ルリ・キネっていつも、6巻ものばかり出していたけれど、今度のは前後編合わせて18巻ですって。もち、オールスターキャスト」
「じゃあ、きっと璃枝子役が石川女鳥で、瑠美子役がルミラだわ。精二役は誰かしら……綱本晃平、それとも園田義市?」
「あら、知らないの。精二役はね、村野女史が直々に推薦した新人を使うのだって、『勇進日報』に書いてあってよ。なんでも物凄い期待のかけようなんですって」
「まあ、そう。つまらないわ、折角綱本さんの御姿にたくさん接し得ると楽しみにしていたのにイ」
「あなたは随分綱本さんの肩を持つのね。私はどちらかといえば園田さんが」
「いやねえ、あなただって、随分だわよ」
「ホホホホ……」
2人は笑い転げた。そして口に含もうとしたお汁粉がもうないことに2人して気づき、またも笑いこけた。
連日映画ファンの噂に上る、新人俳優とは果たして誰?『花のゆくえ』の情報が『勇進日報』だけでなく、幾つかの映画雑誌にも同時に載るようになった頃、漸くにして、その名と顔が明らかにされた。村野女史と固い握手を交わす、人当たりのよい笑みを浮かべた高身長の青年……陣恭太郎という名が、紙上に風雲児のごとく華々しく踊り始めた。
『勇進日報』の特集記事に次いで、映画雑誌『キネマ天国』――略してキネ天――でも『花のゆくえ』特集号が編まれることになった。目玉は、主要キャストとスタッフを交えた座談会記事。しかし全員が一堂に会するには人数が多すぎるので、キャストとスタッフの両方が混ざる形で二手に分けられた。即ち、村野女史、石川女鳥、陣恭太郎を中心とする一団と、監督の尾藤卯太三、ルミラを中心とする一団とに。
「『花のゆくえ』の物語は、当然皆さんご存知でしょうが、読者諸氏のためにご紹介させてもらいましょう。……美しく成長した璃枝子は、自分に真実の母があることも生き別れた姉があることもつゆ知らず、恵という名の少女として、毎日を朗らかに過ごしていた。声楽家を目指す彼女は、既に音楽界で名を為した、実の母たる由良陽子夫人のもとにレッスンを受けに行く。そこで作曲家志望の青年・邦光精二と出会う。一方、旅芸人のもとで育った瑠美子は、興行中に出会った青年と恋に落ちるが、その青年がお家騒動に巻き込まれていることを知り、彼を助けるため東京まで遥々追っていく。……」
時は如月、所は銀座。××茶房の2階の一室。記者は取材用のメモを読み上げながら、それとなく主要人物3人の様子を観察していった。自分のものした作品の梗概を聞かされて、村野女史は、恥じ入るどころか平然と聞き流している風である。こうした状況にはもう慣れていると見える。璃枝子役を務める女鳥は、緊張とも退屈ともつかない無表情で、じっとこの時間を耐えているように見える。反対に、精二を演じる陣恭太郎は、早く話し出したいのを堪える、目立ちたがりの子供そのままの顔で、そわそわと落ち着かないらしいのが傍目にもわかるほどだ。正直、品がある振る舞いとはいえない。
「……と、このような物語を銀幕上に現すわけですが、どうでしょう村野女史、意気込みのほどは? さぞかしご注力なさることでしょうね」
話を振ると、女史は微笑を作って語る。
「ええ。例の連載記事を踏まえて新しい脚本にまとめることは困難でしたが、勇進日報社のお励ましと、ルリ・キネを発展させたい思いとで、どうにか仕上げました。この頃は『めんどり娘』のヒットが呼び水となって、多くの優秀なキャストとスタッフにも恵まれましたの。彼らとともに、念願だった超大作に取り掛かれるのが、夢のようです」
「そうでしょうねえ。キャストといえば、看板スターの石川さんに、ルミラさんに……」
「ええ、それからこの陣恭太郎さんを見つけたことは、ルリ・キネにとって大きな幸運と言わねばなりません」
「とおっしゃられていますが、陣さんどうお思いですか。世間ではあなたをこそ、幸運児、風雲児などと呼んでおりますよ」
「とてもありがたいことです。女史のような、真の芸術家たる人の目に留まるなんて、思いも寄りませんでしたからね」
恭太郎はハキハキと答えてみせる。それだけ聞くと、気持ちのよい好青年そのものという感じがする。が、実際の彼は折角手にした大役を逃すまいとしてか、お世辞めいたことを言いすぎるきらいがある。それが、どこかさもしい印象を与えていた。
隣席に座る女鳥は、いつもに増して大人しい。もともとそうお喋りの方でもないと聞いていたが、今日はそれに輪をかけて無口である。女史と相手役に花を持たせようという遠慮心からだろうか? しかし彼女の表情には、そうした謙譲の気持ちは隠されていなさそうだ。
読者が一番望んでいるのは、女鳥の発言なのに……。
無意識にいぶかしむような顔つきになっていたのだろうか。隣に座る先輩記者が手帳にこう書いてそっと見せてきた。
『多分口止めされている。質問しても無駄』
――一方、その隣室に陣取るルミラ等の一団は、全員が遠慮会釈なく発言していた。というと聞こえがいいが、殆どが悪口か打ち明け話の類である。活字にできるような会話がないので、記者諸氏、些か困り果てている。
「あの陣恭太郎って奴は、新聞社のゴリ押しで決まったんですよ。本当のところ、私は大反対だった」
ふんぞり返ってそうのたまうのは、ルリ・キネいちの腕利き監督の尾藤。記者は驚くが、並み居るキャストやスタッフは大爆笑している。彼らもあの風雲児が気に食わないのだろう。それは単なる嫉妬による嫌悪ではなさそうだった。
メモを取ろうか取るまいか悩む新米記者を尻目に、尾藤は如何にも重大そうに声を潜めて言う。
「もしかしたら、あんた方はもうご存知かもしれないが。あの新人俳優とやらは、勇進日報社の社長の伜なんですよ」
「あの陣勇之進の息子ですか。……今回の『花のゆくえ』の資金源ですね。そうなると、何らかの圧力がかけられた可能性も十分に考えられますね」
「考えられる、どころか、俺らはそうとしか考えていませんよ。あのぼんくら息子を我々の側に送り込めば、記者を送るより安く特ダネが手に入りますからね。それで儲かることを思えば、今度の製作資金くらい何でもないでしょう」
「まあ、決まっちまったもんは仕方がないさ、園田。私も押しが足りなかった、ハハハ……。せいぜい立派な役者になれるようにしごいてやりますよ」
やっと、活字にできそうな(?)一言が出てきたので、新米記者君、嬉々としてメモを取る。短い文を書きつけ終えて一同を見回すと、尾藤の隣に座るルミラに目が留まった。彼女の顔は、かの新人俳優の名が出る度に、不快感を滲ませていた。噂はどうやら本当らしい。……理由は定かでないが、ルミラと陣恭太郎とはもう犬猿の仲で、かつ出資者の陣勇之進からも蛇蝎のごとく嫌われているのだそうだ。
二手に分かれての座談会が終わった後は、主役の女鳥、ルミラ、恭太郎、そして総指揮にあたる村野女史の4人だけが集められて、取材されることになった。今度の記者は、先まで座談会をしていた者達の誰でもなかった。なされる質問からしても、映画好きというよりは、ゴシップ好きといった風情である。しかも、新人の恭太郎には不利な、ひねった問いを数多く発するのだった。女史が機転を利かせて懸命に庇おうとするが、それこそ却って彼が無能だと露呈しているようなものではないか。
女史が賢明になればなるほど、この場が白けていく。女鳥は、ああ早く終わらないかしらと溜息を吐きたくなった。
ゴシップ記者もそうした空気を感じ取ったか――それとも話のネタが尽きたからか――これが最後の質問ですが、と改まって告げた。しかしながらその最後の質問こそが、とどめの武器であったのだ。
「女史はこの陣氏を石川嬢の相手役に決められましたが、ルリ・キネには綱本氏や園田氏といった、実力ある役者が既におります。石川嬢には、誰が自分の相手役に相応しいか、意見を聞いたことは?」
「まあ、当事者がいる前で、そんなことをお聞きになるんですか。失礼じゃありませんこと」
怒りを含んだ口調の女史を、咎める者はいなかった。今度の質問は本当に失礼だと誰もが感じていたので。
「女史がお答えにならないなら、いいですよ。石川嬢に聞くまでですから。……如何です」
何て意地の悪い記者だろう。女鳥は唇を震わせかけた。余程何か言い返してやりたかったのだが、「余計なことを喋っちゃいけない」と女史に――というよりは、その背後にいる勇進日報社の社長に――厳命されてきた彼女ゆえ、とても叶わなかった。ただ、その目に不愉快や軽蔑の色を漲らせて、じっとり見つめ返すのがやっとであった。
女鳥と反対に、「話すように」と促されてきたのが恭太郎。新人はまず顔と名前を覚えてもらわなくては、とばかりにお膳立てされてきたが、地頭が足りない――本人に言い訳させれば、経験がまだ少ないだけ――彼には、こんな時どうやって場を切り抜けるかを考えつけない。何か気の利いたことを発言していい顔をしたい、などと気ばかり焦っているのが傍目にもわかる体たらくだ。
気まずい沈黙に陥りかけたその時、涼やかな声が流れた。
「私も女史のおっしゃる通り、先程の質問は失礼に値すると考えます。女鳥ちゃんに対しても、陣さんに対しても、それから、ここにいない綱本さんや園田さんに対しても。つまり、答える価値のない問いと言いたいのですわ」
淀みなくそう言ってのけたのは、ルミラ。女鳥は胸がすっとしたようだった。彼女は記者から、ルミラに視線を向けた。先までと打って変わった、敬愛の眼差しを……。
「記者さん、あなたは女鳥ちゃんと相手役の間に何かあると踏んでいらっしゃいますのね。でもそれは、今この場で明らかにするべき事柄ではないはずです。それでもなお食い下がる気でしたら、よろしい、こう答えましょう。ルリ・キネの誇る二枚目の誰が、真に女鳥ちゃんに相応しいか。それは映画ができあがった暁に、あなたご自身でご判断なさいませ」
「成程。よく分かりました、ルミラさん。あなたの勝ちですな、ハハハ……」
「ホホホ……」
記者は茶目っ気たっぷりにお手上げのポーズを取ってみせる。ルミラも美しい笑顔を見せて、その場は和やかに収まったかのようだった。少なくとも、女鳥にはそう思えた。
「ありがとうルミラさん、助けて下さって」
先程のもので全ての取材が終わったので、女鳥は解放された嬉しさもあり、真先にルミラのもとに駆けた。並んで、茶房の2階の廊下を歩きながら、女鳥が小声で告げたのがさっきの言葉である。
「いいのよ、私だってあの時は苛々したのだもの、ぜひ言ってやらなくちゃ、と思ったのよ。女史はあの通りだし、女鳥ちゃんは喋れないし、陣は役に立たないし」
「まあ。いいの、陣さんのこと、そんなに言っちゃって」
「私が言わないで、他の誰に言えるの。私はね、ただ女史に目を覚ましてほしいだけ。出資者にヘコヘコしてその息子を大役に抜擢するなんて、世間の失笑を買うに決まっている。……女鳥ちゃん、気づいて? さっきの意地悪な質問は、正式な質問というよりは、陣の能力を試すためのものだったのよ。役者に必要な頭の回転や、勇気の程度を。結果は落第よ。女史がいくら肩入れしたって、どんなに素敵に映したって、あれじゃあ先が見えているわ」
ルミラの声は次第に高くなっていく。離れているとはいえ、後方に恭太郎や女史がいるのに、と女鳥は内心はらはらする。その一方で、ルミラの言う通りだと納得する自分もいる。座談会の時だって、恭太郎の言動は、とても大役を任せられるに相応しいものではないと密かに思っていたから……。
女鳥が懸念した通り、恭太郎と女史はルミラの発言を聞いていた。2人にとっては、漸く聞き取れるほどの微かな音量だったが、それでも何を言っているかはよくわかった。
恭太郎のはらわたは煮えくり返るようである。自分だって何か言い出そうとしたのに、あのルミラが出しゃばって、自分の発言の機会をもぎ取ってしまったのではないか。本当なら、回答の栄誉は――つまりは女鳥を意地悪から護る役目は――彼に帰せられるものであるのに。……彼の頭の中では、自分の才能を過信するがゆえの解釈がまかり通っていた。
あれだけ庇ってもらった女史にさえ、彼は不満を抱いていた。隣を歩く彼女は、ルミラの悪口をともに聞いているはずだが、何も諫めようとしない。恭太郎を元気づけることもしてくれない。ただ、口を噤み、視線を落として歩き続けるばかり。――ふと彼女は、思い出したように恭太郎を振り返った。
「ごめんなさいね、恭太郎さん。私次の仕事があるのよ、これで失礼するわね」
「はあ、お疲れ様です」
逃げるように早足で行く女史。沈黙に耐えかねた末の逃亡であることは明らかだった。彼女は前方を進むルミラと女鳥と二言三言交わしただけで、すぐに行ってしまった。手持ち無沙汰になった彼を目ざとく見つけて、先程のゴシップ記者が肩を叩いてきた。
「やあ陣君」
「何でしょう」
彼はわざとぶっきらぼうに接してやった。ここでへいこらしたら、ますます自分の威が落ちると思ったからである。そうした態度こそ馬鹿にされるとも知らず。記者は半分からかい、半分軽蔑をもって言った。
「いやさね、君、今からあんなに大人しいのでは先が思いやられる、と忠告しに来たのだよ。相手役のめんどりさんの危機に対して、何ひとつ手を打てないとはね。ルミラ嬢が見かねて助けてくれたからよかったようなものの、ね」
相手の言い方に思わずカッとなる恭太郎。ここが銀座の一流サロンの廊下ということも忘れて怒鳴る。
「勝手がわからなくて少し間誤ついただけですよッ。僕だってやろうと思えばあのくらいの答弁はやれますとも。それに、女鳥さんの相手役は僕であって、あの生意気な女じゃないんだ」
彼の声は廊下の壁によく反響した。前を歩く女鳥とルミラも振り返って恭太郎の方を凝視している。ルミラの方など、その美しい顔に憎悪を漲らせているのが遠目にもわかるほどだった。それについては彼だって、フンと鼻であしらえる。ただ、女鳥が不快そうに面を背けているのがどうしても解せなかった。ルミラのことは悪く言っても、女鳥にはそんなこと少しもしていないのに、なぜ?……ルリ・キネにやって来て間もない、そして女鳥に恋慕する彼には、2人の関係など殆ど知り得なかった。それゆえに、この出来事が彼のよこしまな心に火を点けてしまったのだ。何としても、女鳥を掌中にしてみせると……。
恭太郎に声をかけた記者はいつの間にか、そこを去っていた。
「あー、やれやれだ」
「お疲れっす、程野さん」
取材場所のサロンから程近いビルの一室。『キネ天』編集部の仕事部屋に戻ると、既に同僚は席に着いて各々の仕事にかかっていた。いつもに増して、煙草の煙が立ち込めているようだ。
「随分みんな精が出るね、頼もしいよ」
「とんでもない。どうやって記事にするかみんな頭を悩ませているんですよ」
「それなりに喋ってはいただろう」
「そりゃ、喋るだけならね! 問題は内容です。活字にできるのは全体の100分の1くらいでしょう」
「ハッハッハ……まあ、みんなちょっと手を休めて、今後の方針を決めてからにしよう」
くしゃくしゃに丸めた原稿用紙が散らばる中、どうにか椅子を引いてくる編集長・程野。他の記者達も向かい合わせになるよう各々の椅子を動かし始める。
「……で、みんな何を書くのに困っているんだ」
「例の、新人俳優のことです」
即答だった。
「女史はベタ褒め、尾藤監督は全否定。ルミラ嬢は個人的に嫌っていそうで、めんどりさんは無言を貫く。一体誰を基準にあの男を評してよいものか、決めかねているんです」
「成程な。いや、そうだろうと思って、俺はさっきカマをかけてきたんだ」
程野は、つい先程までの恭太郎の様子を詳しく聞かせた。取材中、女史の助けを受けっ放しだった彼。遂にはルミラの機転に救われた彼。それなのに彼女らへの感謝すら示さない彼。この愚かさと身勝手さを暴き出した程野の手腕に感心しつつも、一同は憤りを露わにした。
「酷い奴ですね。俺もう、奴を褒める記事なんか書く気がしない」
「まあまあ。そこは仕事と割り切って、やるだけのことはやってくれよ。……ところで、誰か覚えていたら教えてほしいんだが。あの新人俳優、どこかで見たことある気がするんだ」
「『勇進日報』の社屋じゃないですか。あいつ、社長の息子でしょう」
「違うなあ……」
「じゃあ、帝活の俳優養成所じゃありません?」
「そこだ!」
膝を打つ程野。間もなく、彼の記憶が芋づる式に手繰り寄せられていく。
「思い出したぞ。前にそこを取材した時、俺はあの坊ちゃんに会っているのさ。向こうは気づいていないだろうがね」
「へえ。でも、あそこの養成所を出たなら、全くの大根役者でもないのかな」
「ハハハハ……彼は養成所を出るには出たが、所謂『卒業』じゃあない。落ちこぼれ中の落ちこぼれで、俺が養成所を取材したその日に落第して、丁度荷物をまとめて引き払うところだったんだよ」
「わははは」
全員腹を抱えて笑い転げる。中には本当に椅子から転げ落ちそうになっている者も。発言者の程野も同じく笑っていたが、やがて厳かな声を響かせる。
「だから、おかしいんだ。あの実力主義者の村野女史が、あんなポンコツを躍起になって持ちあげるのか。絶対に裏では陣勇之進が糸を引いているに違いない。石川嬢がいやに無口だったのも、関係があると思う」
「それは、僕達も考えていました。石川さんは恐らく、女史か新聞社に口止めされているんだろうと……。でも、一体なぜそんなことをする必要があるんです」
「単に宣伝のためだけに、そこまでやるものでしょうか」
「ああ……」
程野もそこは、腑に落ちない点であった。『勇進日報』の陣勇之進といえば、同業者やインテリの間では「利益のためなら何でもしかねない男」として半ば嫌われ、半ば恐れられている。それだけに彼の洞察力――何が利益を、また不利益を呼ぶか――と、それに基づいた決断力は注目の的であった。村野女史を説得し、自社の連載記事の映画化を任せたのも彼の功績の1つ。最近はその映画関連の記事を連日掲載するので、『勇進日報』はかなり売れ行きがよいそうだ。
しかしながら、そこに自分の息子――顔はちょっといいかもしれないが、お世辞にも才能があるとはいい難い――を絡ませる意図が、程野達にはどうしてもわからない。単に息子可愛さのためだろうか? それとも、何かしら映画界との永久的な繋がりが欲しいのだろうか。
「……まあ、考えていても仕方がねえや」
ガリガリと頭を掻く程野。
「ひとまずは、様子見と行こう。だが、日和見という意味じゃないぞ。あくまで我々は、どちらかの味方になって、批判すべき時には批判する」
「どちらかの味方って……どちらですか」
「俺達『キネ天』が、勇進日報社の大根役者をヨイショできると思うかい」
数瞬の沈黙の後、編集室は再び笑い声に包まれた。
「よし、俄然やる気が出てきたぞ!」
「大根のことなんぞ、そうそう簡単に褒めてやるもんか」
「ハハハハ……まあ、その調子で頑張りたまえ」
彼らは、座っていた椅子を元通りに机に向けて、一心不乱に働き出した。煙草の煙はいつしか薄らいで、空気に溶け消えていった。
月光が鉄格子の隙から射し込んで、縞模様の影が男の上にぐーっと伸びた。男は自分が奇妙な格好に照らされているとも知らないように、ぼんやりと視線を中空に漂わせるばかり。――この監獄に収監されて20年近くになろうか。その間彼は殆どこのように、意思のまるで見えない生活を送っている。時たま、発作的に喚き、暴れることがあるにはあったけれども。
ふと、鉄格子越しの月光がサッと遮られて、狭い独房の中は完全な闇と化した。が、男はそんなことにも頓着せず、同じ姿勢のまま身じろぎもしない。暫くそうしていたのだったが、再び月光が、前にも増して眩しく射し込んだ時は、流石にぎょっとしてそちらを向いた。
「……お前は誰だ」
男は、月光の射さない暗がりに身を潜める人物に気づき、そう呟いた。相手は、殆ど聞こえたか聞こえなかったかの低い声での問いかけに、鷹揚にうなずいてみせる。やがて、こう返事した。
「早くここから逃げたまえ」
バサッという音がして、男の前に黒い平べったいものが投げ出された。恐る恐る触ってみると、紛うかたなき着物と、財布である。
男は初めて手にする分厚い財布に、言い知れぬ欲望がむらむらと湧き起こるのを如何ともし難かった。
急いで囚人服から着物に着替え、四角い月光の中に立つ。どんな技術か、4本あった鉄格子が全て取り払われて、隅に転がされていた。
姿の未だ判然としない相手に軽く会釈して窓枠に手をかけようとすると、強い力で引き戻された。
「逃げる前に、これを持っていくがいい。護身用だ」
手渡されたのは、手拭いで包まれた細長いもの。しかし形状と感触からして、ナイフであることは明らかである。
「……ああ、貰っていこう。ついでにこれも、な」
男は屈み込んで、転がされた鉄格子のうち1本を懐中にしまい込む。
「成程、確かにそれでもいいな」
相手がふっと笑ったらしいのが、空気の震えから感じ取られた。
かくて、約20年、囚人生活に甘んじていた男は、この日、久し振りに地上の土を踏み締めた。行くあては、とりあえず先程の謎の救い主の言に従って、東京に決めた。――財布の中に、既に始発の切符が入っているあたり、実に用意周到な救い主ではある。
*題名は、マキノ映画の御室撮影所で製作され、昭和5年(1930年)1月に封切られた映画「風雲児」から。
*当時の目ぼしい雑誌では、(ジャンルにもよるが)必ずといってよいほど座談会が特集記事として登場する。今読んでもとっつきやすく、面白いものが多い。
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