花のゆくえ
プロローグ 新聞
小草子爵の令嬢・陽子は社交界の華として知られた。美しく聡明な彼女は、それこそ女学校在学中から数多の結婚申し込みがあったのだが、「学問を修めるのが先です」といって全てを一蹴。この姿勢は明治後期の封建的な風潮の中にあって賛否両論を巻き起こしたのは有名な逸話である。
貴族の子女でありながら陽子は、華族学校でなく、市井の私立女学校に籍を置いた。当然ながらかなり目立った存在で、最高学年になると生徒達の総長に選出。同校の人々の憧憬対象としては他の追随を許さぬほどの人気ぶりで、いつも彼女の周囲には取り巻きができた。
陽子は多くの友人の中でも、殊に一学年下の生徒、砂田光代に深い友情を感じていた。光代もまた、陽子を姉のように慕い、副総長の地位を得てからはよくその務めをこなした。――陽子の卒業の日。在校生代表として送辞を述べた光代を前に、内心の感激を現しつつも立派に答辞を述べた卒業生代表の陽子の勇姿! ああ、その姿に一体幾人の乙女が涙に袖を絞ったことであろう。
しかしながら、これほど惜しまれて学舎を出でた陽子が、まさかこの後涙も枯れるほどの苦境に立たされるとは……。
……卒業証書を手に帰宅した彼女は、その場で、小草子爵家の没落したことを聞かされた。本当はそれ以前から大分苦しかったのだが、娘と世間の手前、ずっと隠し続けていたという。程なくして、家中に差押えの封印が貼られるのを、彼女は夢でも見るようなふわふわした心地で眺めていた。その一方で、彼女のしっかり者の一面が頭をもたげて来つつあった。
さしあたっての問題は、これからの生活だ。華族性質を捨て得ない大人達に代わって、自らが家計を支えなければなるまい。
土壇場にあってなお陽子の思考と行動力は一段の冴えを見せる。思い立つが早いか、彼女は自室に駆け入って一通の手紙をしたため、すぐに間山子爵家に届けさせた。そこの子息に家庭教師が入用だと聞いたので、自分を雇ってもらえまいかという内容だ。
翌朝、彼女は一目散に間山子爵邸に馳せ参じ、既に手紙で知らせてあった用件を直談判した。間山家では突然の申し出を受けて驚きつつも、陽子の雄々しき自立の精神にほだされて、快く請け合ってくれた。
どうにか首尾よく話がまとまったので、陽子は一安心して、やっと封印された我が家に帰り着いた。
すると、どうであろう……今朝までべたべたと貼られていた封印の赤い紙が、すっかりなくなっているではないか。かつての威風を取り戻したかのごとき邸内の様子に呆然としていると、父母が誇らしげに近づいてきた。
「陽子や、今までどこにいたのかえ。まあ、お掛け。とても良いお話があるのだよ」
「とある方が我が家の窮状を知って、援助を申し出て下さったのだ。しかしただ援助するのでは具合が悪かろうといって、お前に簡単な仕事を頼むから、その報酬ということにしようとおっしゃって下さった。異存はあるまい、な」
「仕事というのはね、少しの間余所に行ってするのだそうですよ。泊まる場所も食事も保証されているというから、とても恵まれているじゃありませんか」
「待って下さい。それは、どなたの申し出です?」
「お前の全く見知らない方だよ。だが、いいではないか。いち早く我らを助けようと、骨折って下さったのだからね」
陽子は呆れて言葉もなかった。自分の父母がこんなにも世間知らずとは思ってもみなかったのだ。怪しい輩が前金と引き換えに若い娘を連れ去るというのは、貧困家庭ではよくあるらしい。そうして連れて行かれる先は、劣悪な環境の工場か置屋、或いは曲馬団と相場が決まっている。……しかしその話を父母に聞かせたところで、今更取り止めになることはない。なぜなら、父母はもう莫大な前金を受け取ったに違いないのだから。封印の取り除かれた現在の我が家が、その証拠である。
結局陽子は何も言わず、ただ黙々と旅支度に取りかかった。
そしてあくる日、9時きっかりに、迎えの男が来た。よく父母が騙されたものだと思うほど、怪奇で下卑た顔つき。
「お嬢様、すみませんが列車で参ります」
男は初めこそヘコヘコしていたが、列車に乗り込み、数駅過ぎたあたりではもう安酒片手に酔っ払っていた。陽子が軽蔑と不審の目を向けているのを知っても、「何見てやがるこのアマ」と平気で毒づいた。これが男の本性なのだ。陽子は今更遅いと知りながら、昨日意地でも父母を説得しておくのだったと悔やんだ。そして、ついこの間までの楽しく賑やかだった女学校生活を思うと、ひしひしとこの身の薄幸さが憐れまれてならなかった。涙さえ滲んできて、つと両手で顔を覆おうとした時、掌に花のように浮かんだ、ひとつの面影。
『お姉様、いつものあの雄々しい御心はどうなさったのです。困難の中にあってこそ強くなれるあなただと、私におっしゃったではありませんか。大人しく辛抱なさるのではなく、その場の主導権を握るほどの心持ちで、闘いなさいませ』
懐かしい親友、光代の声が陽子の耳に、否、心に大きく響いた。そうだ、私は運命に泣く憐れな女性で終わってはならない。どんな惨い運命でも、冷静に見極めればきっとどこかで優勢にひっくり返すことも、できなくはないのだから。……掌から目を上げると、男は相変わらず安酒を安いつまみでちびちびやっている。陽子はもうこの男に微塵の恐怖も感じなくなっていた。
2人はその後一時間以上も列車で揺られ、漸く降りたのは辺鄙な田舎町の駅。それから人通りのない道を40分も歩き、とある藁葺き屋根の民家に入る。
「お前さん、その子が例のご令嬢かい。成程、別嬪さんだ」
「へえ、そうでござりましょう。ついこの間まで学校におりましたそうで、学問の方もそれなりに備わっとりますぜ」
「あまり学問のあるのを鼻にかけてもらっても困るがね。こちらとしては、客が呼べればいいんだ。まあ、これだけの別嬪なら人形のように座らせておいてもお客は集まるさ。ハハハ……」
「ヘヘヘ……」
驚きつつも陽子は曇りなき瞳で、男と、顧客らしき人物が会話する様をじっと観察していた。
話されているところによれば、相手は旅芝居の座長だそうである。身体のがっしりした壮士風の中年男で、少なくとも自分を連れてきた男よりは知性も品もあった。狡猾さにかけては比較にもならなかっただろう。
「さて、陽子さんといったね……」
2人きりになった後、座長は単刀直入に一座入りを勧めてきた。断っても無駄だとわかっていたので陽子は素直に承諾したのだが、ふとにやりと意味ありげに笑ってこう言った。
「私、芸らしき芸は持っておりません。その代わり、高等女学校を一番の成績で卒業いたしました。もしかしたら舞台よりも、ホン書きや帳簿の管理の方でお役に立てるかもしれませんわ」
どうせ彼らの輪に加わるのなら、中心部まで食い込んでやる。そんな気迫が彼女の瞳に漲っているのを目の当たりにして、座長も舌を巻かずにはいられなかった。華族のご令嬢らしからぬ強心臓ぶり! 将来この娘は間違いなくものになるぞ……。
陽子は一座の人々に紹介され、「小夜女」の舞台名を授けられた。とはいえすぐに初舞台を踏みはせず、暫くは手伝いのようなことをして過ごしていた。頭の回転が速いうえに気風もよいときているので、仲間内でも評判だった。よく、若く美しい新入りは理不尽な目に遭うのが相場と決まっているが、彼女に関してはそうではなかったといえる。
次の巡業地からは「小夜女」こと陽子も舞台に立つことが決まった。初舞台で一座の花形、西山豪左衛門の相手役を演じることに不平を言う者は一人もなかった。……理由は2つある。1つは陽子の仁徳。もう1つは、豪左衛門の傲慢さに他の者が皆辟易していたからというもの。あわよくば陽子を楯に、豪左衛門を懲らしめてやりたいとさえ思っていた。
そんな思いを知ってか知らないでか、陽子はひたすら自らの持ち役に専心した。演目は一座の、というより豪左衛門の十八番の1つで、沢山見得を切れる悲恋もの。旅の踊子と良家の息子が身分違いの恋に落ち、最後には涙のうちに互いを諦めるというものが粗筋である。
「お陽、芝居は初めてなんだろう。俺が教えてやるよ」
豪左衛門はしつこく陽子に付き纏ったが、陽子の方はさして取り合わず、自分だけで役を研究した。芝居未経験の彼女が、他の者と同じように旧劇調の感情たっぷり身振りたっぷりな演技をしても白々しいだけである。そこで彼女は、器械体操のように動きの型を決め、抑揚を抑えた発声を心がけてみた。つまり、演者の感情をあえて減らすことで、観客が感情移入できる余地を作ろうという試みだった。仲間達は戸惑っていたが(特に豪左衛門)、座長は何も言わずに認めてくれた。
その成果は……大当たり。大仰な仕草をしないのが却って踊子の内に秘めた情熱を観客に「感じ取らせた」のだ。また、際立った美貌と相俟って、神秘的な印象をも与えた。新奇な美女「小夜女」の舞台を観ようと、連日、一座の天幕は観客で一杯になった。座長が見込んだ通り、否、それ以上に、この子爵令嬢は「ものになった」わけである。陽子の存在感はより以上に増し、演目や演出、衣装や化粧にも口を出せるほどになった。今や座長と対等に論じ合えるのは彼女だけという有様であった。――昔、騙されて連れて来られる道中の列車内で、親友の幻に誓ったことを彼女は見事実現させたのだ。
面白くないのは豪左衛門である。自分の方の出番が多いにも関わらず、相手役の方が人気と注目を集めているのがどうしても気に食わない。陽子が自分を引き立ててくれたならばまだ怒りも収まろうものを、あの女は些かも自分に敬意を払わない。更に腹立たしいことには、座長と座員をすっかり味方につけてしまっている。
「あの女に稽古をつけてやったのも俺なら、踊子の役に抜擢したのも俺なんだぜ……」
豪左衛門は巡業先の料亭でそんな法螺を吹いては、我が身を慰めていた。そうした日々のうちに酒量も増え、狂暴性も露わになっていった。彼にとって陽子、またの名を「小夜女」は、絶対に征服しなければならぬ存在だった。
半年ほどもすると、陽子は一座の中心人物として表に裏に立ち働いていた。この頃には「小夜女」として舞台に立つよりも、台本や演出の方に時を費やしていた。彼女の創作劇は、人々に考えさせるようなテーマを扱いながらも、わかりやすくまとめ、更に抒情的な味を効かせたものといえばよいだろうか。ともかく、万人、特に若者によく受けた。
そうした、忙しくも充実した日々を送る中で陽子は、初めて恋を知ったのだ。
相手は、由良常二という提琴家で、同じ旅暮らしの青年だった。彼は仲間の歌い手と二人で街々を歩いては、巷の流行歌を奏して楽譜を売りつけている。所謂「艶歌師」と呼ばれる旅芸人の一種で、しかしながら彼自身は、もっと高みを目指していた。
「陽子さん、僕は今こそこんなことをしていますが、これでも正式な音楽教育を受けてきた身です。僕は、生きている限り、常に、真実の音楽を追求し続けるつもりなのです。真実の音楽とは? うまく言い表すことは難しいのですが……。今はもう外国の曲をそのまま歌うのでなく、日本人の手で曲を紡ぎ出す段階に来ていると感じます。それも、教訓めいた歌詞でなく、日本人の心を素直に表した、共感できる詩をもとに、曲を作り出していかねばならない……」
常二は、偶々同じ町で興行していた一座の天幕をふらりと訪れ、そこで陽子を見初めた。お互い、田舎には不似合な洗練された雰囲気を纏っていて、だからこそ目につきやすかったのかもしれない。話してみてすぐに意気投合した2人は、以来暇を見つけては逢瀬を重ねるようになった。――陽子は常二から、今後の音楽についての展望を聞くのが楽しくてたまらなかった。常二もまた、相手の熱心を汲み取って、自らの音楽の知識をありたけ丁寧に教示してやった。陽子は乾いた土が水を吸い込むようにそれらを吸収していく。これが後々、彼女自身の生活を助けることになるとも知らず。
やがて、陽子の一座と常二の艶歌師組とは相別れる時が来た。陽子は決心して、座長に自ら談判に行った。
一座を辞めたいと告げられても、座長はさして驚いた風は見せなかった。彼とても、知っていたのである。陽子が艶歌師の青年と愛し合っていることを……。また、彼女の才能を見出し育てた身として、彼女をこのしがない旅芝居の一座にいつまでも縛りつけておくのも勿体ないと感じていた。青年の音楽家としての事業が今後軌道に乗るかどうかはさておいても、彼女の才が放っておかれることはまずあるまい。そうした理由から、彼は快く、陽子の願いを聞き入れた。のみならず、常二との門出を祝す宴も開いてやろうという。これには陽子の方が驚き、そして感涙した。
芝居と音楽の若き才人は、かくして目出度く結ばれたのである。一座の人々は惜しみつつも祝福し、成功と再会を祈った。
間もなく、陽子と常二は正式に夫婦の契りを交わした。
以降、由良夫妻は作詞作曲の役割を分け合い、精力的に新曲を発表した。陽子はその中で、人々に愛唱されるに至ったものと、そうでないものが存在するのを肌で感じ取った。後者がなぜ人々に愛されなかったのか? 彼女は暇のある時にそれを分析し、改めて歌詞を修正してみたり、夫の楽譜を所々いじったりしてみた。何かと忙しくも学び多い日々の中で、娘の瑠美子が誕生した。親子3人となった由良一家だったが、艶歌師としての興行は相変わらず続けていた。
数年も経たないうちに、2人の数々の楽曲が、口伝えで津々浦々に広まっていった。やがて東京の名のある劇場で興行をしてみないかという誘いを受けるまでになる。夫妻、それから歌い手の仲間も、大喜びしたことは書くまでもない。愈々自分達の音楽が、自分達の芸術が、近代文化の中心地で認められようとしている! 彼らは二つ返事で承諾し、早速その準備にかかった。丁度この頃、2人目の娘である璃枝子が生まれ、一家は一層賑やかになった。
さて、皆様お忘れかもしれないが、西山豪左衛門はこの頃とっくに一座を辞めて、というより無断で飛び出していた。彼は行く当てもなくぶらぶらと酒屋や色街に押しかけては追い出され、を繰り返すぐうたらの一人と成り果てていた(元々そうだった節はあるが)。陽子への憎悪と執着をその胸に激しく燃やしたまま……。
そして、運命の日が来たのである。由良一家はその日の興行を終えて、宿屋に戻った。夕餉の後の団欒。3つになる瑠美子のおしゃまなお喋り。朗らかに笑う常二。陽子も笑いながら、腕の中で微睡みかけている赤ん坊の璃枝子に慈愛の眼を向ける。希望に満ち溢れた一家にこの後災いが……「生きた」災いが文字通り飛び込んでくるとは、誰が想像し得ただろう。
突如、障子戸ががらりと開いて、現れたのは血走った目の男。それがかつての相手役、西山豪左衛門の成れの果ての姿だと陽子が気づくのに、そう時間はかからなかった。2人の視線が、激しく交錯した。
「何です、急に入って来て!」
妻子を庇うように立ち向かった常二に、容赦なく突き立てられる短刀。鮮血が畳に飛び散る。「あなた!」思わず絶叫した陽子。腕の中の璃枝子が驚いて泣き出す。瑠美子が袂に取り縋る。
「うるせえガキめ、黙らせてやるッ」
豪左衛門は常二の血がべっとりついた短刀を振り回して突進してくる。迫り来る白刃に母娘が後ずさりかけた時。鈍い音を立ててその刃が畳に落ちた。……豪左衛門が、宿の人々に取り押さえられたのだった。陽子は急に緊張の糸が緩んで、その場に失神しそうになった。が、すぐに正気を取り戻した。憎き敵がこう喚いているのが、耳に入ったからである。
「復讐してやる! てめえら3人ともあの世へやってやる。初めに陽子、それからそのガキ、最後に赤ん坊の順だ。……」
後の方は、宿の人々が「大人しくしろッ」「静かにしろッ」「黙れッ」などの怒号を浴びせつつ外へ連れ出したのでよく聞き取れなかった。けれども、彼がこの後もずっと、自分達母娘を標的にし続けるだろうことは明白だった。
再び気が遠くなりかける陽子だったが、ふとその膝の上にきらりと光るものをみとめた。夫の結婚指輪だ――ひとりでに外れるわけはないから、夫はわざわざこれを抜き取り、自分に放った後で悪漢に対峙したに違いなかった。自らの生命を投げ打ち、妻に全てを託すつもりで……。
夜、不安と悲しみに慄く娘達を寝かしつけながら、陽子は熟考した。この愛しい娘達の生命を守るために、母として何を為すべきか? たとえどんなに辛い決断を下さねばならないとしても、2人の生命を保証できるならば、ためらってはいけない……。
翌日、宿の者が豪左衛門のその後について聞かせてくれた。彼はすぐに同じ県内の監獄に移されるということである。裁判でも同情の余地なしとして、極刑が下るはずだとのことだった。……それでも陽子は安心できなかった。昨夜のあの血走った眼、執念深い眼差しは、脱獄もしかねない、危険人物のそれであった。やはり、母と娘は、身の安全が確保できるまではそれぞれの道に分かれて歩む必要がある。3人一緒では、いざあの男と出くわした時に全員まとめて殺されるかもしれないのだ。別々の場所にいれば、母である自分が死んだとしても、あとの2人の娘はそれを知らずに生き延びるであろう……。
夜が明けて、母娘3人はやがて、長い別離の途に就いたのだった。
まず、長女の瑠美子が、もと一座にいて今は独立した旅芸人夫婦に託された。始終居場所の変わる旅芸人は、危難に遭っても身一つですぐに逃げられると考えてのことだった。夫婦は、陽子のためなら、とすぐに承諾して、心配いらないからと元気づけさえしてくれる。
年の割に大人びた瑠美子は、別れに際しても決してむずかったり我儘を言ったりすることはなかった。それでも、大きな瞳に溜まった涙が、心の内の悲しみを表して余りあった。陽子は引き裂かれる思いで、左手薬指の指輪を外し、娘の小さな手に握らせる。
「瑠美子、よくお聞きなさい。今は辛抱の時なのです。悪い人に捕まらないように、母娘3人は暫し別れねばならないのです。次に会えるのがいつになるかは、まだわかりません。お母様の指輪をあげましょう……これがあれば、何年後、何十年後、姿形が変わっても瑠美子だとわかるのですからね」
「お母様、瑠美子は良い子でいます。そして、悪い人をやっつけられるくらい、強く、賢くなります。だから、いつかきっと、迎えに来てね。璃枝ちゃんも一緒に来てね」
涙をほろほろ流しながらも、瑠美子は気丈にそう言ってのけた。母を安堵させたい気持ちと自らの寂しさが入り混じった、聞くに切なく胸に迫る声で。
「ええ、きっと迎えに来ますよ。どうか達者でね、瑠美子!」
――長女との別離の後は、乳飲み子の次女との別離が待っている。陽子は熟考の末、東京に向かった。その直前には、一通の電報を打ってある。
長い汽車での旅の後、駅に降り立った母娘を出迎えたのは、他でもない、かつての親友・光代。そしてその夫であった。
乳児の璃枝子を瑠美子のように旅芸人に預けるのは、足手まといになりかねないし、流石にためらわれる。それで思いついたのが、全く別な方面――即ち、女学校時代の親友に頼ろうという考え。虫がよすぎるかとも思ったが、こうして駅まで出迎えてくれた光代夫妻の表情には、ただ親友への同情と、その子供への慈愛が溢れている。
「陽子様。璃枝子ちゃんは私達が大丈夫、引き受けました。いつかお会わせできるその日まで、我が子と思って大切にお育ていたしますわ」
「ありがとう、本当にありがとう、光代様。最後に、璃枝子にこれを……」
彼女は璃枝子にも、形見の指輪を与えたのだった。こちらは、亡き夫・常二のはめていたものである。と、あの日の惨状が俄かに彼女の眼前に展開した。それと同時に、あの忌まわしい男が今にもこちらに向かってきているような錯覚に陥った。
陽子は咄嗟に、こう口走っていた。
「璃枝子という名では、あの男に見つかるかもしれない。この子の名前を……ええと……」
「大丈夫、大丈夫ですよ、陽子様。私達で新しい名前を付けてあげますよ。そうね、これから恵まれた人生を送れるように、恵ちゃんはどうです」
陽子に何の異存があろうはずもなかった。こうして、娘二人の身の安全がとりあえず担保され、豪左衛門の噂もぱったりと途絶えた頃、陽子は亡き夫の遺志を継いで本格的に音楽家として活動することにした。丁度この頃は、日本製オペラの上演が試みられており、陽子もその中心部に食い入ることになるのである。……
「……どうだね、村野女史。この物語は、名前なんかは仮にしてあるが、殆ど実話なのだ。それを我が社の記者がまとめて毎日連載しておった。幸い読者にも評判だった」
「……存じておりますわ」
勇進日報社――『勇進日報』を発行する大手新聞社――の社屋の重役応接室。社長の陣勇之進と向かい合って腰かけているのは、村野黎子女史である。2人の間を隔てる黒檀のテーブルには、件の「独占読みもの・子爵令嬢大波乱物語」が掲載された『勇進日報』紙が山と積まれている。黎子はこの室に案内されるなり、この連載記事を全て読めと命じられたのだ。
「中々面白かろう、女史」
黎子が最終回を読み終えるのを見計らって、陣はそう問いかけた。にやにやと口元を歪めて。
「……ええ。人気を集めたのももっともだと思います。それで、私に何をお望みで」
「この物語の続きを拵えて、ルリ・キネで活動写真にしてもらいたい」
「……」
「もっといえば、陽子の2人の娘を主体にした十数年後の物語だ。その筋書きを新しく拵えてほしい。稀代の人気脚本家の手にかかれば、必ずや大入り間違いなしの大作が出来上がるだろう」
ねっとりと絡みつくような陣の声。それは、決して否を言わせぬ圧力を以て黎子に迫る。
「……しかし、陣さん。ご存知のように、うちは小さな会社で、あなたのおっしゃるような大作を物するには資金も人手も足りませんのよ」
「ハハハハ、資金の方は心配するな。言い出しっぺのわしが出してやる。人手の方は、お前さんの顔の広さがあればどこからでも集められよう。……ああ、そうだそうだ」
何かを思い出した素振りで一段と声を張り上げる。
「記者達が噂しとったが、今度お前さんとこに有望な女優2人が入ったそうじゃないか。村野黎子のお眼鏡に叶った幸運の少女達だ、ぜひ例の大作にも出してやりたまえ。主役級で、な」
「……ええ」
「承諾してくれてわしも嬉しいよ。いやね、我が社は同業他社からやれ『三流』だの『低級』だの、挙句の果ては『嘘八百』とまでくさされておってだな、ハハハ……。それで、奴らのような知識階級ぶった者どもを驚かしてやりたいのだよ。ルリ・キネのような高級ファンを持つ会社と協力し合う、これでも『低級』だとけなせるものならけなしてみろ、とねえ」
――それから程なくして、勇進日報社の社屋から、村野黎子女史が送り出されてきた。「子爵令嬢大波乱物語」掲載分の『勇進日報』の包みを、小脇に抱えて、何か浮かない表情で……。
*題名は、マキノ映画の御室撮影所で製作され、昭和3年(1928年)9月に封切された映画『新聞』から。
*当時の新聞を見ると、事実の報道のみに徹するという考えは薄かったようで、面白おかしく書き立てていたり、扇情的な文句を入れていたりと、さながら「読むワイドショー」みたいな記事が多い(会社のカラーによる)。
興味のある方、読んでみては。
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