エピローグ 波にまぎれて
古ぼけたトランクを片手に、甲板の上をぶらつくのは文夫。辺りは、自分と同じで、船出する人とそれを見送る人の群で中々騒がしい。実家の画材店で両親に送り出されたきりの文夫は、自分一人そこらに佇むのも何か気まずく、とぼとぼ歩くしかなかった。彼の、そして他の乗客達の目指す巴里へ向かう、この汽船の上を……。
――芸華会の分裂には、文夫も心を傷めていた。しかし、他の人々と彼の違いは、どちらか一方に与しなかったことだった。芸華会の美術担当の地位も、ルリ・キネの美術部員の地位も拒んだ彼……。そうして孤立した彼は、半ば逃げるように芸術の都へ渡ろうとしていたのだった。
何から逃げるというのか?……女鳥の涙から。女鳥の面影から。
(女鳥さん。君を可哀想だと思いながら、とうとう何の慰めの言葉もかけ得なかった僕を許してくれ)
(君を慰めるには、僕はあまりに芸華会を愛しすぎた。そして、君を愛していた。……それゆえ余計に、何と言うべきかわからなかったんだ)
美しく魅力的な幼馴染み。そんな彼女が悲嘆に暮れているのを眼前に見るのは、文夫には耐え難かった。栄介と昇が一緒ならば、ともに慰めて元気づけることもできたであろうが、その2人は既に袂を分かった後であった。文夫は今更のように、己を顧みてうなだれた。3人組と言われても、結局は他の2人の影に隠れて生きてきたような人生ではなかったか。
ふと、銅鑼の荘厳な音が辺りに轟いた。見送り人下船を知らせる合図らしい。彼もトランクを持ち直し、邪魔にならぬ場所に移ろうとした、時だった。
「文夫さアん」「文さーん」「文ちゃーん」
明らかに聞き覚えのある声が、どこかから響く。きょろきょろと辺りを見回す間に、早くも声の主の一人――否、2人が文夫の腕を捉える。
「文夫さん、こっちよ」「こっちよ」
「やあ、マリノとメリノじゃないか。見送りに来てくれたのかい」
「当然じゃないの」「それに、見送りは私達だけじゃないわ」
彼女達は文夫を、マダム千代枝と彦也のもとに引っ張っていった。彼ら4人は芸華会側に回ったものの、ルリ・キネ移行組にも理解を示している、数少ない中立思想の持ち主達であった。彼らだけでも自分の門出を祝いに来てくれたのだと思うと、文夫も嬉しく、胸が熱くなった。
「最後にどうしても顔を見たくてねえ……もう出発まで間もないのね」
「文さん、向こうでも身体に気をつけてお暮らしよ。住所が決まったら教えておくれね」
「ああ、わかったよ」
皆、伝えたいことは沢山あるはずなのに、交わす言葉はありふれたものばかり。もうじき船が出るという時に、あまり長々しい話もできないから、当然ではある。
彼らは、再び銅鑼が鳴るまで一緒にいた。4色のテープの端を手にして、見送りの4人がいざタラップを降りようという時。ふと文夫の口をついて出た言葉があった。
「手紙を書く時は、是非、女鳥さんのことも書いてくれないか――」
4人は大きくうなずいて、その答えとした。文夫も安堵して、今度こそ本当に、タラップを踏みしめて行ってしまう後ろ姿を見送った。
――汽笛が鳴る。ゆっくりと、名残を惜しむように前進する巨船。デッキの乗客と陸地の見送り人を繋ぐ、幾百もの紙テープの橋が、次第にぴんと張るようになる。そのうちの4本は、彦也、千代枝、マリノ、メリノの4人と、文夫がそれぞれ両端を握っている。
さようなら、さようならの声が遠のいていく。船はもう岸を離れた。幾本かのテープは既に千切れて、風に揺れたり海水にたゆたったりしている。それでもまだ幾本かは、しぶとく陸と海との架け橋となって頑張る。文夫のものもそうだった。
「お兄さんの、まだ切れないねえ」
小さな女の子がまじまじ眺めて言う。岸から遠く離れてもなお、文夫の4本のテープだけはまっすぐに向こうへ伸びている。文夫が振り返って微笑みかけようとしたその時、プツッと音を立てて4本のテープは切れてしまった。……健闘を称える意味なのか、自然と拍手が湧き起こった。落胆の声は不思議となかった。
人々がデッキから姿を消していった後も、文夫はそこに佇んで潮風に吹かれていた。手には未だ、切れたテープを握っている。鮮やかな髪の毛のように海を漂う4色のテープ。彼はそれをぼんやりと眺めながら、ある一人の乙女の面影を波間に描き出していた。たゆたう色彩の間にちらほらする美しい面影……それは紛れもなく、女鳥であった。懐かしい女鳥ゆえに、彼は用済みのテープをいつまでも離し得なかった。そのテープの先に、何か、女鳥の思い出がぶら下がっていやしないかと感じて。
しかし、巴里に着くまでそうしているわけにもいかない。彼の目の前には、芸術家としての未来がある。明るいか暗いかはわからないが、この手で開いていくべき道が横たわっている。どんなに美しく光り輝く過去でも、一緒に持っては行けない道が。
(女鳥さん、僕のミューズよ! さようなら――)
彼は漸く、4色のテープを手離した。
しゅるしゅると波の上に落ちたテープは、花のように波間に広がった後、静かに没していった。あとには、ただ、真青な海原が果てしなく続くばかりである。
潮風に当たりすぎて冷たくなった身体を縮こめるようにしながら、文夫もやっと船室に引っ込んだ。
*題名は、根岸歌劇団で大正10年(1921年)4月に上演された「闇にまぎれて」から。
*乗船客と見送り人との間をカラーテープで繋ぐ慣習は、この頃には既にあった。大正~昭和初期の小説でもよく見られる場面。
第1部「乙女の望み」はここまで。次回からは第2部「花のゆくえ」となります。
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