第7章 美の争闘

 校門脇の桜の蕾も紅色に膨らんで、あともう少しで花開くと思われる頃。女鳥の通う女学校で卒業式が執り行われた。紋付袴を身に着け、証書を手にした女学生達の表情は様々。明日からの新たな生活への時めき、級友達と別れることへの悲しみ……。しかしながら、彼女らの家族は揃って、嬉しそうに顔を綻ばせてばかりいる。普段忙しい女鳥の両親も今日ばかりは駆けつけて、娘の門出を祝ってくれる。


「女鳥さん、これ、卒業祝いですよ。写真撮る時にははめていらっしゃいよ」


 母の石川夫人は、小さな絹の巾着袋を娘に手渡した。開けてみると、小さな青い石の指輪が微笑するごとく輝いている。


「まあ、綺麗! 母様、ありがとうございます。でもいつの間にご用意していらしたの」

「ずっとずっと昔、ある方からいただいたものなのですよ。あなたが大きくなったらあげようと思って、密かに取っておいたのです」

「まあ、そうでしたの」


 女鳥は何となくそう返事して、あとは金縁に施された精巧な草花模様の透かし彫りに感嘆し、石の深青色に見惚れていた。この指輪をくれた「ある人」が誰かなんて、そんな野暮な疑問は美しい指輪の前では全く無意味であったのだ。


 珍しくはしゃぐ娘を見て、父の石川氏も何か口を挟みたくなったらしい。わざとらしく周囲を見回して、おもむろに言う。


「ここに来たのはお前の入学式以来だな。こんな所だったかなあ」

「ひどいわ、父様。全く覚えておりませんのね」

「そういうわけではない。お前が学業をちゃんと修めると信頼していればこそ、何も心配する必要がなかったのだ」

「父様……」

「ほら女鳥、お前の友達が呼んでいるぞ。行ってやりなさい。私は母さんと待っているからね」


 父の思いがけないユーモア、褒め言葉。いつもぶっきらぼうだったけれど、心底では娘への愛情を常に持ち続けていたことが、その言葉の端々からも窺えた。


「ええ」


 女鳥は袴の裾を翻して駆けていった。このまま両親と一緒にいると胸が一杯になって、涙さえ零れてきそうだったので、離れる口実ができたのは丁度よかった。人前で泣くのは、やはり彼女の自尊心が許さない。駆けながら、唇をぐっと噛みしめて堪える……。


「石川さん、おめでとう」「おめでとう」


 女鳥が行くと、級長の潤子を中心に集まった級友達が口々に祝ってくれる。女鳥もまた「おめでとう」を一人一人に告げていった。


「誇らしいわ、主席と次席がともに我が級から出るなんて」


 誰かがそう言うと、他の者も「そうね」「そうだわ」と大いにうなずく。主席の潤子と次席の女鳥は揃って顔を赤らめたが、喜びがその口元に表れていた。


「沼田さんは、師範に進まれるのですって。石川さんは?」

「ええ、私は芸術の勉強をしようかと思いますの」

「まあ素敵」「石川さんのことだから、音楽をなさるに違いないわね」「万歳、我が校からプリマドンナが誕生してよ」

「ホホホ、いくら何でも気が早いわ」


 級友達のはしゃぐ声に、女鳥は微笑するだけで明確な答えは出さなかった。が、内心では、自分の進むべき道をはっきりと決めていた。


 彼女は、やはり、芸術家として身を立てることにした。もっといえば、芸華会で舞台女優を続ける傍ら、ルリ・キネに入って映画女優の仕事も始めてみるつもりなのである。それならば、台詞や歌の稽古だけでなく、表情や仕草の研究もできて、双方によい影響を与えられると考えたためだった。


 ひょんなきっかけで芸華会に入ることがなければ、そんな大それた望みを抱くことはなかっただろう。思いつくことすらなかったかもしれない。しかし今の彼女は、わかりすぎるほどわかっている。自分が最も打ち込めるものこそ、身体で表現する芸術なのだと。――その欲求を抑えて平凡な人間になろうと努力するなど、とてもできそうにない。寧ろ、それは罪深いことだとさえ思う。


「ねえ皆さん、そろそろ記念写真を撮るみたいよ。私達も行きましょう」


 誰かが伸び上がって、校門の方を見やる。確かに、級友達は皆そちらに足を向け始めている。潤子や女鳥も連れ立って歩いていこうとした、時であった。よく通る高い声が背後から響いてきたのは。


「皆様、どうぞお聞きになって下さいまし! 密かに我が級の、いいえ、我が校の栄誉を汚してきた者が一人、知らぬ顔で卒業証書を手にしているのです」


 振り向くと、染子や夏子の一派が勝ち誇ったような含み笑いを浮かべて、立っている。辺りは瞬時、驚きに包まれたが、すぐに憤りや蔑みに覆われていった。このお目出度い日の、祝福の空気を乱した彼女達に対して……。しかし、染子はちっとも意に介さずに続けた。


「その生徒の名は、石川女鳥でございます!」


 人々の注目は、一斉に彼女に集まる。次席で証書を頂いた断髪の美少女の姿は、探すまでもなくすぐに見つけられた。――当の女鳥は、突然の事態に驚愕はしても、十分に落ち着き払っている。寧ろ、彼女を応援する級友達の方が先に怒り出した。


「何よ、あなた達、石川さんが文句ひとつ言わないのをいいことに、まだ泥を塗る気なの」

「そうよ、それも私達の卒業式でそんな行いをするなんて、考えられないわ」


 しかしながら、こんな風に詰め寄られても、染子達は尚もにやにや笑うばかり。


「泥を塗るも何もないわよ。こっちにはれっきとした証拠があるんですもの。ほら!」


 彼女達が掲げたそれを目にして、女鳥は思わず「アッ」と声を上げかけた。失くしたと思っていた、芸華会の台本がいつどうやって、あの人達の手に渡ってしまったのか……。


「この台本は、かの浅草の繁華街に建つ劇場で上演された歌劇のものでございます。石川さんは『ヘレネ』という偽名を用いて、女優として幾度もそこの舞台に立っているのでございます」


 夏子の張り上げる甲高い声に、続々と人々がそちらに集まっていく。女鳥の台本は、数多の人々の間に回されて、徒にぱらぱらとめくられるなどする。その中には、女鳥の敬愛するミセス・ベイヤードもいた。


「Mrs. Bayard, can you recognize whose wrote this? (誰が書いたものか認識できまして?)」


 ミセスは台本に書かれた文字をまじまじと見つめていたが、その顔からは血の気が失せていた。染子の意地悪い質問にも答えず、ただ「信じられない……」と呟いたのみであった。――染子達は愈々勝ち誇った。以前、英語の授業で手紙を回した時、女鳥に罪を着せることに失敗していた。その意趣返しをこの場でやりおおせたわけだ。


 離れたところでは、女鳥の父母が言葉を交わしている。


「あなた、どうしましょう……」

「嘆くのはまだ早い、お前。私達はまだ女鳥の言い分を聞いていないじゃないか。怒ったり叱ったりするのはその後でも遅くはない。……私は女鳥を信じているよ」

「ええ、そうですね。女鳥は今まで、人間として間違ったことは一度だってしなかったのですもの。今度のこともきっと……」


 父母の声は、風に乗って女鳥の耳にも、心にも、届いた。ただの放任主義者、子供よりも仕事を優先するような親だと思ってきたのに、相手の方ではちゃんと自分のことを認めてくれている。こんな苦境の中であってさえも。


(父様、母様。私も自分の言い分を主張いたします)


 贈物の指輪を胸に押し当てながら、心の中で密かに宣言する。寸時呼吸を整えてから、女鳥は染子達のもとに歩いていった。渦中の人物が思いのほか、毅然とした態度で現れたので、周囲の人垣は気圧されるごとく道を開け始める。


「……その台本、返して下さる?」


 そう言って手を差し伸べた女鳥。ざわめきが広がっていく。


「返して下さる、ですってよ! やはりあなたは、自分が舞台に立ったことをお認めになるのね」


 染子が、観念しろとばかりに高飛車に言い放つ。が、女鳥は冷徹な調子を一寸たりとも崩さない。


「ええ。私が浅草の歌劇の舞台に立っていたことは事実でございます。ヘレネと名乗っていたことも。……けれど私は、学業をおろそかにしてまで浅草に通ったわけでは決してありません。また、観客に媚びるような真似は一度だってしておりません。あくまで、自分の芸術的欲求に従い、技芸を磨くことに努めたのです」


 人々の囁き合う声が、そこここで起こる。皆、染子と女鳥のどちらに味方すべきか迷っているのだ。それは、女鳥が再び口を開くまで続いた。


「兵藤さん、よくお聞きなさいませ。――私が、自分の信じる芸術の道に進むことが罪だとおっしゃるなら、断固として抗議いたします。しかし、舞台に立ったことそのものが罪であるとおっしゃるならば、仕方ありません。あなた方の望むようにいたします」

「……」


 染子達は返答に窮した。自分達の目的が単に女鳥を陥れることのみであって、何をしたからいけない、といった明確な判断基準を決めていなかったことに今更ながら気がついたのである……。


 張り詰めた沈黙が暫く続いた。


「……皆様、私からも言わせて下さいませ」


 この息苦しい空気を変えたのは、誰もが予想し得なかった人物。


「村野女史!」「まあ、村野女史よ」


 人々は、歩み寄ってきた彼女を歓声とともに迎える。本校の卒業生であり、現在女社長として映画脚本家として大活躍している「我が校の誇り」の登場は、誰にも思いがけず、また喜ばしいことであった。


 女鳥も驚くには驚いたが、それは村野女史に対してというより、その傍らに佇む女性に対してであった。見覚えのある外出着、ゆったりと撫でつけて櫛を飾った髪。紛れもなく、ルミラだ。


(なぜルミラさんがここに来ているのかしら、それも村野女史と一緒に……?)


「私からも、この石川女鳥さんについて補足までに申し述べます」


 女史の明瞭そのものの声が、女鳥の疑念を、また人々のどよめきを一掃した。


「私は仕事柄、浅草の様々な舞台を観に行っております。ヘレネと名乗る女優の舞台も勿論拝見いたしました。大層評判がよいというのと、月に1度のみの出演という話題が私を惹きつけたからです。そして実際の演技を見、私は彼女の真剣さに大変感銘を受けました。……才気の迸るその舞台姿を見たいという観客が大勢詰めかけておりましたが、ヘレネは決して彼らに媚びることなく、貴重な一場面一場面に最上のものを見せようと努力しておりました。私は厳しい評価を下すので有名でございますが、その私の目を以てしても、彼女が真摯に芸術に向き合っていることは理解できましたよ。その証拠といってはなんですが、私はそれ以降、毎月必ず彼女の舞台には馳せ参じるようになりましたの」


 時にユーモアを交えた女史の語りは、見る間に人々の疑惑を洗い流していく。女鳥を見やる彼らの眼差しでそれとわかる。染子達の立つ瀬がなくなっていくのも。――女史は更に続ける。


「それから、私の隣におりますこの方は、ヘレネと舞台に立っている劇団員の一人でございます。彼女の証言によれば、ヘレネを名乗る女鳥さんは、舞台で得た報酬を決して受け取らないばかりか、全て浅草の孤児院にご寄付なさっているそうでございます」

「勿論、匿名で」


 ルミラはそう言い添えて、どこか意味深げな笑みを浮かべる。


「今日はお目出度い卒業式の日。このほど、その孤児院に保護されている少年達が、女鳥さんにお祝いと謝罪をしたいと駆けつけて下さいましたのよ。さあ、いらっしゃい!」


 岡部と敏之に促されて、おずおずと歩み寄る2人の少年。「まあ!」驚きの叫びを上げたのは、他ならぬ染子達。


 少年――ケンとシュウ――は、そちらを見返ることもなく、ただ無言でうなだれるばかりである。岡部に突っつかれて、2人は漸く口を開いた。


「女鳥お嬢様。僕達、あなた様に謝らなくてはなりません。台本を盗んだのは、僕達です」

「あのお嬢様方に、浅草にいるあなた様のものを何でもよいから盗めと、言われたからなんです。時々小遣い銭も貰っていたし、やらなくちゃ相済まぬと思いまして……」


 愕然として叫ぶ者。憤怒に拳を握る者。人々は当初女鳥に向けていたより何倍も激しい感情を、染子の一派に向け始めていた。まさか自分達の秘密の行為で……正義のために行ったことで、こんなにも責め立てられるとは思わなかった彼女達は、ただただ唇を噛んで俯いた。その眼は怨恨に燃えたぎって、鬼のごとくなっている。


「この子達の言うことは、本当なのですか。兵藤さん」


 担任の先生が一歩進み出て問うが、彼女達は何も答えない。それこそ、真実であると露呈しているようなものであった。――彼女達の家族、殊に染子の父の兵藤氏が殴りかかるほどの勢いで娘に詰め寄ろうとした。


「染子ッ! 貴様、貴様、何ということを――」

「お待ち下さいませ、兵藤様」


 その時、娘と父の前に立ちはだかったのは、他ならぬ女鳥。本来ならば糾弾する立場にあるはずの彼女がなぜ染子を庇うのか。周囲の人々は勿論、村野女史やルミラも眉を寄せていぶかしがる様子を見せる。


 女鳥は、染子達の顔をゆっくりと見回し、はっきりした口調で問いかけた。


「なぜ、このようなことをしたのか、あなた方の言葉で説明して下さらない?」

「酷い……酷いわ! みんなの前で恥をかかす気なのでしょうッ」

「あなたが私になさったことを行っているだけ。そうじゃありません?」


 染子はどう言い返してやるべきか、歯噛みしながら考えあぐねているらしかった。しかし他の仲間達は、この空気に耐えかねて、各々償いの言葉を口にし始める。


「嫉妬にかられて……」

「友達と行動するのが快感だったものだから……」

「我が校の名誉を汚しているものと思い込んで、正義感や使命感を覚えて……」


 どんなに身勝手なことを告げられても、女鳥は鷹揚にうなずくのみ。相手は、そして周囲の生徒達やその家族、先生達は、それが許しを意味するのか裁きを意味するのかとやきもきする。


「あなたは?」


 最後に残ったのは染子だけ。女鳥は一歩進んで、問い直した。


 染子は暫し周囲を眺めていたが、やがて溜息をひとつ吐いて、目を閉じた。


「あなたが羨ましかったからよ、石川さん。私の持っていないものを、あなたは殆ど手に入れていた。本来私が手にすべきものを奪われているみたいな錯覚が起きて。否が応でも『奪い返さなきゃいけない』と思ったの。……でも、初めから私は、手に入れてなんかいなかったし、その権利すらも持っていなかったんだわ」


 染子の瞳から、嫉妬からではない、清い涙が零れ落ちる。そんな彼女の肩をそっと抱きしめたのは、やはり女鳥。


「お泣きにならないで、兵藤さん。……私に言わせればあなたこそ、私の得られないものをお持ちになっているわ」

「何を」

「勇気――語りづらいことをこうして語る勇気を、あなた方はお示しになった。私はそれが中々できなくて、苦しく思っているのに、羨ましいくらい」

「まあ、あなたにもできるわよ。私ができたのですもの。ほんのちょっぴり、背中を押されさえすれば」

「ええ……そうね」


 抱き合っていた2人が身体を離す頃には、殆どの人々は染子達を許そうという気持ちになっていた。女鳥の寛大な行動が周囲に伝播したかのように。ただ、女鳥を熱心に応援していた生徒達のみが、その雰囲気に浸り切れないらしく、どこか納得していない顔をしていた。――女鳥は彼女達も含めて、全員に微笑を向けた。


「皆様。私の今の望みは、級の人達みんな揃って卒業すること。それだけなのでございます」


 かくして、級友達は残らず全員、頂いた卒業証書を手に記念写真に収まった。彼女達の家族も、娘達の友愛の情にほだされて、惜しまず拍手を送るのだった。




 卒業式が終わっても、人々は中々その場を動こうとせず、仲の良い誰彼との別れを惜しんでいる。女鳥も暫くは級友達と一緒にいたが、離合集散を繰り返すうちにいつの間にか手持ち無沙汰になってしまった。父は明日の会議の準備をするとかで早々に帰り、母は婦人会の知己である村野女史と話し込んでいる。自分一人帰るわけにも行くまいし……と、その辺をうろうろしていると、後ろから肩を叩かれた。


「女鳥ちゃん。卒業おめでとう」

「まあ、ルミラさん」


 女鳥は話し相手に巡り合えた嬉しさもあり、顔をぱっと輝かせた。危地を救ってくれた礼を言うと、ルミラも珍しく照れたように微笑する。わけもなく、撫でつけた髪に頻りに手をやるので、お馴染みの指輪が西日にきらきらと眩しい。


「本当のことを言ったまでだわ。女鳥ちゃんの正しい行いをね……。でも、あの女の子達をあんな風に許しちゃって、いいの? 悔しかないの」

「ええ、私は別に兵藤さん達を恨んでいたわけじゃないんですもの。それに、ご家族の方達の失望するところを見たくなかったのよ。級の中には、もっと厳しく言った方がいいという人もあったけど、最後にはみんなわかって下さったわ」

「私はまだ煮え切らないけれど。女鳥ちゃんがいいというなら、気にしないようにするわ」

「もう、ルミラさんったら」


 2人は喋りながらのんびりと歩いていたのだったが、ふとルミラが女鳥を促してすたすたと歩き出した。どうしたのかと聞く暇も与えられず、連れられていった先は、校門の外であった。門柱を指差されて振り向くと、そこには。


「兄様! 来て下さったの」

「ああ。親父やお袋には見つかりたくないから、ここで待っていたんだ。……おめでとう、女鳥。芸華会の活動と両立してよくやったと思うよ」

「ありがとう、兄様……」


 他磨己が褒めてくれるのは、勿論嬉しい。だが一方で、彼に伝えなければならないこと――芸華会と映画の掛け持ち――がこの胸に残っていると思うと、まだ手放しに喜べない。


 頬を赤らめてもじもじしている妹を目にして、ただ照れているのだと合点した他磨己は、なお明るい調子で続ける。


「俺はずっとこの日を待っていたんだ。女学校を卒業したとなれば、女鳥、愈々お前も芸華会に専念できるな」

「ええ……」

「そのことなんだけど」


 突如、厳かな口調で割り込んできたルミラ。


「女鳥ちゃん。私、芸華会を辞めてルリ・キネに移ることになったの」

「エエッ」


 驚いて叫ぶ女鳥。しかし、そうしたのは自分ただ一人。兄の方を見やると、苦々しそうな顔はしているが、驚愕の色は微塵も窺えない。既に知らされていたのだろう。


「ルミラさん、兄様、本当ですの」

「ああ。俺には忌々しいが、女鳥さえいれば芸華会はどうでもなる」

「だけど、他磨己。私ずっと考え続けたわ。女鳥ちゃんの芸術を高めるために、何が一番良いことなのか」

「そりゃ決まっているよ。芸華会で腕を磨くことだ。なあ、女鳥」


 女鳥が同意も反対もしないうちに、ルミラがその答えを叩き伏せた。「違うわ」と。


「私は女鳥ちゃんも、ルリ・キネに移らせるべきだと思うのよ」


 これには、他磨己も血相を変える――。


「冗談じゃねえやッ! 女鳥を、あんな汚らわしい活動屋なんかにやってたまるか」

「汚らわしいのはあんたの偏見じゃないの?」


 女鳥の芸華会での処遇を巡る口喧嘩がもとで、ルミラと他磨己とは殆ど口をきかなくなっていた。2人とも、口には出さなかったが、かねてから今日この日を互いの決着の場にしようと決心していた。それゆえ、2人の口調はよく研いだ刃物のように鋭く、時には聞いている女鳥さえ傷つけかねないほど恐ろしく響いた。そうした事情を知らない女鳥のみ、どうしてよいかわからず、彼らの舌戦を怯えた目で見つめるしかなかった。


「私は知っているのよ。女鳥ちゃんが声や美貌を売りにしてばかりの『ヘレネ』から脱皮したい、もっと表情や動作を勉強したいと願っていることを。それには、いやでも大写しにされる映画の世界がいい修行場所だと思うの。それを村野女史にも相談したら、あの人はよく理解して下さったのよ。女鳥ちゃんに適した作品を用意するとも請け合って下さった。……どう、他磨己。この方が、女鳥ちゃんの人気にあやかるだけの芸華会よりも、ずっと誠意ある姿勢だと思わなくって?」

「ふざけるなッ、活動屋みてえな興行第一の奴らの言うことなんかアテにしやがって」

「あんたの怒りなんかどうだっていい。それよりも、当の女鳥ちゃんの気持ちを聞いてみるべきじゃないかしら。女鳥ちゃん! どう思う」


 突然2人の目が自分の上に集まって、女鳥は怯えたように身を竦める。「あ……」胸中に渦巻く言葉を、外に出すべきであると頭ではわかっているのだが、それを告げた後の2人の反応――特に兄の――を考えると、やはり語り得なかった。


 ただ唇を開きかけたまま黙ってしまう女鳥に、他磨己はますます追い打ちをかける。


「女鳥、惑わされるんじゃないぞ。お前は兄さんの教えを忘れちゃいないだろうな」


 ルミラも負けずに促してくる。


「女鳥ちゃん、誰にも遠慮しないで、あなた自身の望みを言えばいいのよ」


 2人の眼差しが、女鳥の心を熱く射る。じりじりとしたこの苦しさから逃れたい一心で、彼女は目を瞑り、一息に告げた。


「兄様、ルミラさん、私は舞台と映画の両方をやりたいの!」

「女鳥ッ、なぜ舞台に、芸華会に集中したいと言わないッ」


 予想以上に厳しい声に驚いて目を見開いたのと、ぐいと胸ぐらを掴まれたのはほぼ同時だった。


「この子に乱暴しないでッ!」


 ヒステリックに上ずるルミラの声。憤怒に燃える表情の激しさ。


「現実を見たらどうなの。女鳥ちゃんだって、一箇の芸術家なのよ。私やあんたと対等な……。いつまでもあんたや、芸華会のマスコットにしておけないのは当然のことだわ」


 しかし彼女の説教も、怒り狂う若者の耳にはさして響いていなかった。


「女鳥、女鳥、何とか言えッ。これがお前を飛躍させてきた俺と芸華会への仕打ちなのか。いつからそんな堕落しちまったんだ!」

「堕落ですって」


 女鳥は未だかつて、兄からこれほどの侮辱を投げつけられたことはなかった。その両の目に、悔し涙がじわじわと溢れてくる。


「あまり、あまりひどいわ、兄様。堕落だなんて。私がずっと演技に精進してきたことを、一番近くで見ていらしたはずですのに、お疑いになるの」

「疑わざるを得ないだろう。本当に精進してきたのなら、そんな虚栄渦巻く活動の世界に憧れるはずがないんだ」

「そうおっしゃるのなら、私も兄様の芸術観を疑わざるを得ません。舞台に舞台の良さがあるように、映画にも映画の良さがあります。私はどちらでも自分の能力を試し、学んでいくことが、より表現者として完璧に近づく道だと信じているのです。その思いを堕落だと決めつけるなら」


 一瞬の空白の後、彼女の唇は最も激しい言葉を吐いた。


「兄様の芸術観は、芸術的良心でなく、己の憎悪と偏見によっているとしか思えない」

「女鳥ッ」


 兄の拳が振り上げられて、反射的に目をぎゅっと瞑る。ああ、殴られる――来るべき痛みを覚悟した女鳥だったが。


「そこまでよ」


 恐る恐る瞼を上げると、拳を止めていたのは他ならぬルミラ。


「他磨己。もうあんたに女鳥ちゃんを任せるのは危険すぎる。この子は私が、責任持ってルリ・キネに連れていく。それでいいでしょ?」

「勝手にしやがれ。俺だって、いや芸華会だって、そんな物分かりの悪い役者は御免被るさ」

「私だって、こんな暴力的な自惚れ役者は真平よ」


 ――捨て台詞とともに、彼らは袂を分かったのであった。女鳥だけは、去り行く兄の背中を追いかけそうになったけれども、頑なな自尊心でそれを制した。代わりに、涙が後から後から止めようもないほど流れてくる。ルミラが優しく抱き寄せてやると、子供のようにしゃくり上げて、泣き伏す始末だった。


「女鳥ちゃん、ごめんなさい。あなたから舞台に出る機会を奪ってしまったわね。でも本当を言うと、仕方のないことだったの。言い訳に聞こえるでしょうけれど。……芸華会はここ最近で、すっかり分裂してしまっていたの。重松さん、他磨己、昇を中心とする一派と、私と栄介を中心とする一派とに。前者は芸華会を唯一の表現の場とし、後者は自分の芸術的欲求を芸華会以外で満たすことを望んでいる。それで大喧嘩したのが、つい昨日のことよ。そこで、私や栄介、他にも何人かが、みんなルリ・キネに新たな活躍の場を求めることになったってわけ。……その点では、女鳥ちゃん、心細く思わなくていいのよ。全く見知らない人ばかりの場所に行くわけじゃないのだから、ね」


 ルミラが諭すように告げた真実は、しかしながら、泣きじゃくってばかりいる女鳥にどのくらい理解されたであろうか。兄との別れを、芸華会の仲間達との決別を嘆く彼女の心に、どのくらい響いたであろうか。


 校門の内からは、いつしか人の声も絶えていた。唯一居残っていたのが、女鳥の母と村野女史であったが、その2人も今はこちらに来て、咽び泣く娘の様子をじっと見守るのだった。




*題名は、根岸歌劇団で大正11年(1922年)10月に上演された「生の争闘」から。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る