第5章 アパッシュ

 ヘレネこと女鳥の芸華会出演は、月に1度のみと正式に定められた。他磨己は兄らしく、学生たるもの学業をおろそかにしてはならぬとの考えから。また重松は演出家らしく、月に1度という特別感をヘレネに与え、かつ話題性と神秘性を守る方が得策との思惑から。そして何より、ルリ・キネの引き抜きに遭遇する機会をあまり作りたくないという芸華会全員の願いから、でき上がった新たな規則である。女鳥当人にも異存はなかった。


『庭の花薔薇』『乙女の生涯』『ニンフ』……ヘレネが主演する舞台は、月を追うごとにその評判を高めていった。最初の『乙女の望み』の時のように、うるさい同級生達も来ない。小さな劇場を埋め尽くすのは、専ら芸華会の常連客とヘレネの崇拝者、それから噂の美女を拝みに来た通りすがりばかり。いわば、素顔の石川女鳥を知らぬ者ばかりの前で、彼女はヘレネの仮面を被って存分に歌い踊り、芝居に集中できた。観衆は拍手喝采、数度に渡るカーテンコールの後で場内の灯が点いてもまだ夢心地で、仄かに酔ったような足取りで帰路に就く。


 こうしたことが繰り返される度に、女鳥も自分の実力を信じられるようになっていった。――兄達にお膳立てされてはいるが、実際に演技するのは自分であり、自分自身の力がなければ成功するわけもない。――そこに気がついてからは、女鳥は以前にも増して熱心に稽古に励んだ。自分の実力を、自分の心の拠り所にできるほど、揺るぎないものにしたかったのだ。また、芽生えかけた「自尊心」というものが、ともすれば「自惚れ」という実のないものに変貌しようとするのが恐ろしくもあった。


 そのような心情の変化は、女鳥の印象をも着実に変化させていく。


「石川さん、最近明るくおなりになったわねえ」

「良い縁談が決まったって聞いたけれど、本当かしら」


 まず、学友達が噂し始めた。新鮮な話題に常に飢えている娘達のこと、いざとなれば、噂の主・女鳥の如何なる素振りも見逃しはしない。そのうちに大胆なのが本人に直接問いかけて、周囲を呆れさせる。


「ね、石川さん。ご婚約なさったって聞いたけれど本当? 学校にはいつまでいらっしゃいますの」

「まあ、ホホホ……そんなこと出鱈目ですことよ。私婚約などしていませんし、学校だって卒業式を迎えるまでは当然通い続けますわ」


 級友達は顔を見合わせる。――受け答える女鳥の声が、どこか弾むような朗らかさを滲ませていたからである。以前ならば同じ言葉を言うにしても、諦念や呆れが先に立ったであろうに。今では軽いユーモアすら含んでいるではないか。


 口ではああおっしゃるけれど、やっぱりご婚約なさったのよ……皆、そう結論づけた。


 級長にして女鳥の親しい友人、潤子は、2人きりになった時同じことを尋ねた。


「みんな縁談だって決めつけていられるけど、違いますわね。本当は、何が原因ですの」


 女鳥も、潤子の前では素直になれた。とはいえ、真実を打ち明けることは流石に憚られたので、


「ええ、本当に打ち込めるものを見つけましたの」


 と答えただけであったが、潤子はその心持ちをよく呑み込んでくれた。彼女はそれ以上の詮索はしなかった。


 しかしながら、女鳥が噂の的になるのを好まない連中も勿論いた。例の、染子の一派である。


「あの方、いつからか知らないけれど、随分傲慢になったと思いませんこと」


 季節はもはや、夏を過ぎ、秋も深くなっていた。その間、女鳥の秘密の行いは芸華会関係者以外の誰にも知られず、勿論、染子達もそれを予想できるわけがなかった。……つい最近までは。


 染子達の目にも、女鳥の様子は以前からかなり異なって見える。もっと堂々とし、侵し難い気品を漂わせて……しかしそれをはっきりと認めるのは癪なので、「傲慢」の一言で片付けて溜飲を下げていた。


「ええ。うちに出入りしている呉服屋の小僧が、石川さんのところにも行っているのだけどね。石川さんのところに上がる度にそこのお嬢さんが美しくなられるって、母様に喋っているのよ。嫌な人だわ」


 一人の生徒はそう言って、仲間達を見回した。が、染子と夏子だけは眉根を寄せて、黙りこくっている。


 女鳥の悪口が、褒め言葉と受け取られたらしいと知って、生徒はしょげ返るしかなかった。


 気まずい沈黙が流れて暫くした頃、夏子が冷たく言い放つ。


「ねえ皆さん。ずっとずっと前、浅草へ一緒に参りましたでしょう。その時によくわからない女優の舞台を観たの、覚えていまして?」

「ああ、そういえば。名は確か……」「ヘレナだかヘレンだかいう、どっちでしたかしら」

「ヘレネですわ」

「それがどうかなさいましたの」

「ヘレネが、石川さんだとしたら、どう思って?」


 あまりに突飛な発想に、一同驚き呆れて物も言えない。笑いを堪えている者すらいるではないか……。


「証拠がございますの、夏子さん」


 唯一、染子だけが真面目に受け取ったらしい。


「はっきりしたものは、ございませんわ。でも音楽の授業であの人が歌った時、おやと思いましたの。あの舞台女優と似た歌い方だと」


 言われてみて、ああそういえば、と思い出せる者は、残念ながらいなかった。そんな半年も前の、それも冷やかすつもりで入ったに過ぎない劇場でのことなど、記憶の隅にも残らない。けれどはっきり覚えていないと言うことは何か恥ずかしいことのように思われたので、皆ただもじもじと、誰かが話すのを待っているばかりである。


 丁度、染子がこの空気を変えるように、手をパンと打った。皆一斉にそちらを見やる。


「次の日曜日、また浅草に行きましょう。そこでヘレネが出ていれば、石川さんか確かめればいいんですわ。それに、もし本人がいなくても、打つ手はありますもの」

「まあ、どんな?」


 染子はにやりと片頬を吊り上げて、一同を見回す。その秘密の計画は、夏子にも、他の者達にも大いに魅力的に映った。女学校生活では決して味わえないような、胸の高鳴る、刺激的な遊戯。しかも、成功すれば我が校のためにもなる。


「楽しみねえ」「こんな計画を思いつくなんて、流石染子さんですわ」


 もう計画が成功したもののように、彼女達は大はしゃぎであった。だが、そう全てが上手くいくであろうか?




 日曜日。とはいえヘレネのいない芸華会公演は、常連ばかりで平穏なものである。こういう時ルミラは、楽屋に押しかける大学生も追い出さずに、暇潰しがてらお喋りに興じる。


「ルミラさん、今度の演目は何といっても台詞がいいね。そう重松君に伝えといてくれよ」

「ご自分で言えばいいのに。まあ、引き受けといてあげますわ。ちなみに、どの台詞がお気に召しまして」

「石川君のデルフィンが、マクシーヌに諭すところがあるね。『無闇な謙遜は傲慢と同じものだ。自分の力を必要以上に低く見せるのは、誰に対しても失礼なことに違いないのだ。他人に対しても、自分自身に対しても』。それから、もう少し後で彼が呟く『世間では正しい形で謙遜できる人間は稀だ。大抵は謙遜にあらずして卑屈に堕している』というのも、実によいね。うちの親父にも聞かせてやりたいよ」

「まあ、ホホホ」


 口では笑うルミラだったが、内面ではこの間の口論を思い出して苦り切っていた。――たった今褒められた台詞は、元は女鳥が何気なく言った言葉であった。それを聞いた他磨己と重松が気に入って、次回作の台本に書き入れることをその場で提案した。女鳥も快く承諾したので、劇の台詞になったこと自体は何ら悪いことはないのだが。……問題は、その台詞を発するのが、女鳥演じるマクシーヌではなく、他磨己演じるデルフィンにされていたことであった。


 この言葉を最初に考えたのは女鳥ちゃんよ。なぜあの子に言わせないの。――台本ができ上がった後、ルミラは他磨己と重松に喰ってかかった。


 それは、劇の構成上仕方のないことだ。マクシーヌは貧しさゆえにひねくれてしまった少女で、それを正しい道に導いてやるのが主人公のデルフィンなのだから、彼の口から言わせるのが自然だろう。――重松はそう弁解するが、ルミラはまだ納得できない。


 じゃあ、質問を変えるわ。なぜ、女鳥ちゃんには、今度のマクシーヌみたいな可憐な娘、つまり庇護されるべき存在としての娘の役しか振らないの?――答えに窮した重松の代わりに、他磨己が進み出る。心なしか、額に青筋が浮きかけている。


 それが女鳥に相応しい役柄だからに決まっているだろう。あいつの美しさと歌の巧みさを生かし、なおかつ芝居もできる筋にしているつもりだがね。


 私は、女鳥ちゃんには、もっと色々な役ができると思うわ。いつも同じような役ばかりでは、却ってあの子の才能に失礼というものよ。――ルミラは本当は、女鳥自身が「役の幅を広げたい」とこぼしていた、と言いたかった。が、そのために兄の他磨己の機嫌を損ねては、それこそ彼女のためにならない。だから、こうして言葉を選んで批判しているのである。……しかし、短気な他磨己に真意が伝わることはなかった。


 俺の妹に汚い役や醜い役はやらせないぞ、断じて!


 あら、そう!――ルミラの声も俄然きつくなった。――結局はあんたのお望みの役柄しか与える気がないってことね!


 ――それが、この間の口論。周囲のとりなしで一応は停戦協定を結んだ2人だが、今でもろくに口を利いていないままである。


 後になってルミラは、どうして女鳥のことになるとこんなに怒りっぽくなるのだろうと、我ながら不思議に思った。少し考えて、答えらしきものを一応は見出した。


(女鳥ちゃんの心から生まれたものは、女鳥ちゃんに所有権があって然るべきだわ。それを、勝手に、本人のいないところで奪われたのが悔しかった。おまけに、彼女自身が所有物みたいに扱われて、腹が立って……)

(けれどそれだけが、本当に、私の憤りの原因なのかしら?)


「おやおや、我らの女王様はまたお考え遊ばしているぞ、ハハハ」

「大方、ヘレネ嬢のことだろう。例の美女が来てからというもの、ルミラさんは度々うわの空になる」

「あら、私また考え事していて? ごめんなさいね。……ええそうよ、ヘレネのこと考えていたのよ」

「ほらやっぱりだ」

「ねえ皆さん。ヘレネにはどんな役が似合うと思って? 私、あの子なら何でもできると思うのだけど」


 ルミラはふと思いついて、常連に問うた。目の肥えた彼らならば、女鳥の能力を過小評価せずに、率直な意見を述べてくれるに違いない。少なくとも、他磨己や重松のような穿った見方はするまい。と考えたのだが……。


「そりゃあ、僕らが見たいのは、可憐で美しい、天使のような娘さ」

「俺もさ。清らかなものが内面から光のように、滲み出る、そんな少女の役がいいね」

「あんな子に縋りつかれるのが、男の夢ってもんさ。石川君も随分幸せな奴だ」


 憎らしや、日々舞台に通い詰める彼らでさえ、自分と同じようには思考してくれないのだ。結局のところ、みんな、女鳥扮するヘレネの実力を見ずして、その美しさだけを称賛しているに過ぎない。


「ふん、そうかい! よくわかりました」

「ハア、また怒っちまった」「今日の君はどうも変だ。突然考え込んだと思ったら突然機嫌を悪くするし、何があったんだい」

「何にもないわよ。……ほら、いつまでそこにたむろしていらっしゃるの。早くお帰りよ」

「へいへい」


 常連客達はよっこらせと立ち上がったり、学生帽を被り直したり、マントを羽織ったりと帰り支度を始める。その様子を見つめるともなく見つめているルミラ。


「じゃ、失敬。また来るよ」

「どうもありがと。またね」


 軽く会釈をして彼らを見送る。手は既に鏡台の上を素早く動いて、風呂に行く準備を整えていく。そして立ち上がりかけた時、まだそこにまごついている少年に目を留めた。


「坊や、早くお帰りよ」

「あ、ええと……」

「見ない顔ね。初めて来たの。よく入って来られたわね」

「ぼ、僕、失礼します」


 少年はあたふたと転がり出て行った。その態度といい、伸び上がるようにして楽屋内を眺め回していた仕草といい、何か裏があるように思われてならない。


 ほんの子供だけれど、全く思慮分別のつかない幼児でもないのだし、このまま無邪気の一言で看過するのはまずかろう。


 ルミラは楽屋着の浴衣から、木綿の普段着に手早く着替えた。音のしない草履を突っかけて裏口から出ると、丁度先程の少年が通りを走り抜けていくところである。彼はこちらには気がつかず、ただ一心に人垣を割って先へ先へと急いでいく。――ルミラも影のように尾行する。


 少年は暫く早足で進んでいったが、突如、角を曲がって暗い小路に入り込んだ。ルミラの方も素早く移動し、建物の影を楯にしながら近づく。


「……どうだった、ケンちゃんや」

「ええ、何も見当たりませんでした……」


 卑屈な大人がするように、膝を屈めて頭を何度も下げているのが少年。ケンという名らしい。一方、彼と対峙しているのが、これまた傲慢な大人のように顎をしゃくってふんぞり返る娘連中。この薄暗い小路には不釣り合いな、派手な着物でめいめいめかし込んでいる。


(あの女達……間違いない。女鳥ちゃんを目の敵にしている同級生達だわ)


 ルミラは少し考えて、板塀にそれとなく凭れて煙草に火を点ける手真似をしてみた。ちょいと一服しようという人間ならば、そこに暫く佇んでいても違和感はあるまい。狙い通り、ケンと女学生達も、このありふれたポーズの若者には目もくれず、次々と重大そうなことを喋っていった。しっかり立ち聞きされているともつゆ知らず。


「……じゃあ、ヘレネが誰かわかるものは、なかったというのね」

「ええ、お嬢様方」

「きっと片付けてあったか、この子が見落としただけだわよ」

「見落としてやいませんッ」

「わかった、わかった。ケンちゃんや、今後も頼みますよ」

「せめて3月になるまでには、確たる証拠を掴んでおくれ」

「はあ」

「それじゃ小遣いだよ」

「おありがとうございます……」


 娘達は振袖を打ち振りながら気取った調子で、こちらに歩いてきた。ルミラが横目で様子を窺ったが、向こうはとんと気づかず、大通りの人ごみの中へと混ざっていった。もう一度小路に目を戻すと、例のケン少年が、手渡された小さな巾着の中の硬貨を幾度も数えているところであった。


「ひい、ふう、みい……これだけあれば、あすこであれ食べて、それから活動見て……」


 少年の頬が俄かに紅潮したと思うと、次の瞬間には子供らしく如何にも浮き浮きした足取りで、大通りへと駆け出していた。大方駄菓子屋か見世物小屋か、活動小屋か。行き先はそんなところだろう。追いかけて問い詰めてやろうかとも考えかけたが、すぐに首を振って打ち消した。


(暫くは泳がせておいてやろう。そのうち、こっちに有利な状況に持ち込めるさ)

(あの坊やだけ取捕まえても何にもならない。例の女学生達も一網打尽にしてやらなきゃ)

(それにしても……『せめて3月になるまでには』の意味って……?)


 心当たりをいくつか思い浮かべつつ、大通りを見やる。ふと目に留まった学生服に、ああと合点する。


 3月。女学校の卒業式だ。女鳥は最高学年だから、3月になれば学舎を去らねばならない。それはあの高慢な娘連中も同じこと。


(あの連中のすることだ。きっと先生や父兄の面前で、女鳥ちゃんがヘレネだという事実を力づく金づくに暴いて、恥をかかせようっていう魂胆なんだ。そうは問屋がおろさないよ)


 ルミラの目は鋭く空を睨んだ。そこに憎き相手がいるかのように。そしてひときわ強い光をその瞳に宿したと思うと、彼女はふっと通りに出て、劇場へ足早に帰っていったのだった。




 それから時は過ぎて、2月最初の日曜日。ヘレネ出演の看板が劇場前にかけられるや、人々は吸い寄せられるようにそちらに集まっていった。客席は瞬く間に埋め尽くされて、それでもまだ、立ち見の切符を求めるファンが列をなしている。


「満員御礼だよ、女鳥」

「そう」


 女鳥は楽屋に来た兄に微笑んだ。――今日の演目は『春来りなば』。研究のために故郷を去る若者と、彼の成功を待ち続ける美しい恋人の物語。例によって重松と他磨己が書き下ろした劇で、例によって他磨己は意思堅固な青年の役、女鳥は可憐な乙女の役を担っている。――刺繍入りのブラウスに、裾の膨らんだ吊りスカート。長い金髪のかつらは彼女自身が三つ編みのお下げにして、細いリボンを結んだ。兄は、後ろで丸めて結い上げた髪型がいいと言ったが、女鳥が三つ編みを主張してこちらに決まったのである。なおこれが、女鳥の意見が女鳥のものとして受け入れられた最初の例になった。それを思う度、何か虚しさのようなものが女鳥の胸中に立ち込めてくるのだった……。


 ――噂のヘレネが舞台に現れると、拍手や声援とともに、溜息のような音がそこここから起こった。そして彼女が話し、歌い始めると、観客は皆息を殺して、それに聴き入った。


 月に1度とはいえ出演を重ねるうち、ヘレネの能力も美貌もますます磨かれていった。人々の期待を反映するかのごとく。また、その陰に隠された努力の痕も感じさせずに。


「……やっぱりあの人の声よ」「あの人の声だわ」


 拍手が鳴る時を狙って、ひそひそ囁き合うご一行。大人びた羽織や襟巻や、妙な束髪なんかで下手な変装をしてはいるが、紛れもなく、女鳥の敵連中である。


「……あいつらまた来ているぞ」「ええ、わかっているわ」


 一方、舞台袖の隙からは、他磨己とルミラが客席を窺い見ている。役柄によって扮装し慣れている彼らのこと、そうそう下手な変装でごまかされやしない。


「あいつら、摘まみ出さなくていいのか」

「大丈夫でしょ。今日は多分何も起こしやしない。公衆の面前で目立つことをすれば、学校の恥になりかねないし。精々『偵察』がてら来たってところかしら」

「だが、もし女鳥の身に何かあったら……」

「まだ何もしていない人達を追い出すような真似をしては、却って、私達に不利になっちまうわ。忘れないでよ、こちとら客商売だってことをさ」

「そうか……」

「ほら、あんたの出番よ」


 他磨己は重い溜息をひとつ吐いて、舞台へと出て行った。入れ違いに、女鳥がスカートを揺すりながら足早に駆けてくる。彼女は不安な面持ちを隠さずに、ルミラに訴えた。


「ねえルミラさん、客席にいたわ」

「誰が?」


 例の同級生達のことを言い出すのだろうと思い、平然と構える。が、告げられた名前は全く予想していなかったものだった。


「村野女史よ。映画の……」


 何ですって、と叫びそうになって慌てて呑み込む。それとともに、自戒の念に打たれた。このところ、ヘレネの護りが弱くなっていなかったか? 我らが芸華会の名花を育て、披露することにのみ懸命になって、迫り来る魔手への対抗策を何ら考えていなかった。これで女鳥が引き抜かれることがあれば、完全にこちらの手落ちである。


 どうにか気持ちを落ち着けて、ルミラもまた舞台へと進んだ。長台詞を喋りながら、それとなく客席に注意すると、確かにルリ・キネの村野女史がこちらをじっと見ている。しかし今日の女史は、いつものあの値踏みするような目つきをしてはいない。かといって純粋に劇を楽しんでいる風でもない。どこか、ルミラ自身を心配げに見守る、情愛すらも窺える眼差しだ。恐らくは女鳥にも、そうした態度を取っていたのであろう……。


(今のような態度の女史となら、対等に交渉できるかもしれないわ。女鳥ちゃんのことを……)


 長台詞の後に捨て台詞を残して、舞台袖に戻ってくる。その時胸にわだかまっていたのは、果たして「女鳥を芸華会で守り抜くこと」であったろうか。それとも?……今のルミラにはまだ判然としなかった。もっとよく考えて、決断しなくてはならないと、自分に言い聞かせた。


(全ては女鳥ちゃんのため。芸華会のためでもないし、他磨己のためでもない。女鳥ちゃん自身の才能と幸福を念頭に置いてかからなければ)

(そのためになら私は、仲間を裏切ることも厭わない)


 心の中で呟いた言葉が、突如ずしりと重くなったように感じた。それに我ながら驚いて、足がすくむ。自分の決意のほどは、女鳥を想う心は、いつの間にこんなにも増長していたのだろう。……けれど、それは決して悪いことではないとルミラは知っていた。


 幕が下り、出演者全員、もう一度舞台に並ぶ。引き続く拍手の中、再び幕が開いて、役者達は深々と礼をした。その折にルミラは、じっと女史一人だけに視線を注いだ。向こうもやがて気づき、厳粛な面持ちを振り向けた。2人の奇妙な交感は、最後の最後、幕が下り切る時まで続いたのだった。


 ――劇場を出て、例の女学生連中は企みが成功した喜びに、顔を輝かせていた。それぞれ工夫を凝らした扮装をして誰にも咎められずに、敵の実情を探り出せたのだから。形勢はこちらに有利と言って差し支えあるまい。


「あとは、物的証拠さえ見つかればいいのだわね」

「ええ。それであの高慢ちきをコテンパンにしてやれてよ」

「でも、あと2か月も残っていないわ。大丈夫かしら」

「大丈夫よ、2か月もあれば」


 自信たっぷりに、口紅を塗った唇を吊り上げたのは、染子。今日の、そして今後の計画の立案者である。忠実なる助手の夏子も同じく、凄艶な笑みを浮かべる。


「ええ。今日だって、ケンちゃんやシュウ坊を張り込ませておいたの。2人が楽屋に潜り込めたなら、何かしら手に入れてくると思うわ」

「流石ねえ」


 彼女らは口々に、中心の染子と夏子とを褒め称えた。それは、この壮大な計画に携わっている自分自身を誇っていることの表れでもあった。「秘密」を共有することによる連帯感が愉しく、まるで映画か小説の主人公にでもなったみたい。……彼女らのヒロイズムはむくむくと胸に湧き上がって、止まるところを知らない。




 先まで常連客の応対をしていたルミラが、鏡台に向き直るや、またせっせと身だしなみを整え始めた。


「あらルミラさん、またお化粧なさって、どうしたの」

「ええ、ちょっと用事ができたのよ」

「このあと『華』に集合よ、よかって?」

「ええ、わかっているわよ。みんなは先に行ってちょうだい。私は後から行くから」


 彼女は言うなり立ち上がって、共用のタンスから藤柄の黒い訪問着を取り出す。女鳥始め、その場に居合わせた仲間の女達はやや呆気に取られた……。ルミラがその着物を着て外出すると、少なくとも1時間以上は帰ってこないと相場が決まっているのである。


「ねえ、あんまり遅くならないでよ。折角のお祝いなんだから」

「勿論よ。できるだけ早く切り上げるようにするから。じゃあね」


 肩まで無造作に伸ばした髪を後ろにゆったりと撫でつけ、櫛を飾り、最後に菊爪の指輪をはめてからルミラはいそいそと楽屋を出て行った。裾に描かれた藤の花が、彼女の歩くにつれてゆらゆらと左右に揺れて見える。……一同は、暫く顔を見合わせていたが、やがて「華」に行く準備にかかり始めた。公演初日の成功祝いは、今でも喫茶「華」で行うのが慣わしであった。彼女らは客席に散っていた男達とともに、夕暮れの街に繰り出していった。女鳥も、兄の他磨己と連れ立って……。


 その頃、一人姿を消したルミラはというと。同じ浅草の通りを注意深く歩いていた。彼女の目は、店々の品物を眺めるふりをしながら、全く別の、ある知り合いの姿を探していた。――終演後、ひいき客に紛れ込ませた子分が言った通りならば、この辺りにいるはずだが……。


 尋ね人の姿は、左程かからずに見つけられた。小ぢんまりした乾物屋の前で、注文の品を待っているらしき少年の後ろ影。


「坊ちゃん、おつかい?」


 ルミラが話しかけると、ハッと振り向く。「ああ、おばさま。こんにちは」敏之少年は礼儀正しくお辞儀をした。


「ええ、先生に頼まれまして」

「そう、偉いのね。こうしたことはあなたのお役目?」

「そうでもないのですけど。仕事のない日は、できるだけ院のことを手伝うようにしているんです」

「感心だわね」


 2人は暫し店先で立ち話をしていた。そのうちに品物を包み終えた店主が戻ってきて、話に加わる。


「トシ坊。ケン坊やシュウ坊はどうしたね。やっぱり相変わらず遊び歩いとるのか」

「ええ……お恥ずかしい限りですが」

「おめえの言葉を2人に聞かしてやりてえな。あの小僧ども、次見つけたら怒鳴ってやるんだが、用心してか中々こっちまで足を伸ばさねえんだよ」

「その坊ちゃん達も、院に入っている子ですの」


 最も確かめたかったことが話題に出てきた。内心の興奮を極力包み隠して、ルミラは品よく問う。話し好きの店主、「おうよ」と威勢よく返事して、こちらが聞かぬことまでぺらぺら喋ってくれる。


「ケン坊もシュウ坊も、昔は良い子供だったがね。ここ1、2年ですっかり堕落しちまったんだ。年上の奴に引きずり込まれたのか知らんが、院の資金をちょろまかしたり、細々した盗みをやったりして、あの優しい先生方を困らせとる。そうだ、この頃何だかやけに羽振りがいいらしいな。トシ坊おめえ何か聞いているかね」

「いいえ、特に……。でも思い返してみれば、2人の小銭入れがいつもより膨らんで見えた気がします」


(間違いない。あの女学生達の手下になっているのは、孤児院の不良坊主達だわ)


 ルミラは、表面は微笑を絶やさなかったが、内側ではあれこれと今後の計画を練り始めていた。それは、敏之がおつかいの荷物を背負って帰っていき、ルミラも商売上手の店主に勧められるまま茸や野菜の干したのを買い、包みをぶら提げて劇場へ帰る道々でも続いていた。


 ふいに、背後に人の気配を感じて彼女は珍しく驚きを露わにした。


「ああ、なんだ、お前さんか」

「姐さん、いやに驚きますね」

「考え事していたのよ。お前さんの情報をもとに得た情報について、さ」

「こんがらがりそうな言い方しないで下さいよ。……で、やっぱり当たっていましたかい」

「大当たりだったよ。ありがとう」


 それを聞くや、四角い顔をぱっと綻ばせたこの男。姓を岡部という。元々、浅草に蔓延る不良団の顔役だったのを、ルミラに諭されて以来、きっぱり足を洗い、今では活動小屋の雑用をして立派に働いている。また、ルミラを「姐さん」と呼んで大いに慕い、力になろうともしてくれる。


「どうしますかい姐さん、奴ら、とっちめてやりましょうか」

「今は待って。そもそもその2人だけしょっ引いたってだめなの。裏で悪賢い女学生達が糸を引いているんだからね」

「そうですか」

「また、手伝ってもらう時は声をかけるよ」

「へえ」


 岡部はぴょこんと大きい身体を曲げて礼をし、人ごみを風のようにすり抜けて先へ先へと行ってしまった。彼の勤める活動小屋はこれからが書き入れ時なのだろう。家族と、恋人と、友人と、或いは唯一人で日曜の夜を楽しく過ごそうという人々を呼び込む頃合い……。その中に、女学生に買収された金を握ってくる件の不良どもも含まれるのかと思うと、何ともいえず腹立たしくなる。ルミラはそうした思いを、深呼吸で落ち着かせる。


(さっきも岡部に言い聞かせたばかりじゃない。まだ「その時」じゃないんだって……。いずれ、あの女学生もろとも征伐するために、慎重に事を運ばなければ)


 何度も口の中でそう呟きつつ人の波に沿って行くと、やがて元いた芸華劇場の前に戻ってきた。もう人の気配は一切なく、既に皆で「華」に繰り出したものとみえる。彼女も楽屋で着物を着替え、いつもの格好になってから揚々と「華」に向かった。唯一いつもと違うのは、手に乾物の包み――マダムへのお土産――を提げていたことくらいだろうか。




*題名は、根岸歌劇団で大正9年(1920年)12月に上演された「アパッシュ」から。

*当時、女学生が、在学中に嫁入りし、学校を中退するのは珍しくなかった。女性には学問は要らぬという風潮が未だ根強かった時代の、一景色である。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る