第4章 ビジョン・オブ・ヘレネ

  ここはマーガレット様のサロン

  高貴な方々を楽しませます

  歌に踊りに面白いお話

  さあ、おいでませ、おいでませ


 お揃いのダンスを着けたマリノとメリノが歌い終えると、羽根の衣装を着けた彦也が入れ代わるように登場。彼考案のピーコック・ダンスを披露する。常連客の拍手につられて、他の客達も手を叩く。その間に、洋装の紳士淑女が後方に居並ぶ。その中でひときわ派手なドレスを着けた美人が前に進み出た。


「あれがヘレネかい」「違いますよ、あれはルミラという別の女優ですよ」客席の片隅で、新参者と常連が小声で交わす。……舞台ではドレスの美人――ルミラ演じるマーガレット――が微笑みながら一同の拍手を制する。


「皆様、お楽しみいただけておりますようで、何よりでございます。しかしもっと皆様をお驚かせする方を呼んでおりますのよ」

「まあ、きっと斯界の新星と謳われる歌姫、ニナ様でございましょう」「ニナの歌をこんなに近くで聴けるとは実に贅沢ですなあ」


 サロンの客達が口々に褒めそやす。女主人マーガレットは彼らをじらすように眺め回した後、声を張り上げる。


「ええ、確かにお呼びしているのは歌姫ニナでございます。彼女は今もあなた方の噂をすぐ近くで耳にしておりますのよ、ホホホ……さあ、どうぞあの幕にご注目なさいませ!」


 楽隊のファンファーレ風の演奏。舞台上の人々、そして場内の観客の期待に満ちた目が一斉にそちらを向く。これから現れる女優こそ、件のヘレネに違いない。誰もがそれを疑わなかった。


 舞台中央に、小さな赤いビロードの幕。それがふいに、さっと左右に開いた。固唾を呑んで見守っていた観客は、その瞬間、驚きにハッと息を呑んだり、オオと歓声を上げたりした。幕の奥から優雅に進み出る白皙の美女こそ、看板に偽りなし、まさしく「ヘレネ」の名に相応しき姿ではあるまいか。


  愛し御方は遠き国

  我は祈らん幸あれと……


 ファンファーレは柔らかなワルツへと形を変える。ヘレネ演じる歌姫ニナの声を乗せて、場内を包み込む。彼女の声は小鈴を転がすように清らかなソプラノ。誰も彼も耳を澄まして、この乙女の歌にじっと聴き入るばかり。


  ふたつの身体は離れしが

  心は常にひとつとや

  愛し御方の御言葉を

  胸に刻みて我歌う……


『ニナの唄』が終わると、瞬時の沈黙の後、割れんばかりの拍手と歓声が巻き起こった。「ヘレネー!」「ブラヴォー、ヘレネ!」「万歳、ヘレネ!」それらは、彼女が客席に向かってお辞儀をした時に最高潮に達した。マーガレット役のルミラも敢えて制さないので、この拍手やら歓声は暫くの間続いた。


 物語は、ヘレネ演ずる歌姫ニナ、社交界の花形マーガレットと情人アレンの三人を中心に進む。実はニナとアレンは陰で繋がっており、折を見てマーガレットから金目の物を奪い出す計画を立てていた。そのためにアレンはマーガレットの情人を装い、ニナは珍しい客人として邸に留め置かれる必要があったのだ。


 しかし、数週間が経過し、宝石類を盗み出す手筈を整えていざ実行に移さんという時……アレンが難色を示す。ニナはそれを、標的のマーガレットに同情しているからだと疑う。同様に、マーガレットの方も、ニナとアレンの仲が怪しいと睨んでいた。3人の思惑が渦巻いて、とうとうぶつかり合う夜が来た。――アレンを柱の影に潜ませ、宝石箱を懐にしまおうとしたニナ。そこに、運悪く現れたのが女主人マーガレット。彼女は、かつて世紀の歌姫と褒めそやした相手に怒りをぶちまける。特に、情人アレンとの関係を厳しくなじった。対するニナは、宝石箱を抱えたままじっと俯いている。きっと結んだ紅唇に、万感の悔しさを込めて。


 観客がじっと視線を注ぐ中、アレン役の他磨己が柱の影から「待てッ」と躍り出た。


「アレン!」「まあアレン、今までどこにいらしたの」

「ずっと2人のやり取りを聞いていたのさ」

「ではアレン、私とこの女のどちらが正しくてどちらが悪いか、よく判るわねえ」


 マーガレットが蛇のように粘っこい視線をニナに向けた時。この屈辱――愛する男の前で悪し様に罵られた悔しさ――に耐えかねたニナは、踵を返して逃げ出そうとした。が、「ニナ!」の呼び声とともにがっしりと、その腕をアレンに捕えられてしまう……。


「放してちょうだい、アレン! あなたはマーガレット様がお好きなのでしょう。私潔く身を引きますわ」

「行ってはいけない、ニナ。俺はレディ・マーガレットのことなど少しも好いちゃいない……」


 ニナとして台詞のやり取りを耳にしながら、またヘレネとして観客の視線を感じながら、頭の片隅では女鳥としての思考が警告を発していた。もうすぐ鬼門の場面だ! と。


「何ですって、まさか、アレン」

「本当さ。ここでお前さんの金目の物を手に入れてから2人で逃げる手立てになっていた。……」


 台本ではこの後、ニナはアレンの告白を受けて、足を洗い愛に生きる決意をする。この時のニナに多くの台詞はなく、表情や仕草でそれを伝えなければならない。今日の明け方まで重松がだめ出しをした場面こそ、即ちここであった。それ以外は女鳥も割合伸び伸びとやれたのだが、この最後の見せ場がもうすぐだと思うと、我知らず身体が強張ってくるようだった。役の仮面が見えざる手に剥ぎ取られていく感覚……エイもうどうにでもなれと女鳥が目を閉じた時。いきなり腕を引っ張られたと思うや、次の瞬間には女鳥は兄の胸に抱き寄せられていた。


「ああ、愛しいニナ! もう盗みは止めよう。そして、2人きりで楽しく過ごそうじゃあないか」


 頭上から降るのは、兄の演じるアレンの台詞。台本に書いてある言葉に違いないが、こうして温かな腕の中に抱かれて聞くと、現実と虚構の境など曖昧になる。懐かしさ、愛おしさがこの胸に湧き上がって……これが女鳥としての感情か、はたまたヘレネかニナの感情か、彼女には判別できなかった。だが、そんなこと、どうでもよいではないか。


「ええ、あなたと2人で!」


 彼女の喜びに満ちた叫び。情愛に滲んだ瞳の煌めき。「ブラヴォー、ヘレネー!」「万歳!」幕が閉じ切る前に早くも拍手と歓声が鳴り渡る。始めから終わりまで、この新星ヘレネが舞台を引っ張り、人々を魅し去ったと観客は信じ切っている。実際はそうではなかったと知っているのは、本人と、相手役の他磨己だけであっただろう。


 カーテンコールで出演者一同が並び直す時。女鳥は他磨己にこっそり囁いた。


「兄様、さっきはありがとう。私の表情が見えづらくなるように、わざと抱き締めたのでしょう」


 彼は照れたのか、「いや……」と口籠もったきり答えてくれなかった。紅い頬は先までの熱演のためか、それとも……。女鳥にはそんな兄がこの上なく頼もしく慕わしかった。再び幕が開く時彼女は、今度は自分から、彼の手を取って前に進み出た。隣に兄がいれば、彼女は何倍にも強く、大きくなれるのだった。




「素晴らしかったなあ、あのヘレネ嬢は……」客席でも、劇場の外でも、更にはその周辺の通りのあちこちでも、暫くは「ヘレネ」の名が連呼され続けた。知らぬ人が聞いたら浅草の新名物だとでも考えただろう。実際、そうなりつつあるといってよかった。


 また、常連や熱心な客は楽屋口にまで押しかけてきて、彼女に一目会いたいと踏ん張った。


「だめですよ。ヘレネは誰にも会わないんです、そういう約束なんですから――」


 屈強な連中が頑張って押し返し、新参の客はここで脱落、諦めて帰っていく。しかしながら、いつも我が物顔で楽屋を訪れる常連客は「いいだろ、俺はヘレネ嬢だけじゃなくて他磨己さんやルミラ嬢にも挨拶しなきゃならないんでネ‥‥‥」と、あっさり網を潜り抜けてしまう有様。


「やーあルミラさん、ご無沙汰、ご無沙汰」

「あら、来ましたのね。ご無沙汰って、この間も来たばかりじゃございませんの」

「や、こりゃ一本取られたな。ところで、件のヘレネ嬢は今どちらにおいでです」

「ここにはいませんよ。まあ、いたって会わせやしませんけれど」

「ハハハ……」


 楽屋に詰めかけた常連客――大半は若い男性ファン――は贔屓の役者に会うふりをして、その実かのヘレネの姿を目で探している。鏡台の前で平然と受け流しているルミラも、内心気が気でない。「ここにはいませんよ」と言ったものの、ヘレネこと女鳥はすぐそこの衝立の向こうにいるのだから。


「ほら、皆さんもうお帰りになって下さいよ。私だっていつまでも浴衣1枚の格好じゃいられないんですからね」

「ちぇっ、とうとうヘレネ嬢の麗姿は拝めずか。だが俺達もジェントルメンだ。ここは潔く辞して、レディースの機嫌を損ねないようにしようじゃないか」

「そうだな。じゃ、皆さん失敬」「皆さんとヘレネ嬢にどうぞよろしくと」「さようなら」

「どうも、ありがとうございました。さようなら、皆様方。――ああ、やれやれ。女鳥ちゃん、もう出て来て大丈夫よ」

「……ハア」


 衝立の影から、恐る恐る首を突き出した女鳥は、既に昨日の振袖と袴の姿に戻っていた。


 ――客席では、今の今までくっちゃべっていた連中が漸く外に出て行こうとするところであった。その連中こそ、何を隠そう女鳥の同級生たる染子らのグループである。


「ヘレネって確かに綺麗かもしれないけど、たいしたことはなかったわねえ」


 染子が同意を求めるように振り向く。他の者達、一同見惚れていたくせに、女王様の手前「ええそうねえ」「私も同じよ」と頻りにうなずいてみせてホホホホと笑いこける。彼女らの足は度々立ち止まって、中々前に進まない。口だけがいつまでも威勢よく動き続けている。


「そうねえ、あの白塗りの化粧では、どんなズベ公だって美女になるわよ」

「歌も売り物だったわねえ。どう思って」

「まあまあよかったけれど。でも、所詮浅草の中では、と断り書きが必要じゃなくって」

「ホホホ……」


 彼女らは、同級生石川女鳥の名を思い出しはしなかった。彼女らはあくまで、女優ヘレネを嗤っているのであって、女鳥のことを嗤っているのではない。……が、幕の間から立ち聞きしていた他磨己はこの不躾な噂話の一つ一つに憤怒を掻き立てられた。小さな針で突かれるように身体中が苛々と落ち着かない。


「抑えて、たま様、抑えて……」


 彦也の諫めも空しく、他磨己は無言で幕の外に消えた。やがて、「おい、いい加減にしたまえよ!」という怒鳴り声が劇場中に響き渡った。


 出入口を占拠していたお喋り雀達、ぎくりとして振り返る。客席からこちらを物凄く睨みつける鋭い眼。さしもの彼女らも呆気なく逃げ出した。……とはいえ、一歩劇場の外に出れば再び見栄と反抗の塊となる彼女らである。


「なアによ! 本当のこと言っていただけじゃないの」

「怒るだけ損だわ。所詮、浅草ですもの。私達のような最先端の少女とは相容れないのよ」

「本当よ。ちょっと歩くけれど、上野の方まで行きましょうよ」

「ええ、ええ」


 ――小雀連中が去っていくのを見届けてから、他磨己は客席から舞台の方を振り返った。分厚い幕の合間から、心配そうな彦也の顔が覗いている。


「うるさいのは追っ払ったよ。もういつでも外に出て行けるぞ」

「はい。――皆も呼んできましょう」


 少しすると、芸華会の面々がばらばらと舞台の下に集まってくる。一番の功労者たる女鳥は、ルミラと連れ立ってやって来た。重松が一歩進み出て声を張り上げる。


「よし、これから『華』に移動するぞ。今日は初日の成功祝いだ、大いに食って飲んでくれ」


 歓声を上げる一同。踊るような足取りで客席の間を進んでいく者もいる。


 遠慮がちにたゆたう女鳥も、兄とルミラに促されてその後に続いた。――劇場の外はもう西日に包まれて、黄金の色に輝いている。今更のように女鳥は、この劇場で過ごした時間の長さを、そして経験したことの重大さを思い知ったのだった。




 喫茶「華」では、芸華会の初日は店を早々と閉めて、祝宴の準備をするのが慣わしとなっている。この日もまたそうであった。芸華会の面々が繰り出す頃には、机が中央にまとめて並べられ、レースのクロスが敷かれていた。


「やあ、ありがとうマダム」

「あなた達こそ、お疲れ様。大評判取ったって聞いたわよ。さあ座って、座って……」


 めいめいが着席するとすかさず、硝子の杯が並べられる。女鳥の前に置かれたのはソーダ水。左右に陣取るルミラと他磨己の前には、洋酒が置かれた。兄がもう酒を飲む年頃になったのかと、女鳥は何だか妙な気がした。


 重松の音頭取りで乾杯をした後は、皆大いに楽しんだ。マダム手製の洋食が次々と運ばれてきた。それらは空腹の若者達によって、片端から平らげられていった。店内には明るい、笑い声や歌声が満ちて……。


 普段大人しい女鳥でさえも、兄やルミラを始めとする人々の朗らかさに釣り込まれて、我知らず笑みを浮かべているのだった。昨日の稽古中の休憩時間もそうであったが、この温かな空間では自分の感情を隠さなくてもよいのだと思えた。


「おいルミラ、昨日も言ったがあんまり俺の妹を独り占めするなよな」

「何さ、兄貴ぶって。女の子はいつまでも籠の鳥じゃないんですようだ」


 火花を散らす2人。すかさずマリノとメリノが「逢いたさ見たさに恐さを忘れ……」と歌って冷やかしたので、当人以外げらげら笑い出した。遂には間に挟まれた女鳥まで笑うので、こうなると他磨己もルミラも矛を収めるしかない。


 ――楽しい時は過ぎ去り、もうデザートのアイスクリームが運ばれる頃となった。


 食べ終えた女鳥は匙を置き、振袖の袂から手巾を取り出す。その時、ひらりと舞い落ちたものがあった。


「女鳥ちゃん、何か落ちてよ……」


 目ざとく見つけて、拾い上げたのはルミラ。途端にその顔が険しくなる。


「ねえ女鳥ちゃん、これどこで貰ったの」

「あら、これ? 昨日よ。栄介さん達と待ち合わせの場所に行く途中で、呼び止められたの。母様の所属している婦人会の、会長さんだったから、無碍にもできなくて」

「ふうん」


 彼女はその名刺を暫しじっと眺めていたが、やがて視線を上げた。


「みんな、要注意よ。女鳥ちゃんにも魔の手が迫っているわ。これをご覧」


 長い指の間に挟んで、一同に示す。その小さな紙片の文字を読まずとも、今まで幾度となく目にしてきた彼らには、その意味するものがわかりすぎるほどわかる。


「何だと、村野女史め! もう我らがお姫さんに目をつけていやがる」

「もうこれ以上ルリ・キネに引き抜かれちゃやってられねえよ」


 今までの和やかな雰囲気が一変、大紛糾する芸華会の面々。わけのわからぬ女鳥一人だけが、目をきょときょとさせて……。


「いきなりこんなことになって、女鳥ちゃん吃驚したでしょう。あのね、こういうわけなのよ。――」


 気を利かせたルミラが、仔細を語ってくれた。曰く……瑠璃鳥キネマ社、通称ルリ・キネの村野黎子女史は、自分がこれぞと思う舞台人を口説いて己が会社に入れるのに大層熱心であった。その主な活動場所は、社屋から程近い浅草の界隈。芸術第一を旨とするルリ・キネのトップだけあって、才能を見抜く目は確実。そのために何人もの有望な若者が浅草から奪われていった。「本物の芸術家集団」を志向する芸華会も例に漏れず、何度も人気スターや裏方に去られては苦労を重ねている。


「芸華会を立ち上げてから何年かになるけれど、主要な役者でずっと残っているのは私、他磨己、彦也、マリノとメリノくらい。みんな少なからず、女鳥ちゃんのように村野女史に誘われているのよ」

「それでも芸華会に留まっているのは、ここが居心地よいから?」

「ええ、そうよ。ここに勝る居場所はないと思っているわ」


 ルミラは目を細めて微笑した。女鳥は何となく、昨日の勧誘を断ったのは正解だったのだと、思うようになった。


 周囲の喧騒は、いくらか鎮まってきていた。その中で、他磨己のみは相変わらず気を吐いている。


「やっと芸華会の華にした妹を、そうやすやすと活動なんかに奪われてたまるか。俺は今度こそは手放さないぞ、どんなことがあっても……」


 怒気を含んだ声は、いやでも隣に座る女鳥の耳にも入る。


(「今度こそは」ってことは、その前に何人も映画界に転身した人がいるということね。その中には、兄様の相手役だった人も当然含まれるでしょうね)


 そう心の中で独り言ちてみる。薄々感じていた疑念が、彼女の胸に黒雲のように拡がっていく。


 自分は結局のところ、以前の兄の相手役の、後任でしかない。それ以上の意味など持っていない。……そうではないか?


「さあ、そろそろお開きにしよう。家が遠い奴は気をつけて帰れよ。それ以外の奴は例によって、片付けといくぞ」

「片付け手伝ってくれるの、いつもありがとうねえ」「いいんだよ、マダム、料理のお礼だ」「俺らは失礼します、さいならー」「さよならー」「また明日―」


 宴は終わった。女鳥は栄介達三人組とともに帰途に就いた。


「さようなら皆さん。今日はどうもありがとうございました」

「そりゃこっちの台詞だ」「じゃあ、また!」


 見送る側は誰も、彼女の内なる思いに気づかぬままであった。兄の他磨己でさえ全くいぶかしまずに、笑って送り出した。




 星の瞬く夜空の下、駅からの帰り道を4つの人影が行く。女鳥を中に、栄介、昇、文夫の3人組が護衛して歩く。


 表面上は明朗を装っている女鳥だったが、その実、宴の最中に浮かんだ疑念がずっと気にかかって仕方なかった。自分が来るまで、兄はどんな人を相手役にしていたのだろうか、と。ルミラは自ら悪役専門と言っていたし、マリノやメリノは歌い手に徹しているし、その他の女優達も皆脇役とのことだったし……。やはりどのように考えても、兄の相手役は既に芸華会を去っているに相違ない。恐らくは、宴で紛糾したように、ルリ・キネに引き抜かれて……。


「どうかしたの、女鳥さん」


 ふと、文夫の控え目な声がして、女鳥は我に返った。考え込むあまり、ここに3人のお伴がいることすら忘れかけていたのだ。


「何か、悩み事か」


 長身の昇が背を屈めて覗き込む。少しばかり先を歩いていた栄介も立ち止まって、こちらをじっと見つめる。――女鳥は咄嗟に笑顔を繕おうとして、とどまった。幼馴染みの彼らにまで自分を偽ることに、何か違和感をもったのである。それは、自分の本心を隠すことに慣れすぎた彼女には、初めての感覚であった……。


「ええ、悩みというほどでもないのだけど。ちょっと聞きたいことがあるの」

「何だい」

「どんな方だったの、私の前に兄様の相手役だった方は?」


 女鳥の言葉つきは淡々としている。3人はどう言ったものかと、目を見交わし合う。


「ねえ栄介さん。私は、芸華会からルリ・キネに移った方の埋め合わせなのじゃなくて」

「埋め合わせって言うと語弊があるが……うーん、女鳥ちゃんには敵わないなあ」


 名指しで問われた栄介、頭をがりがり掻いていたが、やがて観念したように話し始めた。


「確かに、君の言う通り、君の前に他磨己さんの相手役だった女優は存在するよ。丹羽モミヂさんっていうんだけど……」


 重松や他磨己らとともに芸華会を創立した、聡明な若き女性。彼女こそ、丹羽モミヂの名で劇場を沸かせた美人女優である。なんでも、女学校時代は発表会でも学芸会でも、いつも主役を張って大成功を収めていたというので、親類の重松が自ら頼み込んで引き入れたとか。それだけに、うら若い娘ながら芸華会でも一目置かれていた。


「中々頭の切れる人だったね。言うことも奮っていたし」

「あの重松さんや他磨己さんに啖呵を切れるのは、モミヂさんとルミラさんくらいだな」

「そう。随分、自信家なのね」


 女鳥は感情を込めまいとしても、声が震えてくるのを如何ともしがたかった。思えばこのところずっと、人の言うままに動き、本意でなくてもじっと耐えてきた彼女ではなかったか。世間ではそれを美徳というが、彼女はそうは考えていない。曲がりなりにも表現者となった今では、尚更のこと。


 丹羽モミヂという会ったこともない女性が、女鳥にはこの上なく羨ましかった。ああ、自分も彼女のように堂々と生きてみたい! そのように生きる勇気が欲しい……。嫉妬にも似た気持ちが胸をざわつかせる。彼女が元々兄の相手役だからなのか、才能ある女性だからなのか、きっとその両方に対する気持ちだろうと女鳥は思った。


「とても綺麗な方だったでしょう、丹羽さんって」

「そりゃ、ね」

「でも天下のヘレネには及ばねえよ」


 昇が元気づけるように言ってくれたので、女鳥も「ええ、そんなことないでしょう。でもありがとう」と笑いかけた。が実際はちっとも満足してはいなかった。どうしたら、女鳥のヘレネは、丹羽モミヂ嬢を超えられるのか、とそればかりが気にかかる。しかしながらそれを、他人――今であれば栄介達3人組――に悟られるのは何か悔しかったので、彼女は元気になったふりを続けた。


 幸い、文夫が話題を変えてくれた。


「そういえば、女鳥ちゃん。今日の報酬、受け取らなくてよかったの」

「ええ、お金のために舞台に立ったんじゃないもの。それにあれだけのお金を家に持って帰ったら、怪しまれるのが当然だわ」

「そりゃそうだけど、俺だったら惜しむなあ」

「意地汚いこと言うなよ、昇。折角の女鳥ちゃんの善行が汚されるぜ」

「ハハハ……」


 報酬とは、今日の芸華会公演でヘレネこと女鳥が得た出演料である。新入りとはいえ主役なのだからと、兄の他磨己とほぼ同額の金が支払われることになった。しかし女鳥は――仲間達の勧めるのにも関わらず――どうしても受け取ることを拒んだ。素性を隠して舞台に立つだけでも冒険だったのに、そのうえ金まで貰うのは許されないと思ったのだ。誰に?……誰でもない。強いて言えば、「少女の誇り」に。


 少女の魂は、世間と隔絶された薄桃色のとばりのなかで呼吸している。その甘美な清い世界に、金の存在は似つかわしくない。少女特有の純粋さを汚さぬため、世間を象徴する金とは距離を置くべきだ。……少なくとも女鳥という名の少女はこう考えていた。


 この潔癖さは、一部の女優達を除いて、殆どの仲間には理解されなかった。が、それはそれとして、願い自体は聞き届けられた。女鳥が得るべき報酬は、彼女自身の発案でとある場所に寄付されることになったのである。


「……で、そこには誰が持っていくの。君?」

「まさか、私じゃないわ。ルミラさんよ。明日の朝、行って下さるって」


 女鳥達の言う、「ある場所」とは、さてどこであろう。




 浅草の繁華街から少し隔たった土地に、ぽつりと建っている木造の平屋。そこからは頻りに子供達の声が響いてくるので、おやこんな所に小学校が、と首をかしげる人も時々いる。そして、門にかけられた木札を見に行って、ナールホド……所謂、孤児院と呼ばれる場所であったのだ。


「先生行ってきまーす」「行ってきまーす」朝の8時ともなると、数多の子供達が風呂敷を担いで門を走り抜けていく。これが小学校に向かう組で、院に住まう子供の中では最も多い。もう少し年上の組は、半時間ほど前に高等小学校に行っている。更に年上になると自ら働きに出るか、院の先生達の手伝いをして過ごすか、或いは歓楽の巷を遊び歩くかのどれかである。


 大半の子供を学校に送り出すと、平屋建ての院は大分静かになった。院長の行田は腰を伸ばしてうーんと唸る。体重のかかり方が関係しているのか、頻りに床がみしみし音を立てる。


「この建物もいい加減古くなったわねえ」

「ああ、今の音ですか? 僕、てっきり先生の腰の骨が悲鳴を上げたんだと思いました。アハハ」

「冗談仰い。……でも、子供達が走り回っている時は気付かなかったけれど、廊下も大分傷んでいることでしょうねえ」

「確かにそうですね。そろそろ補強した方が、とは思うのですが……」


 居合わせた敏之少年――今日は仕事が休み――と院長とは、どちらからともなく溜め息を吐く。上流階級のご婦人連の寄付やら何やらがあってどうにか生計を立てている院のこと。慢性的な資金不足に悩まされて久しい。加えて、食べ盛りの子供は増える一方で、切り詰めても、切り詰めても金は流れ出ていく一方なのだ。


 最初の冗談めかした言い方も、つまりは不安の現れであった。


「僕、せめてケンちゃんやシュウ坊が不良の仲間と付き合うのをやめて、無駄遣いをやめるようになればと思いますよ。たとえほんの少ししか事態が改善しないとしても……。こうして懸命に働いている先生や他の子供達のことを考えると、僕はあいつらが憎たらしくてしょうがないんです」


 敏之は、円らな黒い瞳に義憤の炎を燃やしていた。人一倍正義感の強い彼は、働ける身体を持っていながら怠けて遊び暮らしている仲間のことが、どうしても許せないのだった。まして、自分で稼いだ金でなく、院からの小遣いを当てにして、足りなければせびってせしめるような奴ら……ああ、その金があれば年下の子供達の腹を少しは満たせようし、床や壁を補強する板切れ一枚くらいは買えるであろうものを……と、彼は唇を噛みしめた。


 が、彼はまた、自分の怒りで先生を苦しめてはいけないと考える、心優しい少年でもあった。彼は努めて、元のような笑顔を作ろうとした。それで、気分を変えるためにふと窓の向こうを見やると。……


「……先生、お客様がいらしたみたいですよ」

「こんな朝方に?」

「ええ、ほら、あのご門の所に」


 2人がいる食堂兼集会所の窓からは、黒い木の門がよく見える。今しもそこを、黒い着物を着た婦人が潜ってくるところである。


「僕、ご用を聞いてきます」


 敏之が真先に玄関に駆けていった。行田はそれを頼もしい思いで眺めた後、自らもゆっくりとした足取りで後に続いたのだった。


 玄関に現れた婦人は、にこやかで、美しいには違いなかったが、何か人を寄せつけないものを多分に持っていた。普段人見知りをしない敏之でさえ、どう言葉をかけようか迷ったほどだ。――藤の花を描いた黒い着物。分厚い金の帯。それを軽く抑える左手に、小さな青い石を嵌めた、菊爪の指輪が光る。――それをまじまじと見ていたら、クスクスと笑う声が敏之の耳についた。我に返って顔を上げると、あら不思議……婦人の左右に、揃いの格好をした愛らしい2人の少女が笑みを浮かべて立っている。これには、敏之も行田も頬を綻ばせる。


「まあ、何にも伺わないでただじろじろと……失礼いたしましたわ」

「いいえ、私もこんな早くに参りまして相済みません。わけあってこの時間帯しか来られませんの」


 婦人はすぐ帰るからと言って、奥に上がることを辞退した。そして、自分がここに来たのは、「ある方」からの贈物を届けるためであると、微笑とともに告げた。


「その方の名前や所書きは明かせません。明かしてはならぬと固く厳命されておりますので」


 言いながら、帯の間から封筒を引き抜き出す婦人。中身を見ないでもそれが何であるかは、行田にも、敏之にもわかる。最も必要とするものが目の前に出された時の戸惑いから、2人は客人の前だというのに、互いの顔を見合っていた。そんな彼らの気持ちを現実に引き戻したのは、またも2人の少女の声。


「坊ちゃま、おばさま、いつまでお見合いなさっているの」


 綺麗に重なった2つの声に、今度は婦人も一緒に吹き出した。行田が朗らかに笑いながら、


「ホホホホ……お見合いはようございましたね。けれどこのお金は、見も知らぬ方から頂くのはきまりが悪うございます」


 と丁重に押し戻そうとする。形だけの遠慮でなく、心から申し訳ないと思っているらしいのが、客人達にも伝わった。それゆえに彼女達は、決してその封筒を元のように帯の間に収めることはしなかった。


「受け取って下さらなくては、こちらこそ困ってしまいます。これを私に預けた方は、決して怪しい者ではございません。もっといえば、その方は銀嶺会――こちらと深い関わりのある婦人会――の関係者でございます。別の慈善事業で予想外に利益が出ましたので、その余剰分を可愛い子供達のために役立ててほしい、と、こうお考えなのです」

「まあ……」

「ね、その方の気持ちを汲んで、どうぞお受け取り下さいまし」


 婦人は、呆然としている行田の手にさりげなく封筒を握らせて、「では、また」とにこやかに立ち去っていった。2人の少女もぴょこんと頭を下げて、その後に続いた。


 ……狐につままれたように暫しその場に佇んでいた行田は、今更のように自分がかの人の贈物を胸に抱いていたことに気がついた。返そうと身を乗り出しかけたが、とうに客人は帰ってしまっている。


「先生、お言葉に甘えて、受け取るべきじゃありませんか。贈り主の方も、それをお望みになって、あのおばさまに託されたんでしょう」

「ええ……そうね。天からの有難い贈物と思って、大事に頂戴しましょうね」


 恭しくおし頂いて、行田はいそいそとそれを事務室の金庫に保管した。――その後ろ姿を見ながら、敏之は嬉しさと感謝とともに、一抹の寂しさも感ぜずにはいられなかった。


 不良とつるんでばかりいるケンやシュウに、こんな善い行いをする方があるのだと伝えたら、彼らは改心するであろうか?……それとも、降って湧いた金だといって、これ幸いと使い込むだろうか。


 ――孤児院の門を遠く離れて、黒い着物の婦人はうーんと両腕を前に伸ばした。


「ああ、草臥れた。あの先生ったら、中々貰ってくれないんだもの」

「けれどああした謙虚な先生のもとでなら」「みんないい子に育つでしょうねえ、ルミラさん」

「確かにね」


 皆様のご想像の通り、婦人と2人の少女とは即ち、ルミラとマリノ、メリノのことである。そして、彼女らに金の入った封筒を預けた「ある方」こそ、石川女鳥。


 芸華会の舞台出演で得た報酬を、女鳥はかの孤児院に寄付したいと、ルミラにそう打ち明けた。わけを聞くと、


「ええ、母様のいる銀嶺会という婦人会があるのだけど――村野女史が会長だから、ご存知かもしれないわね――、そこで経営を助けているのがその孤児院なの。でも、最近は窮乏していて、子供達の衣食や何かを満足に整えてやれないのですって。元々、あちこちからの寄付で成り立っていたようなものだから……。せめて、このお金が何かの役に立てば、と思うのよ」


 そう言って、封筒の中身も左程見ずに、ルミラの手に握らせたのだった。丁度、先程のルミラが行田にしたように。


「本当に立派な行いだわ」「女鳥さんって、本当に女神の生まれ変わりかもしれないわね。あんなに綺麗なんですもの」


 マリノとメリノの2人は道々そう語らいながら、時折感嘆の溜め息を漏らしていたが、やがてルミラの口数がやけに少ないのに気づいた。たまにうなずいて微笑を浮かべはするものの、自分からはあまり話そうとしないのだ。いつもはきはきとした口調で、話の輪に入り込んでくる彼女だのに、珍しい。


 2人が不思議そうな面持ちで見上げてくるので、ルミラも説明せずにはいられなかった。


「私も本当は、あんた達みたいに女鳥ちゃんを褒め称えたいのよ。でも、女鳥ちゃん自身がそれを望んでいないから、我慢しているの」

「まあ、なぜ?」「よいことをして、褒められたくないなんて。ああ、わかったわ、照れくさいのね」

「それもあるでしょうね。けれど一番には、その心持ちから来ているらしいの。秘密裡に受け取った、いわばやましいところのあるお金を、厄介払いするために孤児院に持ち込んだ、と。……随分な言い様でしょう? でもそうした女の子らしい潔癖さを、私は責める気も諭す気もない。寧ろ、世間に惑わされない強さの裏返しのように思うわ」


 自分達の同じように受け取っている報酬を「やましい」と捉えられているのは、2人も流石にあまりよい気はしなかったが、ルミラの言葉には素直にうなずいたのであった。潔癖というのは確かに女鳥の印象にしっくりと来たし、その頑なさが却っていじらしくすら感じられた。


「ルミラさんの言う通りだわ。少なくとも行為自体は素晴らしいものなのだから、あとは女鳥さんが、本心から喜びをもってお金を頂ける日が来るといいわね」

「そのためには、自信が、自分への誇りが生まれなくてはだめよ、メリノ」


 マリノの発言に、ルミラはふと光明を見出した心地がした。そうだ! 女鳥も、今後舞台の経験を重ねるうちに、確固たる自信をつけていくであろう。そしてマリノ達の言うように、心底から自分の行いに誇りを抱くようになれば、妙な後ろめたさも感じずに済むはずである。


 そんな日が訪れるのも、そう遠くない……。


 ――マリノとメリノがふとルミラを見上げると、彼女の顔は朝の太陽に照らされて、元のように明るく輝いていた。劇場に帰る頃には、またあのからりとしたお喋りで皆を笑わすのに相違ない。




*題名は、第2次日本バンドマン一座で大正7年(1918年)3月に上演された「ビジョン・オブ・サロメ」から。

*浅草オペラでは、『アイーダ』や『蝶々夫人』といった既存の有名作品のほか、数多のオリジナル作品が上演された。中でも有名なのは『女軍出征』や『カフェーの夜』だろう。

 また、物語はオリジナルでも、音楽が既存の曲だったというケースも多かった。前述の『女軍出征』では「チッペラリーの歌」(原曲:It's a Long Way to Tipperary)「ダブリンベー」(原曲:I'm On My Way to Dublin Bay)が歌われている。『カフェーの夜』も既存曲を多く使用しているとのこと。著作権が確立していない時代ならではの現象である。

*大正時代、舞台人の化粧は白塗りが一般的だった。当時の写真を見ても、みんなコテコテに厚化粧している。

 ちなみに映画界はどうだったかというと、当時の出演者によれば普通より黒く塗っていたそうである。とはいえ、現代人の目で見ると、照明の関係か、かなり白く感じる。

 以下、『女優事始め』(平凡社、1986年)から引用する。(岡田…岡田嘉子、栗島…栗島すみ子、夏川…夏川静枝)


岡田●(前略)映画のときには、普通よりも黒くしなきゃいけないっていうんでね、ドーランなんかでも黒い……

栗島●(中略)肌色ね。だからみんな茶カルメンが歩いてるみたいな感じよ。顔が黄色くて、みんな変な顔してた。(笑)

(中略)

夏川●あたしたちの映画のときは、白黒ばかりでしたから、反対に茶色を少し濃い目にしないと、フィルムに撮ったときに、めりはりがはっきりしないのよね。はじめそれがわからなくってね、舞台で白いのに、映画に行くと黒くしなければならないのがね。(笑)


*「菊爪の指輪」とは、宝石を支える爪が菊の形になっている指輪のこと。菊のほか、梅、桜なども存在する。いずれも、現代ではお目にかかれないデザインだろうと思う。

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