第3章 芸華会の姫君
「女鳥ちゃん、姉貴に電話かけてきたよ。お宅には姉貴に連絡入れてもらえるから、今夜は心配しないで稽古に専念できるぜ」
「でかした、栄介。女鳥、今夜はここで夜明かしといこう」
栄介と兄、その他の人々の満面の笑み。女鳥は苦笑いで受け入れるしかなかった。
芸華会の公演は明日の昼。それまでのせいぜい20時間足らずの間に、台詞、歌、仕草、踊りの振付を頭に入れなければならない女鳥の忙しさといったらない。女学校で習う唱歌やダンスや、学芸会の経験は、半分も役に立たない気がする。
重松――客席で怒鳴り散らしていた、芸華会の長――が書き下ろした新作歌劇『乙女の望み』。貧しい青年アレンと少女ニナが金持ちの娘マーガレットに取り入り、金を巻き上げようと画策するが……というのが粗筋。一座のスターたる石川他磨己がアレンを、一座きってのヴァンプ女優ルミラ(勿論芸名だ)がマーガレットを演じるのは既に決まっていた。ニナ役だけが、他磨己の我儘、もとい芸術的欲求によって未定であったのだが、本日目出度く新人、石川女鳥に与えられた。
「他の方がいらっしゃるのに、初めて入ってきた私なんかがニナをやってもいいのでしょうか」
学校で散々妬みの対象になったせいか、女鳥は他の劇団員の心情を確かめないと不安になる。
「何を言っているの、私達あなたが来なきゃ舞台に立つことすらできなかったのよ。とても感謝しているわ、ねえみんな」
「ええそうよ」「今から功労賞をあげてもいいくらいよね、アッハッハ」
マーガレット役のルミラをはじめ、貴婦人やおかみさん役の娘達は揃ってからから笑う。彼女達はこの新入りの少女を早くも仲間同然に考えて、大層優しくしてくれる。殊にルミラの可愛がりようは、兄の他磨己が色を失うほどだった。
「おいルミラ、俺の妹をあんまり独り占めしてくれるなよ」
「妬けるの? アッハハハ、そりゃ難しい願い事さ。私はこの子が可愛くて、可愛くて、たまらないの。いっそ私の妹にしちゃおうかしら」
「しちゃえば、おルミ。ほらほら、段々顔つきも似てきたんじゃない。ホホホ」
「冗談じゃねえ、ルミラの妹になんかさせられるか……」
ささやかな夕餉の時間。出前で調達した蕎麦やうどんやちらし鮨を手に、仲良し同士が舞台上で車座になって談笑し合う。女鳥はといえば、兄の他磨己とルミラの間に挟まれて、誰彼の発言に相槌を打ちつつ蕎麦を啜っている。ひとつひとつ正確にしつらえられた我が家の夕食の膳とは天地の差があるが、今の方がどんなに美味しく感じられるか知れない。
これこそ、自分が心底から望んできたものではなかったか、と女鳥は眩しそうに辺りを見回してみる。ここにいる誰も、自分を敵視もしなければ崇拝もしない。珍奇な風物のようにじろじろと見ることもない。かといって、空気同然に素っ気なくあしらうこともない。血の通った敬意と親愛の情を、当たり前のように示してくれる「芸華会」。いつも頑なな女鳥も、彼らの間では素直に笑いこけ、自由に意見し、芸術の名のもと自分を表現することが許される。これほどの居心地のよさを、彼女は今まで感じたことがなかった。
「今晩はア、皆さん」「お稽古再会したって聞いて、飛んできましたわ」
「マリノ、メリノ。『華』の仕事は終わったのかい」
「ええ、ついさっき。この後マダムも来ますわ。……あら女鳥さん。すっかり芸華会に馴染んじゃって」
笑いながら近づいてきた2人組を見て、女鳥の頬も自然と綻ぶ。例の喫茶店「華」で給仕を務めた娘達だ。彼女達は相変わらずリボンをつけていた。左につけた方はマリノ、右につけた方はメリノ、とそれぞれ名乗った後で、「芸華会のコーラスガール!」と見事に声を揃えてみせた。
「まあ、じゃああなた方もこの舞台に立たれるの」
「勿論。だからお稽古しに来たんじゃない」
「気づいて、女鳥さん? 『華』で栄介さんが、色々な人に紹介していたでしょう。あの人達、全員この芸華会の会員よ」
「あら、そうだったの! 皆さんお人が悪いこと、誰もそんなこと言わないから『初めまして』って言っちまったじゃないの」
「ホホホホ……」
「ねえ重松さん、新しい楽譜はどこ」
「昇が持っている。――さあ、腹ごしらえはしたし、双子は来たし、みんな再開するぞ」
こうして芸華会の、明日の準備は着々と進められていく。舞台では女鳥をはじめ、主要な出演者が先にも増しての熱演。ダンス練習用の洋服がじっとりと汗ばむのも構わずに、新しいステップを、メロディーを吸収しようと努める。女鳥はルミラが貸してくれた服を着けていたが、それで飛び跳ね、或いは揺らめく姿は、断髪も相俟ってどこかコケットな魅力すら発散している。
「最近のお嬢さんって、みんなこうなのかしら。あなたといい女鳥ちゃんといい、日本の女も西洋人に劣らない体格になったものねえ」
見物に来た喫茶店「華」のマダム千代枝が、出を待つルミラに話しかける。短いスカートに、脚にぴったり張りつく長靴下を履いて不格好にならないのは、ルミラくらいのものだと思っていたが、女鳥によってそれが間違いだと気づいた。
「そうねえ。女学校も活動的なのを奨励していると聞くし。女鳥ちゃんや私だけが特別なわけでもなさそう」
ルミラは「特別」のところを強調した。
――今から15年以上も前のこと。ルミと呼ばれる幼子が、とある旅芸人一座に引き取られた。わけあって孤児となった彼女を、座長夫婦は我が子の彦也ともども、隔てなく慈しんでくれた。この可愛い義姉弟は、5つか6つになる頃には子役として舞台に駆り出されるようになっていた。
奇術を中心としているが、その時々の流行も取り入れた「何でもあり」式の一座の興行は、どこでも歓迎された。とはいえ、あくまでそれは、舞台の上での話。ひとたび地に降りれば、どんな花形でも差別を被るのだ。子役のルミと彦也も例外ではなく、寧ろ子供ゆえに直接的な罵詈や嘲笑を受けることが多かった。「芸人の子やーい」……子供だけで通りを歩くと、目敏く見つけられて、時には石や木切れを投げつけられることもあった。顔立ち同様、繊細な心根の彦也は目に涙を溜めてじっと耐えるばかりであったが、勝気なルミはこう言い返してやったものである。
「ああ、私は芸人の子だよ。それを馬鹿にする権利が誰にあるってんだい!」
そして、こうも付け加えた。
「そこの絣を着たお前さんなんか、昨日は一番前の桝で私達を夢心地に見てくれたねえ」
絣のぼん、思い当たる節あり黙りこくってしまう。その横を、悠々と去っていくルミの一行。
――そうしたことを、各地で体験する度に、ルミは自分が「特別」であることを、また「特別」であるがゆえの利点と苦労があることを知った。
「ねえ、マダム。女鳥ちゃんも自分が他の人と違うっていうんで、悩んでいるみたいなの。本人がはっきりそう言ったわけじゃないけど、私には何となくわかる。私そういうのには敏感なのよ。……私、あの子に、他人と違うことは悪でも恥でもないって、思えるようになってほしいの」
「萎えた花を生き返らせるのは、中々大変なことよ」
「ええ、わかっているわ。でも、不可能じゃない。いずれ自分のもつ可能性に気づいて、咲き誇る日が来る。……あの泣き虫小僧だった彦也だって、そうだったもの。ご覧なさいよ」
ルミラの視線の先を辿ると、成程、彦也青年がダンスの振付を女鳥に指南している。……今では芸華会きっての舞踊手として、なくてならぬ彼。少年時代はただただ繊弱だった肉体を口惜しく思っていた彼。しかし、飛んだり跳ねたりする西洋式の舞踊が、細くて身軽な身体にもってこいの表現形式だということに自分で気づいてからは、進んで猛練習に励んだ。そうして現在の地位と、舞踊手としての誇りを手に入れたのである。……こんな風に可能性を自覚し、自らの力で具現化することを、ルミラは今の女鳥にも求めたいのだ。
「あの子にもできるはずよ。でなければ、この芸華会にやって来るはずがないもの」
重松も。他磨己も。彦也も。マリノとメリノも。栄介達3人組も。そして自分も。誰もが可能性を信じて努力と工夫を重ね、芸華会をひとかどの芸術集団に成長させてきた。その自分達が双手を挙げて歓迎した女鳥に、見込みがないはずはない。
「よおルミラ。次はお前の出だぞ――」
重松が呼んでいる。傍らには、振付の指南を終えて伸びをする彦也。
「ええ」
舞台に上がると、先まで自分がいた客席も、その後ろの方まで見渡せる。そこでは文夫達美術係が背景の仕上げにかかっている。そのすぐ傍で昇ら楽団員の面々がバイオリンやアコーディオンを鳴らす。時折マリノとメリノのコンビを呼んで、一緒に歌の練習なんかもやっている。唯一の何でも屋たる栄介ばかり、劇場のあちこちを走り回って御用聞きを務めたり、メッセンジャーボーイと洒落込んだり、と思えばカメラを用意して舞台の写真をパチリ……。
舞台の上では、ルミラの前で、主役の他磨己と女鳥が終盤の見せ場を演じている。台本では、マーガレットとニナの諍いの後アレンが駆けつけ、逃げ出そうとするニナを引き留めて愛の告白をする、という段取りになっている。皆、堅実に演じてみせるのだが、重松は中々お気に召さないらしい。特に告白の場面を何度もだめ出しする。
「違う! そんなに真面目くさってやられたら、冷徹に見えるじゃないか。もっと、こう、心を込めてやってほしいんだ。心底から迸る激情を、表に出してほしいんだ」
主役2人は持てる技術と経験を総動員して演じる。兄と妹の間柄なればこそ、遠慮なく自分の演技をぶつけ合った。このような時は、玄人の他磨己の方が断然女鳥を引っ張る。女鳥も負けずに食らいついていく。決して多くはない台詞、動作。その一つ一つに、恰も火花が散るような激しさが加わっていく……。2人の眼差しにはもはや兄妹としての情愛はない。そこにあるのは、若き男女の……。当人でさえ、これが本物の恋ではないかと危うく錯覚しかけるほどに……。
「よし。正直言うともう一息というところだが、ここまでやれれば上の部だ。あとは本番で、最上のものを見せてくれ。今日はここまで!」
重松が漸く合格を言い渡して、一同ほっと安心。女鳥などいちどきに気が緩んだものとみえ、舞台上にそのままずるずると伸びてしまった。新入りながらあれだけの時間と熱量の猛稽古に耐えたのだ、無理もなかろう。
舞台の隅に敷かれた蓙の上で、女鳥が目を覚ましたのはもう大分日が高くなってからであった。起き上がって辺りを見回すと、既に芸華会の面々は上演準備にいそしんでいる。ルミラが振り返ってにっと笑う。
「あらお早う、女鳥ちゃん」
「お早うございます、ルミラさん。ごめんなさい、ずっと寝ていて」
「いいのよ、上演まではまだ間があるわ。楽屋で着替えて、台本読み返すだけの時間はたっぷりあるわ」
彼女の言う通りに、女鳥は楽屋で台本を眺めて過ごした。自分も何かしら手伝いたいと申し出たのだが、「いいから、今日は演技だけに集中なさい」と、どうしても首を縦に振らない。それで、大人しくお言葉に甘えているわけである。ご丁寧に、朝食のパンとお茶まで供された。
台本――昨日貰ったばかりでもうよれよれ――を棚の上に立てかけて、仕草や振付の復習。3分の2ほど頁を繰ったところで、ドアにノックの音がした。
「女鳥、入っていいか」
「まあ、兄様。何のご用です」
「お前、芸名はどんなのがいい」
「芸名?」
思いも寄らぬことを尋ねられた、と女鳥は思った。相手の真意を図りかねていると、彼の方から説明してくれた。曰く、素顔を覆い隠す仮面のように、本来の人格を秘匿する仮の人格を必要とするのだと。
「だって、本名の『石川女鳥』を看板に書くわけにもいかないだろう。お前の友達や知り合いが通りかからないとも限らないしさ」
「ええ、そうね……」
返事しながら、彼女はどんな芸名がよいかということよりも、自分が舞台に立つことの影響を考えて背筋がひやりとした。(今更にも程があるが)こんなことをやっていると知られては、学校はもとより、放任主義の家庭でも、流石に咎められるに違いない。運よく咎められないにしても、詮索好き、噂好きの人々がどんな出鱈目を拵えるかわかったものではない……。敏い兄はそれを見越して、妹に芸名という仮面をつけるよう進言しに来たのだった。
「扉が開けっ放しよう女鳥ちゃん……あら、他磨己もいたのね」
「やあルミラ。妹の芸名を付けてやりに来たんだ」
楽屋に帰ってきたルミラも加わって、新生ヒロインの命名会議。3人寄れば文殊の知恵というが、生憎3人集まっても中々よい案は浮かんでこない。
「女鳥ちゃんには、どんなのがいいかしら」
「いっそ、お前みたいに外国風の芸名でもいいかもしれないな」
「ルミラさん、そういえばなんで『ルミラ』って名にしたんですの」
「本名がルミなのよ。で、ヴァンプ型の女らしくと思って、終わりに『ラ』をつけてみたの。ルミラ……不思議な響きでしょう。セダ・バラとか、ミュジドラみたいで……知らない?」
「止せよ、俺の妹に活動の話はしないでくれ。……おい、彦也! お前も来いよ」
丁度来かかった彦也まで動員。もっとも、彼は別の用事で楽屋を訪れたものらしい。
「女鳥さん、君の衣装ができあがったんだ。ちょっと着替えてみてくれない」
「ええ」
「まあ、女鳥ちゃんのドレス姿、楽しみだわねえ。私手伝ってあげるわ」
ルミラがいそいそと立っていって、女鳥とともに衝立の向こうに消えた後も、他磨己は未だ芸名創作に余念がない。ああでもない、こうでもないと独り言ちてばかりの彼に、彦也が笑って忠言する。
「たま様(彦也流の呼び方である)、今急いで決めないだっていいじゃありませんか。素顔の女鳥さんを思い描いて考えるからいけないんですよ……。衣装を着けて化粧して、お客様の前に立てる姿になった女鳥さんを見たら、きっといいのが浮かびますよ」
「そうかなア」
と気乗りしない返事をしたものの、一理あるなとも思った。丁度衝立の後ろで、ルミラが「素敵!」「綺麗!」を連発しているのが耳に入ったからである。まあ、女鳥を溺愛するルミラのことだから、いくらか差し引かなければいけないだろうけれど……。
狭い劇場内の見知った顔ぶれゆえ、噂の類はいつも瞬く間に伝播する。この時もそうで、女鳥の衣装合わせの話を聞きつけた仲間達が続々とこの楽屋に集まってきた。――衝立の外が何やら騒がしいのは、女鳥もルミラもわかっていた。
「いつの間に大勢いらしたんでしょうね」
「みんなあなたのことが気になって、見に来たのよ」
「恥ずかしいわ」
「だめでしょ、たかが十何人かの前に立つのを恥ずかしがっては。本番はその何倍もの人がいらっしゃるんだから。もっと自信を持ちなさいよ」
そう言われても、女鳥は未だ踏ん切りがつかなかった。鏡の中には、白粉を塗り、眼を縁取った女の顔があったが、それが自分のものだとはどうしても思われない。美人なのか不美人なのかもわからない。何かふわふわと、夢の中にいるような覚束なさ。
と、ぼんやりしているうちに背後では、ルミラがさっさと衝立をどかしてしまう。アッと我に返って振り向いた瞬間。女鳥の目は、寄り集まった芸華会面々の視線にぶつかった。皆が皆、驚嘆の表情を浮かべて自分を凝視しているのが、怖いような滑稽なような……。
「あの、どうかなさいましたの」
――恐る恐るそう尋ねる声は、間違いなく女鳥のものである。しかしながら、その姿は? 背に流した豊かな金髪。真白い肌。黒水晶のごとく澄んだ光を湛えた双眸。引き締まってすらりとした肉体を飾るは、レースや花や宝玉、それから絹のひだやリボン。さながら泰西の肖像画から抜け出したかのような、神秘的な美貌の乙女がそこに立ち尽くしている。
「本当に女鳥なのか?」
「嫌な兄様、私ですわ。ねえルミラさん」
恥ずかしそうにルミラの背後に隠れようとするのも愛らしく、知らずしらず人々の微笑を誘う。
「ええ、正真正銘、女鳥ちゃんですとも。でも私もびっくりよ、まさかこんなに美しくなるなんて。……で、他磨己、芸名は思いついて?」
「うーん……」
考え込むふりをしたが、その実何も考えていない。いや、ちょっと良いのが2、3浮かんだ気もしたのだが、妹の予想以上の変身ぶりに驚愕して全部すっ飛んでしまった。とはいえそれを暴露するのはきまりが悪い。……こっそり、隣の重松の腕を叩く。
「え、俺にも考えろって?(目顔でそうだという他磨己)そうだなあ……」
重松は、たった数秒思案しただけで、「ヘレネ」と答えを導き出してしまった。
「女鳥。君の芸名は、ヘレネだ。神話に登場する絶世の美女の名だ。……誰も異論ないなら、これで行くぞ」
かくして、石川女鳥の舞台名は「ヘレネ」に決まったのである。「芸華会」の面々は勿論のこと大賛成、当の女鳥のみ戸惑って何も返事し得なかったが、特に反対する気もなかったので、そのまま受け入れた。
そして、昨日まで殺風景だった劇場の出入口に、こんな看板が立てられた。
『謎の乙女ヘレネ嬢の優美なる姿を見よ! 玲瓏なる歌声を聴け! 鮮烈とはまさしく彼女のためにある言葉なり』
かの謎の乙女ヘレネを一目見んと、芸華劇場には大勢の観客が詰めかけた。見るからにインテリゲンチャという紳士の姿もあれば、見世物小屋の方を好みそうな庶民の姿もある。皆が皆、口に出そうと出すまいと、謎の乙女のことを夢想している……。
衣装合わせの後に一度脱いだドレスを、今再び身に着け、化粧も先より丁寧に施してもらって、いつでも舞台に立てる状態の女鳥。とはいえ、それはあくまで外見のみである。心は緊張しっぱなしで、手脚ががくがくと震えるのが自分でもわかるほどだ。
「女鳥、来てみろ! 芸華会始まって以来の大入り満員だ」
兄の他磨己が、妹の不安を知ってかしらずか、こんなことを言ってくる。手招きまでされると、はねつけるわけにもいかず、女鳥はふわふわした足取りで舞台裏まで行った。
「ほら、凄い数だろ」
幕をほんの少しだけからげて、覗き穴のように向こう側を示す。女鳥も恐る恐る窺い見て、その人数の多さ――ついさっきまで空っぽだった客席が老若男女でぎっしり埋まっている!――に目眩がしかけた。こんなことではいけない、とどうにか床を踏みしめて客席に視線を戻した時。出入口からのし歩いてくる女性陣に目が留まった。漸く静かになりかけた場内に、彼女らの傍若無人な話し声はいやでも響く。
「笑っちまうわね、ヘレネ、ですってよ。ギリシャ神話だったかに出てくる、傾国の美女の名前よ」
「ご大層にも程があるわねえ、きっとたいしたことないわ」
「ええ、見世物小屋の蛇女みたようなものに違いないわ」
「私達の『ハムレット』の方が優れているかもしれないわね、ホホホホ」
辺りの観客が眉をしかめるのもお構いなしに高笑いする彼女らは、紛れもなく女鳥の同級生であった。ああ、彼女らは浅草にまでやって来て、悪意の網を広げようとしているのか。女鳥がやっと見出した居場所まで、退屈しのぎに汚そうというのか。
女鳥の、幕を握る手が震えた。緊張ではなく、憤りのために。
あの人達にこれ以上蔑まれてなるものか……。
「みんな、位置につけ。楽隊、準備はいいか――」
重松が方々に指示を飛ばしている。女鳥と他磨己も、舞台の上手袖に退避する。
他磨己は、妹が不安がっているのではないかとふと気になった。もしそうなら声をかけて励ましてやろう、そう思って振り向いてみた。――そこには、静かな威厳を漂わせる乙女の姿。黒い瞳で舞台を真っすぐに見据え、その表情は挑むように引き締まっている。――励ましの言葉など無用だと、兄は頼もしいような寂しいような気持ちで妹から視線を外した。
アコーディオンの素朴な音楽が、開演を知らせる。裏方の男達が幕を左右に引いていく。待たされてきた観客の拍手、芸華会の新作歌劇『乙女の望み』は満を持して始まった。
*題名は、根岸歌劇団で大正10年(1921年)3月に上演された「リオンの姫君」から。
*作中で栄介がかけた電話は、街頭の公衆電話。栄介の家は商売(写真館)を営んでいるため、家に電話が備え付けられている。
なお、この時代、普通の住宅で電話が設置されている場合は、まあまあいいとこの家と思ってよい。どの家庭にも電話が普及するのは、戦後も大分経ってからである。
*今でこそ盛んにもてはやされる芸能人(芸人)だが、昭和の初めくらいまでは物乞い等と同然と見られ、差別の対象だった。明治時代、高学歴の人々が演劇や声楽、舞踊を本格的に学び、芸術として広めていったことで、少しずつだがかつてのマイナスなイメージを変えていった。
*ヴァンプ(Vamp)とは、ヴァンパイア(Vampire)の略。ヴァンプ女優とは即ち、吸血鬼のごとく男を惑わす悪女を演じる女優のこと。
セダ・バラ(Theda Bara :1885-1955)は、ハリウッド初のヴァンプ女優。ぎょろりと大きな眼が印象的。オーバーアクションな芝居が一般的だった当時の映画界で、抑えた演技が光っていた。出演作は『愚者ありき』(A Fool There Was :1915)、『シーザーの御代』(Cleopatra :1917)ほか、大作が多く作られていたが、現在はその殆どがフィルム散佚しており見られなくなっている。なお、ご本人は実際は、穏やかな性格だったという。また料理上手でも知られていた(彼女のサンドイッチのレシピは簡単かつ美味しそうだったので、そのうち作ってみたい)。
ミュジドラ(Musidora :1889-1957)は、フランスのヴァンプ女優。こちらも大きな瞳の美人。出演作は『吸血ギャング団』(Les Vampires :1915-1916)、『ジュデックス』(Judex :1916)ほか。芸術の都の作品だけあって、何ともいえずお洒落な雰囲気を纏っている。
上記の2人の後にも、無声映画期にはベティ・ブライス(Betty Blythe :1893-1972)、フェルン・アンドラ(Fern Andra :1893-1974)、ポーラ・ネグリ(Pola Negri :1897-1987)、ニタ・ナルディ(Nita Naldi :1894-1961)、エステル・テイラー(Estelle Taylor :1894-1958)、バーバラ・ラ・マー(Barbara La Marr :1896-1926)、リア・デ・プティ(Lya De Putti :1897-1931)、オルガ・バクラノヴァ(Olga Baclanova :?-1974)といったヴァンプ女優が活躍。日本では、五月信子(1894-1959)が代表的なヴァンプ女優。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます