第2章 運命の女鳥
結局2通の手紙は、女鳥と潤子とで引き取りに行った。1通は、わざわざ申告しに来た土居のものに相違なかった。そしてもう1通は、内容を見るに染子の一派らしい。突き詰めると、やはり染子の子分たる渡辺から始まったものとわかった。
「大切な授業中に、級友を巻き込んで手紙を回すなどもってのほかです。それも見つかりそうになったら、関係ない人のところに寄越して知らん顔とは……」
ミセスに怒られなくとも、級長に厳しいお叱りをいただく土居と渡辺。土居は憧れの君に迷惑をかけたとあって、心底から反省している様子であったが、渡辺は、神妙さを繕っているだけらしかった。――案の定、お叱りが終わるや彼女は真先に女王、染子のもとへ飛んでいき、今しがたの叱責ぶりを面白おかしく誇張して聞かせていた。それをケラケラ笑い合う染子や夏子達……。結局のところ彼女達は、憎き女鳥が恥をかけば満ち足りた気持ちになるのだ。
女鳥もそうした光景に出くわす度に、気にするまいと努めるのだが、やはり何かもやもやした思いがついて回る。とうとう、この日の下校時まで彼女の心はついに晴れなかった。
浮かない顔で帰宅してみると、玄関に見慣れぬ男物の下駄。父の客ならば革靴、母の客ならば草履か駒下駄であろうに……といぶかしんでいたところで、女中がひょいと現れる。
「お嬢様、お友達の方がお見えでございますよ」
「私の? どなた」
「横畑と仰いました。写真館の……」
「栄介さんね!」
彼女の表情は、瞬間花が咲いたように輝いた。女中も些か驚くほどの変わりよう……。
「応接間にお通ししてございます」
「ありがとうね」
いそいそと言われた場所に向かう。障子戸を開けると、相手は胡坐を組んだままこちらを振り返った。
「やあ女鳥ちゃん。久し振り」
「ええ。今日はお家の使いでいらしたの」
「そうだよ。奥様の写真を届けに上がったところで、折角だから君の顔も見ていこうと思ってさ」
丸眼鏡をかけたこの青年は、この界隈で唯一の写真館の息子。女鳥とは幼馴染みで、小学生の頃までは他の子供も交えてよく一緒に遊んだものだった。――行儀をどうこう言う大人もなし、2人は互いに足を崩して積もる話に興じた。栄介は高等小学校を数年前に卒業して以来家業の手伝い、女鳥は女学校に通っているという以外に、互いの近況を知らなかったので。
栄介は主に仕事についての苦楽を語って聞かせる。使い走りの日々、僅かな給金に描く独立の夢。女鳥も興味と同情とを以て楽しく拝聴していたが、
「君はこの頃どうなんだい。今日も学校だったんだろ」
と相手に話を振られると、俄かに顔が強張ってしまう。ええ、まあ……と言葉を濁す彼女の様子を見て、栄介はその内情を大方察し得た。
「大して面白くもない話よ、よかって?……」
律儀にそう前置いて、ぽつりぽつり話す女鳥。その内容は、栄介の予想を大きく超えるものではなかった。
彼は、平静を装ってはいても、久々に間近く見る幼友達の美しさに驚いていた。「石川氏のお嬢様が断髪になさったってさ」との噂話、それから学生連中が頻りに騒ぐ「もだん・べる」の評判は度々耳にしてはいたが、なるほど噂になるのも道理と思われるほど魅力的な容姿だ。しかしながら、幼い頃の彼女よりもずっと色あせて見えるのはなぜであろう? スマートな断髪とアールデコ模様の着物という、時代の先端を行くスタイルを持っていながら、何か抑圧されたものを感じるのは……。そしてその印象は、女鳥の語る「ままごとの人形になったみたい」を聞くと、一層補強されたのだった。
彼女の話を受け止めながら彼は、内々に秘めたる交渉事をいつ、どう切り出すべきかを見定めていた。やがて茶の残りを啜ってから彼は、胡坐を組んだまま何気なく問うた。気晴らしに、今度どこかに出かけてみたらどうかと。
「君は、目の前のものに捉われすぎていると思うんだ。全然別の場所に寸分でも身を置いてみたら、今の悩みが案外些細に感じられるんじゃないかなあ。……浅草なんか、どうだろう」
「まあ、浅草へ? 昔よく兄様と遊びに行ったわ。お稽古の帰りに……」
「ああ、ロベルティーニさんのお屋敷が近いんだったっけ」
「ええ、だから声楽のお稽古の後に、ね。でも震災があってからロベルティーニ先生もお国にお帰りになってしまって、それ以来私も行っていないの。兄様とも疎遠になってしまうし。……でも懐かしいわねえ、浅草」
大分心を動かされているらしい彼女を目の当たりにして、彼はしめたとほくそ笑んだ。これで彼女がうなずけば、自分がここに来た真の目的を果たし得たことになるのである。
「今度の土曜、丁度僕と、昇と文夫とで出向くつもりなんだ。よければ君にも来てほしいな、折角だからさ」
「土曜なら、午後から暇なのよ。是非行きたいわ。昇さんや文夫さんにも久々に会いたいし」
「よし、決まったね。それじゃ、3時に瓢箪池の六区側の方で、待っているよ」
「ええ」
栄介が石川邸を辞する時、女鳥は玄関先まで見送りに出てくれた。友情と期待のこもった微笑は、幼き日と同じように生き生きと輝いて……。それを見ると栄介は、自分の、否、自分達の目的が案外彼女のためにも良い結果を生むのではと考えるようになった。
夕闇迫り来る空の下、暫く歩いていくと商店街の入口に差しかかる。彼はその程近くに建つ「寺戸画材店」の前で足を止め、硝子戸の向こうを覗き込んだ。誰もいない。
次いで彼は、五軒先にある「佐久間楽器店」に立ち寄った。やはりこちらに、昇と文夫の姿があった。
「よーう、栄介」「女鳥さんはどうだった」
「あっさり快諾してくれたよ。こっちが拍子抜けしそうなくらいさ」
舶来オルガンの椅子を引いてきて座る栄介。この店の御曹司たる昇は、勘定台に収まり、画材店の息子の文夫は空のトランクに腰かける。
「快諾っていっても、浅草のどこに行くかまでは伝えていないんだろう」
「そりゃ言ってもわかるはずないからね。でも僕は確信しているんだ、女鳥ちゃんはきっと力になってくれる」
「なぜわかる」
「あの子の話を聞き、あの子の瞳を見れば、君達も同じ感慨を抱くはずだ。抑えても抑えきれない才気の火が燻るのを。……女学校では中々辛い立場に置かれているらしい」
「予想はできるよ」
思慮深くうなずく文夫。
「女鳥さんは、所謂『普通』の枠に当てはめられない子だ。飛び出した杭なんだ。僕は、いや、僕ら『芸華会』はこの杭が無情に打たれる前に、引き抜いて、磨きをかけなきゃならない」
「ああ、そうだな」
売れ残りのマンドリンを掻き鳴らしながら、昇も言う。
「俺の耳は今でもちゃんと覚えている。昔みんなで遊んだ頃、女鳥が歌った唱歌のいくつかをさ。あの鈴を振ったようなソプラノが今も出せるっていうなら、俺は是非とも『芸華会』にあの子を入れるよう掛け合う」
「賛成してくれて嬉しいよ、文夫、昇。あとは……」
栄介はそこでふと、言いづらそうに先を濁した。他の二人も、その伏せられた眼差しで、最たる懸念を思い起こす。
「『あの人』が一番の難関だったな。これまでに何人の候補者を断ったことか」
「いくら女鳥ちゃんが素晴らしくても、当の『あの人』がよしと言わないことには」
「俺達の名案も」
「水の泡!」
3人揃って、盛大な溜め息とともにそう吐き出した。
府下有数の歓楽街、浅草。様々の商店が、通りという通りにひしめき合う。ひしめき合うのは建物のみにあらず、それを遥かに上回る数の人々が一日の享楽を得んと訪れていた。――ここに来るのはおよそ3年ぶりという女鳥など、まずこの人の多さに怯まざるを得ない。
土曜日の授業は午前中で終わり、彼女ははやる気持ちを抑え抑え、家に帰った。軽くお昼をとってから、自室で着物を選ぶその間も何か楽しく……。そうして結局、鈴蘭の図柄をくっきり染め抜いた孔雀青色の振袖に、濃紺の袴をやはり短く着つけて、彼女は浅草の街へと繰り出したのだった。
人波をかい潜るようにして通りを行く。本当は、彼女とてゆっくり巡りたかった。昔日の兄の思い出を、より鮮明にするために……。しかしこう人が多くては難しく、さっさと足早に過ぎるしかなかった。ただ、栄介の言っていた六区に差しかかり、立派な洋風建築の活動写真館の前を通りがかった時だけは、兄と交わした会話をはっきり思い出すことができた。兄は一人で浅草に出入りするうち、舞台役者と繋がりを持つようになったのだが、そのために「活動役者は土の上で芝居をする奴ら」という意識も植えつけられていた。彼は妹をもそれに引きずり込もうとした。
活動写真のどこがいいのか、俺には分からないね。目の前で役者が動いて喋る方が、どんなに生き生きとして見えることだろう。色も音も、声も息遣いも全て、舞台には備わっている。が、活動にはそれらがないんだ。わかるかい、女鳥?――でも兄様、活動も最近はただ人物を映すだけでなしに、ずっとカメラを寄せて撮ったり、陰影を強調したりして色々工夫しているんですってよ。級の人がそう言って感心してらしたわよ。――それでも俺は、今の活動を見たいとは思えないな。真に優れた物語と、優れた役者と、優れた装置や音楽と。それから、活動写真でしか為し得ない優れた技が確立するまでは、芸術とは認めないぞ。……
「……ちょっと、ごめんなさい」
女鳥の感傷はそこで唐突に打ち切られた。自分の思索に土足で踏み込まれたような、とはやや大げさだが、いい気持ちはしない。無言で振り向くと、背の高い婦人が立っている。――質素な洋装に身を包み、髪は簡単にまとめただけであるが、滲み出る知力と活力が、彼女を華やかに見せていた。――この婦人は、暫しの間、何かの啓示を受けた人のように、一言も発さずに女鳥をじっと見つめた。顔をまじまじ凝視したと思うと、今度は袴からすらりと伸びる脚に視線を落とし、その次は振袖の鈴蘭模様を……。
「あの、何御用でございますの。私、人を待たせておりますので……」
女鳥が半ば戸惑ったような素振りを見せて、相手は初めて我に返ったらしく、慌てて取り繕った。
「まあ、わけも言わないでじろじろと、本当に相済みません。どうか堪忍してね、私こういう者でしてね……」
そう言うなり彼女は上着の下から一葉の名刺を取り出す。
〈銀嶺会々長 村野黎子〉
「ああ、銀嶺会の方でいらっしゃいましたのね、失礼いたしました。母の石川がいつもお世話になっております」
母の所属する婦人会の重鎮と知って、女鳥は赤くなりながら頭を下げた。きっと、母が何かの折に自分のことを喋ったか、写真を見せたかしたのに違いない。それでこの方は、自分と知ってお声をかけて下さったのだ。……村野女史は優しく女鳥の肩に手を置いて、微笑んでいる。
「ええ、こちらこそ、いつも石川さんには助けていただいて。あなたのお名前は、確か……女鳥さんね」
「はい、女鳥でございます」
「こんなところでお会いするなんて、奇遇ですこと。実はね、私、あなたが石川さんのお嬢さんだから呼び止めたのではないのよ。その名刺の裏を見てごらんなさい」
女鳥は言われるがまま、貰った名刺を裏返した。そこには、何やら長たらしい漢字の羅列。
〈瑠璃鳥キネマ社副社長 兼脚本部々長 村野黎子〉
「キネマ……活動写真のお仕事を?」
「ええ。それで、あなたを呼び止めたのはね、あなたに是非うちの写真に出ていただきたくて」
「私に?」
冗談ではないかしら。疑念深く、かの村野女史を見上げるが、相手は中々図太い神経をしているとみえ、変わらず笑みを浮かべたままである。
「そうよ。あなたのそのスタイルを後ろから一目見て、直感したの。最先端の断髪に、アールデコ調の銘仙、袴の裾も軽らかに、先の尖った革靴を鳴らして闊歩する乙女。あなたこそ、私が提唱する新時代の少女そのもの! あなたのようなお嬢さんに、私の脚本を演じていただかなくちゃなりませんわ。その名刺の隅に、うちの事務所の所も記してございますから、是非一度いらっしゃいね。あら、もうこんな時間だわ! それでは、お母様によろしくね、さようなら」
村野女史は言いたいだけ言って、嫣然たる笑みを残してからさっさと姿を消してしまう。女鳥は急な嵐にでも遭ったように呆然として、暫く女史の去っていった方を見やっていた。その姿はとうに人ごみに紛れて、どこに向かっていったかも窺い知れないのに。
手にした名刺に視線を落とす。瑠璃鳥キネマ社……活動写真に疎い女鳥には全く馴染みのない会社であり、当然ながらどのような内容の作品を世に出しているかもわからない。しかし、先程の村野女史の、不躾といわざるを得ない態度を見るに、「芸術的な」ものを作っているとは考えにくかった。婦人会で母とともに働いているのに悪いけれど、少なくとも女鳥の脳内では、女史と「芸術」とはイコールで結びつかないのだった。
活動写真を心底から軽蔑する兄の気持ちが、女鳥にも少しばかりわかる気がした。目の前にそびえる活動写真館に一瞥をくれてから、彼女は幼馴染み3人組の姿を探しに歩いた。
「――おーい、女鳥ちゃん!」
数間も歩かないうちに、劇場の幟の陰から栄介が出てきた。次いで、昇と文夫も。女鳥も手を振り返して駆け寄る。
栄介同様、昇も文夫も幼馴染みの令嬢との再会を心から喜んだ。と同時に、その特異な美貌と颯爽たる立ち居振舞いに舌を巻いた。そして、彼女こそ確かに、暗礁に乗り上げた「芸華会」の救世主となり女王となるに相応しいと信じた……。
――女鳥は3人に伴われて、池沿いに少し進んだ先にある小路に入った。狭いゆえに日が殆ど差さない薄暗いそこは、気味悪いというより寧ろ静穏といった方が当たっている。人いきれに疲れた者が逃げ込んでほっと息をつける、そんな場所。立ち並ぶ建物も、小さな看板が掛けられているのを目にしなければ、住宅と見紛うような質素さである。
3人が案内して来たのは、その小路でも唯一の煉瓦造りの店「華」であった。
チョコレート色の扉を押し開けると、可愛い鈴が音を立てて来客を知らせる仕組み。さして広くはなく、窓も出入り口側にしかないが(小路の真ん中辺りにあるのだからそれも仕方なかろう)、息詰まるような狭苦しさとは無縁である。天井で淡く輝く卵色の灯、漂う珈琲や紅茶の香り、そして何より店の女主人・マダム千代枝が、来訪者を温かく迎え入れてくれる。それだけで十分、満ち足りた気持ちになり、いつまでも留まっていたいと思わされる。
「いらっしゃい。……あら、来たわね、3人組。いつもの?」
「ああ。それから今日はもう一人、連れて来たよ。幼馴染みのお嬢さんで、女鳥ちゃんというんだ」
「まあ、まあ。よくいらして下さいましたね」
マダムはわざわざカウンターを出て、奥の四人掛けテーブルを占めた彼らのもとにやって来てくれた。年の頃は40を少し超えたくらいと思われたが、店の名の通り、華やかな雰囲気をまとっている。大抵は年をとると「容色衰え」だの何だのとくさされるが、それはこのマダムには当てはまらなかった。スペイン櫛を挿した束髪に薔薇色の着物が目にも鮮やかだ。
「メドリちゃん、とおっしゃったかしら」
微笑すると、縁取った眼が円みを帯びて人懐っこくなる。
「ええ。石川女鳥と申します。女の鳥と書いて、メドリですの」
「素敵なおみ名ですわ。……飲み物は何になさいます」
「紅茶を」
女鳥はもう、この場所が気に入ってしまった。店の心地よさもさることながら、マダムその人にすっかり魅了されたのである。「メドリ」という変わった名を、当人は好きでも嫌いでもなかったが、それを相手が心底から「素敵」と感じてくれたらしいのが、何となく嬉しかった。――マダムはテーブルを去り際、栄介と小声でこう交わし合った。
「……栄ちゃん、この子が?」
「そうさ、マダム」
「きっとお眼鏡に叶うわよ。大丈夫よ」
4人の注文の品が届くまでの間、彼らのテーブルには顔見知りらしき客や給仕達が挨拶に来た。その度に栄介は、律儀にも女鳥を紹介した。目立ちたがりではない彼女だけれども、この店の和やかな雰囲気にほだされてか、自然と笑顔を向けることができた。そのうちに彼女は、来る人来る人が若者ばかりなのに気がつく。
「ここって、若い人達に人気の店なの?」
隣に座る文夫にそっと尋ねたつもりだったが、今し方やって来た少女給仕に聞かれてしまった。まっすぐな長い黒髪をお下げにした美しい娘が、小首を傾げて微笑する。頭の左側に結んだ赤いリボンがひらひら揺れる。
「ええ、六区の劇場街が近いものですから。そこの役者やお客がこっちまで訪れるんです。……お紅茶でございますね。それから、お珈琲」
娘が女鳥と文夫の前に紅茶のカップを置く。すぐ後に、昇と栄介の前にも珈琲のカップが置かれる。さあ頂こうかと取手に指を触れかけた時……先程戻っていったと思った娘が、再び小さな盆を手に近づいてくる。女鳥はあれ、と妙な思いに捉われた。この方のリボン、さっきとは違って右側についているわ。
「こちら、マダムのサービス。ケーキでございます」
「やったな、マダムのおごりだ。遠慮せず食おう」「遠慮してはマダムに申し訳ないからな」
間に苺のジャムを挟み、白いクリームで化粧した小さなケーキ。フォークを取りつつ女鳥は、ちらりと先程の給仕の娘の方を見やった。そして、驚くとともに漸く合点がいった。……リボンの位置以外、全く同じ姿形の2人の娘を、同一人物と思い込んだだけだったのだ。件の2人は今、向こうで肩を寄せ合って何事か囁いている。……まさか自分のことを噂されているとも知らず、女鳥は改めてケーキと紅茶に向き直った。どちらも、とても美味しかった。
カップと皿が空になって暫く経った頃、例のそっくりな少女給仕達が、2人揃って食器を下げに来た。
「女鳥さん。私さっき、六区の劇場街が近いとお話ししましたでしょ」
左リボンの方がにこりと愛らしく言う。うなずくと、今度は右リボンの方が後を続ける。
「うちのお店は特に、『芸華会』って劇団をひいきにしていますの。今丁度、舞台稽古の最中ですわ、よろしければご覧になっていっては」
「あら……」
女鳥が諾とも否とも決めかねている間に、他の3人の方が頻りに勧め出す。
「『芸華会』なら俺らも関わりがあるんだ。面白い奴ばっかりだぜ」
「本物の芸術を志向する若い人々を間近に見るのも、何かの刺激になると思うし」
「その通りだ。それにね、女鳥ちゃん、君に是非とも会ってほしい人がいるんだよ」
「まあ、私が会うべき人なんて、そんな方がいらっしゃるの?」
「いるんだな、それが」
栄介の意味深そうな微笑。何か裏があるのだと、女鳥でなくても勘繰りたくなろう。とはいっても彼女もその謎の人物が、そしてその人物の属する『芸華会』がどんなものなのか、実際興味をそそられている。
勘定を済ませて、4人はマダムと少女給仕2人組に見送られつつ、件の『芸華会』のもとに向かった。――4人が通りを曲がっていった後、少女給仕達は揃ってマダムに笑いかけた。
「あのお嬢さん、中々いいわね」「美貌の点では合格ね」
「栄ちゃん達の話では、歌も上手いそうよ。台詞や踊りもすぐに覚えるだろうと言っていたけれど」
「まあ、申し分ないじゃないの」
2人は手を取り合って喜ぶ。そして、取り合った手をぎゅっと握りしめて……。
「どうぞ、私達いたいけな乙女子の心の声を聞き給え……女鳥さんが『芸華会』を気に入りますように!」
「女鳥さんが私達の気難しい主役のハートを射止めますように!」
彼女達は、かの「芸華会」のいる劇場の方角に向かって切なる祈りを捧げた。この祈りが聞き届けられないうちは、「芸華会」は活動を再開できず、したがって彼女達も歌い手の仕事からあぶれたまま、しがない給仕家業に甘んじていなくてはならないのである!
芸華劇場、の金文字が打ちつけてある、石造り風の大きな洋館。とはいっても、他の大劇場や活動写真館などの陰に隠れている感じは否めない。
「ここをずっと抑えておくのも金がかかるから、他の2劇団と10日ごとに交代で公演しているのさ」
「へえ、そうなの。では、今はその『芸華会』が使う番なのね」
「そうだよ。今日は一日稽古に充てる日でね。……明日の開場時には、この辺りはもっと賑やかになるんだ。本当だよ、女鳥さん」
念を押す文夫の口調が、却って不信を招く……。
出入口のすぐ脇にある勘定台を横目に、中に入る。敷居をまたぐと、申し訳程度の待合室らしきものがあり、その奥に客席が広がっている。更にその奥に舞台があって、役者と思しき男女が数人立ち尽くしている。……否、ただ突っ立っているというのではない。中央に立つ男と客席の男――作者か演出家だろう――が猛烈な勢いで怒鳴り合うのを、怯えて、もしくは呆れて眺めているところなのであった。
「いい加減にしろよ! 本番は明日なんだぞ」
「だからって妥協していいのかよ!」
「妥協とかどの口がほざいてんだ、ただの我儘じゃねえか!」
「我儘なもんか、これは純然たる芸術的要求だ!」
(あの声……)
客席の間の通路を、前へ前へと進むにつれ、舞台上の人々の姿がはっきりとしてくる。天井から下がったいくつもの電灯が、怒れる若者の横顔を、身体を、照らし出している。女鳥達が近づいてくるのも意に介さずに、相変わらず客席の男と応酬を重ねている。
女鳥の黒眸はかっと見開かれたまま、かの若者の上から一寸も動かない。どきどきと脈打つ心臓。我知らず震えてくる両手を握りしめ、正気を保とうと努める。
4人はとうとう、客席の最前列辺りまで来た。が、女鳥のみはその後も歩みを止めず、舞台の真下までふらふらと近寄っていく。制止する者はいない。
そして舞台の縁に手をかけて、かの若者を見上げた瞬間。女鳥の唇から、懐かしき呼び名が迸り出た。
「兄様ッ!」
――大きくはないが、その声は場内に響き渡った。呼ばれた相手、石川他磨己はハッと下を向き、自分の目が信じられぬように自らの妹の顔を凝視し続けた。
「……女鳥。なぜここが」
彼はそう呻くのがやっとであった。対する女鳥も唇を震わせるばかりで、何も答え得ない。……沈黙の張り詰める中、栄介達3人がおずおずと進み出る。
「他磨己さん、女鳥ちゃん。それから皆さん、驚かせてしまってすみません。これは我らが『芸華会』のために計画したことなんです」
「どういうことか説明してみろ」
客席の男が厳しいバリトンを響かせる。――舞台上の仲間達も注目する中で、3人組は真相を打ち明けた。曰く、一座の看板スターたる石川他磨己の相手役に、妹たる女鳥を推薦するつもりで彼女をここに連れて来たのだと。――他磨己は舞台上から、3人を忌々しそうに見下ろす。
「俺は何度も言ってきたはずだぞ。女鳥に俺の居所を教えるなと――」
「教えてやいません。俺達はあくまで気晴らしとして浅草に行かないかと、誘っただけです。女鳥ちゃんには、兄さんのことは一言も伝えていませんよ」
「だからって、黙ってこんな所まで連れて来る法があるか」
「ありますとも。――第一、黙って家出してきて妹の女鳥ちゃんに散々心配かけているのは、自分でもわかっているでしょう。でなけりゃ俺らに何度も消息を尋ねやしない。それに、ご自分の口癖に俺らが気づいていないとでも?『少なくとも女鳥ほど綺麗で、声がよくて、なおかつ機転も利く女優でなきゃ相手役にしない』って、どれだけ聞かされたことか。だから間違いなくお眼鏡に叶う人を、切り札としてこうして連れて来て……」
「おい、栄介」
文夫に筒袖を引っ張られて我に返る。反射的に振り向くと、今しも出入口のドアの向こうに女鳥が去っていくところであった。姿は捉えられなかったが、振袖の端が微かに見えた。「女鳥ちゃん!」「女鳥、待てッ」他磨己が舞台を飛び降りて、駆け出していく。他の者もおたおたとその後を追う。
――日ごと会いたいと祈り、そして漸く目の前に現れた人物が、自分を望んでいなかったという事実。会いたいという気持ちは自分一人だけが抱いていたのだと思い知らされた悲しみは、如何ばかりであったろう。殊に女鳥の思い出の中では、兄は自分にだけはいつも優しく思いやり深かったのだ。あんな露骨に嫌悪を示されるなど、想像できるわけもなかった。
彼女の心はすっかり動転してしまった。すぐにもここから出ていかなければならぬ、という観念に駆られた。彼女は視界を滲ませながら、元来た通路を引き返した。背後で幼馴染みが、兄の妹礼賛の事実を暴露しているとも知らで……。
「女鳥ッ」
外の人波が見えたところで、肩を掴まれ、力づくに振り向かされる。そこには、ああ、兄の険しい顔。女鳥は、どんな恐ろしい言葉を聞かされるかと、身を竦めた。が、かけられた声は意外にも、穏やかな響きをもっていた。
「女鳥、兄さんを誤解しないでくれ。兄さんが家を出たのは、親父やお袋に見つかると面倒だから、それだけの理由なんだ。お前に居場所を教えなかったのも、そのためだ」
「本当? 私を見た時、あんなに嫌そうなお顔をなさって。私をお嫌いになったんじゃないの」
「断じて、そんなことがあるものか! あれはただ驚いただけさ……それが電灯の加減で物凄く見えたんだろう」
言われてみれば、確かにそうかもしれなかった。女鳥は自らの邪推を反省した。
妹の表情が和らいだのを見て、他磨己も腕の力を緩める。そして改めて、久々に見る彼女の成長ぶり、近代味溢れる美に目を見張るのだった。
この子を舞台に立たせ、昔のように思う存分演技させてみたら……。俄かにそんな熱情が他磨己の中に湧き上がってきた。
「女鳥。お前は兄さんと舞台に出る気はないか」
「舞台へ、ですって? 兄様と一緒に?」
驚いて振り仰ぐ妹の表情を、他磨己はじっと見定める。そこに何かしらの煌めき……自分が抱えているものと同じ、芸術に対する希望が、自分の才能を試すという欲求が、映りはしないかと。
「まあ……嬉しいけれど私、何も準備なんかしていませんわ……」
「準備なんか、これからしたって間に合う。台詞も振りも、皆教えてやるから」
「でも……」
「女鳥、覚えているかい。尋常の頃の学芸会で、大喝采を浴びたことを。兄さんが初めて演出もした、音楽入りの『舌切り雀』で、お前は雀の役をやって大成功したね」
「ええ、そうだったわね。懐かしいわ。……あの時、とても楽しかった」
溜め息とともに吐き出された最後の呟きを、兄は聞き逃さなかった。そこにこそ、彼女の本心が、芸術的な情熱と現状への不満が隠れているのではなかろうか?
「確かお前は、女学校に上がってからも学芸会では引っ張りだこなんだってね。どうだい、そこでは存分に暴れられるかい、ハハハ」
「暴れるなんて、嫌だわ、兄様。そりゃ、級の方達が推薦して下さるので出たけれど」
「今年は最年長だろう。級を上げて、随分力を入れただろう」
「ええ、沙翁の『ハムレット』を」
「『ハムレット』か。女鳥のオフェリヤは目も覚めるほど美しかろうな。或いは、ハムレットでも好いな。どっちをやったの」
「どっちもやってないの。私、ハムレットの父の亡霊役よ」
「まさか!」
「本当なのよ、兄様。オフェリヤやハムレットは、他になりたい方がいらして、級の会議でそちらに決まったの」
妹の言葉を聞いても、他磨己はまだ信じられなかった。美しく才能ある妹が、老け役に選ばれるなんて。彼女自身が立候補したのでなければ、同級生の嫉妬で、誰もしたがらない役を振り当てられたに相違ない。
「お前、自分で亡霊をやりたいと言ったのか」
「いいえ、ただどなたも引き受けなかったから、私が頂いただけ」
彼女は微笑すらして、そう言ってのけた。が、その言葉の響きはどこか暗く、他磨己の予想が正しいことを感じさせた。
こんな状況に妹をくすぶらせておいてはいけない。――彼は何としても、妹を自分達の仲間として迎え、思う存分その才能を発揮せしめようと誓った。――彼は、相手の肩に触れていた手に、再び力を込めた。
「兄様?」
「女鳥。これは俺のたっての頼みと思って、聞き入れてくれ。……一緒に舞台に立とう!」
兄の瞳は、真剣そのものの光を宿していた。それに半ば呑まれる形で、女鳥はうなずいたのだった。この行き当たりばったりの判断が、その後の自分の一生を永遠に変えてしまうなどとは、今の彼女には知る由もなかった。ただ漠然とした不安と希望がないまぜになって彼女の胸中を渦巻くのを、感じるばかりだった。
*題名は、根岸歌劇団で大正11年(1922年)5月に上演された「運命のジュリア」から。
*浅草は庶民的な(そしてある種の猥雑な)場所柄ゆえか、学校や家庭によっては子供の浅草行きを禁じた所もあった。女鳥は、程よくユルい学校と家庭に恵まれたわけである。
*土曜日は通常、午前中が学校で、午後は休み……というのを当時の少女小説で読んだ記憶があるので、ここでもそれに倣った。思い出せないのが口惜しい。
*戦前の女学生の普段着としては、着物が一般的だった。また、袴は学校でのみ着用するもので、帰宅後は脱ぐのが普通だった(現在のセーラー服の上着やブレザーみたいなものだと思えばよろしい)。とはいえ、女鳥は動きやすいのが好きなので、休日も私服としての袴を愛用している。
*明治~大正時代の舞台役者にとって、映画(当時は活動写真と呼んだ)はイカモノも同然。映画に出る役者なんぞは二流三流、という蔑みようだったそうだ。「土の上で芝居をする」はその軽蔑心が最も現れた言葉だろう。そのため、映画出演のオファーを嫌がる舞台人も多かった。
そのうち(1920年代あたりから)、映画の人気と質が高まってくると、名のある劇団との提携作を製作したり、舞台から映画界に転向する役者が現れたりするようになった。
*作中の喫茶・華は、所謂「純喫茶」と呼ばれる部類の飲食店。大正~昭和初期のメニューも、コーヒー、紅茶、ソーダ水、アイスクリーム、サンドイッチ等のパン類……と、現在と左程変わらないようである。
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