第1章 めぐまれざる芸術家

 ただいま、女鳥。

(兄様!)

 驚いて女鳥は――目を覚ました。瞬きをするまでもなく、そこは平常変わらぬ彼女の部屋である。少し失望して起き上がると、障子紙を透かして射し込む光に気がつく。もう朝なのだ。特別不愉快でもないけれど、何となく憂鬱な一日の始まり。

(せめて兄様がいらしたらよいのに)

 彼女はなお布団の上で、兄・他磨己の声を思い返してみる。このところ幾度となく夢に聞く兄の「ただいま」を。彼女はどれほど、それを現実で聞きたいと願っていることか。――中学卒業と同時に家出した兄だけれども、妹たる女鳥にはただ一人の優しい兄であった。

 そして今、自らも悩みらしきものを抱える彼女には……家を飛び出した兄の思いがわかるような気がするのである。

 かつて『舌切り雀』で満場の喝采を浴びた少女は、この10年の間に全く様変わりしていた。

 幼かった頃の彼女は、もっと自由で、自信に満ちていた。はにかみ屋だったのはあの学芸会の時が最後で、それ以降は3学年上の兄とともに歌や芝居の真似事を楽しんだ。大人が眉をひそめても声を張り上げて、芽生えかかった能力を誇示した。かの声楽の権威ロベルティーニ氏に直接手ほどきを受けているだけあって、その歌声は校内随一と誰もが称賛した。兄は授業で覚えた曲を、その日のうちに女鳥に教えたものである。「お前は声だけじゃない、頭もいい。詞も曲もすぐに覚えてしまうんだからね」兄がいつか言ってくれたことを、宝物のように胸に秘めて、喜びに耽る女鳥であった。

 しかし彼女は成長するにつれ、その歌声を次第に小さく、小さくしていった。いかに巧くても、辺り憚らず歌うことは「はしたないこと」と大人に言い含められ、学友達に「歌うたいの女鳥さん」とからかわれるうちに、彼女は「慎み」という枷を自らにはめていくようになったのだ。あたかも鋼の鎧のように。

 淑やか。大人しい。控え目。奥床しい。物静か。これらは他人が今の彼女によく与える言葉であり、今の彼女を外から見た時の雰囲気でもある。が、あくまでそれは鎧をまとった彼女の姿。本当はそうではないと、彼女自身よくわかっているのに、他人からは決してそう受け取られず、望まれない。この両者の間の溝ゆえに、彼女は自分が世間から一人、浮いているような、異質であるような気がしてならなかった。この不可視の溝を挟んで投げられる言葉や視線が、彼女自身をその場にいたたまれなくさせた。――いつしか、快活であるべき少女の顔は、瞳は、憂愁に支配されていくのだった。しかしながらそれすらも、人々は「慎み深い」と勘違いしてしまう。

 女鳥がそのように思い悩む一方で、兄の他磨己は全く別の道を選んだ。一家の長男としての責任や期待を蹴っ飛ばして、一人きり行方をくらますという道を。

 兄がそうした目的も、女鳥にはわかっていた。当の彼女の部屋の鏡台に、兄の書き置きの紙が貼り付けられていたので。そこには、仲間と芝居をするために家を出るということが至極簡潔に記されていた。――女鳥はこの紙を、今でも大切に持っている。そして、時折引っ張り出してじっと感慨にふける。彼を心配する気持ちとともに、その自由闊達さを羨む気持ちをすら抱いて……。

 ちなみに両親はこのような長男の安否を気遣うどころか、「あの子にも困ったものだね」と一言二言口にしただけで、今日まで探そうとすらしていない。

 ――着物を着替え、学校指定の臙脂の袴を短めに着付ける。姿見の鏡台には、アールデコ調に染め分けた振袖とあんどん袴、そして自身の断髪が映っている。この断髪を巡る一事件は、後ほどお話ししよう。

 着替え終わって、洗面所へ向かう時も、朝食と朝の挨拶のために食堂へ向かう時も、女鳥は何人もの女中や書生とすれ違った。しょっちゅう顔ぶれの変わる彼らには、どうしても彼女は親しみを抱けない。きっと相手もそうであろう。顔を合わせても気のない会釈で済ませる程度なのだから。……雇い主達から常に高い成果を求められ、彼らはそれにひたすら注力している。雇い主の子供とはいえ、給料を払ってくれるでもない娘に関わる暇などない。

「……母様、お早うございます」

「お早う女鳥さん」

 食堂には既に家族の膳が並べられている。母は早々と箸を手にして、お菜を摘んでいる。

「父様は今日も遅いの。女鳥さん、先にお上がりなさい」

「ええ」

 女鳥がそう返事し、手を合わせる頃には、母たる石川夫人の膳は半分程も綺麗になっていた。夫人がこうも急ぐのは、婦人会幹部としての仕事が忙しいからなのだ。明治の時代、女学校を優秀な成績で卒業した彼女は、家庭の内よりも外に活躍の場を見出し、そちらを軸に生活を送ってきた。それゆえに、家政を司る優秀な女中達が必要不可欠なのだった。

 では、今ここにいない父はどうか。研究者、技術者上がりの父は、某電気会社の重役として多忙を極めている。いつも夜遅くまで会議と接待に時を費やし、家にはただ寝に帰るだけという生活。優秀な書生達が雑事を引き受けてくれなければ、過労で倒れているに違いない。この2人は、10年前の『舌切り雀』も、多忙を理由に結局観に来なかった。それゆえ、子供達の活躍ぶりも人づてに聞いただけであった。

 全く、うちはどうしてこう極端なんだろうな。皆が皆、何か大切なものを忘れている気がしてならないよ。――兄が失踪する直前だったかに、朝食の席で呟いた言葉である。ずっと胸に残り続けた断片のような彼の声が、女鳥の内側で反復される。

「……ご馳走様でした」

 半ば囁くようにそう告げ置いて、彼女は食堂を出た。そこへ向こうからぼさぼさ頭の父がやって来る。

「父様、お早うございます」

「ああ」

 父は娘の顔を見ず、そう口ごもっただけで行き過ぎていった。背後では女鳥の膳を下げる無機質な音が響く。

 生きたまま埋葬されていくようだと、女鳥は内心で独り言ちた。そして、こうも思った。

 あの人達の忘れ物は、一体どこにあるのだろう。それとも、とっくにもう失われてしまったのだろうか……と。


 女鳥の住む東京・N町の自宅から、駅まで行く間に、商店の並ぶ通りがある。女鳥は毎朝毎夕この道を通って、自宅と女学校とを行き来している。

 先頃書いた「断髪事件」も、この通りに佇む理髪店で起きたのである。

 ――時は、女鳥が女学校の5年に進級する直前の、3月某日。母に財布を渡され、何事にも面倒臭そうな態度を取る女中とともに向かったのは、例の理髪店。女鳥一家には昔からの馴染みの店で、店側でも得意先扱いしてくれた。この日も、大事な石川家のお嬢様が来店したとあって、「さあどうぞどうぞ……」と店主自ら席に案内したほどだった。

 程なくして、その左隣の席にどっかと腰を下ろしたのが、洋髪に結い上げた近代娘。「ねえ、ちょいと。『シングル・ボブ』にしておくれ。コリーン・ムーアみたいなやつよ、よくって」「ええ、かしこまりました。切ってしまってよろしいんですね」「ええ、お願い」近代娘はそう言うや、自ら頭のピンを引き抜き、背中まである黒髪をふわりと靡かせた。同じ頃女鳥も、思い出したようにお下げの髪をほどいたのだった。

 そこへ忙しげにやって来た理髪師。米国で理美容の技術を学んで、少し前に帰朝してきたというこの店の息子である。それゆえ馴染み客の見分けがまだつかないが、腕だけは確実。今度も近代娘と良家のお嬢様の頭を同時並行でやってくれとの店主の命令。よし来たとばかり腕まくりして、左右に座る娘さんをちらりと見比べる。両方とも振袖を着けて、同じくらいの長さの髪である。顔はといえば、一人はぽわんとした如何にもお屋敷育ちの感じ。もう一人は愁いと知性を湛えた細面の美人。伏し目にするとふさふさとした長い睫毛が際立つ。店の息子はさっさと仕事に取りかかった。左の娘をお嬢様、右の娘を近代娘と合点して……。

 さて自分がシングル・ボブなる呼び名の断髪にされていくのも知らず、女鳥はうとうとと目を閉じていた。連日の期末試験の疲労が出たのだろうなと、夢うつつに考えるか考えないかという時。突如としてけたたましい叫び声が窓硝子を震わせる。

「お嬢様! ああ何ということ!」「も、申し訳ございませんっ」「一体どうお詫びいたしてよいやら……」

 周囲の怒鳴り声やら泣き声やらが降りかかって、漸く自分がうたた寝していたことに気づく。と同時に、真正面の鏡を見て吃驚……。いつも胸の先くらいの長さまで切ってもらうところを、耳の辺りまでばっさりと切り落とされているのだ。後ろを手で触ってみると、うなじの辺りを刈り上げてある。――その間も周囲の泣き言は止まらない。

「お嬢様どうしましょう、私奥様に合わせる顔がございませんわ」

 女鳥の心配というより、自分の馘の心配をしている女中。よよと泣き崩れる彼女の手には、しっかり婦人雑誌が握られている。大方、火鉢の傍で読み耽り、肝心要の令嬢に注意を払わなかったのであろう。

「お嬢様、誠に申し訳ございません。お詫びの仕様もございませんが……」

 店主と、その息子は土下座せんばかりに平謝りしてくる。殊に息子の方は、これが彼の生涯最大の過ちでもあるかのように、拳を握りしめてぐいと目を拭っている。

「あれ、石川さん所のお嬢様かい」「そうだよ。断髪もああした人がやると中々いいもんだねえ」「嫌だよお前さん、鼻の下伸ばしてサ……」

 他の客達も、渦中の令嬢を好奇の目で見つめる。モダンな姿に見惚れる者、みどりの黒髪を残念がる者、或いは令嬢が怒るか怒らないかと密かに予想を立てる者……誰一人として女鳥自身の気持ちを考えず、自分の好き勝手な感情を彼女に投影する。

 女鳥は頃合いを見計らって、やっと店主達に微笑を向けることができた。

「あの、お気になさらないで下さいまし。断髪もやってみると、ようございますわね」

「お嬢様! 本当にそう仰せられるのですか」店主の驚きに、客達のどよめきが重なり合う。

「ええ、頭が大分軽くなって、解放されたみたいですわ。……ほら、お喜代さん、いつまでも泣いていないで。母様には私から言っておいてあげますから」

「お嬢様ア……」

 かくて、間違いで断髪にされた令嬢は、怒るどころか、寛大な笑みを湛えて店を後にしたのであった。安堵に咽び泣く女中を連れ、銘仙の振袖も軽やかに……。「仏みてえにお優しい方だなあ」「断髪ってやあ馬鹿にしとったが、中々いいもんだねえ。どうだいあの後ろ姿、シャンじゃねえか」「嫌なお前さん、外まで出て見に行く人があるもんかね……」店の内外では彼女の噂がまだまだ続いていた。――これが、「断髪事件」のあらましである。

 女鳥は自分が断髪にされるなど思いも寄らなかったが、店主父子にも言った通り、頭が軽くなって快適だった。断髪それ自体への嫌悪感は全くといってよいほどなく、今ではすっかり断髪党である。ただ、周囲の人々から向けられる眼差し――好意的であれ、軽蔑的であれ――が彼女の心を萎縮させる。まっすぐに前を向くべきその面を、伏せさせる。

 例の理髪店の前を通りがかると、ちょうど店の息子が外に出て掃除をしていた。彼は目ざとく女鳥を見つけて、恭しく一礼した。

「お早うございます、お嬢様。これから学校ですか」

「ええ」

「お気をつけて行っていらっしゃいまし」

「ええ、ありがとうございます。では、失礼しますわね」

 女鳥も微笑んで一礼する。息子は、遠ざかりゆく令嬢の後ろ姿をずっと見送っていた。時は朝の7時40分。学生や勤め人の往来が段々増えて来る頃合いである。

「……おい、今日は見たのかい、『もだん・べる』をよ」

「ああ、ついさっきすれ違った。近代美と知性美を融合した、あれこそ新時代の美人だね」

「最近流行りの水兵服になぞしないのが、奥ゆかしくて実にいい」

「あれは、学校の制服が和服だからだろう。『もだん・べる』の趣味は本来洋風だと思うぜ、断髪にもしていることだし……」

 大学生2人が、興奮した口調で話しつつ歩いて来る。彼らに限らず、この辺りの学生連中は皆、シングル・ボブに袴姿の女学生、即ち女鳥を「もだん・べる」と呼んで崇拝している。「もだん・べる」とは、近代の(Modern)美人(Belle)を意味する、彼らなりの造語らしい。

 崇拝だけならよいが、中には声をかけてお近づきになろうという大胆な者もいる。理髪店の息子が「お気をつけて」と女鳥に告げたのも、一部にはこうした不埒な輩に引っ掛からないよう促す気持ちからだった。なんなら、こう続けるべきだったかもしれない。「変な奴に絡まれたら、ご遠慮なくうちの店にお逃げ下さい」と……。

 自分がそんなにまで心配されているとも知らない女鳥は、駅までの道のりをひたすら歩き続けていた。頭の中を、その日の時間割のことで一杯にしながら。


 家庭に比べれば、まだ学校の方が幾分か過ごしやすかった。ここには女鳥の理解者が何人かは存在しているので。しかしその何人かを除けば、残りははっきりと二分される。彼女を崇拝する者と、軽侮する者と……。

 そもそも、石川女鳥という生徒は、彼女自身も感じる通り、浮いた存在であった。殊に、級では彼女という孤島を巡って絶えず生徒同士がいがみ合っているのだから、たまらない。

 その対立が激化したのが、5月の学芸会であった。校外からの客人も多く見物する中で、各学級が合唱や寸劇などを披露し合うのだが、女鳥の属する5年3組は、シェイクスピアの『ハムレット』の要約版をやることに決めていた。

「私、オフェリヤをやりたいわ。みんな、よくって」

 兵藤染子が立ち上がり、周囲を見回す。日頃、級の女王として振る舞う彼女である。異論を挟む者はない。ただし、その相手役にして主役のハムレットのこととなると、そう簡単にはいかない。

「絶対、石川さんがいいわ」女鳥党の生徒達が口々に言う。「石川さんは去年も一昨年も、主役をやって大成功だったのですもの。今年も出てもらわなきゃ、皆様承知しないでしょう」

 確かに女鳥は、周囲の推薦もあって毎年学芸会の主要人物となっていた。――所謂「慎み」を身に着けた彼女といえども、音楽の授業などでその才能の片鱗を見せることはある。それがいつの間にか、彼女を舞台に立たせようという学友達の後押しに繋がっていた。また、詮索好きの人々が彼女の小学校時代の噂を耳にして、大いに宣伝したことも手伝っていただろう。……こうした応援を受けて、女鳥も最初こそ面映ゆかったが、いざ練習を始めるとやはり楽しくなって、その間だけは何物をも忘れて打ち込んだ。幼い頃の兄との思い出を、無意識のうちに追いかけていたのかもしれなかった。――普段は至極大人しい生徒が、学芸会の時ばかりは全身全霊の熱演。瞬く間に学内外の評判をさらってしまうとあっては、級の代表として出場させたいと思う者が多いのも当然であった。

 しかし、その成功を快く思わない者もまた多かった。割合としては半々くらいか。その筆頭が、かの級の女王、染子なのだから形勢甚だ心許ない。

「石川さんを主役にするの反対。石川さんにばかり頼って、他にいい人がいないと思われては、級の恥ですもの」

 染子党の面々、「そうよそうよ」と声を上げる。こうなっては女鳥党も負けておられぬ。

「他にいい人がいるかどうかよりも、見物にいらっしゃる方にとっては石川さんが出るかどうかの方が重大なのよ。ここでその期待を裏切っては、却って恥になるわ」

「でも、一人の人気におんぶに抱っこなんだと少しでも思われるの、私悔しいわ。そう思わなくって」

「おやおや、そうおっしゃるところを見ると、我らがオフェリヤの引き立たないのがお嫌だとでも言いたそうですわね、ホホホ」

「マアッ何て酷い」

「お怒りになったということは、きっと図星だったのねえ」

「まあまあ、皆さん落ち着きなさいましよ」

 女鳥党と染子党の両派は、級長の沼田潤子によって引き分けられた。彼女は常に中立を保っている数少ない生徒の一人である。優しい眼差しで一同を見回し、彼女はこう提案した。ハムレットを決める前に、他の役柄から先に議論しないか、と。

「賛成、賛成」

 先まで対抗し合っていたのが嘘のような快活さで、生徒達は意見を出し合った。国王役はこの人がいい、ポローニアス宰相はあの人が適している、云々。それらの役名と候補者名が次々と黒板に書き出されていく。ハムレットと、それから先王の亡霊役(誰もオバケになりたがらなかった)以外は全て決定したところで、

「さて、この流れでハムレットは……」

 潤子が黒板に「ハムレット」と記した途端。再び教室内の空気が冷たく張り詰めた。またか……潤子は内心溜め息を吐きながら、顔だけは微笑を浮かべて振り向く。

「どうでしょう、石川さんが候補に挙がっていたけれど、他にハムレットをやりたい方、いらして? 推薦でもようございますよ」

「それなら、オフェリヤをやる私から推薦しますわ。……郡司さんが相応しいと思います、いかが」

 微かだがざわめきが起きる。郡司夏子という生徒は入学したての頃から、その雅やかな容貌で随分騒がれたものだった。今日は上級生の誰々が会いに来た、今日は袂に何通お手紙が入っていたなどと逐一噂になって、学校中にセンセーションを巻き起こした彼女……。しかしそれもかなり前のことで、平凡な一生徒となった今は往時の華々しさは殆ど失せていた。代わりに、女王染子のご寵愛に甘んじるばかりである。

 ざわめきが起きたのは、染子が愈々この大切な学芸会の場を、自らの独壇場にしようとしていると受け取られたからだった。女鳥党にとっては許すべからざる横暴に等しい。

「反対、反対! 主役になるなら華もあり実力も優れた人でなくては、舞台が締まらないわ」

「郡司さんに実力がないというわけじゃないけれど、やっぱり石川さんの方が安心して任せられるんじゃなくって」

 また両派分かれての論争が始まったので、級長の出動。

「お待ちなさいよ、皆さん。私達、大事なことを忘れておりますよ。まだ郡司さんと石川さんの気持ちを聞いていないじゃありませんか」

「あら……」「ええ……」双方は初めて我に返ったように、件のハムレット候補を見やった。

「郡司さん、あなたはハムレットをおやりになりたいの」

「望まれれば、いたしたいと思いますわ……」何事にも控え目に答える癖がついた夏子は、しおらしくそう呟いた。

「では、もう1つ決まっていない役で、先王の亡霊の役があるのですけれどね。こちらは、如何」

「まあ、困っちまいますわ、オバケの役だなんて、ホホホ……」

 袂で口元を隠す夏子。しかしその切れ長の瞳は明らかに嫌悪を表していた。これでは、ハムレットをやるか、或いは何もやらないかのどちらかであろう。――潤子は今度は女鳥の方に向き直った。

「石川さん、あなたハムレットおやりになりたい」

「……他になり手がないのでしたら」

 女鳥党の落胆の声、染子党の歓喜の吐息が入り混じる。当人の心の内――相対する人々の欲求の板挟みに遭った苦しみ――をも知らで……。

「それでは、石川さん、先王の亡霊役は」

「……それも、他になり手がないのでしたら、謹んでお引受けします」

 かくて、ハムレット役は夏子に、先王の亡霊役は女鳥のものと決まった。

 この結果に不満たらたらだった女鳥党の面々だったが、練習が始まると大いにその溜飲を下げた。染子党の陣営がどんなに悪し様に言おうとも、否、言えば言うほど、女鳥の巧みさは際立つばかりであったから。主役2人にとっては、甚だ面白くない事態だったが、ここで投げ出しては敵の思うつぼだと互いに励まし合い、熱心に役に取り組んだ。その努力は認められてよかろう。

 そして、学芸会当日。女鳥のいる級とあって、前評判は上々。熱っぽい期待と緊張感が、満場の講堂内に充ちていく。嵐のような拍手の中、開幕。中央に立つは、ハムレットの夏子。その衣装の豪華なことでは、優に他の級を凌ぐ。下手前に立つ説明役の生徒が短縮した部分の粗筋を語り、その間に寸劇を披露していくという趣向だったが、これだけでも十分な見応えを感じさせた。……女鳥はこのすぐ後の出番に備えて、既に上手袖に控えている。甲冑を模した銀布の衣裳と黒いマントを纏い、小道具の杖を持ち、白髪のかつらを被って。

「さて、この後ハムレットは父たる先王の亡霊が出没するとの噂を耳にします。……」

 説明役のみに照明が当たる中、女鳥は暗闇の舞台上へと音もなく進む。背景と同じ色のマントで自らの姿を隠し、照明の光を避けながら。

……説明役が捌け、不気味な静寂が辺りを支配しかけた時。立ち位置についていた女鳥が、黒いマントをずり落した。観衆の目には、突如として白髪と横顔が浮かび出たように見えたはずである。ハッと息を呑む音があちこちから響いた。

亡霊の女鳥は、手招きするように杖をゆっくりと振った。それにつれて、息子ハムレットが上手から、剣を構えつつ歩み来る。……亡霊の唇が動き出すのを、観衆は、級友達は、固唾を呑んで見守る。

「私はもう戻らねばならぬ。地獄の業火に、我と我が身を責め苛む朝が近づいた……」

 水を打ったごとく静まり返る講堂。亡霊の、低いが澄んだ声のみが響いていく。

「息子よ。かの非道なる殺人の恨みを晴らしたまえ。父の死因につき言いふらされし故意の流言……」

 彼女は、否、彼は、自らを殺めた現国王クローディアスの悪事を告白し、復讐を託して消え去った。現れた時と同じく、黒いマントを引っ被り、背景に紛れて脇に退いたのである。――女鳥の出番はこれで終わりであった。しかしながらこの後、ハムレットが「生きるべきか死ぬべきか」の名台詞を述べても、オフェリヤが絢爛豪華なドレスで「ヘイノンネー」の歌を歌っても、そして最後の大立回りを演じさえしても、遂に亡霊ほどの賞賛を得ることはなかった。それは、カーテンコールで女鳥が登場した時の方が、染子や夏子の時より拍手が大きかったことからも窺い知れる。

 見た目に美しい役でもなく、出番も多くない彼女が観衆の支持を得た。これを女鳥党の大勝利と言わずして何と言おう。

「いい気味ねえ。いくら見せ場が多くったって、本当に優れた人の前では敵わないものね」

「ええ。あんなに衣装に凝っておられたのに、目立てなくてお気の毒だわ」

 更衣室にあてがわれた空き教室で、女鳥の信奉者達はこれ見よがしに敵対者を皮肉った。ご本尊の女鳥は今しも白髪のかつらを外し、断髪の頭を軽く振ったところ。それすらも、敵対する党派の間では全く異なった受け取り方をされる。

「どうでしょう、これ見よがしに断髪を見せびらかして。何ですか、ちょっと拍手が大きかったくらいで自慢気に」

「まあ、お優しい方! 私達が向こうの人達をからかったのを、首を振ってお止めになるなんて」

 ――これが、「ハムレット事件」のあらましである(断髪といいハムレットといい、事件ばかりで申し訳ない)。最後の呟きでわかるように、これ以降、彼女は激しい憎悪と崇拝に晒されるようになる。真逆の反応のように思われるけれども、どちらにしても彼女自身を理解しようとしない、一方通行の感情には違いない。


「ご機嫌よう、石川さん」「ご機嫌よう」教室の中ほどにある女鳥の机に、挨拶に来る生徒は幾人かいた。大概は女鳥と親しいことを誇示したいという生徒だが、そうでない者も確かにいた。級長の沼田潤子もその一人。

「ご機嫌よう」

「あら、ご機嫌よう沼田さん」

「最近お元気なさそうだけど、何かありまして」

 少しばかり首をかしげて尋ねる潤子。お愛想でも好奇心でもなく、純粋に自分を労わってくれる。しかも気遣わせないように軽い調子で聞いてくれる優しさが、女鳥には嬉しく有難い。また、そうした心遣いの自然にできる相手なればこそ、慕わしくも思われる。

「全くいつもの通りよ。でも、この頃考えることがあるの……」

「どんなことを?」

「私、自分が時々、ままごとの人形になったように感じるのよ」

 持ち主の空想ひとつで、天使にも悪魔にもされ得る人形。持ち主の空想が人形に幻の台詞を言わせ、感情を表させる。慰める役割を演じてほしければその通りに振る舞ったことになり、おいたをはたらいたことにしたければその通りに振る舞ったことにできてしまう。実際には何もしていない(できるわけがない)人形が、持ち主の目と心を通して、都合のよい存在へとその内側を変えられていく。

「私、自分が好かれたり嫌われたりする理由が、自分自身にあるのかどうかがわからないの。なんだか、現実の私が色んな形に誇張されて、それを見た人が各々喜んだり怒ったりしているみたいで」

「ええ」

「こういう時、どうすればいいのかしら。……いいえ、万人に好かれたいとか、嫌われたいとかじゃないのよ。ただ、誤解を受けずに平穏に過ごしたい、それだけなの」

「ええ……」

 潤子は微笑のうちに答えを濁したが、内心「あなたには無理よ」と呟いていた。

 この世には、本人が望むと望まざるとにかかわらず、他人を惹きつける人間が存在するものである。女鳥も間違いなくその一人であると、潤子は感じていた。こういう人々は、人目に立ちやすい分、その表面のみで判断されることがしばしばある。それゆえに誤解を受けやすい。自信家であったり世渡り上手であったりすれば、左程の困難もなく、寧ろそれを武器として立ち向かえるだろう。が、この女鳥は決してそうではなかった。多くの美点を有していながら、それらを使いこなす柔軟さも自信も持ち合わせていないらしかった。

「元気をお出しなさいな。あなたがお考えになるほど、世の中は複雑じゃありませんことよ、ねえ」

 結局、潤子はそう言って女鳥を慰めるしかできなかった。彼女が相手の机を離れた頃、朝のベルが校内に鳴り渡った。

 ――1時限目は英語の授業。教師はアメリカ生まれのミセス・ベイヤード。

「Good Morning, Everyone…」

 ミセスはいつもの挨拶から「教科書の何頁を開いて下さい」ということまで、全て英語で話してしまう。下級生の頃からみっちり叩き込まれている5年生相手ともなれば、これで十分授業が成立する。ミセスがたどたどしい日本語を披露するのは、新しいことを教える時と、授業に関係ない事柄に触れる時だけ。

 女鳥はこの英語の授業が楽しみであった。ミセスの喋る英語は音楽のように流れて、耳に心地よい。加えて、ミセスの人柄、さっぱりとしているが温かみも感じられるところが好もしかった。

 黒板に次々書き出されていく英文を写していると、ふいに女鳥の周囲の席で密かな笑い声がした。

「あの列に回すのね」「ええ、よろしく」「何お書きになったのよ」「嫌、せっついちゃあ」

 この頃、級で流行している手紙のやり取りである。厄介なのは、授業中を狙って密かに取り交わされることだ。勉強がつまらないからというよりも、大人の目をかいくぐって秘密裡の行為を成功させることに快感を覚えるから、とは誰かさんの言。

 ミセスの発言と黒板に集中しようとしているのに、と女鳥はやや不快になりかけた。気が散るというほどではないけれど、何か落ち着かなく感じる。――手紙の交換を止めろとまでは思わない。ただ、無関係の人間を巻き込まないでほしい。良くも悪くもそうした考えを強く抱くがゆえに、女鳥は級に、というより団体に馴染み難いのである。当人はそれに気づいているのか、否か……。

 と、黒板からノートに視線を下ろした時だった。見慣れぬ水色と紫色のレターペーパーが、それぞれ彼女のノートの上に置かれていた。今しも例文に下線を引こうとした彼女の手は、そこではたと止まってしまう。……教室内の微妙な雰囲気を嗅ぎ取ったミセスが、教壇から視線を巡らせた。

「誰か、勉強にいらないこと、していませんか」

「……」

 答える者はない。ただ幾人かの生徒が目線を送り合ったのみ。その目線の先が、石川女鳥の席であることをミセスは素早く読み取った。彼女が隠れて不真面目な行いをするなどとは、俄かには信じられない。

 無言で教壇を降り、つかつかと机の間を歩いていくミセスの姿を、不安と好奇の眼差しが追う。

「……石川さん。これ何です」

 ミセスの靴が止まったのが、孤高の生徒の席とあっては驚かざるを得ない。授業中であることも半ば忘れて、級生達は息を呑んだり、近隣の仲間達と囁き合ったり。その間も視線は、女鳥とミセスの2人に注がれる。

「これ、何ですか。石川さん」

「手紙だと思います」

 女鳥は相手の青い瞳をじっと見て、答えた。

「思います? あなたのもの、違いますか」

「私のものじゃありません。気づいたら2枚とも、ノートの上に置いてあったのです」

「まあ、言い訳しようとしているわ、見苦しいこと」「お止めなさいよ、聞こえてよ」「でもいくら先生のお気に入りだって、今度はごまかせないわ」意地悪い連中の噂話が女鳥の耳にもうっすらと入ってくる。状況からして疑われるのも仕方ないだろうことは、女鳥もよく理解しているが、やはり誤解されることは苦しい。慕う師の前だけに、余計その思いは募る。

 一方ミセスは、丹念に2枚のレターペーパーと、女鳥のノートの字とを見比べていた。日本語の文字はよくわからないが、手紙の筆跡はどれも女鳥のものではないように思われる。それからなお数分も検視して、一同の注目が集まる中、ミセスは判決を下した。

「これ、石川さんの字、違います。彼女、悪くありません。……これは私持っています」

 張り詰めていた空気が一度に緩む。ミセスはそれ以上追及しようとはせず、いつも通りの授業を続けた。生徒達もまた元のように、ミセスの発音や黒板の文字に意識を向けた。……が、それは彼女達が手紙の件を忘れ去ったわけでは決してない。授業が終わり、ミセスが教室を出るや否や、彼女達は抑えていた感情を噴出させた。女鳥の取った行動がここでも、2通りの受け取り方をされる。毅然としていたという好意的なものと、級友を庇う素振りは見せてもよいのにという否定的なものと。

「石川さん、災難でしたわね」

 潤子がわざわざ近寄って、気の毒がってくれる。

「仕方ございませんわ」

 そう笑って返そうとした時だった。小さい影がひょいと2人の間に割り込んできたのは。

「本当にごめんあそばせ、石川さん」

「あら、どうなさったの、土居さん」

 茶目かつ熱心な女鳥党で通る生徒、土居が手を合わせて拝んでくる。ちょっと滑稽な格好で吹き出しそうになるが、同時に何かしら嫌な予感を覚える。

「ね、黙っていてはわかりませんわ。どうなさいましたの」

 女鳥がたまりかねて聞くと、漸く土居は顔を上げた。

「あのう……さっきミセスに没収された手紙、取り返していただけない?」

「え?」

「石川さん、ミセスに好かれているんですもの。私達が行くと怒られそうだから……ね、頼まれて下さいな」

 さりげなく土居の背後に目をやると、成程、仲間らしき数人がこちらの反応を窺っていた。

 怒られるのが怖いなら、初めから手紙の回覧なんかやらなきゃいいのに……。

 女鳥も潤子も、憤るより呆れが先に立って、揃って盛大な溜め息を吐いたのだった。



*題名は、根岸歌劇団で大正10年(1921年)1月に公演された「めぐまれざる詩人」から。

*大正末期~昭和初期にかけて、女学生の制服としてセーラー服が広まっていった。個人的に、振袖+短めの袴(ふくらはぎが見えるくらい)+タイツもしくは長靴下+革靴の組み合わせに憧れがあるので、こちらを採用。

*コリーン・ムーア(Colleen Moore (1899-1988))は、1920年代に活躍したハリウッド女優。黒髪のおかっぱ頭を振りふり、ジャズに合わせて踊る「フラッパー」娘の役で一時代を築いた(フラッパー以外の役も多く演じているが)。出演作は『青春に浴して』(Flaming Youth :1923)『微笑みの女王』(Ella Cinders :1926)『ライラック・タイム』(Lilac Time :1928)ほか。ちなみに、実はよく見るとオッドアイ。とはいえ、白黒映画なので正直わからない。

*昔の少女小説で、女学校が舞台のものだと必ずといっていいほど学芸会の場面が出てくる。作中のヒロインが重要な役所に選ばれたり、あるいはヒロインの憧れの君が主役だったりする。衣装もかなり凝っていたようである。今回は、西条八十氏の『花物語』中の一作「ハムレットの幻」に因んで、ハムレットを取り上げた。

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もだん・べる 香月文恵 @fumie-k

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