もだん・べる

香月文恵

乙女の望み

プロローグ 小歌姫

 年に一度の学芸会。小学校の講堂は児童とその家族と近所の人々とで溢れんばかりである。既に1年生、2年生、3年生の演目が済んで、初めほどの緊張感はなくなっていたが、その代わりに和やかな空気が辺りに充ちていた。

 それを再びぴりりと引き締めたのが、4年1組の演目『舌切り雀』であった。


 ……中央に藁葺き小屋、その後ろに青々した小山を連ねた背景画。その前でお爺さん――くすんだ色の着物と被り物を着けた男子――がうろうろする。と、そこへちょこちょこと走り出てきた小さな影。


「おお、何と可愛らしい雀じゃ。のう、こちらへ、こちらへ」


 お爺さんが相好を崩して、屈んで手招きする。その仕草も台詞回しも、子供にしては巧みすぎるほど巧みである。そして相対する雀役の小さな娘も、中々の芝居巧者であった。小豆色の小袖に黒い帯を締めた可憐な雀は、恥ずかしそうにもじもじしているが、その表情は好奇心に輝いている。おっかなびっくり首を伸ばしてみたり、しゃがみ込んで見上げてみたり。お爺さんを観察する姿の、いじらしくも微笑ましい姿。やがて雀はちょこちょことお爺さんの腕に飛び込む。


 観衆はこれが学芸会だという事実も忘れて、あたかも大人の舞台を観ているような気持ちで『舌切り雀』の世界に引き入れられていた。


「あの雀の子ね、あの子だけ1年生なのですって」「あら、そう」


 客席のどこかでこんな囁き声が交わされても、舞台に夢中の人々はさして気に留めなかった。よくよく考えたならば、異例も異例の大抜擢だと気がつき、驚嘆したことであろうが。いや、この後驚嘆することになるのだが、まだこの段階では誰も不思議に思わなかったのだ。


『舌切り雀』の物語は続いていく。お爺さんに飼われた可憐な雀は、しかしながら意地悪なお婆さんに舌を切られて追い出されてしまう。翌朝、雀のお宿を探して歩き回るお爺さんの耳に、懐かしい歌声が聞こえてくる。


  舌切り雀のお宿はここよ

  舌切り雀のお宿はここよ……


 雀役の娘の歌は、決して大きくはないが、講堂の隅々にまで届くほどの声量があった。また、その声は、どんな高音でも心地よく思わせる柔らかみを帯びていた。実に巧い、と口には出さずとも誰もが感じていた。今の娘は赤い振袖で、藪を模した背景幕の間から現れて歌っていたのだが、少し横に目を転じれば、内心の誇りを隠し切れぬお爺さんの表情に気づくだろう。しかし幸い、観客は皆、雀に心奪われていたので、物好きにお爺さんの方を観察するようなことはなかったのである。


 その後は雀に扮した児童らのダンス、小さなつづらを貰って帰ったお爺さんとお婆さんの諍い、そして大きいつづらを強奪したお婆さんが、そのつづらを開けてしまったがために数多の魑魅魍魎に襲われるというお決まりの物語を辿って、終幕と相成った。


 講堂は割れんばかりの拍手に包まれた。閉じた幕の前に、出演者たる4年1組の児童達が整列するとそれは一層強まった。

 と、真ん中に立つお爺さん役の少年がふと後ろを振り向き、幕をちょいとからげる。半ば引っ張り出すようにして促してきたのは、例の、赤い振袖の雀の少女……。


「ブラーヴォ、ピッコラ・ディーヴァ(天晴れ、小歌姫よ!)」


 前から5列目に座っていた伊太利人の紳士が、そう叫んで、立ち上がって拍手した。辺りの日本人もつられたのか、次々と立って拍手を贈り始める。これには舞台上の児童達、とりわけ「小歌姫」は嬉しさよりも驚きが勝って暫し呆気に取られた形。それを察したお爺さん役の少年、自ら少女の手を引いて一歩前に出た。そして、少女とともに深々とお辞儀してみせたのである。後ろに居並ぶ児童達も反射的に礼をした。――少年の咄嗟の機転が、この場を当日一番の感動的なハイライトにしおおせたわけだった。


 残りの演目――4年1組の大熱演の後では、上級生の存在感など単なるデザートのようなもの――が終わって、講堂の外に観衆がなだれ出ていく。人々の噂はやはり、『舌切り雀』に終始した。殊に、お爺さんの少年の芝居の巧みさと、雀の少女の可憐な歌姫ぶりに……。やがて、講堂から程近い所にある大樹の蔭に、幾重もの人垣ができた。その中心に、件の主役2人がいるのは書くまでもない。


「お2人はご兄妹?」

「坊ちゃんも嬢ちゃんも、とても上手だったよ」

「お嬢ちゃんは1年生ですってね?」


 並居る大人や上級生達に取り巻かれて、妹の方は兄の背に隠れて恥じらうように黙っていた。そうした態度が、なお人々の愛情を掻き立てるのだとは微塵も知らないらしかった。その点兄の方が計算高く、度胸もあった。妹には兄の姿が、どれほど頼もしく思われたことか。

 そこへ、大柄な人影がぬっと割って入ってきた。


「オオ、ピッコラ・ディーヴァ! ここにいたのですか」


 先程の伊太利の紳士が、微笑を湛えてやって来たのであった。傍らには通訳か秘書と思しき日本婦人がついている。


「あなたの歌、とてもお上手でした」

「……ありがとうございます」

「私、ロベルティーニといいます。ナポリの劇場で歌を歌っていました」


 その名は、音楽や社交界に造詣のある人ならば誰もが知る、声楽の権威に違いなかった。驚嘆の吐息があちこちで上がる。


「あなたは、名前、何ですか」


 紳士は屈み込んで、硝子玉のごとき青い瞳を少女に向ける。


「……石川、女鳥です」

「メドリ、さん?」

「はい」

「素敵な名前です。あなたの声と同じくらい、素敵です」


 彼は少女の小さな手を優しく握って言う。


「あなたほど見込みのある子供は、私の国伊太利でも珍しい。あなたは歌の勉強するべきです。一生懸命に勉強する、あなた素晴らしいディーヴァになります。私、保証します」


 取り巻きの人々は、僅か7つの少女が自らの才能で以て幸福を掴む様を、それこそ芝居を観るような気持ちで凝視していた。紳士は背広のかくしから2枚の名刺を出し、少女とその兄に手渡した。家族と相談したうえで、是非とも自分の邸宅に歌を習いに来てほしいという。


「ええ、ロベルティーニさん。僕から父さんと母さんに話して、きっと説得させてみせますよ。僕が一番、女鳥の才能を買っているのですから。4年生のだし物に唯一人、1年生の妹を抜擢したのも僕の考えだったのですから」

「成程、そうだったのですか。それはあなたに感謝しなければなりませんね。未来のディーヴァを私の目に留まらせてくれた恩人です」


 兄は心底から誇らしげに胸を張って、ロベルティーニ氏と固い握手を交わした。


 声楽界の重要人物に見込まれ、賢い兄の多大な後押しを受けた少女の前途が、明るくないわけがない。誰も彼もが、このはにかみ屋の少女の上に、華々しい未来を見た。当の女鳥でさえ、考えもつかなかった喜びに胸を膨らませ、これから来るだろう楽しい日々に、思いを巡らせたのである。



*題名の「小歌姫」は、日本歌劇協会で大正6年(1917年)4月に公演された「小天使」から。

*大正時代は「お伽歌劇」の隆盛した時代だった。作中の『舌切り雀』や、桃太郎を元にした『ドンブラコ』『浦島太郎』『花咲爺』などが上演されている。当時の小説に、女学校の学芸会で『ドンブラコ』を演じた、などの記載があることから、宝塚少女歌劇団等のプロ集団に加えて、アマチュアの演者にも広く演じられていたのでは、と思われる。

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