女神を私は引き裂いた

空間なぎ

第1話 罪

本当の自分なんて存在しない。本性なんてない。

人は皆、偶像だ。

自分の見たいものを見る。

自分の見せたいものを見せる。

信じたいものを信じる。

見たくないものから目を逸らす。

信じたくないものを疑う。


アイドルの熱愛報道が出ると、SNSには賛否両論の渦が生まれて誰も彼もが好き勝手につぶやく。

賛成派。

曰く、「アイドルも人間だから」。

否定派。

曰く、「夢を見せて金をもらってるんだから」。

どちらも正しく、どちらも間違っている。

山口未鈴やまぐちみすずはそう思う。


「だって、私はそうだと思うから。」


酷暑をようやく終えた今年の10月は、秋の訪れを歓迎する間もなく初冬を迎えていた。あまりにもあっけない秋の去り際に、追いつかない店頭のハロウィンが虚しく佇んでいる。歳を重ねるごとに早まるクリスマスケーキとおせちの広告にすら、疑念を抱かなくなる10月のある日だった。

未鈴はいつも通り、通勤電車に揺られながら大学までの道のりを順調にこなす。手元のスマホから伸びる有線イヤホンの存在が、変わりない日常を少しだけ輝くものにしてくれる。正確には有線イヤホンから流れる未鈴の「推し」の声……アイドルグループ「Redup」のリーダー、羽衣ういの甘くとろけるような歌声が。


未鈴は昔からアイドルが好きだった。

かわいらしい衣装に歌、ポップな曲調にアイドルたちの魅力が詰まったミュージックビデオは見るだけで胸を高鳴らせるし、なにより現実離れした美貌に体格、常識からは考えられないストイックな体重管理やダンストレーニングには感嘆の念を抱く。そのうえテレビに出れば面白く、動画投稿サイトでは飾らない姿に親近感が湧き、ライブでは最高の姿を見せてくれる。

欠点などあるはずもなかった。未鈴の周りの大人たちは「会えもしないのに」「所詮ビジネス」と、若さから生じる熱をすべてアイドルに捧げる彼女をバカにした。同じCDを何枚も買い廃棄する、その作業に違和感を覚えた経験がないといえば嘘になる。しかし業界の不健全さを訴える評論家も外野から投げつけられるランキング操作の疑惑も、羽衣が笑う未来のためであれば些事に過ぎない。未鈴はただ、自分に持ちうる金と時間を羽衣のために投資し、ひたすらに前を向いて進んでいるだけだ。


「推し活」や「ガチ恋勢」などの言葉が流行し始めてから未鈴は初めて世界で生きる感覚を得た。世間が自分にようやく合格の烙印を押してくれたのだと安堵したのもつかの間、羽衣の所属するグループのうちひとりが熱愛報道で炎上した。

匂わせ。裏垢。数々の一致する証拠。共通する絵文字に、日付をズラして投稿された同じ風景の写真。誰が見ても、擁護のしようがない真っ黒な真実がそこにはあった。


迷惑を被ったはずの羽衣が頭を下げ、グループは活動を休止した。数ヶ月後、該当のメンバーはスタッフによる暴言で事務所から契約解除され、グループから脱退という形で騒動は終わった。

どのみち未鈴には関係のない話だった。

恋にうつつを抜かした奴のせいで羽衣の活動が止められたのは腹立たしいが、炎上も契約解除も脱退も他人事。界隈で言うところの「他担・他ペンは黙ってて」に従い、未鈴は小さな水溜まりが風に吹かれて波立つのを俯瞰していた。


そのせい、なのだろうか。

自身の異変に未鈴が気づいたのは、騒動の終結から約2ヶ月が過ぎた10月のことだった。


イヤホンから流れる羽衣のパートが終わり、次のパートが始まったタイミングで停止をタップする。電車は1分の誤差なく未鈴の大学の最寄り駅に停車し、染まった髪とキャンバスバッグの若者たちを数人降ろした。未鈴も例外なく、高校を卒業したタイミングで黒髪を茶髪に、スクールバッグを通学用のキャンバスバッグに変えたものの、それはあくまで保護色に変化したに過ぎない。羽衣に対するファンとしての最低限のマナーの意味が大半を占めていた。スマホに羽衣のトレカを挟み、バッグに羽衣のキーホルダーを下げる以上、未鈴は羽衣のファンとして扱われる。

最寄り駅とはいえど大学まで徒歩で15分程度かかる道のりを選んだのは、効率を考え自宅から大学まで乗り換えなしの路線にした結果だ。羽衣のため、そして自分のために受験した大学は就職率こそイマイチなものの、教授の紹介欄には業界の有名人が名を連ねている。決め手となったのは「映像制作を学べる」と紹介された表現学部で、いつか羽衣のミュージックビデオの制作に携わるのが未鈴のささやかな夢だった。

無論、本当の夢はその先の先にあるのだが。


灰色の階段を下り改札を抜け、さびれた広場が鎮座する駅前ロータリーを通り抜ける。駅の正面から直線に伸びる大道路、それが未鈴の通学路だった。サラリーマンや高校生がバスに詰め込まれ、徒歩の小学生や未鈴を呆気なく追い越していく。入学当時はそこに未鈴も含まれていたのだが、CDのため節約するに越したことはない。慣れてしまえばバスに対する憧憬も嫉妬もなく、取り出したスマホの再生ボタンをタップした。雑音のあとにやって来る羽衣の甘い声がたまらなく愛おしくて、未鈴はたびたび現実を忘れて没頭してしまいたくなる。叶うのならば、ずっと耳元で聞いていたい。心にするりと滑り込み、じんわりと溶け込んで未鈴の心を灯す声。

羽衣のプロフィール、経歴、そして容姿について説明するのは簡単だ。今すぐ羽衣の履歴書を代筆しろと言われれば、未鈴には誰よりも真っ先に書き上げる自信があった。2005年6月15日、双子座のA型。中学1年生のとき大手事務所であるLMレコードに研修生として所属、高校3年生で傘下の子会社から「Redup」としてデビュー。リーダーを務め、最新シングルは音楽チャートのデイリーランキングで2位を獲得した。炎上騒動があったにも関わらず、デビュー以来初となる快挙に羽衣はもちろんメンバーたちも涙して喜んだ。

売上推定1万枚のうち、未鈴がバイト代をすべてつぎ込んで買ったCDは20枚。数にするとちっぽけだが、自分の20枚がなければ1万枚という大台には手が届かなかったかもしれない。根拠のない都合のいい思い込みが、満足感となって未鈴を包んでいた。金と時間、すべてを愛する人に捧げる快感は他の何にも替えがたい。

翌日行われた動画投稿サイトでのライブ配信では、珍しく羽衣ひとりが映っていた。下積み時代からの結成、炎上を経てたどり着いたデイリーランキング2位。そこに至るまでの迷いや決意、ファンへの思いを語る羽衣の表情は晴れやかで、未鈴は改めて自分が彼女の一部になれていることを自慢に思った。ライブ配信の終盤、羽衣お決まりの別れの挨拶が放たれる。


「今日もありがと!明日も明後日も会おうね〜」


振られた両手はいつもより軽やかで、それは妙に未鈴の心をくすぐった。羽衣はいつも言葉の端々までピンと芯の通ったような、ハッキリとした物言いをする。手を振るときだって、「手を振る」という行為にしっかりと念を込めているような動かし方をし、それがリーダーとしての羽衣をより一層確かなものにしているのに。

未鈴は呆けた顔で「ライブ配信は終了しました」の文を見つめた。自分の推しは、あんなふうに流れるように別れの挨拶を告げ、手を振るっけ?

生じた疑念は、いちど意識してしまえば亀裂に似て広がっていく。


SNS投稿の頻度が下がった。

深夜の歌番組で振り付けをミスした。

ライブ宣伝のコメントが短い。


未鈴は救いを求めるように同じく羽衣を推しているSNSのアカウントを見漁り、「Redup」について語る掲示板をチェックし、自らの推しは神である理由を補強しようとした。が、それも無駄な行為だった。未鈴以外にも、羽衣の変化を感じ取ったファンたちは「体調不良?」「彼氏できたんじゃねぇの」と憶測を広げて好き勝手に語る。

その光景は、かつて熱愛報道で炎上したメンバーの時とまったく同じ様相を呈していた。


絵の具のついた絵筆を、まっさらな水にちょんと1度つけたときのように。未鈴の心に落とされた漆黒の不信は薄く広く伸び、羽衣に対する愛情を覆った。とはいえ、未鈴に「担降り」や「ペン卒」といった言葉は存在しなかった。楽しかろうが苦しかろうが羽衣がアイドルとして生きる以上、金と時間をつぎ込むのが自分にできる唯一の方法だ。それに、まだ黒と決まったわけではない。羽衣を信頼できないバカなファンどもが目くじら立てて騒いでいるだけで、どこにも証拠がないじゃないか。内心、未鈴は腹が立っていた。


「おはよう!」


背後から響いた張りのある声が未鈴のイヤホンを突き抜け、肩を震わせた。声の主は未鈴の少し手前を歩いていた若い男性に近づくと、


「まじでさぁ、1限だるすぎ」


と、日々の愚痴をこぼし始める。未鈴は思わず、マスクの下で舌打ち。主語と声がでかい人間は嫌いだ。「Redup」の界隈にも、たかだか片手に収まる枚数のCDを積んだ程度で偉そうに振る舞うバカがいる。よりによって、そういう輩に限ってCDに封入されたシリアルで応募する握手会に当選するのだから、世界は不平等極まりない。

急に何もかもがバカバカしく思えて、未鈴はその場で踵を返した。今期の授業は全15回、3分の2以上の出席で単位はもらえるのだから数回自主的に欠席したところで問題はない。自分の気分ひとつで休むことができ、好きな科目を好きなだけ受けられる大学のシステムは、未鈴にとってこの上なく快適だった。


制服姿の小学生たちの流れに逆らって未鈴は駅に向かう。ふと自販機が佇む角を曲がり、足は脇道に逸れた。車が1台、ようやく通れるくらいの道幅なだけあってか、道路にはジャージ姿の若者がひとり背中をさらして歩いていた。両脇に並ぶ古い家々には緑が絡みつき、人の気配が感じられない空き家と思しき廃屋のような何かがひっそりと存在していた。

イヤホンからはまだ、羽衣の歌声が流れている。

今年の夏、野外開催のフェスイベントで披露された羽衣のソロ曲。その音源を不正に入手し、未鈴は心の拠り所にしていた。歌詞も曲調も、未鈴がこれまでの人生で聴いた曲でいちばん好きだった。ファンである「君」のことを一途に想い、どんなときも守ると言い切る力強い歌詞に反して、歌い上げる羽衣の声は甘く頼りない。そのギャップが未鈴にとって何より胸を締め付け、自分にはこの人を愛するほかないのだと必然性を感じさせてくれる。


初めて歩く狭い路地も、真っ直ぐ進んだのち突き当たりを左に曲がれば駅に着くのだと、未鈴の直感は訴えていた。流れていた羽衣のソロ曲が終わり、デイリーランキング2位を獲得したシングルのタイトル曲が始まる。未鈴の進行方向に背の高い女性が音もなく現れたのは、そのときだった。

遠くからでも、普通の人ではないと未鈴にはわかった。抜群のスタイルを引き立てているのは、シンプルな白のカーディガンにジーパン。足元の地味なスニーカーだけが未鈴との唯一の類似点で、女が近づいてくるにつれ肩から下げた小さなバッグの大きなブランドロゴに目を奪われる。女はここら付近を歩く若者にしては珍しく、背中まである豊かな黒髪だった。キャップを目深にかぶり、手も足も木の枝のように細いところを見るにモデルか芸能人かインフルエンサーだろう。未鈴はそう思った。イヤホンから響く羽衣の声を聴いているはずなのに、心が変にざわついて仕方がない。

徐々に距離は縮まっていく。奇妙にも、未鈴の進行方向を塞ぐように女は歩いてくる。当然、すれ違うにあたりスペースは十分あるのだが、それにしても未鈴は気持ち悪く感じた。

まるで、女は未鈴に向かって来ているような。


「……」


女のキャップに隠れた目元が何を見ていたのか、未鈴には知る術すらない。ふたりの距離はやがて5メートル、3メートルと近づき、そして。


「羽衣……?」


キャップで秘められていた女の両目が、未鈴の両目と合う。どちらからともなく立ち止まり、アイドルとファンは向かい合った。長い黒髪が昇りかけの太陽を受けて妖しく艶めき、未鈴は慌てる。羽衣はこんなロングじゃないし、髪色も落ち着いたアッシュブラウンだ。女は未鈴のつぶやきに応じるようにキャップを脱ぐと、目を細めて笑った。


「そ。羽衣」


瞬間、未鈴は羽衣の手を強くつかんでいた。

画面越しに見る羽衣とは容姿も言葉遣いも、声のトーンも違ったが、間違いなく目の前にいるのが「Redup」の羽衣だと未鈴は確信していた。

見上げていた星の輝きが、目の前、私の手に。


「やっと、見つけた」


その言葉を待っていたとばかりに、羽衣は再びキャップを目深にかぶり直す。未鈴は絶対に逃すまいと力を込めて羽衣の手首をつかんでいたが、彼女は文句ひとつ吐かなかった。まるで、そうされているのを望んでいたかのように。


「行こっか、ふたりきりになれる場所に」


耳元に流し込まれた羽衣の言葉に、未鈴は無我夢中で首肯した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

女神を私は引き裂いた 空間なぎ @nagi_139

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ