第3話 主任昇格で先行する剣木、後を追う八千矛

 八千矛やちほこは種子島の宿舎で社内広報用の原稿に取り組んでいたが、気づいたら時計は深夜の1時となっていた。

 八千矛やちほこは、剣木つるぎ主任の『液体窒素を使ってペットボトルを凍らせて作ったシャーベットを末永すえなが次長に食べさせた事件』についても書きたかったが。末永すえなが次長は、志真しま次長と違って冗談が通じないので、怒らせるとあとで面倒だし、ここまで書いてしまうと岩崎重工のロケット技術者がまるで変な人の集団みたいになってしまう。剣木つるぎ主任以外のことも書かなければと思った。

 原稿の期限はしばらく先である。まだ慌てる必要はない。


 種子島から春牧はるまき製作所に戻った八千矛やちほこが技術資料室に向かうと、そこには技術資料や過去の試験記録が大量に陳列されていた。近年の技術資料は電子データで作成し、電子データのまま保存しておくことが多い。しかし、昔の文書は紙である。毎年、少しずつ電子データ化し、スキャンが終わった書類は敷地外になる倉庫に移送されるが、いまだに膨大な数のキングファイルが残されていた。

 八千矛は棚から何冊かのキングファイルを抜き取り、中身を確認していた。八千矛が見ていた記録は、燃焼試験に関するもので、そこには八千矛の直筆サインがあった。

 そこに書庫の蔵書を物色する緋田ひだ主任が現れた。緋田ひだは府中科学研究所出身で、元々はイオンエンジンが専門である。研究熱心でよく技術資料室に立ち入っていた。

 緋田ひだ八千矛やちほこの姿に気付くと声をかけた。八千矛の足元に何冊ものキングファイルが置かれていたからだ。

「このキングファイル。私が片付けておきますよ」

 八千矛は、開いていたキングファイルを閉じた。

「すまないね。重いから、1冊ずつやりなさいよ」

 そういって、八千矛は車いすを動かしながら、書庫から、退出していった。

 キングファイルは比較的高い位置の棚から取り出されていた。緋田はキングファイルを元の位置にもどしながら思った。こんな高い位置のキングファイル、八千矛部長は、一体、どうやって取ったんだろうと。


 若かりし日の八千矛は、大舘試験場で燃焼試験に臨んでいた。八千矛と剣木は同じ大学出身の同期入社で、同じ部門に配属されていた。しかし、主任昇格は剣木つるぎの方早かった。後を追う形になった八千矛は焦っていたのである。

 大舘試験場の燃焼試験は剣木の担当であった。従来、燃焼試験と言ったら1日に1台のロケットエンジンに対して1回、多くても2回行う程度であった。

 しかし、剣木は超人的な段取り能力があり、1日に2~3台の異なるエンジンの試験を行ってしまうのである。八千矛は剣木の代理として燃焼試験を取りまとめることで、少しでもノウハウを得ようと考えていたのである。

 では、肝心の剣木はどこにいるのか?

 種子島である。次のロケットの打ち上げ準備のためであった。

 春牧製作所の試験課フロアでは若手社員がメールを開封していた。剣木主任からであった。メールには、こう書かれていた。

「少しも寒くないわ」

 元ネタはアナと雪の女王である。これを見て、若手の碓原うすはら吉備野きびの苦笑にがわらいをしていた。

「また平成ネタか。剣木主任のネタは少し古いよな」

 そんなやり取りを横目で見ながら、八千矛は大舘試験場へ向かった。ちょうど、夕方5時頃の事であった。なお、当時、春牧製作所を午後5時に出て、夜行列車に乗ると、翌日の9時には何とか間に合うのである。

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